「小説」Topに戻る
「Riko」Topに戻る



至るべき、その場所 by Riko






その日から悟空は三蔵と共に、とある村に来ていた。先頃その村で起こり始め
た奇妙な現象について、慶雲院に調査依頼があった為である。平素ならばその
程度のことで、三蔵自身が直接足を運ぶことはない。しかし今回は、その村に
ある寺の住職と大僧正が懇意の間柄ということで「是非とも」と口添えされて
しまったのである。如何に三蔵といえども、大僧正からの口添えとあれば無碍
に断るわけにもいかない。結局渋々ながらも了承する形となり、結構な時間を
使って村に到着した三蔵は、実に不本意そうな表情で大きな溜め息を一つ吐き
出した。
「ったく面倒臭ェ…一日でも早くケリを着けて、とっとと帰ってやる」
『余計な仕事を押し付けられた』と言わんばかりの口調でそう言い切った三蔵
は、まず詳細を確かめる為、悟空を連れ寺へと向かった。


「これはこれは三蔵様、この度はかような田舎寺までご足労頂きまして、真に
ありがとうございます…」
本堂にて向き合う形で腰を下ろした住職が、孫ほどにも歳の違う三蔵に対して
恭しく頭を下げる。三蔵はさして面白くもなさそうな顔で、軽くかぶりを振っ
てみせた。
「勿体ぶった挨拶はいい。今回調査を依頼した『奇妙な現象』とやらについて
簡潔に説明してくれ。」
いつにも増した仏頂面で切り捨てるように言い返され、年老いた住職は気の毒
なくらい身を縮こませてしまった。そんな相手の反応などカケラも気にかける
様子のない三蔵は、無言の重圧で手早く本題に入るよう促す。哀れな住職は緊
張しきったまま、ぼそぼそと話を始めた。
その話の内容とは、次のようなものだった。

この村には、遥か古より滾々と清水の湧き出る泉があり、それは人々の生活を
支える貴重な水源となっている。どれほど日照りが続こうとも、どれほどの熱
波に襲われようとも、未だかつてその泉の水が枯れたことはないという。だが
それほど豊かな泉の水量が、ここ半月程で急激に減っているというのだ。どう
考えてもそのような現象が起きるような季節ではないにも拘らず…である。
これを『人ならぬ者の仕業』と考えた村人が住職に訴え、それを更に住職が大
僧正に相談したというのが、一連の事の経緯であった。
「…大体の話はわかった。とりあえず、その泉とやらを見てみるか。」
一通りの話を聞き終えた三蔵が、素早く立ち上がる。とにかく面倒事はさっさ
と済ませてしまいたいというのが、紛うことなき三蔵の本音だった。
引き戸を開き外へ出ると、境内で一人遊びをしていた悟空が小走りに駆け寄っ
てくる。
「さんぞ!話終わったの?」
「話は終わったが、肝腎の仕事はこれからだ…俺は現場を見に行ってくるから、
テメェは適当にこの辺りをブラついてろ。」
丸い金の瞳を大きく開いてこちらを覗きこんできた悟空に、三蔵が素っ気無い
口調で言い放つ。悟空は不満だらけの表情で、子供らしい丸みを残す頬を更に
プゥ…ッと膨らませた。
「え~、そんなんつまんねぇじゃんっつ、俺も一緒に行くっっ」
「黙れ。飼い主様の言いつけに逆らってんじゃねーよ、サル…帰り道がわかん
なくなるほどフラフラ離れるんじゃねーぞ。いいな?」
キャンキャンと子犬のように騒ぐ悟空の額をペチッと叩き、一方的な指示だけ
を与えた三蔵は、寺の僧侶らと共にさっさと出かけてしまった。一人ポツンと
残された悟空は「チェッ」と小さく呟いてから、トボトボと山門を出た。


