捨てられたアンドロイドを拾った。
何かのドラマみたいに犬猫がダンボールに入れられていて、傍らに『拾ってください』なんてメッセージがあったわけではない。家出青年を保護したのに近いだろう。
帰宅する道すがら、石垣にもたれて立っていたソイツと目が合ったのだ。瞳は深い海のような青色で、目深に被った帽子からこぼれる髪も青み掛かった黒に見えた。端整な顔立ちをしている背の高い男だ。
近所で見たことのない人だ。どこかの家に遊びに来たのかなと思ったが、この辺りは住宅も疎らで、こんなモデルのような人が訪ねてくる家といえば限られている。一丁目の三井さんの所ぐらいだろう。立派な邸宅でハスキー犬を三匹も飼っているし、庭木の剪定も専用のロボットにさせているのを見掛けたことがある。有名人の一人や二人、知り合いに居てもおかしくない。
しかし、待ち合わせにしては随分、中途半端な場所だ。もしかしたら道に迷って困っているのか、案内したほうがいいのだろうかとぼんやり考えた。
すれ違い様にたまたま目が合ったというには、些か長い間見つめ合っていたかも知れない。確かに、思わず見蕩れるような容姿をしていたが、それだけではない。ガンを飛ばされているような嫌な感じがなく、何か助けを求めるような物言いたげな目をしていたせいでもあった。
一応、声を掛けておいたほうがいいかと思った矢先、口火を切ったのは彼だった。
「あの、畏れ入りますが」
「はい」
アナウンサーみたいに聞き取りやすい、爽やかな声だった。
三井さん家なら案内できますよなんて思いながら、俺は気軽に返事した。
「カイトと申します。突然、こんなことを言うのはご迷惑なのは分かっていますが……、宿を貸してもらえませんか」
青年は心底困っているという様子でそんなことを言ってきた。
「え……」
一瞬、固まってしまうほど驚いた。
三井さんと喧嘩でもしたのか? そもそも三井さんは関係ないのか?
同居人に追い出されたとか? 泊めてくれる知人ぐらい居るよな?
もしかして全国を旅してる人? いや、この人手ぶらだし。
もしかして泥棒の類?
いろんな可能性が浮かんでは消えて混乱した。
「主人が居なくなってしまって……、他に頼れる人も居ないんです」
「はあ……?」
主人っていうのは雇い主のことか? 住み込みで働いてたとか?
居なくなったって亡くなったのか? 行方不明? 夜逃げした?
俺の頭の中はクエスチオンマークでいっぱいだった。
「カイトさん、どこから来たんですか。何でこんなところに?」
「主の居た住所は、防犯のため申し上げられません。区内であることは間違いありません。人気の少ないほうへ歩いてきたらこの辺りに着きました」
「あー、そうなんですか……」
正直、それだけ聞いても怪しすぎた。奥歯に物が挟まったような返答だ。防犯のためって何だ。区内と言われても広すぎる。なぜ人目を避けているのか。
歳は俺より少し上ぐらいだろうか。口調が落ち着いているからそう感じたが、案外年下かも知れない。
昔から『足元を見る』なんていうけれど、実際、履いている靴の質や手入れ状態でその人の生活振りや価値観が見えてくる。カイトのものは、型崩れのないキレイな革靴だ。
言ってることは曖昧だが、身なりも悪くない彼が、捨てられた子犬のようにしょんぼりしているのは気の毒だった。日もすっかり暮れ、もう野宿するしかないのではないかという状況で置いていけるほど俺も人非人ではない。
「まあ、立ち話もなんだし、いいですよ。うちで良ければ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
綺麗にお辞儀をしたカイトは、ほっとしたように破顔した。
その表情はずるいなあと内心動揺した。人懐こくてかわいかった。
「客間は無いから、ソファで寝てもらうことになりますが」
「構いません。それから敬語も使って頂かなくて結構です」
「そう?」
カイトの振る舞い、話し方の端々から育ちの良さが窺えるようだった。そもそも『主人が居なくなってしまって』だ。秘書でもしていたのだろうか。妙に浮世離れしたところがあるから、『資産家の執事をしていました』と言われても納得してしまえそうだった。
「うちここだけど、玄関あがってちょっと待っててくれますか」
「はい。お邪魔します」
「そこのハンガー使っていいっすよ」
