『hush-hush』 by Riko
それは悟空と三蔵が一つ屋根の下で暮らすようになって初めて向かえた夏のこ
と。その日は毎年恒例となっている花火大会が予定されていた。この花火大会
は二人が住む地域でも1、2を争う大規模な物で、数万人単位の見物客が訪れ
る。話を聞いた悟空は前々からそれは楽しみにしており、父親も笑顔で「みん
なで行きましょうね」と話していた。ところが。
『すみませんね、急な仕事が入ってしまって…』
夕刻を過ぎてかかってきた電話はまだ会社にいる父からのもので、予定外の仕
事が入り残業となってしまった為、花火大会に間に合う時間には帰れそうもな
いという内容だった。仕事の都合とあれば、どれほど残念であっても気ままを
言うわけにもいかない。三蔵は受話器の向こうで申し訳なさそうに謝る父に了
承の意を伝え、電話を切った。
受話器を置き短い溜め息を吐き出してから振り返れば、そこには丸い瞳で一心
にこちらを見上げている小さな弟がいて。
「お父さん、帰って来られないの…?」
今にも零れ落ちそうな金の瞳にじっと顔を覗き込まれ、正直三蔵は途方に暮れ
てしまう。悟空が朝からどれほど心躍らせていたかを目の当たりにしている分、
花火大会には行かれなくなったのだとは言い難い。暫し何か思案している表情
を浮かべていた三蔵が、徐に口を開いた。
「…二人で行くか?」
三蔵の一言に、それまではっきりと落胆の表情を見せていた悟空の顔がパッと
輝く。
「ホントに?」
「その代わり父さんはいないんだから、夜店で色んな物を買ったりとかは出来
ないぞ。」
「いい、それでもいいから行きたいっ」
教え諭すような三蔵の言葉に、悟空は真剣な様子で大きく頷く。三蔵は微かな
苦笑いを口許に刻みながら「じゃあ行くか」と頷き返した。
こんな時間に子供が二人きりで、しかも大勢の人が繰り出す花火大会に行こう
などと、周りに大人がいれば間違いなく反対されるだろう。ましてや悟空はこ
の春一年生になったばかりだ。本当のところを言えば三蔵自身、遊びに行く楽
しさよりも二人で大丈夫だろうかという不安の方が大きい。しかしここであっ
さりあきらめて、悟空をがっかりさせたままというのは嫌だったのだ。
父親の仕事の都合で、予定したことが出来ずに終わってしまう。これはそのま
ま三蔵の体験だった。
母が亡くなって以来父と二人暮しだった三蔵には、そんなことはこれまで幾度
となくあった。幼い三蔵に我慢を強いる結果となってしまっていることを父が
心苦しく思っているのがわかる分、三蔵は尚更父を困らせるようなワガママを
言えなかった。せめて目の前の弟には、かつての自分のような思いをさせたく
はないのだ。
喜びを抑え切れないようにはしゃぐ悟空の手を取り、三蔵は玄関の鍵を閉めた。
花火大会の会場へと向かう道すがら、三蔵はずっと悟空の手を繋いでいた。何
しろ大変な人手である。ここでこの小さな弟の姿を見失えば、再びみつけるの
は容易なことではない。その所在を確かめるよう、三蔵はより一層悟空の手を
強く握り締めた。
「何も買えなくてもいいから」とは言ったものの、沿道にズラリと並ぶ夜店の
賑わいは、子供の心を引き寄せるには充分で。あちこち視線を巡らす悟空に、
三蔵は「どれか一つだけなら買ってやる」と告げた。丸い金の瞳を輝かせた悟
空が散々迷ったあげく選んだのは、真っ赤なリンゴ飴。気の良さそうな露店の
店主からリンゴ飴を受け取った悟空は「ありがとう」と三蔵に礼を言ってから、
上機嫌の笑顔でそれに齧りついた。
嬉しげにリンゴ飴を食べている悟空の手を引いていた三蔵は、僅か数メートル
先に数人のクラスメイトの姿をみつけた。
その、ほんの一瞬───本当にほんの一瞬だけ『弟と手を繋いでいるなんて格
好悪い』という思いが、三蔵の胸を掠めた。そして迷いの生じたその瞬間、三
蔵は握り締めていた手を離してしまった。
「悟空…?」
すぐさま我に返った三蔵が、慌てて傍らを振り返る。しかし時既に遅く、小さ
な弟の姿は完全に人ゴミの中に埋没してしまっていた。
「…っ!」
人波を縫うように、悟空の姿を探して三蔵は懸命に走る。花火の打ち上がる景
気のいい音が聞こえ始めたが、最早三蔵に空を見上げている余裕はない。
(バカか、俺は…っ)
息を切らして駆け回りながら、三蔵は胸中で激しく己を叱責していた。
何故僅か一瞬でも迷ったのか。それも些細なことこの上ない、くだらない面子
の為に。そんなものと悟空の存在を引き換えに出来るはずがなかったのに。
血が滲みそうなほど唇を噛み締め、色鮮やかな花火が照らし出す夜道を、三蔵
