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『 熱病 』
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月の無い、夜────。 いつもとは違う声で名を呼ばれ、いつもとは違う腕に引き寄せられ、 いつもとは違う色の瞳が真っ直ぐに自分を捕らえ、いつもとは違う 唇が、初めて肌に、触れた。 いつもと同じはずだった穏やかな時間はプツリとその時点で途切れ、 『今までとは違う夜』が、二人を呑み込んでいった。 ────そんな夜の後も、朝はいつもと同じように訪れて。 窓から差し込む光に、悟空が重い瞼をゆるゆると開く。ぽっかりと 空いた隣りの空間に、ポスッと腕を投げ出してみる。三蔵はとうに 仕事に向かったらしく、既にシーツに温もりは残っていない。身体 に残る鈍い痛みに顔を顰めながら、半身を起こす。ふと視線を落と した胸元のあちこちに散る、浸蝕の「紅」。髪に微かに残る、三蔵 の煙草の匂い。悟空は何かを耐えるような表情で、自分の身体を抱 きしめた。 「どうしよう…」 震える唇から、ひどく頼りなげな呟きが漏れる。 (…どうしよう…どうしよう…とりあえずここから、離れなきゃ。 できるだけ遠くへ、離れなきゃ。…今なら…今ならきっと、『まだ 間に合う』────) 虚ろだった瞳に、何かを決意した強い光が宿る。足下に散らばった 服を急いで身に着けた悟空は、裸足のまま昨夜の名残が色濃く残る 部屋を後にした。 朝の仕事を一通り終えた三蔵は、早足で自室へ向かっていた。時間 が許せば悟空が目を覚ますまで付いていたかったのだが、何分仕事 のスケジュールは過密で、そういうわけにもいかなかった。 昨夜。初めて明確な意思を持って、この腕を伸ばした。すっぽりと 収まった小さな身体は戸惑いに震えていたが、見上げてきた金色の 瞳は淡く笑んでいた。平素とは違う、わずかな甘さを含んだ声は、 最後の刹那まで自分を拒むことなくその名を呼び続けた。そんな悟 空の反応の一つ一つが、全てを受け入れられているということを示 しているようで、ひどく安堵している自分が心の何処かにいたこと を、三蔵は自覚していた。 辿り着いたドアの前で、三蔵は一瞬だけ躊躇った。悟空は目を覚ま しているだろうか。目を合わせたその時、果たしていつもどおりの 笑顔が自分に向けられるだろうか。 三蔵は短い息を一つ吐き出して、目の前のドアを開けた。 「…悟空、起きてるか?調子はどうだ?」 なるべくいつもと変わらぬ声を出すよう意識して一息に言い切った 三蔵が、顔を上げる。 「悟空…?」 起き出した形のままのシワが残ったシーツの上には誰の姿も無く、 足下に散っていた筈の悟空の部屋着は、そっくりなくなっていた。 「あのバカッ…あんな身体で何処フラフラしてやがるんだ!?」 驚愕と苛立ちが入り混じったような声を上げた三蔵は、荒い動作で ドアを閉め、外へ出ようと足を向ける。そこへ何人かの僧侶が早足 で駆けてきた。 「三蔵様っ、こちらにいらしたのですか?次のお勤めまで時間がご ざいません、取り急ぎ本堂の方へお願い致します。」 眉間に深い皺を寄せて、三蔵は小さく“チッ”と舌打ちした。 「生憎だが、俺は少し出かける。今日一日くらい俺が抜けてもどう ということもあるまい。」 誰がやっても大差がない説法などより、今は悟空の様子の方が気懸 りだった。 「何ということを仰るのですか!!信徒の者は皆、三蔵様の御言葉を 頂戴する為にはるばる遠方より参っておるのですぞ!?それをどうと いうこともあるまいなどと…」 「全くそのとおりです、それに本日は目を通して頂かねばならない 書面も山程ございます。どうぞ三蔵様としてのお立場というものを お考え下さい。」 一言言い捨てて外へ向かおうとした三蔵を、僧達は必死の形相で押 し止める。三蔵は再び小さな舌打ちを漏らした。『三蔵の立場』と いう言葉を持ち出されては、これ以上私情を押し通すことはできな かった。 