どうせまた会うことになるだろうとは思っていた。
だがまさか、こんなに早く顔を合わせてしまうだなんて。 ****** 校門まで葉弥翔を迎えに来ていた麗は、妙なものを見てある一点に目を留めた。そこはいつも葉弥翔が立っている場所。今日も彼は、そこにいた。だがその隣に変な人物がいたのである。 嫌な予感を抱きつつ麗は緩やかに車の速度を落とし、停車させた。何度見ても葉弥翔の隣にいる男は、あの無作法な高良力哉だった。 (葉弥翔様が奴と話していること自体は、さほどおかしなことではないが……) 麗は認めていないけれど、葉弥翔と力哉は友人だ。だから二人でいるのも珍しいことではないのだろう。けれど、下校時というこのタイミングで、二人揃って門の前にいるというのはどういうことなのか。 「あの、麗」 助手席の窓から覗き込んで葉弥翔が声を掛けてくる。力哉までもが先ほどより車に近づいていた。 「何でございましょうか」 今日も葉弥翔坊っちゃんは可愛らしい。思わず麗は、きつい印象の目元を和らげてどんなお願いでも聞いてしまいたくなる。 「今日、力哉をまた家に連れて行きたいんだけど。……駄目?」 麗は、ぐっと言葉に詰まった。 言ってしまえば麗はただの使用人だ。葉弥翔の親でも何でもない。葉弥翔は優しいから麗の意見を窺ってくれるけれど、つまるところこちらには、それが危険に繋がる選択肢でもない限り――麗は葉弥翔のこの選択が危険だと確信しているが、ともかく却下する権利などないのである。 不安を瞳いっぱいに湛えて葉弥翔は麗を見つめている。そんな顔をされれば、ますます麗に厳しいことなど言えるはずもない。 「……なぜ私にお尋ねになるのです。お好きにされれば宜しいことでしょう」 突き放すような言い方になったのは、麗の癖というよりも性分だ。葉弥翔のことを可愛いと、心から思っているのに端から見れば冷血な態度に映ってしまう。麗にそんな印象を抱いているのは葉弥翔でも同じことで、彼は幾分びくりとした様子だった。それでも許可を得られたことには安心したようだ。彼は嬉しそうに表情を緩め、後部席のドアを開けた。 「それじゃ、今日は力哉と乗るね」 「こんにちは。よろしくお願いしまーす」 葉弥翔がそう言って乗り込むなり、ぺこりと頭を下げて力哉も乗ってきた。――葉弥翔の隣に。 (隣……) 主人の息子である葉弥翔が後部座席に乗るのはいつものことだ。彼の真横で運転できないことは麗にとって残念ではあるけれども、それも仕方のないことだと諦めてきた。 だと言うのに! 力哉と来たら、麗のそんな日ごろの落胆も知らずに、平然と彼の隣に座っている! バックミラーには、距離を詰めて座る二人の姿が映っていた。 (私ですらあんなに近づいて座ることはないというのに!) しかもだ。更に力哉は、葉弥翔の髪をぱたぱたと軽くはたき出した。 「前髪、ちょっと崩れてるぞ」 「ほんと? ありがとう」 「……発進致しますので、シートベルトを」 「あ、はい」 声を掛けると彼らは素直にベルトを締め始めた。それを確認してから、発進。 (葉弥翔さまの、細く繊細な髪をはたくなど……っ! もしも髪が傷んでしまったらどうするつもりなのだ、あの男はっ!) 麗は、葉弥翔の髪を整えるときには常に櫛を使う。材質にも形状にも、そしてデザインにも拘って麗が選んだ一品だ。その櫛で触れるときにすら気を遣って、引っかけてしまうことがないよう細心の注意を払っているというのに。力哉は今、あの無骨な手のひらで軽く叩いてしまったのだった。 「それでさ、さっきの授業のとき――」 「あれマジうけたよな! ははは!」 葉弥翔と来たら、そんな力哉の乱暴な振る舞いを気に留めた様子もない。リラックスして彼と楽しげに話しているのだ。……葉弥翔は優しすぎる。改めて麗は思った。こんな庶民的な男が近づいてくるだなんて、絶対に金が目当てに決まっているのに。彼が本性を現したときに一番傷つくのは、葉弥翔だ。 (もしかしたら、私がこの男に対して剣呑な態度を取ることで、葉弥翔さまはお心を痛めてしまわれるかもしれない) だけど。それでも、例え葉弥翔の気持ちに背くことになろうとも。真に彼のことを大事に思うならば、悪い結果になると分かっていて力哉という男の接近を許してはならない。 力哉と知り合ってからというもの幾度となく固めた決意を、麗は再び深めた。 屋敷へは無事に到着した。車を車庫に収めて二人を前回の部屋へと案内すると、麗は急いで飲み物の準備をし始めた。