はひたすらに走り続けた。
結局三蔵が花火見物の人波から大きく外れた街灯の下に座り込んでいる悟空を
みつけたのは、二人がはぐれてから一時間近くが経ってからのことだった。
「悟空…っ」
蹴躓きそうな勢いで悟空の元に駆け寄った三蔵が、膝をついて目線を合わせる。
必死になって三蔵を探している間に転んだのだろう。膝は擦り剥け、同時に挫
いたのか左の足首が腫れている。その手に握られていたリンゴ飴は既にない。
おそらく人波に揉まれているうちに落としてしまったのだろうと、三蔵は思っ
た。
三蔵の姿を捉えた金の瞳が大きく見開かれる。今にも泣き出しそうにクシャリ
と顔を歪めた悟空は、がむしゃらに三蔵の胸にしがみついた。
「…も…会えなかったら…どうしようかと、思っ…」
小刻みに震える唇から、消え入りそうな声音で落とされた呟き。三蔵は背中に
回した腕で悟空の身体を引き寄せ、力の限り抱きしめ返した。
頼りない細い肩。指先が白くなるほど懸命にシャツを握り締めてくる小さな手。
三蔵はこれ以上はないくらい、心底から己の浅はかさを悔いた。
まだまだ護ってやらなくてはならない小さな弟。
この弟を護れるのは、父を除けば兄である自分しかいないのに。
気持ちを落ち着かせるように背中を撫でながら、悟空の顔を上げさせる。淡く
滲んだ両目に浮かぶ雫を舌先で掬い取り、汗で前髪のはりついた額に唇を押し
当てる。
「ゴメンな。」
腕の中の小さな身体を抱きしめ直し、三蔵はぽつりと呟いた。一方の悟空は少
し驚いたような表情で、三蔵の顔を覗き込んだ。
「今のって…おまじない?何かさっきより、足が痛くなくなった気がする。」
つい先刻までの不安な表情とは打って変わって、屈託なく悟空が笑う。どうや
ら悟空は三蔵の一連の仕草を、怪我をした子供を母親が宥めるのに用いるまじ
ないのようなものと受け取ったらしい。悟空の反応に紫の瞳を僅かに開いた三
蔵は、「そうだな」と小さく笑った。
そして。
兄の背に揺られて華々しく打ち上がる花火を見上げながら、悟空は家路を辿っ
た。
二人が花火大会から戻っても結局まだ父は帰宅しておらず、三蔵は冷凍食品を
調理して軽く夕食を済ませ、悟空を風呂に入れた。入浴を終えた後は挫いて腫
れてしまった足首に湿布を貼り、丁寧に包帯を巻いていく。いつにないくらい
大切に扱われているのが妙にくすぐったくて、悟空は嬉しさと面映さが入り混
じったような顔で微笑ってみせた。
再び悟空を背負って二階の子供部屋へと向かい、そっとベッドに下ろす。
「もし夜中に痛くなったりしたら、俺でも父さんでもいいからちゃんと言うん
だぞ。」
穏やかな口調でそう告げてベッドから離れようとした三蔵へと、悟空が「お兄
ちゃ…」と呼びかける。
「どうした?」
腰を浮かせかけていた三蔵が、小首を傾げて悟空の顔を覗き込む。悟空は口許
までタオルケットを引き上げ、上目遣いに三蔵をみつめた。
「さっきのおまじない、もう一回して。」
はにかみがちの小さな囁きが、三蔵の耳に届く。三蔵は瞳を丸くした後、何処
か困ったような笑顔で静かに身を屈めた。
両の瞼に軽く触れてから、額に唇を落とす。悟空は満足げに笑い、「おやすみ
なさい」と告げて金の瞳を閉じた。
程なくして悟空が寝息を立て始めたのを確認した三蔵が、今度こそ立ち上がろ
うとすると。
「……」
三蔵が弱った様子で悟空の寝顔を見下ろす。いつの間にそうしていたのか、悟
空の小さな手は、しっかりと三蔵のシャツの裾を握り締めていた。
僅かに動揺の表情を見せていた三蔵が、フゥ…ッと短い溜め息を吐き出す。
その後三蔵はなるべく余計な振動を与えぬよう注意を払いながら、悟空のベッ
ドに自らも横になった。
(無理やり外そうとして起こすと却って面倒だからな。)
半ば自分に言い聞かせるように、三蔵は胸中でそんな呟きを漏らす。傍らで穏
やかな寝息を立てる悟空の横顔を見遣りながら、三蔵もまた静かに瞼を閉じた。
それは二人が初めて共に過ごした夏の、小さな小さな秘密の出来事───。
END.
《戯れ言》
夏ネタをどの二人でやろうかと色々考えていた挙句、結局この二人に落ち着き
ました(笑)話が過去に遡れば遡るほど、兄貴のおかしさ加減が最早どうにも
ならんトコまで行ってしまっている気がするのは、おそらく私の思い過ごしで
はないのでしょう…一緒に暮らし始めて半年経たずにこの状況ってどーなのよ
アンタ達(爆)
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