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『ボクの好きなセンセイ』 by Riko
「センセー!メシ、昼メシ食おーよ!」 ガラリと横引きの戸が開かれ、明るい声が高らかに響く。『先生』と呼ばれた 人物は椅子に腰掛けたまま振り返り、不機嫌丸出しの表情で口を開いた。 「ウルセーぞ!もちっと静かに入ってこいっていつも言ってんだろーが、学習 能力ってモンがねーのか、テメェはっ」 開口一番雷を落とされても当の本人は何処吹く風といった様子で、ニコニコと 満面の笑みで弁当箱を提げている。一方、怒鳴った方の人物はあきらめにも近 い溜め息を一つ吐き出し、手にしていた絵筆を置いて立ち上がった。 某高校の美術準備室にて繰り広げられる、いつもの光景であった。 「はい、こっち先生のな。今日はだし巻き卵と唐揚げとほうれん草のおひたし と…」 本日の献立を挙げながら、自分の物より一回り程小さな弁当箱を机の上に置く。 彼の名は孫悟空。現在この高校の三年生である。そして、大して興味もなさそ うな顔で弁当の包みを解いているもう一方の人物の名は玄奘三蔵。産休に入っ ている美術教諭の穴埋めでやってきた、代用教員である。しかし彼は美術教諭 というより寧ろアーティスティックな指向が強いらしく、担当している授業時 間以外の大半を、自らの創作活動に費やしている。 目にも眩い金の髪に、一度見たらまず忘れない端正な顔立ち。全校朝礼で紹介 されたその日から、三蔵は生徒はおろか若い女性教諭の間でも噂の的だった。 しかし当の本人は煩わしい人間関係そのものを好まないらしく、必要以外には ほとんど他人と接することもない。絵の具で汚れてもいいように少し大きめの 白衣を羽織り、この準備室でひたすらにキャンバスと向き合うことで、彼は毎 日を過ごしている。そんな偏屈ともいえる三蔵の元に、一体何が面白いという のか、悟空は毎日二人分の弁当を提げてやって来る。当初は自分一人の弁当を 持ってきていたのだが、どうにもこの三蔵という人物は、絵を描く以外のこと には全くの無頓着のようで、放っておくと何日も平気で栄養補助用のシリアル バーとミネラルウォーターだけなどという食事内容で済ませてしまうのだ。 見かねた悟空は「一人分も二人分も同じことだから」と言い、いつの頃からか 三蔵の分の弁当も用意してくるようになった。 高校に入ってまもなく両親を事故で亡くした悟空は、生活に関する様々なこと を全て一人でこなしている。だから当然、二人の弁当は彼の手作りである。三 蔵は特に料理の内容を誉めることも貶すこともなく、毎日淡々と渡される弁当 を口に運んでいる。悟空は別段それでも構わないらしく、絵の具の匂いのする 雑然とした部屋で共に弁当を囲み、ほとんど一方的にたあいのない日常の出来 事をしゃべり、三蔵が描いている絵を覗いて帰っていく。人嫌いの気のある三 蔵も、屈託なく伸びやかな気性の悟空に対しては、こうして昼休みの一時を共 に過ごすことを容認しているようだった。 そもそも悟空は絵画のことなど皆目わからないクチである。美術の授業を選択 したのも、ただ単位の調整の為だけのことだ。どうせ大学進学はしないのだか ら、聞いているだけの退屈な授業よりは自分の手を動かした方が楽しいだろう という、その程度の理由だった。そんな悟空だが、三蔵の絵は一目見た瞬間か ら「好きだ」と思った。何故そう思ったのかは自分でもよくわからない。理由 がわからないままに絵を覗きに来ているうちに、何だかちっとも先生らしくな い三蔵のことも好ましく思うようになり、現在に至っている。 「先生ってさ、先生のクセに全然職員室に行かないのな。」 唐揚げを頬張りながら不意にそんな疑問を口にした悟空に、三蔵は不機嫌も露 わに形の良い眉を寄せた。 「誰が好き好んであんなウゼェ場所に行くかよ…ったく、女共はやたらまとわ りついてきてうるせぇし、ウスラハゲの教頭は煙草ぐらいでゴチャゴチャつま んねぇこと言いやがるし」 心底嫌がっていることを隠そうともしない容赦ない三蔵の物言いがおかしくて、 悟空は思わずクスリと笑う。