適当にブラついていろとは言われても、とにかく村そのものが小さいのだ。
ごく普通の民家とほんの少しの商店が並んでいるだけの景色の中には、悟空の
好奇心をくすぐるような物は見当たらない。
「あ~ぁ、つまんねぇの…」
すっかり不貞腐れた表情で如何にも退屈そうに歩いている悟空の腹が、グゥ~
と派手な音を立てて鳴った。
「…オマケに腹まで減ってきちゃったし…最悪。」
すっかり気落ちした様子で胃の辺りに手をやる悟空の背後から不意に、堪えき
れずに漏れてしまった、というような微かな笑い声が聞こえた。訝しげに瞳を
眇めながら振り返った悟空の視線の先には、少しバツが悪そうに微笑う女性の
姿があった。
「いきなり笑ったりしてゴメンなさいね…お腹空いてるの?私の家、すぐそこ
なのよ…もしよかったら笑っちゃったお詫びに、一緒におやつでも如何?」
「!いいの?」
『おやつ』の一言に、しょげ返っていた悟空の表情が途端にパッと輝く。女性
は楽しげに笑ったままコクリと頷いた。

女性が悟空を招いたのは、寺からそう遠くない小さな一軒家。質素だが心地よ
い温もりを感じさせる食卓で、胡麻餡や木の実がたっぷり入った饅頭を彼女は
悟空に振舞ってくれた。悟空はそれに遠慮なく手を伸ばしながら、自分が三蔵
と共に長安からやって来たことを語った。
「そうなの。三蔵法師様のお供でこの村に…私はよく存じ上げないけど、三蔵
法師様ってとても徳の高い御方なんでしょう…?それはご立派な方なんでしょ
うね。」
「ぜーんぜん!何処がっっ…すっげぇ意地悪だし、自分勝手だし、気は短いし、
すぐ怒ってハリセンで叩くし…」
正に『悪口雑言』といった感じで、悟空は三蔵への不満を次から次へと並べて
いく。しかし向かい合わせに座ってそれを聞いている彼女の目許には、柔らか
な笑みが浮かんでいた。
「…何で笑ってんのさ」
それに気付いた悟空が、不服そうに目の前の相手を見上げる。しかし彼女は変
わらずに笑んだまま「だって」と言葉を繋いだ。
「悟空ったら口では酷いことばっかり言ってるのに…カオには『でも大好きな
んだ』って、ちゃんと書いてある。」
まるで歌うような軽やかさでそう告げられて。モゴモゴと饅頭を頬張っていた
悟空の口の動きがピタリと止まり、ゆっくりと耳朶までが赤く染まった。
「それ…は…さ…」
それまでの威勢のよさが嘘のように、俯き加減になった悟空が小さな声で口篭
もる。そんな悟空の反応に、彼女は最初に会った時と同じく、ひどく楽しげに
クスクスと笑った。

「…何だか、珍しく賑やかだね。」

静かに扉が開く音と共に、穏やかな声が届く。悟空が顔だけでそちらを振り返
ると、扉の向こうには寝間着姿の男性が立っていた。彼女は慌てた様子で席を
立ち、扉の方へと駆け寄った。
「あなた…起きてきたりして大丈夫なの?」
「君の楽しそうな声が聞こえたものだから…つい覗きに来てしまったよ。大丈
夫、すぐ布団に戻るから。」
心配げな表情で額に手を当てる彼女に、男性は微笑って首を横に振る。その視
線が悟空に向かっていることに気付いた彼女が「あぁ」と呟き、自らも悟空へ
と視線を戻した。
「こちらは悟空君…三蔵法師様のお供で、長安からいらしたんですって。」
「そうですか…彼女がこんな風に笑っているのは久しぶりです…どうぞゆっく
りしていって下さい。」
「あ…ありがと…」
ひどく穏やかな笑顔を向けられて、悟空が戸惑いがちにペコリと頭を下げる。
小さな会釈を返した男性は、来た時と同じように静かに去って行った。
「あの人…お姉さんの旦那さん?どっか具合悪いの?」
席に戻ってきた彼女に、悟空が問い掛ける。彼女は少し困ったような笑顔で口
を開いた。
「まだちゃんとした式は挙げていないんだけどね…私達はこの村の出身じゃな
くて、故郷はもっと遠い処にあるの。そこで小さな戦が起こって…古い友達が
困っているのに知らないふりは出来ないって、あの人は手助けに行って…つい
最近、ようやく戻ってきたの。でも戦で身体を壊したみたいで…全然食べてく
れないし、あまり長い時間起きてもいられないの…」
伏せ目がちにぽつりぽつりと語った彼女は、気を取り直すようにニコッと笑っ
た。
「なーんて、とにかく無事に帰ってきてくれたんだもの…贅沢言っちゃダメよ
ね。身体のことは、これからゆっくり直していけばいいんだもの。」
「うん…そーだね…」
悟空へと言うよりも寧ろ自らに言い聞かせるかのような彼女の言葉に、悟空は
先刻あの男性を見た時に、ほんの少し胸に生じたある違和感を押し隠しつつ、
小さく頷いてみせた。


