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6

 どこのメルヒェンの国だろうという非日常的な光景が、素朴な我が家のリビングで繰り広げられていた。
 ワッフル、トルテ、ブラウニー、エクレール、フィナンシエ、ブレーツェル、――あとは何だっけ? 飲み物なしでは喉の詰まりそうな焼き菓子の数々がテーブル一杯に並べられ、隙間を埋めるようにクッキー、マカロン、シューケットがそこかしこに置かれていた。冷蔵庫ではプディング、ムース、ティラミスなどが順番待ちをしている。
 部屋中に甘ったるい香りが充満していて、さすがに買い過ぎたかなと思ったけれど、そわそわと落ち着かないでいるカイトを見たらどうでもよくなった。期待を隠し切れていない。どれから堪能しようか迷っているのか、視線がショコラに釘付けになったかと思えば、ミルフィーユに目移りして、今はまたモンブランの虜になっている。カイトが楽しそうだからいいかな。

「クリーム付けてイチゴ乗っけてたらこっち見てくれるの」
「……。あ……、ぼんやりしていて……、もう一回言ってもらえますか?」
「いや……、ヘンゼルとグレーテルが喜びそう、……じゃなくて、そうだ、お菓子の家でも作ろうかな」

 何を言っているのだろう。甘い匂いにあてられて妙な事を口走っていた。頭がおとぎ話だ。
 あの童話は確か、捨てられた子どもたちが森の奥でお菓子の家を見つけるんだ。そこには人食いの魔女が居て、かまどに落とされそうになった所を、逆に突き飛ばして助かったんだ。俺は悪い魔女にでもなるつもりか。

「分かってるとは思うけど、今日はあまり食べないように」
「はい」
「じゃあ、前夜祭といきますか」
「いただきます……っ」

 カイトは迷った末、ショコラに決めたようで、ココアパウダーが振られたものを一粒つまむと、まじまじと見つめてから口に含んだ。ほとんど噛まずに、舌の上で溶けていくショコラを楽しんでいるようで、目を細めてうっとりとしていた。
 良かったなと思って眺めていると、カイトはそのまま唇に付いたココアを舌でねぶった。食べ終えたのか、薄く開いた唇から赤い舌を覗かせて、ゆっくりとココアを舐め取っていた。その仕草に俺は何だか見てはいけないものを見たような気になって、慌てて視線を外した。早いところ、俺もメルヒェンの国の住人になってしまおう。とはいえ、小さめのケーキを二つも食べれば十分だったので、適当に近場にあったマフィンとアップルパイを引き寄せた。

「乾杯しませんか?」
「え?」
「ケーキを持ってください」
「うん……」
「乾杯!」

 促されるままマフィンを持ち上げると、カイトはモンブランを掲げて祝いの声を上げた。
 いやいや。順番もおかしいし、ケーキで乾杯なんて聞いたこともない。それこそ童話の世界ならあるのか分からないけれど。そういえば、アリスがどうとかという話は毎日、何か祝っていたような気がする。誕生日じゃない日? 何でもない日だっけ? ああ、何でもいいかな。今日は国民の祝日だし、カイトは喜んでいる。素晴らしいじゃないか。

「カイトが楽しそうでよかった」
「……ごめんなさい、僕だけ楽しかったですか?」

 カイトは食べる手を止めて、じっと俺の顔を見つめてきた。すぐに内省するところは彼の良いところでもあり、悪いところでもある。それが一番自然体なら、とやかく言う事ではないのかも知れない。

「俺も楽しいよ。カイトが楽しそうで、楽しい」
「良かったです」
「次は何を食べようって考えてる?」
「二十五パーセント程、マカロンの事を考えています」
「意外と少ないんだ」
「貴方の事を、考えたいので」
「……。……メルヒェン国の王子は言うことが違うな」
「はい……?」

 そのきょとんとした顔をやめて。気恥ずかしくなっているこっちがおかしいみたいだ。頬が熱くなっているのを隠したくて、アップルパイが切りづらいフリをして下を向いた。少し居心地が良いと思ってしまった俺は嫌な人間だろうか。

「俺、ロボットは好きだけど、アンドロイドの事は詳しくないんだ」
「はい」
「ロアは床掃除専門だろう。ウォルダーは壁登りが得意だし、カイトはそういうのあるの?」
「……笑わないで聞いて貰えますか」
「え。うん……」

