君がここにいるということ。 by Riko
それが痛みの記憶ではなく
静かな想い出となるように
貴方から何かを奪うのではなく
その心を満たすものとなるように
『フゥ…ッ』
窓辺から一心に外の景色へと目をやりながら、悟空がその夜何度目かの溜め息
をつく。いつも明るく快活な彼らしくないその様子に、旬麗は何処か困ったよ
うな苦笑いを浮かべた。
「このひどい雨では、今夜はお戻りにならないかもしれませんね。思うように
馬が進まず、何処か途中の街で宿を取られたのかも…」
旬麗が話しているのは、言うまでもなく三蔵のことである。三蔵は珍しく長い
間城を留守にしていた。悟空には難しい外交の話はさっぱりわからなかったが、
何でも同盟を結んでいるある国の建国何周年だかを祝う記念式典とやらに招待
を受けたということで、不承不承出かけて行ったのだ。当初三蔵が話していた
予定からいけば今日帰ってくるはずだったのだが……つい先ほどの旬麗の言葉
どおり、朝から降り続いている雨は夕方頃から激しい風も加わって今や『嵐』
と言っても差し支えのない荒れ模様となっていた。
「あ…ゴ、ゴメン、遅くまで付き合わせちゃって。俺ももう少ししたら寝るか
ら、旬麗も休んで。」
こうして自分が夜更かしをしている為に旬麗が遠慮して立ち去れずにいるのだ
と思った悟空は、慌てた様子で謝意を表す。如何にもこの小さな主らしい気遣
いに、旬麗は口許を綻ばせ小さく首を振った。
「何か温かい飲み物でもお作りしましょうか。長雨のせいか、今夜は冷えます
ものね。」
この雨の降りようでは帰っては来られまいと頭でわかっていながらも、ひたす
らに一途なこの主は、かれこれ一月近くも逢瀬のない唯一人の人を、それでも
待っていたいのだ。こちらを心配させまいと「もう少ししたら寝るから」と口
にしてはいても、おそらくは眠らぬまま窓の外をみつめ続けるに違いない。
旬麗の細やかな心配りに、はにかみがちの笑顔を返した悟空が「うん」と頷き
かけた、その時。
外の露台へと繋がる窓が、ガタン、と激しい音を立てて揺れた。
旬麗と顔を見合わせた悟空が、反射的にそちらを振り返る。大きく開かれた丸
い金の瞳に映ったのは───
「三蔵…っ」
転びそうな勢いで悟空が窓へと駆け寄り、鍵を開ける。外の冷ややかな空気と
共に中へ入ってきた三蔵は、平素は太陽の如く眩い輝きを放つ金の髪から足の
爪先に至るまでずぶ濡れだった。
取り急ぎ旬麗が持ってきてくれたタオルで三蔵の身体を包みながら、悟空が風
呂の用意を頼む。しっかりと頷いた旬麗は、慌ただしい足音を残して部屋から
消えて行った。
頭からタオルを被せても、三蔵は常にないぼんやりとした様子で自分から動こ
うとはしない。そんな彼の腕を引いてとりあえず椅子へと座らせた悟空は、小
さな手を懸命に動かして冷えきったずぶ濡れの身体を拭いた。
「三蔵…」
帰ってきてから三蔵はまだ一言も───悟空への呼びかけすら発してはいない。
どんな時も強い意思の力を放つ紫の瞳も何処か朧げで、全てを悟空になされる
がままに任せている。そんな平素とは明らかに異なる三蔵に何一つ問いかける
ことなく、静かな眼差しだけを注ぎながら、悟空は労るような動作で滴り落ち
る雨の雫を拭い続けた。
二人の間に流れる沈黙を破ったのは、湯の支度が整ったことを告げに来た旬麗
の声だった。相変わらず反応の薄い三蔵を半ば強引に浴室へ引っ張って行った