一方、寺の僧侶らと共に現場に到着した三蔵は、問題の泉をまじまじと眺めて
いた。確かに、周囲に生えている草花の位置から推察される本来あるべき水位
よりも、現在泉に湛えられている水の量は二~三割減っているように見受けら
れる。
「日照りの季節でもないのにこれほど水量が減ってしまうということは、通常
ならばまずありえないことなのです…やはり狐狸妖怪の類いの仕業なのでしょ
うか…」
「狐狸妖怪、か…」
不安げな僧侶の声に、三蔵は大した感心もなさそうな声で同じ言葉を繰り返す。
三蔵が見る限り、この泉の周辺にはその類いの怪しい気配は残っていない。
三蔵に感じられたのは、澄み切った清らかな水の匂いと…それから───
(…花の匂い…?)
三蔵の紫の瞳が、スゥ…ッと細められる。勿論、泉の周囲には花をつけている
草木は多数あるのだから、花の匂いがしても何らおかしなところはない。だが
三蔵には、自分が微かに感じたこの匂いが、周辺の草木から香ってきたもので
はないとわかる。もっと強い芳香を持った花がまとまった数で置かれていた後
の残り香のような…例えて言うなら、そういう感じのものなのだ。
自然の草花が生い茂る場所に微かに残る、不自然な花の匂い───その一点が
妙に三蔵のカンに引っかかった。


その夜。村にたった一つだけある宿屋に腰を落ち着けた三蔵は、今回の依頼に
ついて悟空に掻い摘んで説明をした。すぐに解決して帰れるような案件ならば
わざわざ悟空に話すつもりはなかったのだが、今日一日で得た感触では、どう
やらそう簡単には済みそうもない。
「フーン…何だろ?すっげぇ水が必要なヤツでもいるのかな…?」
寝台の上でゴロリと寝返りを打ちながら、悟空が思ったままの疑問を口にする。
隣りの寝台で新聞を読んでいた三蔵は、その視線をチラリと悟空の方へ投げた。
「さぁな。多少引っかかってるコトはあるが…ところでテメェは、何処行って
たんだ?」
全くの初対面だというのにすっかり彼女の家でくつろいでしまった悟空が寺に
戻ったのは、村外れの泉へ調査に行った三蔵よりも後だった。悟空は「へへ」
と笑って誤魔化しつつ、昼間の出会いについて話した。
「…でさ、そのお姉さんの恋人、戦で遠くに行ってて、つい最近帰ってきたん
だって。静かで優しそうな人だったけど…何つーか、こう…」
楽しそうに彼女の家での出来事を語っていた悟空の口調が、その恋人の話の辺
りから平素の彼らしくない、歯切れの悪いものとなる。怪訝そうに僅かに柳眉
を寄せた三蔵に、悟空は何処かぎこちなく笑って首を振った。
「何でもない…具合悪そうで大変だなーって、そんだけ。三蔵さ、明日もその
『調査』ってヤツなの?」
「あぁ、とにかく原因をはっきりさせねぇと帰るに帰れねぇからな…テメェも
何か役に立ちそうな情報を仕入れたら知らせろよ。」
さりげなく話題を切り替えた悟空の問いかけに、三蔵が軽く頷く。その言葉に
「うん」と答えながら、悟空は結局自らが感じた違和感について、三蔵にも語
らぬままだった。


