恋の仕方を教えて * 15

 深呼吸してからノックをし、職員室の扉を開ける。室内にはまだ数人の教師が残っていた。彼らは驚いたように貴幸に目を向けている。
 どうやら、既に何があったか伝わっているようである。
「あの、悟志……。二年の相田悟志、どこにいますか」
 とりあえず一番近くにいた男性教諭に声を掛ける。彼は仕事の手を止めて気の毒そうに言った。
「保健室だよ。双方の話も聞いたから、今日は取りあえず帰すことにしたらしい」
「そう、ですか……」
 話が終わってから保健室ということは、治療をしないまま話していたのだろうか――などと貴幸が思っている間に、教師は言葉を続けた。
「まだ詳しい話は聞いていないが、相田のことだ。よほどのことがあったんだろうが……状況が悪いな」
「状況?」
「ああ。どんな事情があっても、四人も気絶させるほど殴った、となると…………相当厳しいことになると思う」
「……そんな」
 気絶させた、ってそれは、そうしなきゃ貴幸たちがやられていたからである。
 教師もそれを分かっているからか、苦い顔をして腕を組み、椅子に深く腰掛けている。
「……失礼しました!」
 居ても立ってもいられず、貴幸は早足で職員室を後にし、全速力で廊下を走った。
 走るのなんて慣れているのに息が上がる。きっと、心の中が不安でいっぱいだからだ。
 保健室に入るまでに、息が詰まって死んでしまうかと思った。
「悟志!」
 挨拶も忘れて貴幸は飛び込んだ。
「あ、タカちゃん!」
 扉を開けてすぐのソファで、悟志は治療を受けていた。頬に赤タンを塗ったガーゼを当てられているところだ。
 泣いてるんじゃないかなんて思ったのに、意外に悟志はあっけらかんとしている。
「み、三村くん……」
 むしろ養護教諭の女性の方が、貴幸の登場にずっと驚いていた。
「悟志……ここにいるって聞いて、それで……」
 はあ、はあと肩で息をしながら貴幸は悟志の姿に目を奪われていた。
 ――痛々しい。
 顔にはいくつもの絆創膏やガーゼが貼られ、手には包帯。首元にも切れた跡が見える。
「来てくれたんだ」
 そう言って笑う悟志は平然とした様子だけれど、貴幸の胸はキインと張り裂けそうに痛んだ。
(悟志、悟志……悟志)
 こんなに怪我をしていたなんて知らなかった。こんなに傷だらけになりながら、貴幸と美幸を守ってくれていたなんて気づかなかった。こんなに――ここまでしてくれた、その彼が、処分なんて受けることになってしまったら、どうしたらいいのだろうか。
 養護の先生は眉を寄せ、難しい顔をした。
「三村くん、よね」
「はい。あの……?」
 何の話だろうかと貴幸は身構える。
「良くない子たちに囲まれたみたいだけど、……大丈夫そう、ね」
「え? はい、大丈夫です……けど」
 心配というよりは哀れむような彼女の口調が、僅かに気に掛かる。
「……話には私も立ち会ったんだけれど、相田くんと他の子の話はちょっと食い違ってたの。相田くんはあなたを庇ったって言うけれど、他の子は、三村くんを殴ってなんかないって言っていて……」
「無事で良かった、タカちゃん」
 呑気に悟志が口を挟んでくるが、貴幸にはそれよりも先生の言葉が引っかかってならなかった。
「いや、俺は別に、殴られてないですけど。……悟志が助けてくれたので」
「そうみたいね。だとすると、相手は手を出していないのに、相田くんが一方的にその……何人も叩いた、ってことになっちゃうわね」
「え? は? 相手が、……手を出してない?」
 まさかそんなはずはない。美幸への行為は、いくら未遂とはいえ許されざる暴力だ。何故その点が抜かされているのだろうか。
「ええ。三村くんが暴力を奮われそうになって、だから相田くんが庇った……っていうのが、事情なんでしょう?」
「俺が……?」
 やっぱり、彼女の話からは美幸のことが抜けている。おかしい。この不完全な説明は何だろうか。
 妙な感じがして貴幸は悟志を見た。すると悟志は指を立て、口元に当てている。いわゆる『シー』である。
「ちょ、ちょっと待ってください! それは……!」
 貴幸は動揺のままに大声を出した。悟志と先生、両方を交互に見ながら。すると先生は気の毒そうな顔をし、悟志はもう一度、にっこり笑って指を立て直す。
「……あ」
 わざと、なのか。敢えて言っていないのか、悟志。
 こんな大事なこと、言ったかどうかで事情なんか全然変わってくるのに。言わなかったら、先生が今言った通りの事情として処理されて、おまえはずっと厳しい処分を受けることになるっていうのに――。
 貴幸はうろたえ、それでも必死で口を開こうとした。