一足先に弁当を食べ終えた三蔵は空の弁当箱を元 通りに包み直し、ほとんど間を置かずに愛飲の煙草に火を点けた。なるほど、 確かにこのヘビースモーカーぶりでは教頭から小言の一つや二つあったのかも しれない。自分もきれいに弁当を平らげた悟空は、二つの弁当箱を提げてきた 袋へと仕舞い、チラリと三蔵を見上げた。 「毎回何も言わずに食ってるけどさぁ、先生ってば好き嫌いとかないの?もし 『コレが食いたい』って物があれば、次に入れるようにするけど…」 反応を窺うように切り出された悟空の提案に、三蔵は全く関心のない様子で深 く紫煙を吐き出した。 「別に。とりあえずは、辛うじてまともに食えてるからな…中味なんざ何だっ ていい。」 およそ感謝や労いといったところからはかけ離れた、ぶっきらぼうな言葉。し かしそんな三蔵の反応にもすっかり慣れているのか、悟空は気を悪くした風も なく「そっか」と笑った。 「じゃあ明日はシューマイにしようかな…カニシューマイ。それと…」 半ば独り言のように明日の献立を口にする悟空を横目で見遣り、三蔵は「好き にしろ」と素っ気無く返した。 あくる日の昼休み。四時限目の授業が押したお陰でいつもより教室を出るのが 遅くなってしまった悟空は、美術室へと続く廊下を小走りに進んでいた。曲が り角を曲がって目的地まであと少しというところで、悟空は向こう側から歩い てきた女生徒のグループに気付いた。三人並んで歩いている彼女らは、俯きが ちな真ん中の少女を両側の二人が慰めているといった様子だった。 「ほらもうそんなに落ち込まないでよ。特別嫌がられてるとか、そんなんじゃ ないって。」 「そうだよ。今まで玄奘先生に差し入れした子って他にもいっぱいいるらしい けど、受け取ってもらえた子、一人もいないんだって。だからそーゆーのは一 切受け取らない主義なんだよ、きっと。」 (あ…) 擦れ違った際に聞こえてきた会話から察するに、どうやら少女は三蔵に弁当を 差し入れしようとして拒否されたらしい。彼女は俯いたまま、友人達の言葉に 「うん…」と頷いていた。胸の前で抱えている、受け取ってもらえなかった愛 らしい模様の包みが、何故だか悟空をも切ない気持ちにさせた。 いつものように準備室の戸を開けると、既に絵筆を置いていた三蔵がこちらへ 視線を投げた。 「今日は遅かったな。」 「う、うん…現国の授業が延びちゃってさ…」 普段はうるさいくらい元気な彼らしくもない歯切れの悪い返答に、三蔵が訝し げに瞳を眇める。定位置に座った悟空は、いつもどおりに三蔵の前に弁当箱を 置いてからぎこちなく頭を下げた。 「あのさ…先生、ゴメンな。考えたら先生に弁当食べてほしい女の子なんて、 いっぱいいるに決まってんだよな。俺ってばホント、そーゆートコ鈍くて…」 「ハァ…?」 当然ながら先刻の女生徒達のやり取りなど知る由もない三蔵は、何故いきなり 悟空がこんな話を切り出したのかがわからない。悟空は顔を俯かせ、三蔵と視 線を合わせぬまま話を続けた。 「二人分作るのも一緒だから…なんて、押し付けがましかったよな。今日はさ、 もう作ってきちゃったから、このまま食ってよ。明日からは…もうヤメにする から。」 そうだ。これだけ熱い視線を一身に受けている三蔵のこと、差し入れをしたい と思っている女生徒が幾らでもいるであろうことなど、少し考えれば誰だって わかる。それを頼まれてもいない自分が、大して見栄えもしない弁当を毎日渡 していたなんて、とんだ親切の押し売りだ。 「オイ…」 一方的な結論を押し付けられて明らかに苛立っている三蔵が話し出そうとする 前に、悟空がパッと顔を上げた。 「もう結構時間過ぎちゃってるから、早く食おうよ。俺、腹減っちゃった。」 それまでの雰囲気を切り替えるように、悟空はいつもの笑顔に戻って包みを解 き始めた。 そこからは平素と何ら変わりのない時間が流れた。悟空は弁当を頬張りながら 今日起きた出来事を語り、三蔵はそれを聞いているのかいないのか、特に相槌 を打つこともなく目の前の弁当を食べていた。 昨日と同じく悟空より一足早く食べ終えた三蔵が、弁当箱を包み直しながら不 意にその口を開いた。 「…エビフライ」 「へ…?な、何が…?」 