宣言の通り、力哉はそれからじきにまた来た。今回でもう三度目にもなる。彼は気負ったところのない平然とした態度で、華宮の敷居を再び跨いできた。二人がすることは、今日は勉強ではない。ゲームだ。人気の携帯ゲーム機を力哉は持ってきていて、それを葉弥翔と一緒にプレイしているのだった。
「ほら、B! B! ジャンプだよ、ジャンプ!」 「えっ、え? Bってどれ? ……あー!」 「負けちまったなー」 あっははは、と大声を立てて力哉が笑う。それに釣られるように葉弥翔も、楽しそうに笑い始めるのだった。 小さなゲーム機である故に、彼らが二人で遊ぶためにはぴたりと身を寄せ合うこととなる。だから彼らは椅子を最大限まで近づけていた。生まれてこの方ゲームなどという俗的なものに触れたことのなかった葉弥翔には、力哉が持ってきてくれた携帯ゲーム機がよほど物珍しいらしかった。瞳をきらきらと輝かせ、負けたときでも楽しそうに微笑んでいる。 ゲームなど葉弥翔には必要ない。それが麗の意向である。葉弥翔には勉強に習い事とやることがいくらでもあるし、空き時間ができたとしてもそれをゲームなどに費やしていては勿体ない。読書をして教養を深めたり、ニュースを見て社会情勢に強くなったり、どうしてもすることがないのなら早く寝てすくすくと育ったり。そうするべきだと思っていた。 「ゲームオーバー!? 力哉、これ終わっちゃったの? また一番始めから!?」 「大丈夫だって。そこのコンティニュー押して……、そうそう。そうすりゃ、さっきセーブしたとこからまたできっから」 「…………」 けれど今は、ゲームなんてやめなさいなどと口を挟むこともできなかった。理由は二つある。一つは、葉弥翔が心から楽しそうにゲームをしているということ。そしてもう一つは、この前の件以来、麗と葉弥翔との仲がどことなく気まずくなってしまっているということだった。 大切なお坊っちゃまが、瞳を興奮に潤ませてこのひとときを満喫している。それを邪魔できる執事など存在しようか。麗はずっと立ったままで彼らのことを見ていた。 とはいえ麗が立っているのは彼らの斜め前。つまりゲームの画面が見えない位置だ。故に麗は、彼らがゲームしているところを見るのではなく、真面目な顔をしてひたすら考え事をしていた。 (高良、力哉。……何を考えている? 来るなときっぱり言ってもすぐにまた来る、そして私を気に入ったと言う。……彼は何なのだ? 葉弥翔様と二人にしては、何が起こるか分からない。私がずっとお側にいなくては……) そんなことを考えて麗が気を引き締めていることなど露とも知らず、彼らは有名らしいアクションゲームに興じている。彼ら、と言っても交替でのプレイではない。基本的に葉弥翔が遊び、力哉が進行上のアドバイスをする。どうしても進めないときには難しい部分を力哉が進める。そうして二人は楽しんでいるのだった。 と、そのときだった。不意に葉弥翔の携帯電話が鳴り始めた。ピリリリリ、とデフォルトの着信音が広い室内に甲高く響く。葉弥翔は慌てて鞄の中を探った。 「あれ、誰だろ。……母さんだ、ちょっと待ってね、力哉。……はい、もしもし? うん、今、来賓室にいます。……分かりました。はい、それでは、今から行きますね。はい。……はい」 断ってしばらく通話をしたのちに、彼はパタンと携帯電話を閉じて力哉に振り返った。 「あの、水曜に来てくれてるバイオリンの先生が、スケジュールの関係で来週は休みにして欲しいって言うんだ。代わりの授業をいつ入れるかを今のうちに決めたいらしくて……、悪いんだけど、ちょっと待ってて」 「あい。了解、進めないで待ってるな」 力哉がひょいと手を上げて答えた。その体勢はだらしがない。片足は椅子に乗せられ、もう片足は思い切り伸ばされているのだった。頷いてから葉弥翔は次に麗を見た。 「そういう訳なので、僕は行ってきます。よろしくね」 「はい。行ってらっしゃいませ、葉弥翔様」 恭しく頭を下げる。それは儀礼的なだけの動作ではない。心から見送る思いが態度に出ているとでも言うべき、丁寧な礼だった。 『よろしくね』。