「ち……違う! それは、それは……」
 そのとき丁度、背後の扉がガラリと開いた。戸惑いながら振り返ると、そこには生活指導担当の教員が立っていた。
 彼は顔を不愉快そうにしかめ、やれやれと息を吐くと、前置きもなしに話し始める。
「駄目だ。何度掛けても出ない」
 その手には携帯電話が握られている。教員は荒々しく蓋を閉じると、じろりと嫌な目で悟志を見た。
「親は大事なときにも連絡がつかず、子どもは暴力事件……か。やはり片親家庭は問題が多いな」
「なっ!」
 反射的に大声を上げたのは、悟志ではなく貴幸だった。今、この教師は何を言った? 片親? そんな家庭の事情を、理不尽に馬鹿にしたのか。
 怒りで心臓が灼けるようだ。貴幸は思わず強く机を叩き、教員を睨み付けた。
「ふざけるな! 連絡つかないって、仕事中に電話したって出られないのは当たり前だろ! 悟志は、悟志は……!」
 暴力事件なんて起こしていない。問題のある奴なんかじゃない。おばさんだっていい人だ。
 しかし抗議は途中で遮られた。悟志の鋭い声によって。
「タカちゃん!」
「っ!」
「……帰ろ?」
 諫めるような声音に、貴幸はびくりとして悟志の方に振り返った。だけど振り向いたときには悟志は、いつもみたいににっこりと、優しく微笑んでいるのだった。
「そ、そうね……。今日は、色々なことがあったものね」
「うん。そういうわけだから、行こう、タカちゃん」
「あ――」
 養護教諭もうろたえながら帰宅を促した。
 悟志が貴幸の手を、くい、と引いて立ち上がらせるのだった。
「それじゃ、失礼します。お世話掛けました」
「さ、悟志……」
 そして抵抗する暇も与えず出口まで歩いていき、ぺこりと頭を下げて出ていってしまう。貴幸はただ引っ張られていくだけだ。情けないけれど、あまりに色々なことがあって、何を言ったらいいのか分からない。
(痛い……)
 悟志の手には力が篭もっていて、歩く速度も普段より早い。前を歩いているせいで顔は見えないが、きっと今は穏やかな顔ではないはずだ。
 言いたいことが、いくつもあった。なのに言葉になってくれない。何から言えばいいのかも分からない。
 それでも保健室を出てしばらくして手が離され、ようやく悟志の歩みも緩やかになったもので貴幸は口を開いた。気になっていたことを聞くために。
「……悟志」
「うん」
 悟志は足を一瞬止めて振り返った。絆創膏が貼られていたりするくせに、その表情は今の状況に似つかわしくないほど穏やかである。言いたいことを見透かしているような瞳に貴幸は何も言えなくなった。
 保健室から校門はすぐだ。門の傍に止めていた自転車をカラカラと引き、貴幸はもう一度悟志に声を掛ける。
「おまえ、……美幸のこと」
「言ってないよ」
 やっぱり、と心のどこかで貴幸は思った。
「どうしてだ」
「分かるでしょ? ……向こうだって、ばらされたらまずいから、話を合わせてきたよ」
 事情聴取が一人ひとり個別じゃなくて良かった。
 そう言って軽く笑う悟志の姿を、貴幸は胸が締め付けられるような思いで見ていた。
 ――何も言えない。兄として、妹が遭い掛けた被害を黙っていてくれたことに感謝する。そして幼なじみとして、そのことで彼の処罰が重くなることが心配で、申し訳なくて堪らない。
 どう思えばいいのか。何を言えばいいのか、全く分からない。何故言わなかったのだと詰るのも、ありがとうと言うのも違う気がした。
(どうなるんだ、悟志、これから)
 昔から甘えん坊で穏やかで、優しかった悟志。彼が処分を受けたり、学校側に問題児だと思われてしまったらと思うと、貴幸は心配でどうしようもなくなってしまう。
 悟志、人と殴り合うのなんて初めてだっただろ、怖くなかったか。傷は痛まないか。今、俺は何をすることが悟志のためになるんだ。聞きたいことなど全て、口にしたって無意味に思えた。
 くい、と貴幸は、悟志の制服の袖を引っ張った。
「ん?」
「……おばさん帰ってくるまで、おまえの家にいさせてくれ……。事情を……」
 話させて欲しい。せめて、自分の口から。
 そんな思いを込めた言葉は、懇願に近い言い方になった。悟志は微笑んで小さく頷く。まだまだあどけない顔をした彼が、骨格が細く華奢な体つきの彼がどんな気持ちで今いるのか、想像することもできなかった。悟志の思いに寄り添ってやれないことが今の貴幸には悲しい。
 家へつくまで二人はずっと無言だった。通い慣れた町並みが、まるで夢の中で見ている景色のように遠く見える。足下すら踏み込むたびにグニャリと歪んでいくようだ。頭の中がぐしゃぐしゃと絡まってろくに考えることもできない。