突然ぽつりと落とされた三蔵の呟きに、悟空が少し驚いたように反応する。席 を立った三蔵は戸棚から二つのマグカップを取り出し、インスタントコーヒー を入れた。 「何か食いたいモンがあれば言えって、昨日テメェの方から言ったんだろーが。 だから次はエビフライを入れてこいって言ってんだ。」 「えっ…で、でも…」 思いもしなかった三蔵の返答に、悟空が戸惑いの声を上げる。明日からはもう やめにすると決めたばかりなのに、どうして三蔵はこんなことを言い出したの だろう。席に戻った三蔵は、少々乱暴な動作で悟空の前にドンッとマグカップ を置いた。 「テメェが一体何を見聞きして一人で勝手に納得してんだか知らねぇけどな… 食いたくもない弁当をわざわざそいつとツラ突き合わせながら毎日延々と食い 続けるほど、俺はマゾでも偽善者でもねーよ。」 「先生…」 一息でそう言い切った三蔵は照れ臭くてバツが悪いのか、そっぽを向いてマグ カップに口をつけている。胸の中で三蔵の言葉を反芻していた悟空の表情が、 戸惑い気味のものからゆっくりとはにかむような笑顔に変わっていった。 「うん…じゃあ明日は、エビフライにするな?」 自分も三蔵が入れてくれたコーヒーに口をつけながら、悟空がコクリと頷く。 三蔵は相変わらずそっぽを向いたまま、咥え煙草に火を点けた。 「エビフライにはマヨネーズな。」 「えー、普通エビフライにはソースだろ?先生ってば、もしかしてマヨラー? 似合わねぇ~」 「ウルセーな。人がどんな食い方しようが勝手だろ。」 少々オーバーな悟空のリアクションに対して、三蔵はひどく心外そうに口をへ の字に曲げる。三蔵が垣間見せたあまりに意外な一面に、悟空はおかしくてた まらないといった様子で声を上げて笑った。 「わかった。エビフライにマヨネーズ、了解。」 明るい声で答えた悟空は、もうすっかりいつもどおりの彼だった。 その出来事をきっかけに、悟空は今までよりずっと三蔵のことを身近に感じら れるようになっていた。相変わらず三蔵の態度は素っ気無いものだったが、自 分のしていることを彼が押し付けや迷惑とは思っていないのだとわかっただけ で、悟空は充分満足していた。 そしてある日のこと。いつものように先に弁当を食べ終わって食後の一服を味 わっていた三蔵が、不意に悟空の方へと向き直りその口を開いた。 「オイお前…朝のHR、ほとんどまともに間に合ってねぇそうだな。」 唐突にそんな話題を振られ、悟空は食べかけのミートボールをグッと喉に詰ま らせる。慌ててコーヒーで胃へと流し込んだ悟空は、トントンと胸の辺りを叩 きながら半分涙目で三蔵を見上げた。 「な…何でそんなコト知ってんの!?」 「お前の担任が俺に話してきたんだよ…『先生の方からも言ってやってもらえ ませんか』ってな。まさかテメェ、弁当作ってるから間に合わねぇとか抜かす つもりじゃねぇだろうな?」 ジロリと音のしそうな視線を向けられ、悟空が思わず肩を竦める。数瞬の間、 何かを言いあぐねている様子だった悟空は、やがておずおずと釈明をし始めた。 「んと…弁当の準備はほとんど前の晩にしちゃうから、朝は大したことしてな いんだ。そうじゃなくて…何か一人だと、ボーっとしちゃう『間』みたいのが あって…ホラ、親がいた時は『そんなにのんびりで大丈夫なのか』とか『早く しなさい』とか急かされて、自然と『急がなきゃ』って気持ちになったけど… 今は、一人だから。ダラダラしてて家を出るのが遅れても、誰も俺を急かさな いし、誰も怒らない。だから何となくボーっとしちゃう時間が長くて…って、 もう二年も経つんだから、要するに俺がだらしないだけなんだけど。」 何処か困ったような顔で笑う金の瞳は、冗談めかした口調とは相反して淡い翳 を落としている。母親に「早くしなさい」と急かされ、文句を言い返しながら も「いってきます」と我が家を後にする、ごく当たり前の日常。特筆すべきこ ともない何気ない毎日というものがどれほど幸せな、かけがえのない時間だっ たのかは、失ってみて初めてわかることなのだ。 暫く無言のまま悟空をみつめていた三蔵は、短くなった煙草を灰皿で揉み消し 軽い溜め息を一つ吐いた。 