いついかなる時であっても、師匠から受け継いだ『三蔵』の称号を 貶めることがあってはならない。 僧達に周りを囲まれた三蔵は、やがてあきらめた表情で本堂へと踵 を返した。 一方。身体が本調子ではない悟空は、いつもとは比べものにならな いくらいおぼつかない足取りで、山道を登っていた。“早く、早く” という気持ちだけが、その歩みを支えていた。 (やっぱ…ちっとキツイなぁ…でも、急がないと…) どんなに頑強な悟空でも、やはり限度というものがあったらしい。 懸命に足を進めていたその小さな身体が草叢へと倒れ込んだのは、 寺院を出てから小一時間程経った頃であった。 いつもどおりそつなく説法を終えた三蔵は、その後信じ難いような スピードで書面の整理を始めた。その鬼気迫る様子に、茶を給仕に 来た小姓がたじろいでしまうほどだった。 『三蔵』を名乗る以上、その役割は果たさねばならない。だがその 責務を果たしさえすれば、それ以外の事は誰にも口出しはさせない。 通常の約半分の時間で全ての書面を仕上げた三蔵は、“これで文句 はないな”とだけ言い残して執務室を出て行った。 悟空の気配を辿りながら、馴れない山道を駆けていく。あの身体で そう遠くへは行ってはいないはずだが、時間が進むにつれて気温も 下がってきている。一刻も早くみつけて連れ帰らねばと、心が急く。 山道を登り始めて半時程して、三蔵は途中の草叢に倒れ付す悟空の 姿をみつけた。 「悟空!悟空っ、悟空っっ」 身体を仰向けに起こし、繰り返し名を呼びながら両肩を揺する。程 なくして、ピクリと悟空の身体が震えた。いつもより青白い瞼が、 ゆっくりと開く。朧げな金の瞳が、三蔵の姿を捉えた。三蔵はホッ としたように、軽い溜め息を一つついた。 「…ったく、調子良くねぇクセして、そんな薄着で何をほっつき歩 いてやがるんだてめぇはっ…帰るぞ、もう風が冷たい。」 ぶっきらぼうなようでいて、内実悟空を気遣っているのがわかる、 三蔵の声。その声を、悟空は何処か遠いもののように聞いていた。 立ち上がりかけた三蔵が、自然な仕草で右手を差し出す。しかし半 身を起こした悟空は、それに反応を示さない。 「…立てねぇのか?」 不審気に訊いた三蔵は、再び悟空の肩を掴もうとした。が、それま で虚ろな反応しか見せなかった悟空が、それを全身で拒絶した。 「触んなよっっ…!!」 これ以上触れたりしないで これ以上近くにいたら、『もう戻れなくなる』──── 三蔵は手を宙に浮かせたまま、愕然とした表情で目の前の悟空をみ つめた。 「…俺に触れられるのは、イヤか?…後悔、してるのか…?」 後悔なら、してる これは『禁忌』だった 自分は決して、貴方に触れたりしてはいけなかったのに 「…お前がイヤだって言うんなら…もう、しねぇよ…とにかく、帰 るぞ。」 昨夜の悟空は戸惑ってはいたものの、一度として拒絶の色を見せた ことはなかった。 身体に残る痛みが、あの出来事を「恐怖」として記憶させてしまっ たのか。改めて思い返してみて、「嫌悪感」が生まれたのか。一夜 明けて、この幼子にどのような心境の変化があったのかは、三蔵に はわからない。急ぎ過ぎたかとも思う。だが一度意識してしまえば いつもどおりの夜に戻ることは、もう無理だった。 ふと自分を見上げてきた瞳の色だったか、サラリと流れた長い後ろ 髪の柔らかさだったか、甘えるように触れてきた指先の熱だったか。 何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、それから二度と目の 前の子供は、それ以前と同じようには映らなくなってしまった。 あてどもない思考を巡らせている三蔵と視線を合わせたまま、悟空 はぎこちなくかぶりを振った。 「ちが…う、違うよ…イヤだったんじゃ、ない…でももう、三蔵と は帰らない…今ならまだ、間に合うから…できるだけ遠くに離れる から…一人で、帰って。」 貴方が、いるべき世界に。 しばし茫然としていた三蔵は、次の瞬間、有無を言わさず悟空の両 肩を思い切り掴んだ。 「寝トボケたこと抜かしてんじゃねぇぞっっ、イヤだったんじゃな いっていうなら何なんだ!?