恋の仕方を教えて * 21

 部活動のない木曜日、夕方四時半ごろから始めて一時間と少し。それが悟志と過ごすいつもの時間帯だ。通学用鞄だけを持って、制服のままで彼は来る。
「今日は寒いね、タカちゃん」
 この日も悟志は普段通りの時間に来た。寒がりの彼にとっては近ごろの気温は辛くて堪らないらしく、まだ十一月も終わらないというのに薄手のコートを着込んでいる。
 笑顔の彼に対し、貴幸の心境は複雑だった。
「……ああ」
 何日か前に、お前の友達から成績のことを聞いたぞ。あれは本当なのか――聞けるものなら聞いてしまいたかったが、裏が無さそうに笑う悟志を見ていると疑うようなことは言えなかった。
「こんにちは」
 いつも通りに貴幸の母に挨拶し、いつも通りに部屋へ入り、そしていつも通りに今日も勉強が始まる。
「えっと、タカちゃん。数学の宿題で聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
 『いつも通りに』悟志からの質問もついて。
 くすぶるような、ざわつくような不安定な揺らぎが貴幸の内に沸き起こった。悟志のこの素直な、思ったままを口にしているような姿に、何か隠していることがあるのだろうか。
(分からない……)
 無防備に信じるには、二年の歳月は大きすぎたのかもしれない。昔とは違う。大きくなった悟志の背丈とか、ふとしたときに見せる大人びた眼差しとか、自分の純粋さとか。悟志の本当のところがどうなのか、分からなかった。
 貴幸はシャープペンシルを握る手に力を込めた。
「どれだ? 見せてみ」
 時間は静かに過ぎていく。いつものように。

 ――すっかり、日が落ちるのが早くなったものである。時間が経つうちに窓から差し込む光は弱くなり、空は翳り、カーテンから覗く景色は色を落としていた。
「で、僕はそのとき会計係だったんだけど……」
 悟志は勉強する手を動かしたり、休めたりしながら雑談をしていた。既に宿題は終わったようで、テスト対策に例題をやり返している。
 彼の同級生が言っていたことが気になって、今日、貴幸はいつもよりも悟志の手元をよく見ていた。けれど結果としては、分からなかった。悟志が頭がいいというのが、本当なのかどうなのか。話して、解いて、時に思い出したように質問をして。言われてみればスラスラと解いているようにも見えたけれど、何せ事前情報があるのだ。ただの先入観によるものなのかもしれない。それにあまりじっくり見てばかりいるわけにもいかなかった。
(本当はどうなんだろう。俺も……知ってどうしたいんだ)
 複雑な気持ちになりながら時計に目を向ける。既に一時間少々が経過していた。
「悟志、そろそろいい時間だぞ」
「あ、……もう?」
 悟志は残念そうに言った。
「ああ。外も暗いし、気を付けて帰れよ」
「うん」
 名残惜しそうながらも悟志も区切りの良いところでノートを閉じ、机の上を片づけ始める。
「…………」
 時間が来たことを貴幸が告げて、去り難いように悟志が帰る準備をする。この流れももはや、慣れたものだった。
 そして。
「タカちゃん」
 悟志がそう名を呼んで、貴幸に手を伸ばしてくることも、これで三度めだ。このままずるずると続けていけば、慣れたものになっていくのかもしれない――が。
 貴幸は手で悟志の体を制した。押し返すように、軽く力を込めて胸元を押す。
「駄目だ」
 冷静な声での拒否だった。感情的に、駄目だ止めろと言うことはあっても、こうして静かに拒絶をするのは初めてのことだ。
 今までとどこかが違う、確かな意志を感じさせる貴幸の声に悟志はきょとんとした顔をした。そして、逡巡したあとで軽く苦笑する。貴幸の硬い雰囲気を解そうとでもするかのように。
「何で?」
「……何でもなにも、無いだろ。やっぱりいくら考えてもおかしい。こんなのは」
 ようやく告げられた言葉だった。言わなくてはと思いつつずっと口から出なかった言葉。やっと出てきたそれは意図以上に冷たい響きを伴って伝っていった。
「おかしい? ただの『練習』だよ、おかしいなんてことないよ」