「…ったく、しょーがねぇな…サルを躾るには、何かエサをチラつかせねぇと ダメか。」 「…!誰がサルなんだよっ」 如何にも「やれやれ」といった調子の三蔵の言葉に、悟空が子供のように食っ てかかる。そんな悟空の反応など歯牙にもかけない様子で、三蔵はゆっくりと コーヒーを飲んでから更に話を続けた。 「明日から今学期が終わるまで、お前が一度も遅刻しなかったら…休みの間に 旅行に行くってのはどうだ。」 至って自然な口調で語られた、全く予想だにしなかった三蔵の提案に、丸い金 の瞳が大きく開く。 「旅行って…先生と、俺で…?」 「他の誰が行くんだよ。言っとくが、旅行っつってもあくまでスケッチや資料 集めが主な目的だからな。お前が想像してるような騒々しい観光スポットなん てトコには行かねーぞ。」 「いい…それでもいいっ…明日から絶対、遅刻しねぇからっ」 さして面白くもなさそうな表情で淡々と説明をする三蔵に、パッと顔を輝かせ た悟空は何度も繰り返し頷いてみせた。 「フーン…まぁ俺は、お前が早めにリタイアした方が楽だけどな。」 「自分から言い出しといて何だよそれっ…フツーこういう時って先生だったら 『最後まで頑張れよ』とか励ますじゃんっ」 「バーカ、何の義理があって俺がお前の応援なんかしなきゃなんねぇんだよ。 寝言を言うな」 『教師と生徒の心温まる会話』などというものからはほど遠い言葉の応酬をし ながらも、二人の間に流れる空気は何処となく柔らかい。昼休みの終わりを告 げるチャイムが鳴り、教室に戻りかけた悟空は不意に三蔵を振り返り、少し面 映そうに笑って「ぜってー頑張るから」と力強く言い切ったのだった。 次の日からの悟空は宣言どおり、きちんと遅刻をせずに登校するようになった。 元々朝が苦手なわけでもなく、準備に手間取っていたわけでもない。要は背中 を押してくれるきっかけを見失っていただけのことなので、明確な目的さえあ ればさほど困難なことでもなかったのである。 それから悟空は順調に日々を重ね、無事終業式の日を迎えることとなった。 「センセー!やったよ、俺ちゃんと約束守ったよー!」 この日は終業式のみなので、勿論美術の授業はないし、昼休みもない。しかし 悟空はHRが終わってから真っ先に美術準備室へと走ってきた。終業式と言っ ても平素と全くペースを変えることのない三蔵は、咥え煙草のまま悟空を振り 返り、大した感慨もない様子で「フーン」とだけ返事をしてみせた。 「何だよ、その気のない返事~…まさかあの話、『そんなこと言ったか?』と かバックレる気じゃないだろうな~?」 せっかく一念発起して頑張ったにも拘らず、三蔵の反応があまりに薄いことに、 悟空が未だあどけない丸いを残す頬をプゥ…ッと膨らませる。如何にも小馬鹿 にしきった表情で悟空を見下ろしながら、三蔵は緩く紫煙を吐き出した。 「阿呆、誰がそんなイカサマみてぇな真似するかよ。面倒だろうが約束は約束 だ…後で細かいこと連絡するから、テメェの携帯の番号教えろ。」 「え?う、うん…」 これから一緒に旅行に行こうというのだから、お互いの携帯の番号を教え合う くらいはごく自然な流れなのだが、それを三蔵の方から言い出したのが何だか 意外で、悟空は軽い驚きを覚えつつカバンから携帯を取り出した。教え合った 番号を各々登録する。『玄奘三蔵』と入力する悟空の口許に、小さな笑みが浮 かんだ。同僚の教員はともかくとして、生徒の中で三蔵から携帯の番号を教え てもらったのは、学園広しといえどもおそらく自分一人だけだ。他者への優越 感というのではなく、必要以上に他人に踏み込まれることを嫌う三蔵がプライ ベートな部分を自分に明かしてくれたということそのものが、悟空の胸に淡い 灯を点していた。 「何画面見てヘラヘラしてんだよ」 不審げな声でツッコミを入れられ、悟空は「な、何でもないっ」と慌てて首を 振り、ヘヘッと笑って誤魔化した。 「じゃあ絶対連絡くれよな?待ってるから。」 「あぁ。お前の方こそ、ちゃんと準備しとけよ。四、五日かかると思うから、 そのつもりでな。」 念を押すように下から顔を覗き込んできた悟空に、三蔵が素っ気無く言葉を返 す。悟空は満面の笑顔で「うん!」