 笑ってしまうような仕事なんてあるのか? 刺身の上にタンポポを乗せる仕事とか? 千手観音みたいな大型ロボットに任せたほうが速いけど。人型が得意そうな事と言ったら、それこそハウスキーパーのような仕事になってくると思う。

「……歌を、歌えます」
「あー! なるほど! 歌!」
「だめじゃないですか……?」
「何がだめなの?」
「ヒトの役に立ちますか?」

 せっかく芸術分野に秀でているのにそんなことを気にしてしまうのか。ヒトを魅了する最高の表現者にだってなり得るのに。カイトが捨てられたのはきっと、役に立たなかったからじゃない。ただ、合わなかったんだ。

「立つよ。人を楽しませる」
「本当ですか」
「今、頼んだら歌ってくれるの?」
「はい!」

 カイトはモンブランを頬張っていたスプーンを置いて、すっと目を伏せた。お菓子に夢中になっていた姿は鳴りを潜めて、優美で穏やかな眼差しが俺に注がれた。仕事モードかな? 凛々しいじゃないか。

「何を歌いましょうか」
「うーん……、俺、クラシックばっか聞いててあまり知らないんだ。お任せって出来る?」
「それならカンタータはいかがですか」
「おー!」
「では、スカルラッティの『セントネルコーレ』を……」

 Sento Nel Core(私は心に感じる)。ダカーポアリアと呼ばれる三部形式で主部が二回表れる。初めは哀歓を持って、こんなにも心を乱されているという苦悩を歌っていた。

「splende una face che l'alma accende,」
 (魂に火をつける松明が輝く)

 そしてふと開放される瞬間が訪れる。導かれた答えに確信する。

「se non è amore, amor sarà.」
 (もしそれが愛でなくても、いつか愛になるだろう)

 綺麗なテノールが大事に抱きしめるように言葉を紡いでいた。“amore” と歌う声は優しくて、切なくて、俺は心臓を握られたような気になって胸を押さえていた。
 再び表れた主部が、今度は駆け出していくような盛り上がりをみせて歌は終息した。余韻に浸っていたら、歌い終えたカイトにじっと見られていてはっとした。

「どうでしたか……?」
「格好良かったよ」
「ありがとうございます……っ」

 どうしてその曲にしたの? とは聞けなかった。深く考えないようにしている事から目を逸らさずに、ちゃんと向き合わなければいけないような気がした。甘い香りが思考を鈍化させるようだった。
 俺は食べ掛けのマフィンをカフェラテで飲み下して、フォークを置いた。

「もう腹いっぱい……」
「それなら今日はもう片付けますね」
「カイトはまだ食べててもいいけど」
「一緒に食べたいので」
「そう? まあ、明日、気を失うまで食べてもらうから」
「はい」

 多少なりとも動ける状態でセンターに行っても深刻さが出ないという理由で、本当に昏睡するまで食べると言い出したのはカイトだった。俺はそんなに危ない橋を渡らなくてもいいと心配したが、カイトは、ゆっくり処理を行っているだけで時間が経てば普通に目が覚めるから大したことではないと言ってきた。ただ、確かに傍目には不安にさせてしまうだろうから、アンドロイドに不慣れな俺が騒いでも不自然ではないという事だった。
 カイトもよく考えている。MASTERのために――。


 午前六時。いつも通りに起床し、カーテンを開けて見上げた空は淡く光に満ちていて、今日は晴れそうだと予感させた。一日忙しくなりそうだから多めに朝食を摂っておこうかなと、扉を開いた途端、「おはようございます」と声がして驚いた。

「わっ……、カイト! 早いな。おはよう」
「朝食の準備を手伝いたかったので」
「気にしなくていいのに。何時に起きたの?」
「五時半です」
「……まさかずっとここで待ってた?」
「はい」