 十数分歩いて悟志の家に着く。何度となく来たことがあるというのに、今日は玄関に上がるときとても緊張した。
 悟志の半歩後ろについて居間に入る。そして鞄を置き振り向いた悟志を見て、貴幸は息を呑んだ。
「さ、悟志……! それ……」
「え? それって?」
「怪我、……こんなに、ち……血が……」
 声が震えた。
 絆創膏やガーゼから、じわりと鮮血が滲んでいる。時間が経って新たに浮かんできたのだろう。
 その生々しい赤さを見て、貴幸は改めて事の重大さを感じた。さっきまでだって悟志の姿を見てはいたけれど、こうしてまだ止まらぬ血を見て初めて、あの状況の本当の危なさを知った気がした。
 顔に貼られた絆創膏から血が滲むだけでなく、唇は切れているし、襟元から覗くブラウスも泥と赤いもので汚れている。首の端にも大きなガーゼが貼られていた。
 貴幸は何も考えることができず、衝撃でがくがくと震えそうになりながら手を伸ばした。悟志の、血が滲む頬に。
「あ」
「悟志……。こんなに、怪我をしてた、なんて……」
「え、それはそうだよ。いくら不意をついたからって、無傷で済むわけないもん。……見た目ほど痛くないから大丈夫。本当に」
 青ざめて真剣な顔をする貴幸に、悟志は安心させるよう言葉を掛けた。だがそんなの信じられるはずがない。こんなに細かい傷や、泥が掛かるぐらいの殴られ方をしたなら、痛いに決まってる。
 ガンガンと頭が痛くなり、背筋が冷えた。
(……あのとき、もし、何かあったら)
 悟志はもっともっと怪我していたはずだ。そのことを思い、今更ながらにゾッとする。
 貴幸は今度は悟志の手を両手で包み込み、とても顔を上げていられず俯いた。
(悟志、こんな、痛いに決まってる。悟志……。悟志、これからどうなるんだ。こんなに手が、……顔も……)
 衝動的に、ぼろりと大粒の涙が零れた。そのままぼろぼろと、止まりもせずに後から後から涙が、貴幸の頬を伝う。
「……う」
「た、タカちゃん!?」
 しゃくりあげるような声を洩らしたことで悟志はそれに気づき、彼の方こそ驚いたような声を出した。
 涙はどんどん勝手に溢れてきて、まるで栓が壊れてしまったようだ。熱くて心臓が嫌な音を立てて、灼けるように頭が熱いのに、感覚ばかりが鋭敏になる。悟志の手を包んだところから彼の体温が、染みこむように伝わってくる。
 ――悟志、悟志、悟志。俺、悟志のことが、心配で堪らない。悟志、こんなに怪我して痛そうになって、それでも笑うなんて、どうしてなんだ。
「タカちゃん? ど、どうしたの? 僕なら大丈夫だよ、心配しないで、泣かないでタカちゃん……」
 おろおろと悟志はひどくうろたえて、貴幸を見上げたり慌てたり、驚いたり心配したりと忙しい。昔から大切な存在だった彼の、こんなときにまで優しい姿を見て、貴幸はついに気がついてしまった。
(…………俺、悟志のこと――好きだ……)
 昔から貴幸は悟志のことがずっと可愛くて、大切で、守ってやりたくて。そして今は心配で身を切られそうな思いになっている。……恋だった。いつの間にか悟志への思いは、友情でも家族愛でもなく、恋になっていたのだ。そのことに今、怪我をした悟志を見て気がついてしまった。こんなときに。悟志が傷を作りながらも貴幸たちを庇ってくれた、今になって。
「う、……っく、ひ、う、……ううう……!」
 はっきり自覚した瞬間、嗚咽は一層激しくなった。
「た、タカちゃん……。泣かないで……。ごめん、心配掛けて。泣かないで、ごめん」
 悟志に悪いところがあるわけでもないのに、悟志は貴幸が泣いたことに戸惑って、ごめんと謝った。だけど貴幸の涙は止まらない。いつまでも止まることなんてない気すらした。意志とは関係なく、流れ出てきてどうしようもない。ぽたぽたと雫は貴幸の袖に落ちて、見る見るうちに制服を濡らしていく。
 貴幸が悟志の前で泣くのなんて、本当に久しぶりのことだった。涙混じりに貴幸は言葉を繰り返す。
「っく、……ごめん悟志、……うう、……ごめんな……」
「タカちゃん……」
 うわごとのように貴幸は、ごめん、と謝罪の言葉を口にし続けた。ぼろぼろと泣きながら。悟志は悲しいような瞳で貴幸を見て、その手を優しく握る。それが余計に貴幸を辛い思いにさせた。
「ごめん…ごめんな……」
 こんなに、たくさん怪我をさせて。そのせいで処分なんか受けることになって。――大事な大事なおまえに、こんな思いを抱いて。

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