と大きく頷いた。 翌日の早朝。悟空が指定された駅に向かうと、既に三蔵は待ち合わせ場所で壁 にもたれて立っていた。悟空は小走りで三蔵の元へ駆け寄り、ペコリと小さく 頭を下げた。 「おはよう先生。ゴメン、結構待たせちゃった?」 「いや…たまたま早めに着いただけだ。ほら、お前の分の切符だ。」 軽く首を振った三蔵が、ポケットから出した切符を悟空に差し出す。悟空は切 符を受け取りながら、バッグから財布を取り出した。 「ありがと…えっと、幾ら払えばいいのかな?」 そう言って財布を開こうとした悟空を、三蔵の手が制する。訝しげに目線を上 げた悟空の瞳には、憮然とした表情の三蔵が映った。 「テメェには俺が生徒と勘定をワリカンにするほどセコイ男に見えてんのか」 「ち、違うって、でも…」 三蔵が言わんとしていることは理解できるが、この場合ちょっと食事を奢って もらうというのとはわけが違う。どんなにお気楽な気性の悟空でも「悪ィな、 サンキュー」と笑って済ませられるはずがない。困りきった表情で財布を握っ ている悟空を見下ろしながら、三蔵は「それに」と言葉を繋げた。 「お前に金払わしたら褒美になんねーだろ。とりあえず今は仕舞っとけ。但し、 お前が暇つぶしに雑誌買ったりダラダラ菓子食ったりするのまでは面倒見きれ ねぇからな。そういう金はテメェで出せよ?」 どうしたらいいのか戸惑っている悟空に対して、三蔵は敢えてそんなライン決 めをしてみせた。つまり裏を返せば、小遣い的な金銭については自分で負担す る代わりに、その他の基本的な出費については三蔵に任せろと言っているので ある。悟空が下手な気後れをすることのないようにとの、三蔵なりの配慮だっ た。それでも暫し逡巡の表情を見せていた悟空だったが、やがてコクリと頷き 「ありがとう…」と答えた。 改札を抜けて駅構内に入った二人は、切符に印字された車両番号を確かめなが らホームを歩いていた。悟空は隣りを歩く三蔵を見上げ、「でもちょっと意外 だった」と笑った。 「何がだ」 「俺さぁ、先生は絶対車だと思ってた。だって列車の中って禁煙じゃん?」 「バーカ、テメェは俺が授業中にどうしてたと思ってんだ。目的があって時間 が決まってりゃ、その間くらいは耐えられるんだよ。」 半ば呆れ気味の声で答えた三蔵はその後、スケッチ旅行の時にはなるべく余計 なことはしたくないのだと説明した。一々ナビで確認しながら慣れぬ道を運転 したり、思わぬ渋滞に巻き込まれて苛々したりといったことで神経を摩耗する ことは避けたいということなのだろう。こんなところからも彼の絵に対する真 摯な姿勢を垣間見られた気がして、悟空は「そっか」と頷いた。 車両に乗り込み指定された席に座って程なく発車を告げるアナウンスが響き、 列車がホームから滑り出す。 列車は、北へ向かっていた───。 これまで旅行といえば父親が運転するマイカーでの家族旅行と修学旅行ぐらい しか行ったことのない悟空にとって、今回の三蔵との旅は初めてのことばかり だった。 有名な観光名所に行くわけでもなく、土産物屋を冷やかすこともない。ローカ ル線の鈍行列車に揺られ、気が向けば名前も知らないような無人駅でフラリと 降りたりする。そこで三蔵は己の気が済むまでスケッチや写真撮影をし、悟空 は特に何をするでもなくその様を眺めたり、退屈になれば辺りを散策したり、 近くの木に凭れかかって昼寝をしたりする。悟空には絵の善し悪しというもの はわからない。しかし三蔵の絵を見るようになってから、絵にはそれを描いた 人の人柄のようなものが表れるものなのだなと感じるようになった。一見シン プルで素っ気無い印象を受ける三蔵のタッチは、しかし何処となく柔らかで暖 かい。それは彼が時折り見せる、ぶっきらぼうな優しさと重なるところがあっ た。 豪華な露天風呂もそこに行った証拠のような記念写真もない旅は、それでも悟 空を幸せにしていた。 そんな二人の旅も終わりとなる日。いつもはほとんど行き当たりばったりで行 き先を決めている感じのある三蔵だが、今日ばかりは明らかな目的地があって そこを目指しているようだった。 