 どこのボディガードだ。
 しかし、これから一緒に生活していくなら朝食の準備をしてもらうのもいいかも知れない。役に立ちたいというカイトに甘えてしまおう。

「俺は毎朝六時に起きるから、目覚ましで何か歌ってくれる?」
「任せてください」
「うん。じゃあ、朝食作ろう」

 今朝はトースターにパンを入れるとか、レタスをちぎるとか簡単に出来る事だけやって貰った。火を使わせるのはまだ不安だし、追々覚えてもらえればいい。

「昼過ぎに帰ってくる予定だから準備しておいて」
「はい。食べるのに時間が掛かるので、昼までにたくさん食べておきます」
「そっか。帰ってきたら具合悪そうなカイトが待ってるのか。緊張するな」
「大丈夫です。車までは保てるように調整します。あとの事はお願いします……」
「うん……。カイトを運ぶのは骨が折れそう」

 本人が言うのだから本当に大丈夫なのだろうが、どうにも不安で落ち着かなくて、日課のランニングに出るのは止めにした。何か歌ってとカイトに頼んだら、ガスパリーニの『カロラッチョ(いとしい絆よ)』を歌い出した。また、おはようと言えるように、今日一日を乗り切ろう。俺はカイトのパートナーになりたい――。

「カイトの目が覚めたら、俺がマスターになってるんだな」
「はい。貴方の傍に居ます」
「……!」

 カイトは柔らかく笑って、事も無げにそんなことを言ってきた。

「……カイトはもっと自分のことを考えよう」
「それなら……、目が覚めたら、僕にまた言ってもらえませんか?」
「ん? 何を?」
「僕を好きだと」
「え」
「すごく嬉しかったんです。マスターの貴方に言ってもらえたら、もっと幸せだろうって、考えてます」
「……っ」
「だめですか……? 自分のことを考えたつもりでした」
「……だめじゃないよ」
「良かったです……!」

 俺は自分をごまかす言い訳も作れないまま、煩く鳴り響く鼓動に支配されていた。今、気が付いたなんて言ったらウソになる。本当はずっと前から感じていた事だ。心臓の跳ねる理由を――、なんと言えばいいのか。


7

 一列に連なる電灯。手すりの続く長い廊下。処置中と光る無機質な扉。その前に置かれたベンチ。OID研究センターの内部は病院と変わらない。本来なら不安で押し潰されていたところだろう。
 一時間程前、帰宅した俺の目に飛び込んできた景色は異様だった。テーブルの中央には、これを全て食べたのかと驚くほどの数の、敷き紙やカップのごみが綺麗にまとめられていた。その前で、瞬き一つせず突っ立っているカイトが居た。
 意識を保つためなのか分からないが、なぜか素数を唱えているカイトに「しっかりしろ!」と呼び掛けると、「待ってました、ずっと……」と弱々しく返事をして、一切喋らなくなった。
 カイトは朦朧とした様子で何とか車まで辿り着き、後部座席にぐったりと倒れ込んだ後、全く動かなくなった。重体にしか見えなかった。
 『三十分で到着します』と暢気にナビする車に、近道しろ、信号に捕まるなと指示して走らせた。緊急受付に突っ込む勢いで車を横付けさせた俺は、何事かと駆け寄ってきた所員に向かって叫んだ。「カイトが呼んでも起きないんです!」と必死で伝えたが、その場で軽く検診をした所員は「あー、はしゃいで食べ過ぎましたか?」とのんびり聞いてきたので拍子抜けした。
 時間が掛かりそうだから胃洗浄を施そうという事になって、今はそれが終わるのを待っていた。
 しんとした廊下を歩いてくる音が聞こえて顔を上げると、先程、緊急連絡を出してくれた所員に声を掛けられた。

「今、宜しいですか?」
「はい」
「先方から、所有権の譲渡と諸手続きを委任するという返信がありました」
「あ……」
「管理局で登録の更新を行いますので、そちらにお回りいただけますか」
「はい」

 思っていたよりずっと早い対応だ。〈不法投棄〉という言葉を盛り込んだのは正解だった。突然、知らない人間からチップカードに連絡が来るなんてさぞ驚いただろうが、こちらの意図を理解してくれたようで良かった。MASTER思いのカイトに感謝しろよ。