次の日から、三蔵は本格的な調査に入った。当然三蔵が仕事をしている間は置
いてけぼりとなった悟空は、足繁く彼女の家を訪れていた。彼女は嫌な顔一つ
することなく、いつも沢山のおやつをこしらえて悟空を歓迎してくれた。
「だって嬉しいんだもの。誰かと食卓に座るなんて、本当に久しぶり…彼が出
かけている間はずっと一人だったし、帰ってきてからも彼はほとんど食べない
から…」
淡い愁いを含んだ眼差しで、彼女が語る。香ばしく焼き上がった菓子を頬張り
ながら、悟空は小首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
「お兄さん、ホントに全然食わないの?お姉さん、こんなに料理上手なのに…」
三蔵が戻ってくる間の時間の大半を悟空はこの家で過ごしていたが、彼女の恋
人とは本当に挨拶程度の言葉を交わす間しか、顔を合わせたことがなかった。
「身体が受け付けないみたい…以前は気持ちいいくらいよく食べる人だったん
だけど…今は精々お茶やスープくらいで、食べ物らしい食べ物は全然…」
「そんなんで大丈夫なのか?もう帰ってきて結構経つんだろ…?」
困ったような表情で首を振る彼女に、悟空が更に問い掛ける。彼女は俯きがち
にコクリと頷いた。
「そろそろ半月以上になるかしら…私も心配なんだけど…」
彼女が発した言葉の『ある部分』が、悟空の頭の隅で引っかかる。
(…?何が引っかかってんだろ、俺…半月…?それって確か…)
「あ…」と無意識の内に悟空の口から小さな声が漏れた。その脳裏で、不意に
二つの符号が一致する。半月前───それは三蔵から聞かされた怪現象が起こ
り出したのと、ほぼ同時期なのだ。
「悟空…?どうかした?」
急に黙り込んでしまった悟空へと、彼女が心配そうに声をかける。ハッと我に
返った悟空は慌てて首を振り、「何でもないよ」と笑って見せた…が。
初めてこの家に来た時から感じていた朧げな違和感は、この時悟空の胸の内で
決定的なものに形を変えつつあった。


その日、少し早めに宿へと戻った悟空はドサッと寝台に身を横たえ、金の瞳に
天井を映しながらあてどもない考えを巡らせていた。
戦地から帰ってきた恋人。食物を受け付けない身体。不自然なくらい急激に減
り出した泉の水。そして───悟空が抱き続けている『疑問』。それらの事柄
を繋ぎ合わせた時に浮かび上がってくる、一つの『仮定』。
役に立ちそうな情報を仕入れたら知らせろと言っていた三蔵。多少脳の詰まり
具合に問題のある自分の頭で考えても、これは三蔵の仕事にとって間違いなく
『有益な情報』なのだろう。しかし。

『とにかく無事に帰ってきてくれたんだもの』
『誰かと食卓に座るなんて、本当に久しぶり』

彼女の笑顔が、悟空の頭の中で繰り返し浮かんでは消える。ひたすらに恋人の
無事を祈って待っていた女。待ち続けてようやく戻ってきた、ささやかな幸せ。
彼女のことを考えると、悟空は自分が今考えていることを、真っ正直に三蔵に
話そうという気にはなれないのだ。
「どうしたサル、目開けたまま寝てんのか?」
不意打ちでかけられた声に、悟空が跳ね上がるような勢いで身を起こす。
「お…帰り…ううん、ちょっとボーっとしてただけ…」
三蔵を振り返った悟空が、たどたどしく言葉を繋ぐ。その取り繕ったような不
自然な物言いに、紫の瞳が僅かに眇められる。しかし三蔵はそれ以上悟空を問
い詰めようとはしなかった。