連れられるままに列車に乗り、とある駅で降り、結構な距離を歩いた後に悟空 が目にしたものは─── 「…う…わぁ…」 思わずそんな声が、小さな唇から漏れる。 そこは山の中にある、小さな湖。豊かに生い茂る周囲の木々の隙間から届く陽 射しが、澄んだ水面の上でキラキラと弾ける。眩いほどの、それは正に『光溢 れる風景』だった。 「俺…この景色、知ってる…」 ほとんど無意識に零れ落ちた悟空の呟きに、三蔵が意外そうな表情を見せた。 「此処に来たことがあるのか?」 「ううん、そうじゃなくて…前に何処かで…」 自らの記憶を辿るように細められた金の瞳が、「あっ」という声と共に見開か れた。 「思い出した、あの絵だ…」 「あの絵…?」 訝しげに問いかける三蔵に、悟空は輝く水面に目を向けたまま頷いた。 「俺が一年の時に親が死んだっていうのは話したよね。今は俺、親類に保証人 になってもらってアパートで一人暮らししてるんだけど…その直後は家の処分 とか色々あって、一月くらい公共の施設にいたことがあったんだ。そこに飾っ てあった絵に描かれてたのが…確かこんな景色だった。凄くキレイで、あった かい感じがして…突然親がいなくなったショックとか、この先どうしたらいい んだろうって心配とか…そういう不安な気持ちを和ませてくれた、不思議な絵 だった…」 ぽつぽつと想い出を語りながら、悟空は何故絵のことなどちっともわからない 自分が三蔵の絵に特別な思い入れを持ったのかがわかった。三蔵の絵から感じ る暖かさは、不安に苛まれる自分の心に安らぎを与えてくれた、あの絵から感 じたものにとてもよく似ていたのだ。 「…此処は十年ほど昔、義父と最後に来た場所なんだ。」 湖へ穏やかな眼差しを向ける悟空の横顔をみつめていた三蔵が、今度は自らの 想い出を語った。 「先生…?」 三蔵からの突然の一言に、悟空が驚きの表情で振り返る。悟空を見下ろしてい る紫の瞳は、深く静かな色を宿していた。 「俺は自分の親を知らない。赤ん坊だった俺を引き取って育ててくれた義父は、 俺が十三の時に事故で亡くなった…此処へはその年の夏休みに立ち寄ったんだ。 それが義父と二人でゆっくり過ごせた、最後の時間になった…。」 暫し二人は言葉も無く、ただ互いの瞳を重ね合わせていた。どれほどの時間が 過ぎてからか、悟空の口許に緩やかな笑みが刻まれた。 「そしたらここは…先生とお義父さんの、大事な大事な想い出の場所なんだな。 そんな大切な場所に連れて来てくれて…ありがとう。」 平素の賑やかな彼からは想像もできないゆったりと柔らかな声が、精一杯の真 心を込めた感謝の言葉を紡ぐ。三蔵の指先が、未だ丸みを残す頬を包み込む。 端正な作りの顔がゆっくりと近付き…悟空はそっと両の瞼を閉じた。 先生と生徒だからイケナイとか、男同士なのにオカシイとか、そんなことは微 塵も考えなかった。そんなことを意識する必要がないくらい、ひどく自然に交 わされたキスだった。 フワリと触れ合うだけのキスが終わり、唇が離れる。再び瞳を合わせた二人は 躊躇いも気まずさもなく、ただ微笑い合った。 その後元来た道を戻って駅に着いた二人は、長距離列車の通る駅へと向かい、 行きに使ったのと同じ特急列車に乗った。 こうして、五日間に渡る二人の旅は終わりを告げたのだった───。 旅行から戻ってからは、特に二人で会うこともなかった。悟空は悟空でバイト に精を出していたし、普段の授業の合間にさえ、ああして寸暇を惜しんで絵を 描くことに没頭している三蔵である。丸々自分の自由に出来る休暇とあれば、 それこそつぎこめる時間のありったけを使いたいに違いない。そう思うと悟空 は気軽に連絡することが出来なかった。 その代わり日に1~2回程度、ごく短いメールを送った。内容といえばどうと いうこともない『元気?』とか『ちゃんとメシ食った?』とか、精々その程度 のことである。それでも三蔵は悟空がメールを送れば、たった一言の素っ気無 いものながらも必ず返事を寄越した。 頭のほんの片隅であっても、相手が自分のことを気にかけている瞬間がある。 とてもささやかな二人の交流だったが、それでも悟空の心を浮き立たせるには 充分だった。 そんなことを日々繰り返しているうちに休みは終わりに近付き、二人は新学期 を迎えようとしていた───。 