わざわざ葉弥翔が麗に向かってそう言った裏には、彼を力哉と二人だけにして大丈夫なのかという心配があるのだろう。恐らく葉弥翔は、自分がいない間に麗が力哉に対して何事か言うことを心配しているのに違いない。 それでも呼ばれたからには行かなければならない。早足気味にぱたぱたと葉弥翔が出ていくと、じきに麗は険しい顔をして力哉を見た。 「力哉さん」 「おう」 座ったまま、ポケットに手を突っ込んで彼が答える。良い用件で話しかけられたわけではないことは分かっているだろうに、力哉はごく普通に返事をしてきた。 「あなたが来ることに対して、私はご遠慮くださいと確かに言ったはずです。なぜ、またいらっしゃったのですか」 非難するような目で麗は彼を見た。それに対し力哉はちらりと視線を巡らせる。 「何でって、俺がハヤトの友達だから。いい奴だよな、ハヤト」 「後半についてはよく存じ上げています。あなたよりもずっと」 「あっそ。……自分より他人って感じの奴だよな。そのくせイマイチ抜けててポケーッとしてんの。そこが放っとけねえっていうか、面白いよな」 表現は気にくわないが、内容自体はなかなかに的を射ていた。意外に葉弥翔をよく分かっている男である。そんなことを思いつつ麗は首を振った。 「そんなことは聞いておりません。私は、なぜ、こうも頻繁に来るのかと聞いているのです! どうして葉弥翔様に拘るのですか、同級生なら他にもたくさん――」 話しながら段々とヒートアップし、麗は荒く早口にそう言った。それを途中で遮って力哉がきっぱりと言う。 「ハヤトから聞いてねえのか? 伊月さんのことが気に入ったから」 「なっ!?」 聞くなり唖然として麗は身を強ばらせた。……何だ、それは。確かに、葉弥翔から以前にそのようなことを聞いたことはあったが、まさか本気だったというのか! よもやこいつ、正常ではない性嗜好を持つ男――! (はっ、それで葉弥翔様にやたらと近づいてきていたのか……!? 葉弥翔様が外見も性格も愛らしい方でいらっしゃるから!?) 猛スピードで思考が回転していく。危険だ、危険だ、危険だ。麗の中で何かのスイッチが入ってしまいそうになる。その様子を見て、力哉は大口を開けて思い切り笑い始めた。遠慮のない笑い声が麗の耳を侵す。 「なーんて、な! んなわけねえだろ、普通に考えて!」 体を揺らして彼は笑う。冗談だったのだ。とりあえず麗はほっとした。それから強い怒りが沸いてきて、厳しく瞳の端をつり上げた。 「ま、真面目に答えてください! どうしてはぐらかすのです! 答えられないということはやはり、華宮の財力を目当てにしているのですか!」 「……あのなあ」 楽しげに相好を崩していた力哉は、麗がそう発言するのを聞くなり真剣な顔つきになった。思い切り強く睨み付けてくる。 「金、金って……。伊月さん、あんた、ハヤトのことそんなに駄目な奴だと思ってんのか? 財力がなけりゃ一人の友達も寄ってこないだろうって、そう思ってるわけ?」 「――なんです、それは」 同じく麗も気を張りつめさせる。力哉が何を言いたいのかはよく分からないが、その内容は恐らく、とんでもないことであるように思えた。 「言った通りの意味だ。……俺はさっき言った通り、ハヤトのこと、いい奴だと思ってる。だから仲良くしたくて一緒にいる。……そのことが分からずに金が目当てなんだろうって言うのは、ハヤトに魅力がないって言ってるのと同じだぜ?」 「何を……っ!」 即座に反論をしようとした麗だったが、それきり何も言えずに黙ってしまう。 今、力哉が言ったのは決して暴論ではなかった。確かに一理ある意見である。反論をするのは難しかった。 しかし麗は、こんな議論だけで考えを変えるほど甘い経験ばかりしてきたわけではない。最初は笑顔で近づいてきた葉弥翔の『学友』が、実は華宮の財力を当てにしていた――そんな経験が、これまで幾度となくあったのだ。 最近、会社が危ないから。借金ができてしまったから。だからおまえ、同じ学校の華宮葉弥翔くんと仲良くしなさい。そして家に連れてくるんだ。そうしたらパパが、葉弥翔くんに聞いてみるから。