「処置は後十分ほどで終了します。再起動の必要があるので手続きが終了次第、もう一度こちらにお越しください」
「分かりました。お手数お掛けします」

 連絡通路を使って管理局に入ると、十数名の局員が黙々と仕事をしている中、金髪の少女と若い女性がきゃっきゃっと戯れているのが見えた。あの人たちも登録に来たのだろう。楽しそうで何よりだ。
 ネットワークの公簿を照会され、本人確認が済むと、備考覧に “The master of KAITO XXXXX” という表記が加えられた。軽く説明を受けて指紋登録を終えた頃には、カイトのマスターになるんだなという実感が湧いてきた。
 処置室に戻ると、カイトはアームに支えられるようにして立っていた。まだ目を閉じたままだ。

「ご足労お掛けしました。KAITOを起動させてください」
「はい」

 前回は俺がスイッチに触れてもエラーを返された。『あなたはMASTERではない。赤の他人だ』そう言われたようだった。
 手触りの良い柔らかな髪を掻き分けてスイッチを探した。こめかみの上の辺りに確か――、あった。薄っすらと浮かぶ指紋認証のマークが、所有者に押されるのを待っていた。どこか祈るような思いでそっと指を当てると、マークはすぐさま緑色の光を帯びて、カイトの眉がぴくりと反応した。そのままゆっくり瞼が持ち上がるのが見えた。

「おはようございます」
「うん……。おかえり、カイト」
「はい! ただいま戻りました」

 にこっと笑んで返事をするカイトにほっとした。良かった。また会えた。
 気が抜けてぼうっとしていたら、「問題ないですね。本日はお疲れ様でした」という所員の声が聞こえて、慌てて礼を述べた。「また食べ過ぎるといけないから甘いものは隠しておいたほうがいいですよ」と冗談交じりに言われ、「まさか倒れるとは思わなくて。気を付けます」と笑ってごまかした。
 センターを出ると、カイトは足を止めて「ありがとうございました」と言ってきた。前のMASTERに関する礼だろう。律儀なやつだ。

「俺がしたくてやったことだから気にしなくていいよ」
「マスター」

 深い海のような瞳がじっと俺を見てそう呼んだ。

「あ……、そうか。……何か照れるな、それ」

 諸々の手続きを終えて自覚したつもりでいたけれど、実際カイトに言われると、不意に距離が縮まったようでどきりとする。

「貴方をマスターと呼べて、幸せです」
「俺も嬉しいよ」
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしく」

 車に向かおうと歩き始めると、カイトは横に並んで顔を覗き込んできた。

「マスター、言ってもらえませんか?」
「……何を?」
「好きだと」
「……」

 もう何度目か分からない、掴まれた心臓がどくんどくんと鳴って俺を責め立てた。無邪気な様子で催促してくるカイトに悟られないようにするので精一杯だった。

「マスター」
「……スキだよ?」
「嬉しいです!」

 食べ物の好き嫌いを言うのと同じで深い意味はない、別に大した事ではないと自分に言い聞かせた。
 本音を知られてカイトに拒絶されるのが怖かった。カイトはMASTERを否定などしないのかも知れない。けれど、そんな都合の良い存在にしたくなかった。それならどう思ってくれたら納得できるんだろう?
 あまり広くない車内は、きちんと座っているカイトと三十センチメートルぐらいしか距離が取れなかった。早くこの狭い空間から抜け出したかった。『往路と同ルートで二十分で到着します』と暢気にナビする車に、最高速度を保て、レーダーは避けろ、と無茶振りをして走らせた。


8

 アンドロイドに恋をした。
 俺の頭はメルヒェンの国に行ったきり、帰って来れなくなっているようだった。ここはお菓子の家で、無垢な子どもは甘い香りにつられて閉じ込められてしまうのだ。魔女は誰――?

「マスター、それだけでいいんですか?」
「うん。今日はいろいろあったから、食うより早く寝たい」

 胸が苦しくてろくな食事も摂る気になれなかった。思っていたより重症みたいだ。
 味のしないスープを流し込んでいる横で、カイトはアイスキャンディーを頬張っていた。消化しやすいようにか、口の中で溶かす癖があるようで食べるのが遅い。ああ、ほら、端から垂れていく――、

「……! カイト……、」
「はい……?」
「食べるの下手だな……」
「あ……、みっともなかったですか? ごめんなさい……」
「まあ、キャンディーは食べづらいから分かるけど」

