さて。『春の宴』にてあまりに大人げない駄々っ子ぶりを露呈させてしまった
国王陛下は、その結果として非常に大きな代償を支払うこととなった。
幾多いる夫人の中で政治・外交に関して卓越した能力を持ち、国政上王の片腕
とも目される姜氏。自らも優秀な武人であり、軍部の面々から絶大な信頼を寄
せられている黄氏。この二人が王都から離れた別荘で静養している桂花姫の見
舞いという口実の元、そら寒いほど満面の笑みで「では行って参ります」と告
げ、彼の最も寵愛する悟空を連れてさっさと出かけてしまったのである。
只でさえ多忙な王は、その日から通常の優に三倍を越える仕事をこなすことと
なり、披露困憊の心身を癒す悟空の存在無しに、まさしく己一人でその日々を
乗り切らねばならなかった。
当初「半月程」と告げていた日程が一日、また二日と延び、いい加減彼の我慢
も限界に近付いていた二十日目のこと。苦虫を潰したような顔で玉座に腰を下
ろしていた王の元に、姜氏と黄氏が二人揃って無事到着の挨拶に参上した。
「御君にはご機嫌麗しゅう…お陰様で無事戻りました。桂花姫様におかれまし
ては、日々ゆったりとお過ごしのようで…順調に回復のご様子に、私達も安堵
致しました。この度の機会をお与え下さった御君の深き温情に、心より御礼申
し上げます。」
「この度はご苦労。卿らも変わりがないようで何より…ところで…」
「悟空のことでしたら…長く馬車に揺られて疲れたようでしたので、一足先に
自室へと戻らせました。」
優雅な仕草で一礼しながら挨拶を述べた姜氏に、一応労いの言葉をかけた三蔵
が本当なら真っ先に問いたかったであろうことを、さりげない口調で黄氏が語
る。確かに慣れぬ長旅で疲れていることも事実ではあるが、悟空がこのような
場での改まった挨拶が苦手なことを考慮した上での二人の心遣いであった。
三蔵は表立った感情の変化を見せることなく「そうか」と頷いてみせた。
「卿らも長旅で疲れていることだろう。今日一日はゆっくり休養を取るがいい
…明日からは今までどおり、仕事に励んでもらわねばならないからな。」
ほんの微かな笑みを口許に上らせてそう告げた三蔵は立ち上がり、足早に玉座
から去って行った。あまりにわかり易い三蔵の反応に、二人の夫人は顔を見合
わせて、ついつい笑わずにはいられなかった。
「まぁどうでしょう。私達には通り一遍の労いの御言葉だけで、退出なさる足
取りの早いこと…ここまではっきりなさっていると、最早悋気すら起こらなく
なってしまいますわね。」
茶目気たっぷりの口調で肩を竦めてみせた黄氏に、姜氏もまた何処か面白がっ
ているような軽い苦笑いを返した。
「当初『半月』と申し上げていた予定が、思いの外延びてしまいましたからね
…相当しびれを切らせていらしたのでしょう。」
再び視線を合わせた二人が、ほぼ同時にクス…ッと笑みを漏らす。この時の二
人は『少々意地悪が過ぎたか』とも思っていたのだが。
つい先刻自分達に向けられた三蔵の微笑の真意を知るのは、今少し後のことと
なる───。
夫人達の住まう棟を擦り抜け、真っ直ぐに一番奥の部屋へと向かう。ノックも
せずに扉を開けた三蔵の耳に、弾けるような明るい笑い声が届いた。
「!さんぞっ!!」
扉の開く音に気付いてこちらを振り返った悟空が、旬麗と共に荷を解いていた
手を止めて駆け出してくる。ほとんど体当たりするように飛びついてきた小さ
な身体を、三蔵は軽々と受け止めた。
「…ただいま。」
胸に顔を埋めたまま呟きを落とす悟空の髪を、長い指先がクシャリと撫でる。
久しく離れていた温もりに身を委ねるように、悟空は三蔵の胸元に頬を摺り寄