悟空は、幼い子に向かうように「ちゃんと温まるまで出てきちゃダメだよ」と
自分より遥かに大きな目の前の相手を諭したのだった。
半時程が過ぎて。悟空の言葉に従いきちんと身体を温めてきたらしい三蔵が、
全身から微かな湯気を立ち昇らせながら部屋に戻ってきた。頃合いを見計らっ
ていたかのような絶妙のタイミングで茶を注ぎ、身体が温まりますからと言い
少々の果実酒を垂らした。
「では…何かありましたら、いつでもお呼び下さいませ。」
思いやり深くよく気の回る旬麗は一切余計な口を挟むことなく、二人に一礼し
てから部屋を出て行った。
暫くの間、二人はただ黙って旬麗が用意してくれた茶を口にしていた。果実酒
の入った香り高い茶が、じんわりと身体の内側まで染み渡る。降り続く雨の音
だけが響く中、傍らに座る三蔵は俯きがちの表情で「こんな夜はダメなんだ」
と、ぼそりと呟きを落とした。悟空は無言のままその横顔をみつめ、三蔵の言
葉の続きを待った。
「…義父上が亡くなられたのも、こんな嵐の晩だった。義父上の瞼が力無く閉
じられていった瞬間を、白い床に広がった鮮やかな血の紅を、窓越しに轟いた
雷鳴と突き刺すような閃光を…今でもまだ、まざまざと覚えている…」
ぽつり、ぽつりと。掠れ気味の声で心の奥底から何かを吐き出すように、三蔵
は苦い記憶を語る。茶器を置いた悟空は、膝に置かれた三蔵の手にそっと自ら
の手を重ねた。ぎこちなく顔を上げ視線を悟空へと向けた三蔵は、自嘲めいた
苦笑いをその瞳に滲ませた。
「…ざまぁねぇな。とうの昔の話だってのに…今も気持ちの何処かに、あの夜
に蹲ったままの俺がいる…後悔も、憤りも、遣り切れない思いも…未だに何一
つ、『終わり』に出来ていない。」
いつもより少し昏い光を帯びた紫の瞳を、大きな金の瞳は真っ直ぐにみつめ返
す。上から重ねた手で悟空はギュッと三蔵の手を握り、平素の幼い様子とは異
なる、ひどく透明な、穏やかな笑みを向け、ゆっくりとかぶりを振った。
「悟空…?」
訝しげに呼びかけてくる三蔵の手を、悟空は両手で包み込むように握り直して
その口を開いた。
「いいんだよ…『もう終わったことだ』なんて、無理やり自分を納得させなく
ていいんだ。大切なお義父さんを亡くした時のことを、そんな簡単に『終わっ
たこと』になんて出来るわけない。哀しい記憶を哀しいまま抱えてるのはつら
いことだけど…それでもきっと、静かに思い返すことが出来る日はいつかやっ
て来るから。」
落ち着いた声で紡がれた悟空の言葉に、紫の瞳が見開かれる。間近で向き合う
黄金色の瞳は、慈しみにも似た深い色を湛えていた。
「三蔵は王様で、いっつも忙しくて、だから何でも『早く早く』って思ってき
たんだろうけど…急がなくていいことだって、あるんだよ。どんなに厳しい冬
の後でも必ず花は咲くし、どんなに長く降り続く雨でもいつかは上がって太陽
は見えるから…哀しい記憶を静かな想い出に変えていくのは、少しずつゆっく
りでいいんだ。何一つ、無理して急ぐ必要なんてない。」
真摯なまでの労りに満ちた悟空の笑顔と声は、暖かな風のように三蔵の心を、
身体を包み込む。三蔵は幼子がするように小さな胸に半身を預け、目を閉じた。
悟空は一瞬驚いた風だったが、すぐにその表情は緩やかな笑顔に変わり、まだ
しっとりとした露を含んだ金の髪をそっと梳いた。
突然に義父を亡くし、三蔵は僅か十三歳で王としての責務を負う身となった。