そして始業式の日。校長の面白くもない話が続く中、何ともつまらなさそうな 顔で渋々教員の列に立っている三蔵の姿をみつけ、悟空はこっそり笑っていた。 そんな中、後方から雑談をしている女生徒の声が悟空の耳に届いた。 「玄奘先生さぁ、学校来るの来週いっぱいなんでしょう?」 「あ、そうだよねー。美術の先生の産休も終わりだもんね。じゃあこうやって 顔見られるのもあとちょっとかぁ…ざんね~ん。」 「何かさぁ、ココやめたらニューヨーク行くとかって噂だよね。カッコイイよ ねぇ~。」 (…えっ…?) 思わぬ会話の内容に、悟空の表情が張り付いたようにピタリと固まる。頭の中 ではたった今聞いたやり取りが、繰り返し廻っていた。 確かに冷静に思い返してみればそうだ。元々産休の間の代用教諭なのだから、 その期限が過ぎれば三蔵がこの学校を去るのは当たり前の話で。そんな当然の ことが悟空の頭からはすっかり抜け落ちていて、二人で過ごすあの昼休みが、 この先もずっと続くつもりでいた。それだけならまだしも、 (…ニューヨーク…?) 三蔵がこの学校をやめたとしても、携帯の番号を知っているのだし、同じ地域 に住んでいるなら会おうと思えばいつでも会える。しかしその噂が本当なら、 もう二度と会うことも出来ない。 いつもどおりの無愛想な三蔵の横顔を目で追いながら、悟空の気持ちは千々に 乱れていた。 新学期が本格的に始まり弁当を持つようになっても、悟空が休みを挟む以前の ように美術準備室へと足を運ぶことはなかった。 三蔵には会いたい。会って話がしたい。しかし三蔵の口から決定的な事実を告 げられるのは怖くて、ロクに顔を合わせることもないまま日々は過ぎていった。 そして───三蔵が学校を去る、最後の日。悟空の携帯に『放課後、美術準備 室で。』との三蔵からのメールが届いた。 毎回遠慮なしに騒々しく開けていた引き戸に、躊躇いがちに手を伸ばす。様子 を窺うようにそろそろと戸を開けた悟空の口から「あ…」という声が漏れる。 久しぶりに訪れた美術準備室には既にあの雑然とした雰囲気はなく、すっかり きれいに片付けられていた。それらのことが、三蔵がもう来週からはこの場所 にいないのだと如実に表しているようで、悟空の金の瞳に淡い翳が落ちた。 「何か…少し見ないうちにキレイになっちゃったね。先生があっちこっち色ん な物を置いてたのを見慣れてるから、片付き過ぎてて落ち着かない感じ。」 ぽつぽつと言葉を繋ぎながら、それでも悟空は薄く微笑った。 「私物を全部持ち帰ったからな。」 相変わらず咥え煙草を吹かしながら、三蔵が淡々と言葉を返す。「フーン」と 相槌を打った悟空は三蔵から微妙に視線を外し、意を決したように口を開いた。 「先生…ニューヨーク行くって、ホント…?」 なるべく不自然な感じにならぬよう、努めて平静を装った悟空の問いかけに、 三蔵は至極あっさりと「あぁ」と答えた。 「元々ココに来たのは、色んな段取りが決まるまでの繋ぎみたいなモンだった んだ。産休の代用なら期間は限られてるし、大学でたまたま教職課程を取って たしな。」 特別な感慨も見られない三蔵の説明に「そっか」と答えた悟空の唇は、微かに 震えていた。 『学校からいなくなる』どころの話ではない。もう幾らも経たないうちに目の 前の人は『日本からいなくなる』のだ。そうなればもうきっと会えることはな く、海外での新しい生活の中では、こんなちっぽけな出会いのことなどいつか は記憶の片隅からも消えてしまうだろう。 「…ところで先生、俺に何か用事あったんじゃないの?」 心中の動揺を押し隠して、何気ない口調で悟空が尋ねる。いつの間にか煙草を 消していた三蔵が、少し大きめの紙袋を手にして悟空の前へと歩み寄った。 「お前がこの間話してた絵ってのは、これのことか?」 三蔵が紙袋の中から取り出してみせた物を目にした途端、悟空が「あっ」と息 を呑んだ。 「何で…先生が持ってんの?」 丸い金の瞳が大きく開かれる。それは間違いなく、悟空が施設にいた時に見た あの絵だった。 「これは俺が描いた物だ。」 悟空が驚きの表情のまま、三蔵へと視線を移す。