せた。髪を撫でていた手が背中に回され、三蔵の腕がヒョイと悟空を抱き上げ
る。旬麗がすぐそこにいることもあり、いつもなら照れ臭がって下ろせだの何
だのと騒ぐはずの悟空も、今日は至って素直に首に腕を絡ませる。三蔵は間近
になった丸い頬に小さなキスを落としながら室内へと足を進め、長椅子へと腰
を下ろした。言うまでもなく、悟空の身体は腕に抱いたままである。耳元に唇
を押し当て「悟空」と呼びかけると、おずおずとその顔が上げられ、丸い金の
瞳が紫の瞳を覗き込んだ。
「ただいま、三蔵…お見舞い行かせてくれてありがとう。お姫様さ、すっごい
元気になってた…」
それから暫くは、悟空の旅の報告が続いた。桂花姫の健康状態が順調に回復し
ていたこと、姜氏や黄氏ともすっかり打ち解けて話せるようになったこと、そ
れがとても嬉しかったこと。湖で魚釣りをしたこと、初めて大勢の人がいる街
へ買い物に行ったこと…そんなとりとめのない話を、三蔵は彼にしては珍しい
ぐらいの気長さで、相槌を打ちながら聞いてやっている。少し離れた場所で、
悟空が持ち帰った数々の土産の荷を丁寧に解きながら、旬麗は二人の仲睦まじ
いやり取りに耳を傾けていた。
「そうか…今回の旅は楽しかったか?」
「うんっ!初めて見た物がいっぱいあったし、みんな優しかったし、すごい楽
しかった…でも…」
三蔵の問いに力強く頷いて答える悟空の言葉が、途中で濁る。「どうした?」
と再び問い掛けると。悟空は甘えるように三蔵の肩口に顔を埋めた。
「でも…楽しいって思うのと同じくらい、三蔵が一緒だったらもっと嬉しいの
になぁって…思った…」
何処か面映そうな声でぽつぽつと語られたのは、悟空の『想い』そのもの。
思わぬ形でもたらされた甘い満足感に、三蔵の顔に緩やかな笑みが刻まれた。
「途中で俺のこと、思い出したか…?」
「思い出したよ…沢山沢山、思い出した…あんまり沢山思い出し過ぎて、夜に
泣きそうになっちゃったこともあった…」
肩口から顔を上げた悟空が「コレ、姜氏と黄氏のお姉さんには内緒だよ?」と
ごく小さな声で囁く。ほんのり頬を染めた顔で見上げられて、今すぐ腕の中の
身体を閉じ込めてしまいたい衝動を、三蔵は寸でのところで抑えていた。とり
あえずはまだここに来た本題を話していないのだから、まずはそちらを済ませ
ることが先決である。そう───この後幾らでも時間は取れるのだから。
「お前、疲れてるか?」
「…?ううん、時間は長かったけど、馬車に乗せてもらってただけだし…大丈
夫だよ?」
不意の三蔵の問い掛けに、悟空は小首を傾げながらも素直に答える。三蔵は軽
く頷いてから、その視線を旬麗へと移した。
「着替えの荷は片付けなくていい。そのまま使えば手間が省けるからな。」
「は…?はい…」
三蔵の言葉に旬麗は困惑気味の声を上げたが、それでも指示通りに悟空の着替
えが詰められている鞄を開けようとした手を止めた。三蔵は再び視線を悟空へ
と戻し、未だあどけないその顔を真っ直ぐに見据えた。
「国王はこれより五日間、過労による体調不良の為西の森近くの別荘にて静養
をする…ということになっている。主治医である八戒も、既に了承済みだ。」
「え…三蔵、具合悪いの?大丈夫!?」
三蔵が淡々と語った事柄を耳にして、悟空の顔色がサッと変わる。慌てて膝の
上から退こうとした悟空の身体を抱え直し、三蔵は更に話を続けた。
「二十日も一人でコキ使われたお陰で、あちこちガタガタだ…だからお前は、
責任持って付き添え。」
「へ…?う、うん…えっと…他のみんなは?」
「バカ。他の連中を連れて行ったら、俺のいない間の仕事は誰がやるんだよ。
特に長旅でのんびりしてきた二人には、その分をきっちりと働いてもらわねぇ