一人で戻れってのはどういう言い草だ!? 俺が納得できるような説明をしろ!!」 身体全体から迸るような怒りを正面から叩きつけられて、甘い目眩 を起こしそうになる。そんな自分の愚かしさに、悟空は自嘲気味の 苦笑いを浮かべた。 「俺…さ…昨夜、すげぇ嬉しかった…本当だよ。三蔵が呼んでくれ る声も、抱き寄せてくれた腕も、ホント…気がおかしくなりそうな くらい、嬉しかった…」 正直言えば、昨夜のあの行為が何だったのか、未だ悟空には理解で きていない。しかし三蔵が自分に「何か」を望んでいることだけは わかった。それだけで、充分だった。 話し掛けるのも、何かをねだるのも、温もりに触れたがるのもいつ も自分の方で、三蔵は子供をあやすようにそれに応えるだけ。決し て三蔵が自分を疎んじているわけではないとわかっていたけれど、 何だか一方通行のような気持ちが、少し淋しかった。 その三蔵が自分から呼びかけ、抱き寄せ、「何か」を望んでいた。 何もわからなくても、それだけで悟空には充分だったのだ。 「なのに…」 いつからか、悟空の身体が小刻みに震えていた。悟空は“何か”を 抑え込もうとするように、震える身体を自分でギュッと抱きしめた。 「なのに…俺の気持ちのずーっと奥で、声がするんだ…“もっと、 もっと”って。“こんなかけらだけじゃ足りない、もっと、もっと だ”って…」 悟空の金晴眼が、大きく見開かれる。だがひどく透明なその瞳は、 目の前にある何物をも映していないように見えた。おそらくは視線 を合わせている、三蔵でさえも。 「…『大好き』とか『そばにいたい』とか、そんな優しい、あった かい気持ちじゃない、自分でもどうしてなのかわかんないくらい、 真っ暗で、獰猛な気持ち…三蔵が欲しい…身体だけじゃなくて、気 持ちだけじゃなくて、俺が手にできる、ありったけが欲しい…三蔵 が苦しいって言っても、無理やり剥ぎ取ってでも、最後のひとかけ らまで、俺は三蔵が欲しい────…」 たどたどしく言葉を紡いでいく声は、そのとてつもない内容とは裏 腹に淡々と抑揚が無い。まるで魂はそこにはなく、器だけが言葉を 発しているかのように。三蔵もまた、紫暗の瞳を大きく開いて目の 前の一見頼りなげな、それでいて強烈な意思の光を放つ子供をみつ めていた。 ────否。『子供』と思っていたのは、自分のとんだ見縊りだ。 子供では、ない。 もちろん、依然として子供の部分は残っている。こうして感情の流 れのままに自身を曝してしまう様は、まぎれもなく子供だ。おそら く悟空は自分が言葉に出してしまっている事の重さを、本当の意味 ではわかっていない。だからこそこれほどまで無防備に、気持ちの 変化を吐露してしまっているのだ。それも当の三蔵に。しかし今、 三蔵に向けられている感情は、只の子供の無鉄砲な欲とは違う。 鮮烈なまでに強暴な、『荒れ狂う自我』。 それは決して『子供』には持ち得ないものだ。 「俺、おかしいよっっ…こんなに好きなのに、大事にしたいのに、 なのに何で、こんなこと思うんだろう…何であの声を…止められな いんだろう…」 悟空は苦しげに、三蔵から視線を逸らした。 「…怖いんだ…このまま一緒にいたら、俺…三蔵を壊してでも三蔵 のこと欲しがりそうで…怖いんだ…やっぱ俺…人間じゃないから、 ダメなのかなぁ……」 歯止めの効かない感情の暴走を持て余す悟空は、肌に爪が食い込み そうなほどに己が身体を抱きしめる。「怖い」と呟いた声は、風の 中に散ってしまいそうに儚い。「人間ではないから駄目なのか」と ぽつりと漏らしたその瞳が、もの哀しげに揺れていた。 「…今ならきっと、まだ間に合うから…簡単に会えないくらい遠く に行けば、この気持ちもきっと抑えられるから……だから、一人で 帰って。」 ほとんど自分に言い聞かせるように懸命に言葉を繋いだ悟空は、哀 しげな瞳のまま、それでもうっすらと微笑った。フラフラと立ち上 がり、足を踏み出す。寺院とは、まるで逆の方向へ。 そんな悟空を、三蔵は背後からかたく抱きすくめた。 「さん、ぞ…?」 