今回はさすがに力哉も、麗を手伝うとは言わなかった。 ポットにカップに、ちょっとした菓子。それを盆に乗せて麗は室内に入っていく。それから飲み物を注ぎ始めた。まずは勿論、葉弥翔に紅茶。次が力哉だ。 カップを液体で満たし始めるとすぐに力哉は怪訝そうな顔をした。 「あれ?」 「……何でしょう。何かご不満でもございましたか?」 「いや、あのー」 彼は幾分きょとんとしていた。少しだけ驚いたように。 「俺のはコーヒーなんだな。ハヤトは紅茶なのに。何でポットが二つあるんだろうかと思ったら」 その言い分に麗こそが驚いた。だから固い表情で反論する。 「先日、紅茶は苦手だと仰っていたではありませんか。ですからご用意したのです。……まさか、コーヒーも嫌いだと仰るのではないでしょうね?」 じろりと彼のことを見る。すると彼は不審の方向に傾いていた瞳をいくらか明るい色彩にした。 「え、それ覚えててわざわざ準備してくれたってことか?」 まるで感謝しているような言い方である。そんな風にされれば麗としてもやりづらい。 「客人が苦手と言う茶を出し続けるのでは、華宮の名折れですから。この程度のことは使用人ならば当然です」 「……へー。ふうん」 「なっ! 何ですか、そのニヤケ面は――! 文句があるのならば飲まなくても良いのですよ!?」 麗の説明を聞きながら、次第に力哉はにやりと口の端を歪め、瞳を細めた。そのふざけた様子。馬鹿にしているのかと麗は大声を出した。すると力哉は、手を振って否定する。 「文句なんて、ないない。せっかく伊月さんが俺のために準備してくれたんだしな、飲みますよ」 「あなたのためではありません、華宮のためです! そこのところ、誤解なさらないでいただきたい!」 「何だっていいよ。いただきます」 にやついた彼が何事か誤った認識をしているようなので、即座に訂正をする。けれど力哉は聞き流してカップに口をつけた。冷ましながらしばらく啜ったところで、彼は驚きに叫ぶ。 「うめえ! うっわ、おいしいな、これ! こんなの初めて飲んだかもしれねえ」 「……お口にあったようで幸いでございます」 目の前にいるのは憎むべき男のはずだ。だが、あまりに素直な感嘆に麗は反応に困ってしまった。賞賛を受ければ邪険には返せない。 力哉はすっかりリラックスしたように椅子の背もたれに腕を掛け、けらけらと笑いかけてきた。 「てっきり俺は、ハヤトとポットも分けてあるんだし変な味にでもされてるんじゃないかと思ったぜ。意外と嫌なだけの奴じゃないんだな、あんた」 「力哉!? 嫌な奴って――変な味って、何で麗にそんなこと言うのさ!? そんな人じゃないよ、麗は!」 それを聞き、そこまで黙っていた葉弥翔が慌てて口を挟んでくる。ああわりぃわりぃ、と力哉は彼に対して軽く謝った。葉弥翔は先日、麗が力哉に何を言ったかを知らないため、力哉がなぜ今のようなことを言うのかが理解できないのだった。 「お代わり、お願いします」 力哉はごくごくとコーヒーを飲み干すと、カップを麗に差し出してきた。ドンと音を立てて。やはり荒々しい。麗は軽く会釈をしてカップを手に取り、注いでやった。 「どうも。……いいなあハヤト、おまえいっつもこうやってコーヒーとか飲んでんのかあ」 「うん。麗はお茶を入れるのがうまいんだよ」 にこにことして葉弥翔は答えている。可愛い彼に笑顔で褒められるのは、麗にとって嬉しいことだった。そして力哉が言っていることだって、不愉快な内容ではない。複雑な気持ちだった。 「来るたびこんなおいしいコーヒーが飲めるんだったら、何度だってお邪魔したいぐらいだぜ」 「えっ、ほんと――」 「ご遠慮ください」 笑いながら力哉が言う。それに対し、喜びを滲ませて葉弥翔が答える――途中、麗は冷たく言葉を挟んだ。 唐突な発言に二人が黙って麗を見る。特に葉弥翔は、はらはらしているような顔だった。 「……伊月さん。今、何て」 「ご遠慮ください、と言ったのです。葉弥翔さまはご多忙な方ですから。それに、あなたのような方とはご学友として釣り合いません」 「なっ……!」 愕然とした声を上げたのは、力哉ではなく葉弥翔の方だった。彼は狼狽したように、カップを置いて手をあたふたさせている。 「何でそんなこと言うの!? 麗!」 「それが葉弥翔さまのためだからです」 「僕のためって、そんな!」 言われた当人である力哉はと言えば、ああもうまったくこの執事さんはまた、と言った風に呆れ顔で前髪を掻き上げただけ。