とな。旬麗、お前も出かける用意をしろ。あちらにも人手はあるが、お前が一
緒の方がコイツが安心するからな。」
「あ…は、はい、承知致しました。すぐに仕度をして参ります。」
譬え気まぐれからの一言であろうとも三蔵の口から出た以上、それはもう『王
命』である。旬麗は軽く一礼すると気忙しげに奥の部屋へと引いた。
「あの…さ、のんびり旅してきたのは俺も一緒だし、それでまた俺だけ三蔵と
別荘に行くのって、ちょっとズルイ気が…」
俯きがちにたどたどしく言葉を紡ぐ悟空の顎を掴み、三蔵は強引に視線を合わ
せた。
「のんびり旅してきたから、だ。お前、わかってんのか?二十日も王を放りっ
ぱなしにした罪は重大だぞ…だから、きっちり責任取れって言ってんだ。それ
ともテメェは、俺と二人なのが不満なのか。」
三蔵のその一言に、悟空は懸命に首を横に振る。やがて耳朶まで真っ赤になっ
た悟空は、ほとんど声にならない声で「嬉しい…」と呟いた。三蔵は満足げに
頷き、小さな唇に甘いキスを落とした。
それから数時間後のこと。和やかに茶を楽しんでいた姜氏と黄氏の元に、国王
が静養の為城からそう遠くない西の森近くの別荘へと、悟空を伴って出発した
ことが知らされた。
「なるほど。先ほどの御言葉の本当の意味は、そういうことだったんですのね
…完全に一本取られてしまいましたわ。」
「致し方ありませんね…二十日もの間、孤軍奮闘なされたのは紛れもない事実
ですし。五日くらいのことでしたら、多少の我が儘も許して差し上げましょう
…もう充分にお灸を据えたことですしね。ところで八戒先生、国王陛下が過労
でご静養されるというのに、主治医の先生がご同行なさらなくてよろしいので
すか…?」
「仕方がない」と口にしながらも、姜氏と黄氏が腹を立てている様子はない。
二人と三蔵の付き合いは長く、その人となりは充分承知している。一見己の我
を通しているだけのように見えるが、三蔵は決して自分の仕事の責任を投げ出
すような人物ではない。ここで休養を取ると決めた以上は、そうしても差し障
りのないよう、事前に処理を済ませているということなのだ。ならばそれに対
して自分達が意見をする必要はないし、後は各々がするべきことをすればよい
だけの話だ。
優雅な笑みと共に姜氏から向けられた問いに、報告に来た八戒は「降参」の意
で両手を挙げ、苦笑いを返した。
「とんでもない…『一番の特効薬』が傍らにいるというのに同行など申し出た
日には、後々まで恨まれてしまいますよ。」
あまりに適切な八戒の説明に「それはごもっともですわね」と黄氏が明るく応
え、姜氏も堪えきれないように小さな笑みを漏らした。
三蔵が悟空を連れ立って行った別荘は、城から馬車で三時間ほどのこじんまり
とした建物で、ちょっとした息抜きの為の休息所という感じだった。だが欝蒼
と生い茂る森に程近く周囲に民家もない小さな別荘は、お忍びの静養には最適
の場所とも言えた。
三蔵がふと漏らした一言から今回の小旅行に随伴することとなった旬麗だが、
目の当たりにした数々の光景に、その瞳を丸くするばかりだった。
旬麗は三蔵が城に連れ帰って以来ずっと悟空付きの侍女として仕えているわけ
だが、当然ながらその世話をするのは昼の時間が大半で、二人が時間を共にし
ている様を今までさほど見たことはなかった。無論旬麗とて、三蔵が並々なら
ぬ愛情を悟空に注いでいることは充分わかっている。しかしそんな旬麗をもっ
てしても、今回ばかりは『目にも眩しいほどの寵愛』とはこういうものなのだ
と、まざまざと見せ付けられた思いだった。
この別荘に来てからというもの、三蔵は昼夜を問わず一時たりとも悟空を傍ら