部屋に夕食が運び込まれ、二人で湯気の立ち上る食卓を囲む。いつもならこの
上なく幸せそうに皿に箸を伸ばすはずの悟空は、やはり何処かぎこちないまま
で。三蔵は敢えて素知らぬふりで、ふとその口を開いた。
「そういえば…お前がこの間話してた、最近戦地から戻ってきたって男…それ
はいつ頃のことだ?」
悟空の手元の皿が、ガチャリと派手な音を立てる。ごく限られた人数が住んで
いるだけの小さな村。出来事といえるような出来事すらない緩やかな流れの中
の、数少ない『変化』の一つ。その程度の事として問うてみた三蔵は、動揺を
隠し切れない悟空の様子に却って驚いた。
一方の悟空は、何とか懸命に平静を保とうとしていた。まだ───今はまだ、
三蔵に知られたくない。
「さ、さぁ…聞いた気もするけど、忘れちゃった…」
どうにか笑ってそう答えた悟空は、そこで話を終わらせてしまった。そんな悟
空の明らかに不自然な態度は、三蔵が疑いを持つのに充分だった。

次の日───事は急激に動き出した。問題の泉の水が、一気に半分近くにまで
減少したのだ。この事がはっきりと目に見える現象になって以来、村では交代
で見張りの者を置いていた。にも拘らず、ほんの半時目を離した隙にやられて
しまったのである。しかしそれは人の仕業ではないという村人の疑惑を確信づ
けるものともなった。
小さな村は、日中からこの話題で持ちきりとなった。話を聞いて以来ずっと落
ち着かない様子だった悟空は、寺へ向かうという三蔵を見送るとすぐに踵を返
して宿を飛び出した。いつになく焦っていた悟空は、自らの背中に向けられた
視線に気付くことが出来なかった。

息せき切って悟空が彼女の家に辿り着くと、彼女はのんびりと玄関前の掃き掃
除をしていた。悟空の気配に気付いた彼女が、ちりとりにゴミをまとめてから
顔を上げた。
「こんにちは、悟空。そんなに慌ててどうしたの?」
「う、うん…えっと…」
どう話を切り出してよいものか言葉を探しあぐねている悟空の様子をどう取っ
たのか、彼女は口許に手をあててクスリと笑った。
「もしかして、お腹空いてるの?今日は小龍包を作ろうと思ってたんだけど…
好き?」
「うん…あの、お姉さん…何だか今日、楽しそうだね。」
「…わかる?今日はあの人調子がいいみたいで、珍しく庭に出ているの。少し
は元気になったってことかなぁ…って思ったら、嬉しくて。」
そんな些細なことに心から幸せそうに微笑む彼女の姿に胸が痛むのと同時に、
悟空が昨日から思い巡らせていた様々な疑念が一つの結論に達した。
自然の中で滾々と湧き上がる清水は、普通の井戸水などとは異なる『力』を持
ち、命を繋ぐ糧とする生き物達の生命力に影響を及ぼす。
急激に減少した泉の水と、回復の兆しを見せた恋人。
そこから導き出される、一つの『答え』。
「そうだわ。今日は天気もいいし、外でお茶にしましょうか。椅子を庭に出し
て…そうしましょうよ、ね?」
悟空の遣り切れないような瞳の色に、自分の幸せの中にいる彼女は気付かない。
これ以上その笑顔を見ていることがつらくて、悟空は伏せ目がちに視線を落と
した。
「…うん…」
「じゃあちょっと支度してくるから、庭の方へ廻ってきてね。」
明るい声でそう告げた彼女が、扉の向こうへと消える。その後ろ姿にかけるべ
き言葉をみつけられず、悟空は立ち尽くすばかりだった。