 まるで、貴幸が今言ったようなことなど取るに足らないとでも言いたげな、笑い飛ばそうとでもするような口調だった。だがその端にはやはり困惑が滲んでいる。これまでこんな風につれなくされたことなどなかったのに何故、というように。
 貴幸は硬い表情で首を振った。
「おかしいよ。……とにかく『練習』だろうが何だろうが、こういうことにはもう付き合えない」
「でもさ、こんなのそこまで」
「――彼女ができたんだ」
 悟志の言葉を遮り、彼に聞こえるようはっきりと貴幸は言った。
 手を伸ばそうとしてきた悟志の動きが、ぴたりと止まる。
「え?」
 感情の篭もらない声を悟志は洩らした。
 貴幸はぎゅっと手を握り、言いづらさを感じながらも言葉を続けた。悟志が口を挟む隙すらないように早口で、それでもしっかりと。
「この前……告白されて。それで、付き合うことになったから。だからもう、練習でもこういうことはできないよ」
 言いながら貴幸はこの前のことを思い出していた。この前――加奈子から呼び出された、あの日のことを。
 俯く加奈子は緊張で体が強ばっているように見えた。顔を上げると黒目がちな瞳は揺れながらも真っ直ぐ貴幸を見ていて、小さな唇は控えめに開き、貴幸を人のいない方へ誘った。
 貴幸はあまり聡い方ではない。けれども、緊張したような照れたような面もちでそんな態度を取られれば、さすがに分かってしまった。
「そ、……」
 悟志はぎこちなく笑顔を作り、引きつるような声を出した。
「そうなんだ、おめでとう。……いつから? どんな人なのかな……」
「……クラスの奴だよ」
 それだけを言う。悟志の瞳は笑ってはおらず、いま向けられた質問は悟志が自分自身を落ち着かせるためのものだということが、尋ねられた貴幸にも分かった。
 好きですと、加奈子は声を裏返らせながら貴幸に言った。両手を自分の足の前で組ませ、がちがちになりながら。一体いつから、最近かと聞くと加奈子は首を振り、恥ずかしそうに口にした。一年生の頃からです、だから今年同じクラスになって嬉しかった。最近は話せるようになって、もっと嬉しかった……んです、と。
 同級生である彼女は当然ながらいつも貴幸に敬語なんて使わない。なのにあの時の加奈子はかちこちとしながら丁寧な言葉遣いをしていて、その口調が不器用さと緊張と、そして貴幸への思いの強さを表していた。
 冷えた風が木々の間を通り抜け、二人を撫でていく。加奈子の少し長い髪が軽やかに浮き上がり、彼女の顔に掛かる。あ、と小さく呟いて加奈子はその髪を手で引き、慌てて髪型を整えた。そこへもう一度、今よりは小さな風。足下に落ちた葉たちが擦れ合う音を立てて転がっていき、加奈子の後ろ髪が首へ、服と掛かっていく。加奈子が手早く髪をいじる。ここには今、貴幸と加奈子しかいないのに。髪は気にするほど乱れていなかったし、仮に髪型が崩れていたとしても、それを見るのは貴幸しかいないというのに。それでも彼女はばらついた髪を貴幸には見られたくないと、綺麗に整えたのである。
 直した髪の先端に緩く触れながら加奈子は貴幸を見た。鏡がない上に一瞬の時間しか無かった状況ゆえに、彼女の髪はまだ少し、乱れていた。細く柔らかな漆黒が、四本五本とまとまらずにばらけている。その様子は貴幸に、素直に可愛いと思わせた。
 それから加奈子は、躊躇いながら言った。もしも良かったら、付き合ってください、と。
「クラスの人……、そ、そうなんだ」
 悟志は幾ばくかの衝撃を受けているようだった。これでもう、今までのようには『練習』ができないからだろうか。
 ふと、彼の口から笑みが消える。小さく息を吸って悟志は、
「それでも勉強だけなら、今後も教えてくれるよね……?」
 と不安そうに尋ねてきた。
「…………」
 何も言うことができない。加奈子のことと勉強を見てやることは、全く別の話だ。だから性的な練習を断ることと勉強を教えることに関係性はなく、ああ、今後も教えてやるよと言ってやれば済むだけの話だった。
 だが彼の同級生から聞いた話が心に引っかかってならない。
 悟志は本当は成績がいい、それが本当なのだとしたら、なぜ悟志はここに来ているのだろう? そしてなぜ、嘘をついているのだろう……?