から離さない。室内でくつろいでいる時も、外へ散歩などに行く時も、とにか
く手の届く範囲に置いておきたがり、悟空がほんの少しの時間庭先で一人遊び
をすることすら、いい顔をしないのだ。少々度を越した寵愛ぶりに旬麗は只々
驚くばかりだが、絶対的な存在である王の傍らで微笑む幼子は、この上なく嬉
しげで───これはこれで一つの幸福の形なのだと、そんな風にも思う。
ある日突然やってきたこの不思議な子供は、孤高の王の心を瞬く間に開いた。
明るく伸びやかで人懐こい、誰にでも好かれる少年。しかしその小さな胸の内
には全く異なる側面が存在することに、旬麗は気付いていた。愛くるしい横顔
には時折り、深い物思いに囚われているような表情が覗く。そんな時、丸い金
の瞳はまるで達観した賢者のような、静かな色を宿しているのだ。それを垣間
見る度に旬麗は、ひどく遣る瀬ない気持ちになる。
願わくば愛すべき小さな主が、あんな表情を見せる間もない程の幸福に満たさ
れ続けることを、祈らずにはいられない旬麗なのだった。
この別荘に到着してから、悟空は繰り返し自分に呼びかける『何か』の気配を
感じ取っていた。それは森の奥から発せられているようで。
二人で過ごす時が三日を過ぎた頃、悟空は三蔵に森へ探検に行ってきていいか
と尋ねた。勿論『呼ばれているような気がする』という話は抜きで、である。
しかし三蔵は簡潔にその要望を却下した。
「あの森は地元の人間ですら迷うことがあるほど深いんだ…さして詳しくもな
いヤツが行けるわけねーだろ。第一お前は、静養中の王を置いて行く気だった
のか…お前は何の為にここに来たんだ?」
「…疲れてる三蔵に、付き添う為。」
「ちゃんと覚えてんじゃねぇか。だったら、きっちり役目を全うしろ。」
如何にも三蔵らしい不遜な物言いと共に、すっぽり腕の中に閉じ込められて。
悟空は面映いようなくすぐったいような、何とも言えない気持ちになる。
彼からもたらされるものは、身勝手な束縛すら、甘い。
額に優しいキスを送られて、二人で長椅子に横たわる。繰り返し髪を撫でられ
るうちに、悟空はまどろみに入っていった。
半時程が過ぎて悟空が目を覚ますと、三蔵はまだ眠ったままだった。昼寝だと
いうのに珍しく深く寝入っているようで、悟空がそっと腕の中から身を引いて
も、その瞼が開くことはなかった。
本当に疲れているのだな、と思う。口では「他の者に働かせる」というような
ことを言ってはいたが、三蔵が自分の責任を人任せにして平気な顔ができる気
性ではないことを、悟空は幼いなりにわかっている。この時間を作る為、おそ
らく彼はその前に何倍も働いているはずなのだ。そう考えるとこの二人きりの
時間はとてつもなく貴重なもので、大切にしなくてはいけないと思えてくる。
『───…』
穏やかな寝顔を見下ろす悟空の頭の中に、直接響いてくる呼びかけ。悟空がそ
の視線を窓の外へ向けると、空はどんよりと暗くなり始めていた。
「…すぐ戻ってくるからね。」
再び視線を三蔵へと戻した悟空は、眩い金の髪に軽いキスを一つ落としてから
静かに部屋を出て行った───。
旬麗や他の使用人にみつからぬよう別荘を抜け出した悟空は、躊躇うことなく
森の中へと入っていった。決して気のせいなどではない。間違いなく自分に呼
びかけている『何か』の気配は、奥へ進むごとに強くなっている。欝蒼と木々
が生い茂り、道らしい道などない深い森の中を、それでも悟空はひたすらに足
を進めていった。
どのくらい歩いただろうか。一際大きな木の陰が頭上を遮るのを感じて足下か
ら視線を上げた悟空の口から、思わず「あ…っ」と声が漏れた。目の前にそび