驚きに上ずった、まだ充分に幼さを残す声。回した腕が余るほど、 細い身体。それでも、この腕の中の存在は、自分が信じ込んできた ほど子供ではない。それならば。 相手が『子供』でないのなら、こちらも殊更物分りの良い『大人』 を装って容赦する必要などないのだ。 次の瞬間、三蔵は悟空に抗う隙すら与えず身体を向き直させると、 再び草叢の上に押さえ込んだ。驚きを隠せない金の瞳が、声を上げ ることも忘れて三蔵を見上げている。そんな悟空に三蔵もまた、逸 らすことを許さない真摯な眼差しを向けていた。 「泣きそうな面して、嘘ばっかついてんじゃねぇよ。“今ならまだ 間に合う”だと?戯れ言を言うな、てめぇが俺から離れられるわけ ねぇだろ。」 「三蔵…」 そう。もう容赦などしない。剥ぎ取ってでも自分が欲しいというの なら、それもいい。その代わりに目の前の相手も、絶対に逃がして などやらない。 「お前…忘れられねぇだろ?俺の呼ぶ声も、俺の触れた手も、お前 だけを映していた俺の目も…忘れられねぇだろ?忘れられるわけが ねぇよ…忘れさせないつもりで、俺はお前に触れたんだから。」 いっそ優しさすら感じさせるほどに静かな、三蔵の声。しかしそれ は悟空を落ち着かせる為のものではない。これ以上逃げを打つこと ができない所まで追い立て、身動きさせない為の「枷」だった。 「…だったら…どうすればいいんだよぉ…」 悟空の顔が、今にも泣き出しそうにクシャリと歪む。三蔵は視線を 合わせたまま、口の端をほんの少し上げて微かな笑みを形づくった。 「────やるよ。」 ひどく簡潔に告げられた一言に、悟空はどう反応を返していいのか わからない。茫然とした表情の、未だ子供らしい丸みを帯びた悟空 の頬を、三蔵はゆっくりと指で辿った。 「やるよ。俺の“ありったけ”とやらが欲しいんだろ?だったら、 やるよ。どうせ出し惜しみするほど大したモンはねぇから、お前が 欲しいモンを、欲しいだけやる。その代わり、お前も全部よこせ。 馬鹿馬鹿しさも、やりきれなさも、みっともなさも…その荒れ狂っ た獰猛な自我も、全部ひっくるめて俺によこせ。どんなに苦しかろ うが、最期までその気持ちを抱えてろ。…勝手に捨てたりしたら、 許さねぇぞ。」 三蔵の一言一言が、悟空の気持ちの奥底に直接響いてくる。それは 無限にも近い“存在の許容”であり、そうであると同時に“絶対的 な呪縛”でもあった。 『許し』と『誡め』。望んだ二つのものを一度に手に入れた快さに、 そろりと、昏い笑みを浮かべる己の存在を、悟空ははっきりと自覚 していた。 (もう…戻れなくなっちゃった…) 目の前に迫ってくる金糸の髪の眩しさに、泣きそうな表情のまま、 悟空は静かに瞼を伏せた。 先刻までの感情の激しさが嘘のように、悟空の纏う空気はひどく静 かだった。緩やかにほどかれた身体は一切を拒むことなく、何処ま でも三蔵の熱を受け入れた。途切れ途切れの艶を含んだ高い声が、 甘く三蔵を呼ぶ。縋りつくように回された腕は、思いの外強い力で より深く三蔵を引き寄せた。三蔵もまた、悟空の容態を気遣う余裕 などなくしてしまったかのように、ひたすらに腕の中の存在を求め た。昨夜の名残の癒えぬ小柄な身体の至る所に、浸蝕の紅を刻み込 んでいく。内側から音を立てて貪られるような感覚に、悟空の身体 が無意識の内に跳ね上がる。それを押し止めて、見えない底を浚う ように深く、更に深く三蔵は悟空を追い込んでいく。 熱に浮かされたような感覚の中、互いに互いの全てを奪い合おうと でもするように、痛みを伴うほどの強さで、二人は最後まできつく 指を絡ませたままだった────。 情交の後の気怠い空気を引きずったまま軽く身支度を終えると、空 は既に黄昏が迫り始めていた。もはや一人では起き上がれない悟空 の身体に、三蔵が法衣を着せ掛けようと腕を伸ばす。ぼんやりと視 線を漂わせていた悟空は、緩慢な仕草でそれを遮った。 「法衣、汚しちゃうから…」 すっかりかすれてしまった声でぽつりと呟き、ゆるゆると首を振る。 