 そのことが頭を侵して、言葉がまとまろうとしてくれない。貴幸は無意識のうちに悟志から視線を逸らしていた。
「タカちゃん?」
 呼びかける悟志の声には焦りと悲しみと、そしてほんの僅かな苛立ちが混じっているかのように感じられた。
「何で答えてくれないの?」
「それは」
 貴幸は口を開いたけれど、またすぐに言葉に詰まってしまった。どう言えば良いのだろうか。目の前で今、悟志は傷ついたような不安がるような目をして貴幸が何か言うのを待っている。その彼に、お前は嘘をついているのではないかと尋ねるのは、この場においては拒絶に近い意味合いを示すように思えた。
「タカちゃんは僕と距離を置きたいの?」
 煮え切らぬ態度の貴幸に、悟志の方が痺れを切らす。
「え?」
「か、……彼女――ができたから、そう言ってまた、離れていくつもりなの?」
「悟志……?」
 予想もしない内容だった。貴幸が言っているのはただ、あんな性的なことなど止めようということだけで、離れたいだとかそんな意味合いのことなど一言も口にしてはいない。二年前に一方的に距離を置いてしまったあの日を深く悔いている貴幸に、そんなことを言えるはずもない。
「僕はあんなのは、もう嫌だ」
 悟志は語調強く言う。その声音にはもう、先ほどのような不安は滲んでいなかった。ただ瞳に確かな意志を宿し貴幸を見る。
「……悟志」
 貴幸の前で悟志はいつだって優しい表情を浮かべていて、口調だって年不相応に感じるまでだった。その彼からこうして強い視線を、糾弾とも表せる言葉を受けるのは初めてのことだ。貴幸は戸惑い、狼狽えた。
「違う、悟志、俺が言いたいのはただ」
「――今日はもう、帰る」
 とても黙っていられないという風に首を振り、悟志は荒々しく鞄を手に取ると部屋の扉を開いて足早に出ていった。一度もこちらを振り返りもせず。
「さと……」
 タンタンタン、と階段を駆け下りる音が聞こえてきてはもう、貴幸の呼びかけも伸ばした手にも意味がない。やり場なく貴幸は手を下げ、胸に空洞ができたような心地のまま、ベッドにどさりと座り込んだ。
 今の短いやり取りのことが、まるで夢のようにも思える。そのぐらいに悟志が見せた最後の表情は嘘みたいだった。睨み付けるようなあんな視線、向けられたことがなかった。
 今、悟志が受けていたらしい衝撃の、あの強さの理由が分からない。どうしてだか悟志は途中からかなり動揺していた。彼は、口調の幼さやあどけなさに反し精神面においてはむしろ大人びており、思い込みから怒りを見せるようなタイプではない。まして相手の言葉を遮り立ち去るなどということも、決してしない奴だった。なのに今は貴幸の言葉を聞かず、むしろ聞きたくないというように立ち去ってしまったのだ。
(……良かったのか? これで……)
 今頃になって動悸がした。心臓を内側から破ろうとするような、感情をかき乱そうとするような激しい鼓動が体いっぱいに広がっていく。
 もう、ああいうことはできない。それはずっと伝えたかった内容で、同時に伝えなければならぬことでもあった。恋人ができたからもうできない――。理由として、おかしいものではないはずだ。誤ったことを言ったとは思えない。
 だけどどうしてだろう。貴幸はなぜか、自分が今、彼を傷つけてしまったように思えてならないのだった。

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