え立っていたのは、果たして樹齢がどのくらいなのかすら見当もつかないほど
の、見事なまでの大木。
「俺を呼んでたのって…アンタ?」
暫し圧倒されたように大木を見上げていた悟空が口を開く。それに呼応するか
のように、サラサラと梢が鳴った。
『お帰り、大地の子─────』
悟空の耳に、穏やかな声が響く。それはその大木がというより、森全体が悟空
に語りかけているような、ゆったりとした深い声。その声が響くのとほぼ同時
に、悟空の周囲を薄い膜のようなものが包み込んだ。
「えっ…何、コレ…」
突然のことに視線を巡らしながら、悟空が困惑の声を上げる。程なくして自分
を包むものの表面にポツ…ポツ…と水滴があたる音が聞こえてきた。どうやら
雨に濡れぬようにとの処置らしいと納得した悟空の肩から、フッと力が抜けた。
「あ、ありがと…でも俺さぁ、ここに来たの初めてだけど…?」
『我らはもうずっと前からお前を知っているよ…天の神々があの忌々しい場所
にお前を封じてしまった…それよりも前から。』
戸惑いがちの悟空の疑問に、あくまで穏やかにその声は答える。思いもかけな
い言葉に、悟空の金の瞳が見開かれた。
「俺を…知ってる…?」
悟空が別荘を抜け出して幾らも経たぬうちに、三蔵もまた目を覚ましていた。
あれほど言ったにも拘らず、結局はあの森へ向かったのかと腹立ちを露わにし
ている三蔵に、旬麗は自分が探しに行くと申し出た。しかし女性の足で森へ入
るのは無理だと三蔵は旬麗を押し留め、自ら悟空を探しに出ることにした。
あるがままに草木が伸び、歩きにくいことこの上ない森の中を、時折り苛立た
しげに舌打ちをしながら、三蔵は奥へと進む。そのうちに怪しい雲行きだった
暗い空からは、とうとう雨が降り始めた。只でさえ下降気味だった三蔵の機嫌
は悪化の一途を辿り、一刻でも早くあの小ザルをみつけ出して、拳骨の一つも
くれてならねばという気になっていた。
そぼ降る雨に濡れつつ尚も足を進めていく三蔵が、ふと『ある気配』を察して
そちらに向かうと───視線の先には、何やら薄い膜のようなものに包まれて
いる悟空の姿があった。怪訝そうに眉根を寄せて三蔵が更に近付くと、悟空は
一心に目の前の大木を見上げていた。
『大地に影響するお前の力を恐れた天の神々は、我らが手出しの出来ぬよう、
天と地の狭間にお前の存在を封じた…永き歳月に渡りあの場所に囚われていた
お前が、ようやくこの大地に戻ってきた…』
悟空に語りかけるその声は、三蔵の耳にも届いていた。悟空の視線は大木へと
向かっているが、それは寧ろこの大地そのものから発せられているように思わ
れる。おそらくは土や木々や草花や……そんな諸々をひっくるめた『大いなる
自然の意思』とでも言うべきものが、齢を重ねた霊木を通じてその言葉を悟空
に伝えているようだった。
突然、神妙な様子で耳を傾けている悟空を取り囲む膜状のものが、一回り小さ
くなった。
「なっ…に…」
『此処へおいで…永すぎた孤独と、慣れぬ人の世界での暮らしに、お前の魂は
傷付いている…還っておいで…お前が生まれた、この大地へ───…』
周囲を包んでいた膜は少しずつ縮んでいき、悟空の身体自体を呑み込もうとし
ていく。
「…!!」
三蔵が焦って飛び出そうとするが、足下の草や蔦に阻まれて動くことが出来な
い。眼前に迫ってくる柔らかな膜を押し退けようと、悟空は懸命に抗った。
「ちょっ…待ってよっ、俺、三蔵のとこへ帰るんだから…っ」
『あの男か…確かにあの男は、我らも手出しの適わなかったあの封印からお前
を解き放った…しかしどれほど特別な力を持とうと、所詮あれは只の人間だ…
お前とあの男では、同じ時を生きることなど出来ないのだよ…結局お前は、更