周りの全てが、常に彼に対して迅速さを求めた。好むと好まざるとに拘らず、
過去を顧みる暇などなく、心だけを置き去りにして、ひたすらに前へと進み続
けてきた。誰もがそんな彼を畏敬の念を持って称え、自身もそれこそが正しい
姿なのだと信じていた。しかし。
小さな身体で精一杯自分を抱きしめているこの愛しい存在は、何もかもを急ぐ
必要などないのだと、ただ微笑う。余りあるほどの豊かな心で、不安定で心許
ない自分を、あるがままに受け止めようとする。
今更ながらに思い知らされる。こんな嵐の中を、同行した家臣らの反対を押し
切って強引に帰ってきたのは、この声が、この笑顔が、この温もりが只々欲し
くて堪らなかったからなのだ。
胸に埋めていた顔を上げ、下から覗き込むように悟空を見上げた三蔵は、あど
けない唇にその夜初めてのキスを送った。
慈愛を司るあの不遜極まりない神は、悟空を『大地の申し子』と言い表した。
その言葉どおり、確かに彼をこの腕に抱いている時にはいつも、生ある物全て
を育む大地の豊かさ、温かさを感じる。しかし今夜の悟空からは寧ろ『水』の
印象を強く受ける。乾ききった荒野が恵みの雨によって潤されるように、痛み
の記憶に苛まれた心が、じんわりと満たされていく。共に在ることを三蔵に確
認させるように、時折り指を強く絡ませ小さく笑う。そんな些細な仕草にすら
どうしようもないほどの愛おしさを覚えて、三蔵はいつの間にか自らが笑みを
返していることに気付いた。
降り続ける雨と梢を揺らす風の音は、既に三蔵の無力感を厳しく責め立てるも
のではなくなっていた───。
窓の向こうから届く柔らかな光と微かな小鳥のさえずりに、三蔵がゆるゆると
瞼を開く。どうやら嵐は昨晩のうちに通り過ぎ、今朝は青空が覗いているらし
い。徐々に意識を覚醒させた三蔵は、傍らで身を寄せるようにして眠る悟空へ
と目を向けた。無防備な寝顔はいとけないばかりで、昨夜の大人びた表情の名
残は見られない。しかし無邪気で愛くるしい一面とは別に、あれもまた紛れも
なく彼の本質の一部なのだと三蔵は思う。サラリと流れる大地色の髪にそっと
口付けを落とす。程なくして「ん…」という軽い身動ぎと共に瞼が開き、淡く
滲んだ金の瞳が三蔵を捉えた。
「…おはよ」
まだ目覚めたばかりのはっきりしない様子で、それでもはにかみがちに笑いか
けてくる悟空を、再び腕の中に閉じ込める。悟空は心地よさげに目を細め、三
蔵の肩口に頭を預けた。
「三蔵…先に起きてたの?」
「あぁ…どっかの誰かのマヌケな寝顔を眺めてた。」
「ムゥ~ッ、すぐそうやって人のことマヌケとか言うしっ」
「別にお前の名前なんか言ってねーだろ」
「おんなじことじゃんっ」
未だ子供らしさを色濃く残す丸い頬を、更に膨らませて怒る悟空の鼻先に戯れ
めいたキスを送り、三蔵は腕の中の小柄な身体を強く抱きしめた。
これからもまだ時折り 胸は痛むかもしれないけれど
静かに思い返せる日は 遥かな先かもしれないけれど
もう一人暗闇で 迷い立ち竦むことはない
本当にかけがえのないものは 今、ここにある───…
…END.
《戯れ言》
久々の「Wish~」でした。自分でもこんなこと言うのもヘンな話ですが、
この二人を書いてると、何だかホッとするというか…ふとした折に行って
みたくなる「懐かしい場所」みたいなものなんでしょうかね…?
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