 確かに手に垂れてきたら咄嗟に舐めるだろう。ただ、カイトは何でもお行儀良くこなしていたから、手を伝うアイスを舐め上げる姿にびっくりした。

「……。もう寝る……。おやすみ……」
「え。はい……、おやすみなさい……?」

 俺はどうかしてるみたいだ。カイトは夢中で食べていただけなのに、目に焼き付いて離れなかった。
 ベッドに潜って落ち着かせようとしても、体はどんどん熱くなっていく。膝を抱えようとして太腿に触れたそれに嘆声が漏れた。暫くしていなかったからだと言い訳をして、さっさと出してしまえばいいと思い直した。ふるえる両手で服を脱ぎ捨て、手を当てると、自分のものではないみたいに体が急いて腰を揺らせた。

「……ッ」

 息を潜めて意識を集中させる。何を思い浮かべれば早く昇り詰められる?

「っは、ぁ……、カ、ィ……」

 早く早くと兎が跳ねて、誘われるまま甘い匂いのする方へ走った。着いた先ではお茶会をしていた。食べ切れない程、たくさんのケーキが並んでいるのに座っているのは一人だけだ。帽子を被った男は恍惚とした表情で、一心不乱にショコラを食べていた。そのままじっと眺めていたら、俺に気づいた男はにこっと微笑み、目線で椅子に座るよう促してきた。湯気を上げている紅茶が鼻先をくすぐり、飲んでいいのか尋ねようとすると、男は行儀悪く指に付いたショコラを舌で舐めていた――、

「カイト……」
「はい……」
「……ッ!」

 扉の向こうで声が聞こえた。びくっと大きく驚いた俺はティーカップを取り落として、現実に引き戻された。

「入ってもいいですか?」
「だめ……」

 カイトなら額面通りに受け取るだろうと思っていた。
 けれど、今おそるおそる扉を開いて、お菓子の家に入ってきたカイトはもう従順な犬ではなかった。『地球は自転しています』と彼の言った言葉をふいに思い出した。だからこうするのだと。

「言葉に背いてすみません。貴方が僕を呼んでいたから」
「……」
「傍に居させてください」

 壁を向いていたから表情は見えなかったけれど、カイトが枕元に跪いたのが分かった。きっと騎士みたいに格好良いだろうと、ふやけた頭で考えた。

「今は……、だめだ……」
「……」

 カイトは少しの間、そのまま黙って控えていたが、あっと小さく声を漏らすと宥めるような調子で俺に言ってきた。

「マスター、まだ肌寒いのに風邪ひきませんか?」
「……っ、……大、丈夫……」

 脱ぎ捨てた服を見つけられてしまったようだった。何て言い訳すればいい? いつもこの格好で寝ている? 暖房も点けずに? 毛布にくるまっているくせに? 下衣も纏わずカイトの名前を呼んでいたのに――。
 何も言えない俺に、カイトは甘やかな声でそっと告げてきた。

「触れてもいいですか……?」
「……」

 答えられなかった。カイトはどんな表情をしている? 何でそんなことを言ってきた? 嫌じゃないのか? かまどの火を覗き込んだら突き落とされてしまうのかな――? 思考はあさってな方へふらふらと彷徨う。

「失礼します」
「待、っ……!」

 ろくな抵抗も出来なかった。簡単に毛布を捲られ、外気に晒された肌がふるえた。逃げ場所なんてどこにもない。背を向けたままの俺に絡み付くかのように腕が伸びてきた。

「楽にしてください、マスター」
「……い、ぁ……っ」

 体の真ん中で形を変えたそれをカイトにやんわりと掴まれて、頭がくらくらした。本当は、触れてほしかった。触れてほしくなかった。
 どうしたらいい。カイトの顔が見れない。ぎゅっと目を伏せて堪えているしかなかった。

