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『アパートに帰ると妹が遊びに来ていた』




   ≪1≫

「おかえりっ。お兄ちゃん」
 軽やかな声が響く、マンションの一室。
(いったい俺の部屋に……何が起きた……?)
 一人暮らしの部屋の主、矢川裕介は玄関で妙な顔つきになった。
 さんざんほったらかしにして、散らかり放題だったワンルームは生まれ変わったように片づいている。
 そこらに置きっぱなしにしていた雑誌は部屋の片隅に積まれ、脱ぎ捨てたままだった服はきちんとシワを伸ばされ、壁のハンガーにかけられていた。絨毯の上も掃除機がかけられ、チリひとつ残っていない。
 隅々にまで見事なほど整理が行き届いている。おまけに芳香剤でも使われたらしく、ホコリ臭かった室内に柑橘系の香りがほんのりと漂っていた。
 朝、部屋を出る前に見たのと同じ場所だとは思えないほどだ。
「俺は掃除を頼んだおぼえはないんだがな……」
 裕介がネクタイを緩めていると、軽やかなソプラノの声がかかった。
「たまにはちゃんと掃除ぐらいしないとダメだよー」
「……悪かったな。で、なんでおまえはそこにいるんだ」
 玄関で靴を脱ぎながらぶっきらぼうな声を返す。
 制服姿の少女は、そんな彼の態度を気にした様子もなく鍋の火加減を調節する。
「お夕飯、準備できてるから。さっさと着替えてきて」
「聞いてることに答えろっての……って。晩飯、おまえが作ったの?」
「そうよ。仕事帰りのお兄ちゃんを手料理でお出迎え。あー、私ってなんてよくできた妹なのかしらー」
 しらじらしい口調とともに、裕介の妹──麻美子は胸元でぽんと手を打った。
 彼女の動きにつられて、サイドポニーの髪がひょんと揺れる。ちょっとした仕草がじつに愛らしい。兄の裕介でさえも、見ていてそわそわとした気分になってくるほどだ。
「だから、そんなこと頼んでないっての。勝手なことするなよ」
「何よ、それ。お兄ちゃん、頭おかしい!」
 頬を膨れさせた麻美子が、グッと背を反らす。
 裕介の目の前に豊満なバストが突き出された。
 妹の発育状況は、すこぶる良好のようだ。そのせいで彼は、思わず口調を詰まらせた。
「い、いや……だだ、だからな……」
「掃除したら迷惑だって言うの? 料理もダメなの? そんなんじゃ、私が悪いことでもしたみたいじゃない!」
「だいたい、その……どうやって勝手に入ったんだ?」
「大屋さんに開けてもらったのよっ。家を出てから五年も音信不通の兄に会いたいって言ったら、すぐ開けてくれたわ。お兄ちゃんったら、大学に入ってから……そのあと就職してからだって、ずっと家に帰ってきてないってこと忘れちゃってるの!?」
「それは……俺だって忙しかったし……」
「私の卒業式のときだって、電話のひとつもなかったし! 一生懸命に勉強して、県内で一番偏差値の高い女学園に入ったときもお祝いの言葉さえなかったでしょ。それからお誕生日のことだって……」
 会わない間に、麻美子はよほど我慢を重ねた暮らしを送ってきたのだろう。
 恨みの言葉を次から次へと迸らせる、愛らしい唇。
 目をひきつけるのは口許だけではない。月日を経て、妹の姿は兄の裕介がおどろくほどに成長していた。
 手足は細く華奢な感じがするのに、胸と腰のラインはグッとせり出し、女らしさを帯びている。そのくせウエストのくびれは細く、抱き締めたら折れてしまいそうだった。
 さらには優美な体型に似つかわしい美貌。幼い頃の柔和さを残しながらも、雪のように白い肌には年相応の溌剌とした張りがあった。
 そんな彼女が目の端を軽くつり上げ、朱唇をツンととがらせる。
 怒る一歩手前ぐらいの表情で甘えられると、どんなわがままを言われても、いつだって裕介は妹に逆らえない。
 それはずっと昔からの、兄妹同士の決まり事となっていた。
「……ちょっと、お兄ちゃん。聞いてるの?」
「う……ううむ」
 情けない唸り声を出しつつ、兄はどうにか気を取り直す。
(いかんいかん。かわいい妹の言うことだが……ここは兄として、ひとつビシッと言ってやらねば……)
 裕介はできるだけ怖い顔になって、麻美子に向き直る。
「いいか、麻美子。この際だから、ハッキリさせておくけどな……」
「みかんゼリー」
「そう。みかんゼリー……って、何がみかんゼリーなんだよ!?」
 がなりたてる兄にむかって、にっこり微笑む妹。
「晩ご飯のあとに食べようと思ったんだけど、買ってくるの忘れちゃった」
 いたずらっぽく、ちろりと舌をのぞかせてから、彼女はすかさず軽く腰を折る。
「お願い、お兄ちゃん。ちょっとコンビニ行って、買ってきてよ。ね? いいでしょ。お願い」
 上目で見ながら瞳を潤ませる麻美子。
 こうなってしまうと、兄はもう妹に逆らえない。
 裕介は、よれたワイシャツの襟もそのままに部屋を出ていく。
(うう……いかん。ひさしぶりだってのに、また麻美子のペースだ……)
 妹のワガママに振り回された兄の口から、思わずため息が出る。
 裕介の全身から、不幸のオーラが今にもにじみ出そうになっていた。
 けれど、そんな彼にもツイてることがひとつだけある。
 アパートから歩いて、たった三分の距離にいつもよく行くコンビニがあることだ。




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