に打ちのめされることになる…だから還っておいで…まだお前の傷が、深くな
らないうちに───…』
しっとりと包み込むように、愛しい幼子を諭すように、その声は呼びかける。
しかしそれに対する悟空の反応は、三蔵にも予想外のものだった。
「……知ってるよ。」
いつの間にか抗うことをやめていた悟空は、ただ静かに、微笑った。
三蔵は紫の瞳を見開き、その横顔をひたすらにみつめていた。
「自分のことは自分でわかる…たぶん俺は、三蔵と同じ早さでなんて歩けない。
そんな俺を見るうちに、三蔵はいつか気味が悪いって思う時が来るかもしれな
いけど…それは哀しいことだけど…でも、それでもいいんだ…」
そこで一度言葉を切った悟空は、真っ直ぐに前を見据える。その瞳の輝きに、
迷いはなかった。
「…だってさ…どんなにつらくても好きだと言える人は、この世界中であの人
しかいない───。」
何処までも深く真摯な声には、一片の濁りもない。封印の塔が崩れたあの時、
観世音菩薩によって眠らされていた悟空は、二人が交わした会話を知らない。
しかし遥かな悠久の時を刻んできたこのあどけない恋人は、理屈ではない部分
で全てを察しているのだ。
自分が人ではないこと。三蔵と自分との間に流れる時間の早さが違うであろう
こと。それ故にいつかは避け難い別れの日がやって来ること。
それらを全て受け止めた上で、彼は今ここにいるのだ。
「だから俺は、そこには行かない。三蔵がいる処が、俺の帰る処だから…俺を
ココから出して。」
悟空のその一言で、周りを取り囲んでいた薄い膜が、幻のように消えていく。
それと同時に、悟空の頭上からも雨が落ちてきた。
『譬え傷を負うこととなっても…あの男と共にあることが、お前の生きる意味
か…』
「そうだよ…確かに沢山の人と暮らしていく中では、楽しいことばっかりじゃ
なくて哀しいこともあったけど…でもそれもひっくるめて、俺の幸せなんだ。
あの塔に一人ぼっちでいた時は、それはわからないことだった…心配してくれ
てありがとう…俺は、幸せだから。」
緩やかに、悟空は笑う。再びサラサラと、梢が鳴った。
『そうか…もうこれ以上、無理強いはするまい…愛しき大地の子よ…どうか、
幸せに───…』
「ありがとう…さようなら。」
辺り一帯に広がっていた圧倒的な気配は四散していき、静寂が戻った森には、
そぼ降る雨の音だけが響いた。少しの間を置いて、自分以外の気配に気付いた
悟空が、そちらを振り返った。
「三蔵…」
力なく立ち尽くす三蔵の元へと、急いで悟空が駆け寄る。しっとりと雨に濡れ
た前髪に触れ、悟空は心配げな表情でその顔を覗き込んだ。
「探しに来てくれたの…?ゴメン、俺のせいでびしょ濡れになっ…」
後の言葉は続かなかった。次の刹那、がむしゃらな力でその腕に抱き竦められ
て。驚く間も与えられず、息も継げないほどデタラメな口づけを受けた。
「ん…さっ…」
首を振って逃れようとしても、三蔵の腕はそれを許さない。息苦しさから悟空
の身体が小刻みに震え出した頃、三蔵はようやく唇を離した。
「さん…ぞ?」
問い掛けるような悟空の声にも、三蔵は答えない。ただひどく遣り切れないよ
うな瞳をして、悟空を見下ろすだけで。悟空は三蔵の胸に顔を埋め、そろそろ
と背中に腕を回した。
「もう帰ろ…?三蔵、風邪引いちゃう…」
ぽつりと呟いて顔を上げた悟空は、冷えた頬に口づけて小さく笑った。
ずぶ濡れで戻ってきた二人を旬麗はホッとした表情で迎え、すぐに入れるよう
沸かしておいた風呂へと向かわせた。充分に身体を温め、旬麗が用意した軽食
を取った後、三蔵は悟空の手を引いて早々に寝室へと引っ込んでしまった。