「今は何も考えないで、じっとしていてください」
「あ……っや……、ぁ……、く……っん……」

 敏感な口の部分を親指でくるくると弄られると、もうどうしようもなかった。指を動かされるたび喉が鳴いて、ああ気持ちがいいんだなと他人事のように思った。

「カぃ……っ、そ、れ……、やめ……、やぁ……っ」

 優しい掌が、俺の膨れ上がった本心をためらいなく撫でていく。歓喜にむせぶ体を抑えることなど出来ず、情けなくなってきて涙が溢れた。

「ぅ……っく……、ふ、ぁ、……っ」
「……マスター、大丈夫ですから」

 覗き込んできたのだろう、甘い香りが鼻先を掠めて目じりにキスをされた。一瞬、頭の中が真っ白になって、別の生き物のように暴れていた熱が弾けたのを感じた。

「……ッ、は……、っは……、ごめ……」
「謝らないでください」

 体の熱が引いても、涙はぼろぼろと零れて止まらなかった。何でこんなに泣けてくるんだっけ――? カイトを想像して一人でしていたこと? それを見られたこと? カイトが引かないで触ってくれたこと? 喜んでいる自分に嘘を吐けなかったこと? カイトが同情でそうしたかも知れないこと?

「俺、どうかしてた……」
「どうもしてません」
「……」
「体を拭かせてもらえますか」
「……放っておいて」
「放っておけません……。貴方が泣いてるのに」

 そう言うカイトにまた目の奥がじわっと熱くなった。誰のせいで涙が止まらないと思っているのか。――いや、自分のせいだ。勝手に好きになって勝手に泣いているくせに、俺はどんどん嫌なやつになっていく。
 湯に浸した布巾を取ってきたカイトは、俺の体を仰向けにさせようとして肩に手を置いた。俺は体に力を込めて、そんなことしてくれなくていいと抵抗した。まだ真っ直ぐに向き合うことが出来そうになかった。

「お願いです……。僕のこと、嫌いにならないで」
「何で……、なるわけないよ。こんな……」
「それなら」

 震えた声にはっとしてカイトを盗み見ると、今にも泣き出しそうな顔で布巾を握り締めていた。
 俺たちは一体、何をしているのだろう。俺は破れかぶれになって思っていることを吐き出した。

「ごめん……、好きなんだ……、カイト……」
「僕も、好きです……」
「……。……好きだから触ってほしくない」

 我ながら矛盾したことを言っていると思った。だけど、同情でそんなことをされても余計哀しくなるだけだ。

「……分かりません」
「俺の好きとカイトの好きは違うだろう……」
「そうでしょうか」

 カイトは俺の肩をぐいと引き倒して、あっと思う間もなく正面に捕らえられていた。綺麗な顔がショコラを食べる時のようにうっとりしている。あの唇が薄く開いて、ふるえる俺の声をカイトはゆっくりと飲み込んだ。

「っ……」
「幻滅しないでくださいね。……貴方の泣き顔、興奮します」
「……!」

 どういう意味――。凝り固まった思考が理解するのに数秒掛かった。
 かまどで火が燃えていた。魔女と子どもは一緒に眺めて暖を取っていた。

「僕はどうかしてますか?」
「……してない。……っ、」
「マスター……?」
「嬉しい……。俺はおかしい……」
「そんなこと言わないでください」

 俺は今、どんな顔をしているだろう。鏡を見せられたらきっと叩き割ってしまう。
 大人しくカイトに体を拭われていた。まだ恥ずかしくて顔を背けて目を伏せていると、首筋に柔らかな感触を落とされた。

「吸い付きたくなりました」
「は……」

 クリームもイチゴも乗っていない、ショコラの味なんてしないけれど、小さく舌を出したカイトに肌を舐められた。
 せっかく引いた熱がまた上がってしまうからやめてほしい。隠すことなど出来ないのに。

「もういいよ……、それ以上されると……」
「マスター」
「ん……」
「抱かせてください」
「……っ」

 吸い込まれそうな深い青色の目がじっと俺を見ていた。心臓がばくばくと跳ねて、上手く息が出来なかった。返事を請うカイトは悪魔なのだろうか。体を拭っていたのなんて愛撫でしかないじゃないか。

「……だめだって、言ったら……?」
「泣いてしまうかも……」
「泣き落としとはずるい。……人の事は言えないけど」
「いえ……」
「……カイトの泣き顔はすごく綺麗だった。胸を打つくらいに」
「マスター」
「いいよ……」

 小声でそう言うと、カイトは息を零して俺の手を取り、甲に口付けた。 『敬愛しています――』跪いた騎士はそう言っただろう。カイトの一挙手一投足が俺の心を掻き乱していく。お菓子の家を作ったのはカイトかも知れなかった。



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