「───そういういことか」

背後から突然届いた予期せぬ人物の声に、悟空が弾かれたように振り返る。
「さんぞ…」
力のこもらぬ声で自分の名を呼んだ悟空に、三蔵はあからさまに冷ややかな視
線を向けた。
「テメェ…とっくに気付いてたクセして、俺にバックレてやがったな。このバ
カザルが…で、庭ってのはこの奥か?」
「ちょ…ちょっと待ってよ、まだそうって決まったわけじゃないし…っ」
有無を言わせぬ口調で言い切った三蔵の法衣の袂を掴み、悟空はその足を押し
留めようとする。三蔵は苛立ちを隠そうともせず、大きな舌打ちを漏らした。
「寝言も大概にしろ。お前なら…目の前のヤツが『生きている人間』なのか、
そうじゃねぇのか…ハナッからわかってたはずだ。」
「!だっ…て…」
容赦なく核心を突かれ、金の瞳が大きく見開かれる。
そう。自分にはわかっていた。初めて顔を合わせた、あの時から。何度否定し
ようとしても、拭いきれなかった違和感。優しげに笑うその男性からは───
『人の匂い』がしなかったから。それでもそれを口に出来なかったのは…彼女
もまた、それに気付いているような気がしたからだ。
待ち続けた末に帰ってきた恋人。それが元の恋人とは違うことに薄々気付きな
がらも、懸命に己を納得させているような。そんな気がしてならなかったから
だ。
きつく唇を噛みしめて黙りこんでしまった悟空の手を、三蔵は静かに法衣の袂
から外させた。

「…あの女が哀れで言い出せなかったとでもいう気か?フザケんな。だったら
テメェは…この先何十年と続くあの女の人生を、ニセ者に縋ることでメデタシ
とでもする気だったのか。」

「───…っ!!」
『お前が逡巡していたことは、所詮偽善に過ぎない』と突きつけられたようで、
今度こそ悟空は何も言えなくなる。そんな悟空を一瞥してから、三蔵は目指す
先へと足を踏み出した。
一連の出来事の全てに、幕を下ろす為に───。


三蔵と、それに一歩遅れる形で後に続いた悟空が庭に到着すると、恋人達は新
たな実をつけた木を見上げながら、幸せそうに語らっていた。三蔵が更に一歩
足を進め、足下の草がカサリと音を立てる。その音に振り返った彼女が、僅か
に瞠目した。
「三蔵法師様…?」
困惑している様子の女性を、深い紫の瞳が真っ直ぐに捉えた。
「単刀直入に言う。今あんたの横にいるのは、あんたが待っていた男とは『別
のモノ』だ。その姿を保つ為に、そいつは泉の水を大量に奪っている。」
一切余計な情を挟まない三蔵の声が、淡々と事実のみを告げる。静かな色を宿
した彼女の瞳は、視線を逸らすことなく三蔵をみつめ返していた。

「…わかって…いました…」

暫し落ちた沈黙の後、ぽつりと落とされた呟き。三蔵と悟空に向けられたその
瞳が、淡く滲んだ。
「この人が…私が待っていた彼本人ではないこと…何度無理やり納得しようと
しても、心の何処かでわかっていました…でも…同じ声で…同じ笑顔で…同じ
仕草で…私を呼ぶこの人を『まやかしだ』と拒むことは…私は出来ませんでし
た…。」
たとえそれが、どれほどの犠牲の上に立つ『偽りの幸福』だとしても。
「お姉さん…」
「俺は今回、村の泉にまつわる怪現象について調査を依頼された。引き受けた
以上、俺は自分の仕事をまっとうしなきゃならん。」
三蔵の手の中で、ジャラリ…と数珠が音を立てる。彼女は静かに頷き、傍らに
立つ『恋人の姿をした者』を見上げた。
「私のあの人は…もう戻ってはこないのね…?でも…会いに来てくれて…あり
がとう…」
合わされた瞳は、只々哀しげに彼女を見下ろすばかりで。彼女は潤みを帯びた
瞳で最後にもう一度笑いかけ、そっとその傍らから離れた。

『神に最も近い』と称される最高僧の手が印を結び、厳かな響きを持つ声が真
言を唱え始める。肩に掛けられた経文が生ある物のように動き出し、浄化すべ
き対象に向かって伸びていく。しかし目の前の『彼』は静かに立ち尽くしたま
ま、針の先ほども抗おうとはしなかった。