「ありがとうございます。お借りします」
敬語じゃなくていいと言われたが何だか丁寧に喋ってしまう。
カイトが黒のオーバーコートを脱いでいるのをちらと見遣って、リビングに向かった。
「ロア、戻れ。よしよしご苦労さん」
ロボット掃除機のLOAは、今日も元気に床清掃してくれていたようだ。子どもの頃、家にあったタイプは駆動音が煩かったものだが、今では全く気にならなくなった。
ロアは速やかにホームに戻って充電を始めたので、俺は廊下に顔を出してカイトを呼んだ。
「どうぞー」
「失礼します」
「適当にソファに座って。飲み物、淹れるんで。カフェラテでいい?」
「はい……」
コーヒー好きが高じて買ったマシンだが、客人をもてなす際にも重宝する。コーヒーは苦手と言われたら、麺つゆしか出せないような家だが。
「ガムシロ要る?」
「お願いします」
お。甘いほうが好きなのかな? 少し意外だ。
俺の友人に、大人しくカフェオレにしとけよと思うほど大量にガムシロを入れる奴が居て、常備しておくのを止めようかとも思っていたがよかった。
「ほい、どうぞ」
「いただきます」
「不躾だけど、カイトさん……、」
「カイトでいいです」
「分かった。カイトはこれからどうするの」
「行く宛ては……」
カイトは下を向いて言葉を詰まらせた。
無いのだろう。カプセルホテルに泊まるとか、役所に相談するといった選択肢が無かったぐらいなのだから。
「……腹は減ってない? そういえば帽子ぬげば?」
「食事はなくても平気です。……帽子は申し訳ありません、挨拶の時も取らず」
「いやー、別にそういうのはいいんだけど。その格好がいいなら気にしないよ」
「すみません……。僕に手伝えることがあったら言ってください。何のお礼もできないので……」
「そうだなあ。俺はご飯は外で食べてきたし、掃除もロボットに任せてるから特にないなあ」
「ロボットに?」
「うん。そこのロアもそうだけど。帰ってきた時、床をくるくる回ってるのが見えると何か和むね」
「……」
世間話でもして寛いでもらおうと思ったが、カイトは黙ってしまった。
ロボットは好きじゃないのかな? 執事として自分の手でしっかりやりたいとか。確かにロボットに職を奪われかねない所もありそうだ。この五十年で雇用形態も様変わりしたと、経済学の講師が言っていたっけ。いや、勝手に元執事にしてしまっているけれど。
「ロボット好きですか?」
「ん? うん、好きかな。便利だし、浪漫もある。カイトは苦手なの?」
「……」
思い詰めたような顔をしてまた黙ってしまった。なんだ、ロボットに対して並々ならぬ憎悪でもあるのか。もうこの人、完全にロボットに職を奪われた人だ。
どうしたものかなんて考えても、思っていたよりお人好しだったらしい俺の答えは決まっていた。
「……もし、あれなら仕事が決まるまでうちに居てもいいけど」
「え」
「行く宛てないって言ってる人に明日には出て行けなんて言えないよ」
「でも、ご家族の方は」
「一人暮らしだから遠慮することないよ。もし、あんたが強盗だったらその時はその時だ」
「そんなことしません!」
カイトは真っ直ぐに俺を見て声を上げた。天藍石のような眼が強い光を放って、一瞬、目を細めてしまうほど綺麗だった。
「ごめん。例えが悪かった。今日はもう疲れてるだろうし、風呂使っていいよ」
「いいえ……、すみません。見ず知らずのものにこんなに親切にして頂いて。本当にありがとうございます」
「気にしなくていいって。カイトなら直ぐ仕事も見つかるよ」
「……」
三度、押し黙り、しゅんと落ち込んだ様子のカイトに昔飼っていたリトリバーを思い出した。えさ袋を勝手に破って食べた時とか、カーペットで粗相をした時とか、叱ったらこんな感じだった。
この人を手放すなんてカイトの〈主人〉も惜しいことをするなと思った。ロアでも眺めていたら面白いものだが、褒めてやっても反応なんてしない。まだまだハウスキーパーの需要が落ちないのは、この辺りに理由があるだろう。
「それじゃ、俺は着替えと毛布を持ってくる。あ、丈が合わないか。うーん……」
「あの、服はこのままでいいですから」
「いやいやいや。確か甚平がクローゼットにあったから、あれなら着れると思う」