本当に相手のことを思うならここにいてはいけないとわかっている のに、こうして手を差し伸べられれば、その存在の熱が欲しくて欲 しくて振り払えない、浅ましい自分。こんな自分に『三蔵』の法衣 に包まれる資格は無い。もう指先で触れてさえ、消えない染みを残 してしまう気がして。 三蔵は悟空の拒否など全く無視して力の抜けた身体を法衣で包み、 軽々と抱き上げた。 「そんなナリのてめぇを晒して歩けねぇだろ…いいから、大人しく してろ。」 明らかに不機嫌な声でそう言い放った三蔵は、そのまま寺院への帰 り道を歩き出した。 冗談ではない。熱を帯びた頼りなげな身体。自らが残した鮮やかな 紅が散る肌。こんな無防備な姿を他人に晒すことなど、許せるわけ がない。これは、自分一人のものなのだ。 あきらめたように大人しく三蔵の肩口に顔を埋めていた悟空が、し ばらくして視線を上げた。朧に霞んだ金の瞳が、真っ直ぐに三蔵を 見上げる。その視線に気付いた三蔵が振り返った。 「何だ…?」 見る見るうちに金の瞳がじわりと潤み、スゥーッ…と一筋、涙が零 れた。三蔵が驚いたようにその足を止める。 もう帰らないと告げた時、激しい感情の昂ぶりをぶつけてきた時、 そしてこの腕の中で甘い熱に浮かされていた時。何度も泣きそうな 表情をしながらそれでも決して泣かなかった悟空の、この日初めて 流した涙だった。 「…ゴメン…な…俺、三蔵を呼んだりしちゃいけなかった…ずっと 一人で、あの山にいるべきだったんだ…ゴメン…ゴメンな……」 はらはらと涙を零したまま、“ゴメン”とうわ言のように呟き続け る悟空。三蔵はそれには答えず、そっと唇で涙を掬い取る。悟空が 疲れ果てて瞼を閉じるまで、その行為は繰り返された。 寺院に戻った三蔵は、眠ってしまった悟空を起こさぬよう風呂に入 れ、洗い立てのシーツを敷き直したベッドへと寝かせた。今は穏や かな寝息をたてているあどけない寝顔を、三蔵はベッドの端に腰を 下ろしぼんやりと見下ろしていた。 「“ゴメンな”…か。お前は泣きながらそう言い続けたが、お前の 激情の発露を嬉々として眺めていた俺が存在すると言ったら…お前 は怒るか…?」 悟空の前髪をクシャリと撫でる三蔵の口元に、昏い笑みが浮かぶ。 壊してしまいそうな程 ありったけが欲しいと叫ばれた時 この胸を走り抜けたのは「恐怖」などではなく この身が消し飛んでしまいそうな程の、圧倒的な「歓喜」 おそらく自分はあの叫びを聞く為に この声を探し当てたのだ 獰猛なまでの荒れ狂う自我で ひたすらに自分だけを求めてくるこの魂を 気が違いそうなくらい求めていたのは 自分の方だったのだ 眠ったままの悟空の手を取った三蔵は、何かの儀式のように厳かな 仕草で、その手の甲に口付けを落とした。 「…一旦口に出しちまったんだから、覚悟を決めろよ?もうこの手 は離れねぇぞ…例えお前が正気に返ったとしても…例え俺が、正気 を失ったとしても────……」 暗い夜空にひっそりと輝く弓のように細い月だけが、『戻れない』 二人の姿を、静かに照らし出していた────。 END. 《戯れ言》
『SERENATA』様 「初めての朝」ネタというヤツなのですが、何故にこんなにイタイ 話になってしまったのやら…正直私にもわかりません(苦笑)。 でも、再録集を出した時に一番反応があったのはこの話でしたね。 悟空の言っている「心の奥底の声」というのは斎天大聖サマのこと ではなくて、五百年の「独りの時間」の間に深層に蓄積された昏い 部分というか…そんなつもりで考えました。 私はどんなに短い話でも直打ちするということはまずなくて、必ず 一回己の手で書くという超アナログ派なのですが(苦笑)これに関 してはまずメモ程度に二人の会話の流れを書いて、それを元に文章 を書き出したのですが…もうメチャクチャ修正入れましたね。その 時のメモを見ると線引いて消したり付け足したりと、エライことに なってますιそんな試行錯誤の末に出来上がった代物であります。 |
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