悟空は先刻からの三蔵の不安定な様子が気にかかり、戸惑いを覚えながらも後
に従った。
その夜の三蔵は、何処までも貪欲に悟空の熱を求めた。平素の三蔵はまず悟空
の体調への気遣いを優先している為、一方的に己の欲を押し付けるような真似
は決してしない。だがこの時の三蔵は、まるでそうしていなければ繋ぎ止めら
れないとでもいうように、ひたすらに腕の中の頼りなげな身体を掻き抱いた。
三蔵が抱えている不安は、互いの肌を通して悟空にも伝わっていて。
「さんぞ…ど…したの…?」
背骨のラインに沿って落とされる口づけに甘い吐息を零しながら、悟空が問い
掛ける。三蔵は胸の内に湧き上がるもどかしさのままに、小さな耳朶にきつく
歯を立てた。
「痛っ…」
「離してなんかやらねぇよ…ここがお前の安らげる場所じゃなくても、お前を
返せと言ってるのが人の敵わぬ存在でも、身動き出来ないように手足を引っ掴
んででも…絶対離してなんか…やらねぇ…」
(…さっきの話…聞いてた…?)
身勝手極まりない三蔵の主張は、その言葉の激しさとは裏腹に心許ない響きを
帯びていて。先刻の森でのやり取りを彼が聞いていたことを悟空は察した。
「ね…そっち、向きたい…これだと三蔵の顔、見えない…」
途切れ途切れの呟きに、三蔵の腕が悟空を仰向かせる。身体を繋げたまま体勢
を変えられて、思わず悟空が息を詰める。それでも三蔵を見上げる甘い潤みを
含んだ瞳は、淡く笑んでいた。
「好き…」
細い両腕が伸ばされ、頬を包み込むように触れる。
「大好き…」
額に、目許に、唇に、柔らかなキスを送る。
「自分でもどうにもならないくらい…好き。だから…『三蔵のいる処』が『俺
の場所』なんだよ。」
深い紫の瞳が、不意打ちを受けたように開かれる。悟空はその目許にもう一度
キスを送り、ゆうるりと微笑った。
「どんなにあったかくても、どんなに優しくても、どんなに懐かしい感じがし
ても…三蔵がいない処は、俺の場所じゃない…だから、ここにいさせて。三蔵
が『それでもいい』って、思う限りは。」
一心に見上げてくる瞳に、もはや惑いはなくて。三蔵は表情の変化を見せまい
と、肩口に顔を埋める形で、その身体を力一杯抱きしめた。
「…何処にも行かせない」
「うん」
「…誰にもやらない」
「うん」
悟空の指先がクシャリと金の髪を撫で、促されたように三蔵が顔を上げる。
正面から瞳を合わせた二人は、長い長い口づけを交わした。
ここにいさせて
抗い難い運命の流れが 二人を分かつ最期の瞬間まで
互いの存在こそが 互いのあるべき場所
共に生きること そのことこそが
かけがえのない 幸せのカタチ─────
…END.
《戯れ言》
そんなこんなで、久々のこの二人でした。不思議なもので、私自身この二人を
書いていると懐かしい場所に戻ってきたような、そんな気持ちになります。
本編は三蔵が「ここにいてくれ」と伝えることができたところで、幕を閉じま
した。今回の話では悟空から「ここにいさせて」と伝えることができました。
そして『二人の物語』はこの先も続いていきます。言うまでもなく、「二つの
魂が再びの邂逅を果たす」遥か彼方迄です(笑)。
勝手な押し付けではありますが、この話は一周年アンケートにて「Wish〜」
をもう一回やってくれと言って下さったruru様&yuka様、そして遠い海の
向こうからこの話を好きだと伝えて下さった貴女に奉げます。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
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