自室に向かうついでに玄関の戸締りをしに行ったが、カイトの靴が外側に揃えて置いてあるのが見えて、やっぱりきちんとしてるよなと思った。箸の使い方なんてすごく上手なのではないか。逆に、ナイフとフォークに慣れていて、箸じゃ豆も掴めないと言われても頷ける。豆つかみゲームなんてあるが、不器用な箸さばきで転がる豆を追い掛けるカイトを想像したら、何だか滑稽で笑えた。
「じゃあ、おやすみ。喉が渇いたら適当に水でも飲んで。あとは麺つゆしかないから」
「はい。服もありがとうございます。おやすみなさい」
フリーサイズの甚平はカイトでも無理なく着れたようだった。裾が若干短く見えるが許容範囲だろう。それより甚平に着替えても帽子を外さないカイトに、どんな拘りか悩みがあるのか分からないが、不審に思うよりも愉快さのほうが勝って突っ込む気も起きなかった。暫く居るなら、そのうち知る機会もあるだろう。
毎朝六時。狐色に焼いたトーストにチーズとスクランブルエッグ、レタスを乗せて、仕上げにオーロラソースを掛ける。お手軽サンドイッチを腹に入れたら、ゆっくりストレッチをしてランニングに出ている。なかなか健康的な生活ではないだろうか。
遠くのほうからポッポーポッポーと山鳩の鳴く声が届いた。この声を聞くと物悲しい気持ちになるから不思議だ。『山鳩が鳴いたら雨になる』なんて祖母に聞いたことがあるが、結構当たることが多い。今朝は薄雲が多くて一雨来そうな空模様だった。
「あ、おはよう。カイト」
シャワーを浴びて水を飲もうとリビングに入ると、青白い顔をしたカイトと会った。
「おはようございます。起床が遅くて申し訳ありませんでした」
「え。いやいや、別に普通だと思うよ?」
時計を見れば六時三十五分。言うほど朝寝坊でもないだろう。それにカイトは客人なんだ。いや、居候になるのか? それにしたって夕方まで寝転んでたわけでもないのだから気にするほどではない。
「やっぱりソファじゃ休めなかったかな?」
「いいえ。どこでもすぐに眠れます」
「あはは! よかった。でも家の中のほうが安心だよね」
「はい……、ありがとうございます」
「まあまあ、枕が変わっても眠れるとは言っても野宿は辛いよ。ところで、朝飯、パンしかないんだけどいいかな?」
「食べないので……、お気になさらないでください」
「そうかー」
朝は食べるより寝ていたいとか、食べると気持ち悪くなるとか言う人も居るけど、朝食は少しでも摂ったほうが一日のエネルギーが満たされると思う。
「今日はどこかにお出掛けになりますか?」
「うん、今日は休みだから美術館に行こうと思っ……、あ、人材紹介所もやってないな」
「あ……」
失念していたが今日明日は祝祭日だった。土曜日ならまだしも役所系はどこも閉まっている。どちらも駅の近くだし、一緒に出掛ければいいかと思っていたが予定が変わってしまった。
「カイトも行く? 美術館。招待券だから無料で入れるけど」
「どこの美術館ですか」
「末谷町でやってるモダンアート展」
「末谷町の……、行けます」
カイトは少し考えるような顔をして、出欠を述べるような返答をした。
気軽に誘ってしまったが、興味がないとつまらないかと思い直した。きっと気を使っているだろうし、疲れるだけでは意味がない。
「あ、退屈だったら無理して付き合わなくていいよ。家で寛いでていいし」
「……行きたいです。美術館好きなんですか?」
「うん、好き。良い刺激をもらえる。仕事でデザインやってる関係でチケットもよく貰えるんだ」
「そうなんですか。素敵ですね」
そう言って穏やかに微笑んだカイトのほうこそ素敵だった。そういえば最初はモデルみたいだと思ったのを思い出した。
「カイトは執事でもしてたの? それともモデル?」
「しつじ? えーと……、その……」
「聞かないほうがいい? 言いたくないならいいよ」
「……。ありがとうございます……、」
カイトは何だか泣きそうな表情をして、言葉を詰まらせながらゆっくり続けた。
「優しい人に出逢えて、僕は運が良かったです……」
「そうかな?」
我ながらお人好しかなと思うことはあるけれど、言いづらそうにしていることを根掘り葉掘り聞くような趣味はない。カイトは何やら事情も複雑なようだし。
「美術館から帰ったら……、お話を聞いて貰えませんか」
「ん? 何だろ。先立つ物がないなら少しは貸せますよ」
「いいえ。無心とかではないです」
「そう?」