君のお父さんから、お金を出してもらえないかな? って。 『学友』の親がそう言っているところを耳にしてしまったことだってある。葉弥翔は素晴らしい人だ。そんなこと、誰より麗が分かっているけれど、それでも実際、排除するしかないのだ。彼らが本当に友情を感じて近づいてきたのか、それとも資金が目当てなのかは、実際にその話が切り出されるまで分からないのだから。 そしてそのときが来るたび、優しい葉弥翔は心を痛め、傷ついていく。その可能性があると分かっていて力哉を見過ごすことなど、麗にはできない。葉弥翔と付き合ってもいいのは、金の無心をする必要がないほどの家庭に育った子どもだけなのだ。だからこそ厳しく友人を選ばなければならない。優しく繊細な、葉弥翔自身のために。 麗は何も言い返すことができず、ぎゅっと拳を握って少しだけ俯いた。反論のできない自分が歯がゆかった。 無言の麗をどう思ったのか、息をひとつ吐いてから力哉は言葉を続けた。 「ほら。ハヤトの奴は優しいからさ、あんなことがあったあと、本当に俺がもう来なくなったら気に病んじまうだろ? だからまたすぐに来たんだよ。で、伊月さんと俺との関係を心配してたみたいだから、俺は伊月さんを気に入ったよってことにしといたわけ。嬉しそうな顔してたぜ? そのときのハヤト」 「だっ、だから何だと言うのですか……!」 麗は戸惑い混じりにそう言った。 「あなたがそうして、葉弥翔様を思う振りをしたところで私は騙されません! 無駄なのですからそんな作戦はやめてしまいなさい……! 私は絶対に、葉弥翔様を守らなければならないのです!」 「あのなあ……、あんたにとっては守ってるつもりでも、それ、ハヤトを縛り付けちまってんじゃねえの?」 呆れたように、言い聞かせるように力哉は言ってくる。麗はまたしても言葉に詰まり、ぐっと息を呑み込んだ。否定はできなかった。葉弥翔の両親は非常に鷹揚な人で、だからこそ麗は、その分だけ葉弥翔の生活に気を配ってきた。彼を思うほどにそれは厳しくなっていった。そのことは麗自身、分かっていないわけではない。 「あっ――あなたにそんなことを言われる筋合いはありません!」 ついに感情的になって麗は言い返した。 「何と言われようと、私は葉弥翔様のことが大切です! 葉弥翔様のことだけを考えて生きているのです、縛り付けるなど、そんなことを望んで私がするわけが……!」 口にするたび焦燥に似た何かが胸のうちに渦巻いていった。話せば話すほど、どろどろとした闇に巻き込まれていくような感覚がある。力哉は黙ったまま麗の言うことを聞いていた。そのことが一層、麗の中に落ち着かない気持ちを生み出していく。 言い終わってしばらくすると、力哉は緩く首を振り、ふうと息を吐いた。 「……まあ、な」 ぽんと、肩に手が掛けられる。反射的に麗はそれを払いのけた。ばしりと。唐突に何をするのか。即座に手を叩き落とされた力哉は、険しく瞳をつり上げる麗を見ながらふと苦笑した。その表情は、たった今まで言い合っていた二人の間にはそぐわない、不思議と優しいものだった。 「伊月さんみたいな奴、俺、実際に結構好きだけどな」 「なっ! な、何です、藪から棒に!?」 「さっきの話。縛り付けてるとか何とか言ったけどさ、伊月さんがハヤトを好きってのは本当みたいだよな。そういう懸命な奴って、嫌いじゃないぜ」 そう言って力哉はからりと笑った。麗は「な、な、な」とひたすらに繰り返して硬直するばかりである。衝撃を受けるその姿を見て、力哉は余計に表情を崩した。 「何かなー。そういう、一生懸命なのに方向性がずれてるようなとこ、どうも憎めねえっス。何度も喧嘩売られてんのに」 そんなことを言われたのは初めてだ。なぜ、年下の男にこんな、偉そうな発言をされなくてはならないのか。理不尽さと、脈絡のなさに麗は慌てた。厳しい態度を取り続けていた相手に結構好きなどと言われたのだ、当然である。顔を背けて麗は言った。 「そのように言ったところで無駄です……! 取り入ろうとしたところで私はあなたのことなど嫌いですし、来訪を歓迎するなどということも、絶対に致しません!」 