「魔戒天浄─────!!」

迷いのない一声と共に、経文の力が発動する。人の姿をしていたものは細かな
霧のように四散していき───…
その後に残ったのは、沢山の、白い花─────。

「あ…」
膝から崩れ落ちた彼女が、両手いっぱいにその花を掻き抱いた。
「この花…あの人が初めて私に摘んでくれた…故郷の花なの……」
堪えきれなかったように、見開かれた瞳からスゥー…ッと透明な雫が零れ落ち
る。甘い香りを漂わせながら、清々しいまでの白さで咲き零れる花々に顔を埋
めたまま。彼女は声もなくひたすらに涙を零し続けた。


彼女の家からの帰り道、そのまま寺へと足を伸ばした三蔵は全てが解決したこ
と、自分の仕事が終了したことを住職に伝えた。仕事が終わった以上、すぐに
長安に帰ってもよかったのだが。魔天経文を発動させた為の疲労感が思いの外
強く、さしもの三蔵もこれから徒歩で長安へ向かおうという気にはとてもなれ
ず、結局もう一泊することにしたのだった。

交わす言葉も少ない夕食を終え、風呂から上がった悟空は、ぼんやりと窓越し
の月を眺めていた。
悟空と交代で風呂に入っていた三蔵が、身体から湯気を立ち上らせながら戻っ
てきた。ガラス越しに、二人の視線が噛み合う。そこに映った三蔵をみつめる
悟空の口許が、緩やかな笑みを形作った。
「三蔵…ありがと、な。」
ある程度の時間が経って、冷静に物事を捉えられるようになった悟空の口から
出た、短い感謝の言葉。彼女にとっては、つらい結末だっただろう。しかし、
やはりこれでよかったのだと、悟空は思う。三蔵の言葉どおり、たとえどれほ
ど居心地が良くても、一生まやかしの幸福に縋って生き続けることなど出来る
はずがなかったのだから。三蔵は大した感慨もなさそうに、まだ濡れたままの
髪を拭きながら「フン」と短く呟いた。
「俺は俺の仕事をしただけだ。サルに礼を言われる覚えはねぇよ。」
あまりにらしいその物言いに、悟空は「そう言うと思った」と答えて小さく微
笑った。
「でもさ…確かに村の人には迷惑だったかもしんないけど、あのお姉さんの恋
人ってスゲェよな…遠くで死んじゃってもなお、あそこまでして自分の気持ち
を伝えたかったんだな…」
月を見上げながらぽつりぽつりと言葉を紡いでいた悟空が、三蔵の方へと向き
直る。金の瞳は迷いのない力強さで真っ直ぐに三蔵を見据えていた。
「…何だよ」
「俺も…俺もきっと、伝えに来るよ?もし離れた処で死んじゃったとしても…
花でも、草でも、風でも…他の何に姿を変えても…きっと三蔵に、俺の気持ち
を伝えに来るから。」
真摯さと面映さが半々に入り混じった笑顔で、悟空が告げる。ほんの刹那、紫
の瞳を見開いた三蔵だったが、次の瞬間には抗う余地を与えず、目の前の身体
を腕の中に抱きこんでいた。
「さっ…」
突然のことに文句を言おうとした唇を、強引に塞がれて。デタラメなくらい身
勝手な口づけに翻弄される。悟空の足下からガクッと力が抜けた頃、身体ごと
寝台に倒れこんだ三蔵は、すぐ下に見える細い喉元にきつく歯を立てた。
「痛っっ…」
薄い肌から滲み出した血を唇で掬い取ってから、三蔵は悟空を見下ろした。

「寝トボケたこと抜かしてんじゃねぇぞ…俺の見えねぇトコで息絶えるなんざ、
絶対許さねぇ。血反吐撒き散らしながらでも這いつくばってでも、テメェ自身
が俺のトコまで辿り着いてみせろ。でなきゃその気持ちが『本物』だなんて、
認めてやんねーよ。」