三蔵の表情は至って静かだっ た。 「義父が亡くなった後…その頃仕事の拠点を海外に持っていたババァが引き取 りに来るまで、俺も三月程あの施設にいたんだよ…これはその時に描いたんだ。 十年も前のことだからすっかり忘れてたんだが、お前の話を聞いて思い出して、 休みの間に取りに行ってきた。」 人智を越えているとしか言い様のない巡り合わせに更なる驚愕を覚えるのと同 時に、悟空はようやく全てを納得していた。自分と同じく愛する家族を失った 時に、暖かな想い出を辿りながら三蔵が描いた絵。だからこそあれほど心を打 たれ、その感動が普段は自分でも意識することのない、胸の奥底にずっと残っ ていたからこそ、再び三蔵の絵に心惹かれたのだ。 「先生…この絵、俺にくれないかな。絶対大事にするから。」 神妙な表情で頼み込む悟空に対し、三蔵の反応は実に素っ気無いものだった。 「フザケんな。何で出て行く俺がお前に餞別をやらなきゃなんねぇんだよ」 けんもほろろに断られて、悟空がシュン…と肩を落とす。しかしその後に続い た三蔵の言葉は、全く予想の範疇を越えたものだった。 「そんなに欲しけりゃ、テメェの方から来い。」 俯き状態だった悟空が、徐に顔を上げる。 「先生…?」 「担任から聞いたが、お前まだ就職決まってねぇんだろ。」 経済的事情もあり、悟空は就職希望である。とは言っても何しろこのご時世、 幾つか面接を受けたりはしたものの、未だ就職口は決まっていなかった。 「だったら…やりたいことを探すのは、俺の横でも出来るだろ。」 どうということもないように告げられたとんでもない一言に、悟空は返す言葉 もみつけられず三蔵を見上げるより他ない。三蔵は愛想のカケラもない不機嫌 そうな表情のまま、ほとんど不意打ちで目の前の小柄な身体を腕の中に抱き込 んだ。 「せっ…」 「想い出の記念とかいう寝言をほざく気だったんだろうが、冗談じゃねーぞ。 『高校時代の想い出の1ページ』なんて、そんな薄っぺらなモンに成り下がっ てたまるかよ。」 頬に手を当て、悟空に顔を上げるよう促す。戸惑いがちに顔を上げた悟空の額 に、三蔵はそっと唇を押し当てた。 「卒業したら飛んで来い…お前の居所くらい、空けといてやる。」 「先生…」 「いい加減『先生』は勘弁しろ。もう『先生と生徒』じゃねぇんだから。」 同意を求めるように深い紫の瞳に覗き込まれ、悟空は項まで真っ赤になってコ クリと頷く。三蔵は口許に微かな笑みを刻み、ほの赤く染まった耳朶に唇を寄 せた。 「悟空…」 吐息混じりの囁きに、薄い肩がピクリと震える。暫しの間を置いて、悟空は少 しはにかみがちな声で「名前呼んでもらったの初めてだ…」と呟いた。 「そうだったか?」 「そうだよ、いつも『オイ』とか『テメェ』とか『サル』とかそんなんばっか でさ…」 拗ねた子供のような物言いと共に、緩やかなラインの頬がプゥ…ッと膨らむ。 三蔵は何処か面白がっているような苦笑いを浮かべ、軽く肩を竦めてみせた。 「名前なんざ、これから飽きるほど呼んでやるよ…」 淡い潤みを含んだ金の瞳を再び覗き込み、三蔵は小さな唇に甘いキスを送る。 『大好きな先生』は、今この瞬間から『大好きな恋人』に変わった───…。 HAPPY・END. 《戯れ言》 いやー、照れ臭い照れ臭い(苦笑)読んでいる方も相当こそばゆかったことで しょう…そんなワケで『先生と生徒モノ』でした。 何故に三蔵が美術の先生という「いや、ありえねぇだろソレ」な設定になって いるかと申しますと(笑)タイトルの時点でわかる方はわかったと思いますが、 今回の話の大元のイメージとなっているのがRCサクセションの懐かしの名曲 『僕の好きな先生』だったからです。全然先生らしくない『先生』と『僕』の 心の交流がシンプルな言葉で綴られた、大好きな一曲です…。 相当前のことなので書いたご本人も覚えておられないかもしれませんが(汗) 今回の話は以前アンケートの際に「先生と生徒モノ」のリクエストを下さった takatsukaさまに奉げさせて頂きます。どうもありがとうございましたv |
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