「はいはい」 全く気にした風もなく力哉は適当に発言を流し、それから言葉を繋ぐ。 「にしても伊月さん、飲み物入れるの上手いんだな。すげーな」 「……プライベートな時間で練習を重ねておりますから。全ては葉弥翔様に、少しでも良い物を口にしていただきたいという思いからです」 唐突に話題を変えられて面食らう。それでも、ペースに巻き込まれて堪るものかと、平静を装ってそう答えた。力哉が声を立てずに笑う。 「へえ。よっぽどハヤトのこと好きなんだな」 「当たり前です。葉弥翔様は素晴らしいお方ですから――、私が幾度、葉弥翔様に心を救われてきたことか」 麗は瞳だけを彼に向けて答えた。力哉はにやつきながらそれを聞いている。 「愛らしい笑顔、ねえ。確かにハヤトがにこにこしてるときって、見てて楽しいよな」 相づちを打つように言った力哉に、麗は眉根を寄せた。むっとしてしまったのだ。この男に葉弥翔様の何が分かるというのか。私の方がずっと長い付き合いで、葉弥翔様のことを分かっているというのに! 対抗心から麗は敢えて大きく頷いてみせた。 「ええ。ええ! そうでしょうとも! 私など葉弥翔様が微笑みかけてくだされば、それだけで天にも昇る思いです!」 「ふうん」 力哉は腕を組み、静かに首を縦に振った。その姿が麗には、余裕の表れであるように思えてならない。ますますカチンときた。何としても自分と葉弥翔の付き合いの深さを思い知らせずにはいられない。 「葉弥翔様は内面も外面も本当に素晴らしいお方ですから! 日々すくすくと愛らしく成長され、昔から見ている私としては感慨深い限りですっ!」 「はあ」 「特に近ごろなどは、瞳に力強さが宿ってきたと言いますか――、確かな意志というものが眼差しの奥から感じられ、美しさに限りがありません!」 「なるほどなあ」 「それだけではありませんっ、この前などは……!」 「あの」 落ち着き払った力哉の態度に苛立ち、麗が捲し立てるように葉弥翔を賞賛しているときのことだった。背後の方からふと、遠慮がちな声が聞こえてきたのだった。振り返ってみるとそこには、困ったように眉を下げ、微笑みの形に口元を上げた葉弥翔。 「あ。……お、お戻りだったのですか、葉弥翔様」 「ノックもしたんだけど」 「……失礼致しました」 主人が戻ってきたというのにそれに気がつかないとは、何たる失態! 麗はたちまち姿勢を正し、恭しく頭を垂れた。うん、と答える葉弥翔は気まずそうである。何と言ったって、執事と友人が喧嘩していないかハラハラしつつ戻ってきてみたら、なぜか麗が自分の良さについて力説していたのだ。勿論、麗としても恥ずかしい。日ごろ冷たい仮面の裏に隠している本心を聞かれてしまったのだから。 今ひとつぎこちない動きで葉弥翔は椅子に腰を落ち着け、それから困り顔のまま力哉に話しかけた。 「え、えっとー。よく分からないけど、話、盛り上がってたみたいだね」 「ああ。盛り上がったぜー。ほんと面白いな、この執事さん!」 力哉は腹が立つくらい爽やかに、はははと声を上げている。一言二言文句をぶつけてやりたい麗だったが、葉弥翔がいるもので必死で堪えた。 そして二人はまたわいわいとゲームをプレイし始めた。こんなときでも葉弥翔の笑顔はやはり、眩しかった。 それから間もなく、高校は定期テストの時期に突入した。さすがにこれでしばらく力哉も来ないだろうと思っていた麗だったが、その予想は裏切られた。テスト勉強をしなければならないからと、力哉はむしろ、連日華宮家に訪れることとなったのである。 「……これですか。ええ、分かるに決まっていますとも。私はすぐに分からないと思考停止する、そこの彼とは違うのですから」 「それ、遠回しにハヤトのことも馬鹿にしちゃってるぞ」 力哉が分からないと言った問題に対し、鼻で笑いながら宣言する。即座に彼に突っ込まれる。そんな二人を見て葉弥翔が、口元を押さえくすくすと笑う。もはや葉弥翔も二人の言い合いに慣れてきたのだった。 認めたくもないことだけれど、力哉がやって来るのはすっかり『いつものこと』になってきているのだった。 |