葉弥翔の方がよほど驚いている。生来穏やかな気質の彼は、怒りこそ見せてはいないが、驚愕と哀しみを持って麗を見た。 その綺麗に澄んだ美しい瞳を見ていると麗の心は鷲づかみにされてしまう。彼の言うことならば何でも聞いてやりたくなってしまう。……けれどこればかりは駄目なのだ。葉弥翔のことを大切に思うが故に。麗は瞳の色をすうっと冷えさせた。 「ともかく駄目です。よろしいですね?」 葉弥翔が身を竦ませる。麗は見るからに厳しそうな顔立ちをした男で、事実その通りの性格をしている。彼が強く物を言えば気の小さな葉弥翔には反論できなくなってしまう。それが常だった。 しかし。 「よ……、良く、ないよ」 今にも掻き消えそうな声で、葉弥翔はぎゅっと拳を握りながら反論してきた。麗の眉が跳ね上がる。 「何と仰いましたか? 葉弥翔さま」 威圧を与える目的で聞き返しているわけではない。ただ本当に分からなかったのだ。まさか葉弥翔が、そうして言い返してくるだなんて思わなかったものだから。 葉弥翔は視線を彷徨わせながらも確かに言った。 「り、力哉は僕の大切な友達だから。僕のために力哉を近づけさせないなんて、そんなの、間違ってる」 「葉弥翔さま――!」 顔をこわばらせた麗にはそれしか言うことができなかった。明らかな驚愕が表情に浮かぶ。まさか、葉弥翔がそんな風に言うなんて。いつだって麗が言えば素直に応えてくれた彼が。勿論、葉弥翔の大人しさは麗としても気になっていた。だから彼がこうして意思表明をするのは嬉しくもあるのだ。だが、よりにもよってこんなときに。 ぴりぴりとした空気。麗は愕然として葉弥翔を見やり、葉弥翔は不安を体いっぱいに纏わり付かせながら視線を落としている。そこで次に口を開いたのは、力哉だった。 「まっ、まあ、落ち着けって、二人とも! ほら勉強しようぜ? そのために来たんだし! な? ハヤト! 伊月さんもいいよな?」 信頼し合った様子だった二人が、自分のせいで雰囲気を悪くしているのは力哉としても嫌なことらしかった。彼は慌てふためきながら不自然な笑みを浮かべ、必死に話題を逸らしている。 だが麗にも葉弥翔にも、何を言うこともできなかった。 (葉弥翔様……、私に、反抗を…) 麗の気迫はすっかり失せていた。気が落ちてどうしようもなかったのだ。葉弥翔様が私にこのように言うなんて、私のことを嫌いになってしまったのでは――。気分はすっかり深い底へと沈み、響くような衝撃ばかりに支配される。 けれどそこは大人の矜持。そして執事としての義務というものがある。それ以上黙っているわけにはいかず、麗は短く答えた。 「はい……」 その沈みきった言い方に、力哉すらも言葉に詰まる。誰が聞いても分かるほどに、麗の声音は落ち込んだものだった。 「……あー。だってさ、ハヤト。やっちまおうぜ宿題、さっさと」 「う、うん……」 「えーと今日は、英語、英語! 参っちまうよなー明日までの宿題なんてさ!」 「うん……」 「あの先生、もしかして生徒いじめて楽しんでんじゃねーの。何つってな、ははっ!」 「うん……」 力哉はこの空気を何とかしようと必死に話しているが、何を考えているのか、葉弥翔もすっかり沈んでしまっていた。重々しい声で「うん」と言うばかり。 「……さあってと。よし、やろうぜ!」 ばしんと力哉が葉弥翔の背を叩き、彼の鞄からプリントと筆箱を勝手に取り出す。 その振る舞いを見ても麗には怒る気力も沸かなかった。葉弥翔は励ますように背を打ってきた力哉に、未だ落ち込んだように、けれど元気を出そうと笑みを作っている。 今ひとつ嫌な雰囲気のままで勉強は始まった。 宿題が終わったところで力哉は帰っていった。麗は食器やテーブルの片づけがあるもので彼を見送らなかったが、葉弥翔は玄関まで行って彼と言葉を交わしていた。 それが終わってから葉弥翔が、気まずそうにはしながらもテーブルを拭く麗に近づいてきた。 「あの、麗」 「……何でしょうか。葉弥翔さま」 内心は落ち込んだままだった。けれど取り繕う程度の気力は回復していたもので、麗はいつもの如くつんとした態度で彼に答える。勿論、動かしていた手を休め、姿勢を整えた上でだ。 恐る恐ると言った調子で葉弥翔は麗を見上げた。 「力哉、今後も来るって。麗のことも気に入ったし、また会いたいらしくて」 「…………」 麗はほとんど表情を変えなかった。けれど心の中に大きく『!?』マークが浮かぶ。 何を考えているのだ。高良力哉、あの男は。 |