揺るぎのない眼差しと共に深々と心の奥底まで突き立てられたのは、剥き出し
のエゴに裏打ちされた、絶対的な『熱情』。
こんなものを真正面から曝け出されて、逃げ場などあるわけがない。
「うん…絶対、辿り着いてみせるよ。その代わり…三蔵も俺に気付いてな…?
腕がなくても、足がなくても、俺だってわかんないくらい変わっちゃってても
…絶対俺だって…気付いてな…?」
頼りない腕にギュッと抱き寄せられ、三蔵の口許にごく薄い笑みが浮かぶ。
「バーカ。手足がぶっちぎれてようが、目玉が抉れてようが…お前はお前だろ
うが…」
静かな囁きと共に目許に落とされた、優しいキス。幸せそうに淡く笑んだ悟空
は、自分からも眩い金の髪にそっとキスを送った。


明くる朝のこと。身支度を済ませた二人が宿屋の玄関を出ると、いつからそう
して待っていたのか、そこにはひっそりと佇む彼女の姿があった。先を歩いて
いた三蔵に向かい、彼女が静かに深々と頭を下げる。三蔵は僅かに頷いてみせ
ることでそれに応えた。
「お姉さん…」
後から来た悟空が、彼女の元へ駆け寄る。彼女は軽く笑い、手にしていた包み
を悟空に差し出した。
「おはよう。コレ、お弁当…よかったら二人で食べて。」
「あ…ありがと。あの…」
包みを受け取りながら、どう声をかけていいのか躊躇う悟空に、彼女は再び笑
いかけた。
「悟空…心配しないでね。私は、ちゃんと生きるから。」
穏やかな声で語られた確かな決意が、悟空の胸に届く。視線を合わせた彼女は、
更に言葉を繋いだ。
「あの人があそこまでして『想い』を伝えてくれたのは…決して私に後を追わ
せる為じゃないと思うから…だから私は、ちゃんと生きていくから。」
「うん…」
その清々しい笑顔に、悟空が眩しげに目を細める。彼女は少し離れた位置に立
つ三蔵をチラリと見遣り、悟空の耳元に顔を寄せた。
「…悟空のカオに『でも大好きなんだ』って書いてあったワケ…わかったわ。
三蔵法師様は、都合のいい誤魔化し方で済ませたりしない…不器用なくらい、
誠実な方だわ。」
声を潜めて落とされた囁きから、悟空は三蔵の真意を彼女が正しい形で受け止
めてくれたことを悟る。悟空は「俺もそう思う」と答え、何処か気恥ずかしそ
うに笑った。
「おい、そろそろ行くぞ。」
もう話も終わる頃合いだろうと判断した三蔵が、悟空に出発を促す。
「わかったー…じゃあ、俺達行くね。さようなら、色々ありがとう。」
「私の方こそありがとう…元気でね、さようなら。」
互いに別れの挨拶を交わし、小さく手を振る。
こうして、ほんの数日の間にめまぐるしい出来事があった今回の旅は、終わり
を告げたのだった。


それから数ヵ月後。長安の悟空の元に一通の手紙が届いた。
差出人は彼女で、手紙には未だ戦争の爪痕が残る故郷に戻ったこと、恋人が眠
るその土地で生きていくと決めたことが書かれており、そして───…

丁寧な文字で綴られた便箋には、白い花の押し花が添えられていた───。


                              …END.




《戯れ言》
『55555hitありがとう企画』です。どうぞご自由にお持ち帰り下さいませ。
個人でご自分のマシンに落とす方はお好きに、もしご自分のサイトに置いて
やろうじゃないか!というコアな方がいらっしゃれば、BBSもしくはメール
で一言頂ければ幸いです。(あくまで「幸い」ということですので、強要では
ないです。教えて頂ければ遊びに伺えて嬉しいなぁ~ってだけの話ですので)
55555分の1を廻して下さった全ての貴方に、この話を奉げさせて頂きます。
どうもありがとうございましたm(_ _)m




「小説」Topに戻る
「Riko」Topに戻る






Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!