宿に窮しているくらいだから困っているかなと思ったが、どうやら違うらしい。もしかしてカプセルホテルの存在を知らないとか? この人だとあり得そうだから不思議だ。しかし、住所不定ではろくな仕事も紹介されないだろうし、居住地をここにしたいと言われても承諾するつもりだ。
「美術館開くまで時間あるし、気になることがあるんだけど……」
「はい……」
カイトは何を聞かれるのだろうと思ったのか、顔を強張らせた。そんな不安そうな表情をしなくても、無理に聞き出そうとするつもりはないのに、膝を揃えて言葉を待つカイトが面白くて俺もわざと真面目くさった態度で続けた。
「カイトってお箸使える?」
「え……。え? オハシ?」
予想だにしないことを聞かれたといった様子でカイトは一瞬、固まった。宿を貸してくれと言われた時、俺もこんな感じだったのかなと思うと可笑しかった。
「箸。ご飯食べる時に使うやつ」
「あ……、使えます」
「得意?」
「普通ですね」
「そっかー」
ちゃんとしているカイトのことだ。それは箸だって使えるだろう。でも、 『使ったことがありません』 と言われても納得できそうだったから妙に残念な気持ちだ。
「お箸で何かあるんですか?」
「いやー、箸使い上手そうだなーって思っただけなんだけど」
きょとんとした顔で尋ねてくるカイトに、ナイフとフォークが似合いそうだからとは言えなかった。
「手先は人並みだとは思います……」
「じゃあ、ゲームしようよ」
「ゲームですか?」
「うん。豆つかみゲームって知ってる? いろいろあるけど、お椀からお椀に豆を移動させたりする」
「僕の箸使いのテストですね」
「いやいや、ただの遊びだよ。俺と勝負。まあ、持ってないんだけど……、何かないかな……。あ、ネジとかいいかも」
俺がちょっと待っててと言うと、カイトは背筋を伸ばして頷いた。いや、そこはだらけるところだと思う。
割り箸二膳に小さめのトレーが四枚、それから大量のネジを持ってきた俺にカイトは目を丸くした。
「すごい量ですね、ネジ」
「子どもの時に宝物とか言って集めててね。今もボルトとか好きだけど、こんなに要らないね」
「そうなんですか……っふふ」
出逢ってまだ丸一日も経っていないが、カイトはいろんな表情を見せてくれる。口元を綻ばせた彼に、やっぱり笑った顔が良いよなと俺もつられて笑った。
「では。左のトレーのネジを、右のトレーに、一分間でどれだけ移動できるか……、」
「はい……」
「スタート!」
俺は箸使いにはそこそこ自信はあった。スピードはないかも知れないけれど、ネジなんて掴みやすいものだし。しかし、先が四角くなっている割り箸は少々扱いづらい。
横目にカイトをみると確かに上手かった。大小さまざまなネジを選り分けながら、邪魔になるものを先に移動するといった具合にどんどん処理していっている。何より正確だ。
あと何秒だ……? 残り二十秒……、これは厳しいかも知れない。小さいネジが非常に厄介だ。誰だよネジなんかで始めたのは。俺だよ。
ピピッ――……。ピピッ……。
ネジの擦れ合うジャリジャリとした音を裂き、軽快な電子音が終わりを告げた。
結果は一目瞭然というわけにはいかず、数えてみなければ分からない。
「割り箸は掴みづらいなー。カイト、自分の数えてくれる? 二……、四……、六……、八……」
「小さいネジが難しいですね。四十個でした」
「早いな! 数えながらやってたのか。三十……、四十……、四十六!」
「負けてしまいました」
「カイト、途中で手ぬいたな?」
「え、そんなことありません」
タイムが半分過ぎた頃、カイトのほうが多く移動できているように見えた。遊びだなんていってもやっぱり気を使わせたのだろう。接待させるような感じになってしまい、申し訳なくなった。
「カイトはやっぱり箸使いが良い。うん」
「合格ですか?」
「テストじゃないってー。でも、カイトならうまくやっていけると思うな」
「……。……はい」
あ、また黙らせてしまった。一応小さく返事はしたものの、昨夜と同じ、叱られて落ち込んだような表情。
どうも前職に関することはショックが大きいようだ。主人が居なくなったという状況がいまいち不透明で、もしかしたら戻ってくる可能性はあるのか、自信を失くしていて先のことを考えられなくなっているだけなのか、分からないことも多く、安易に励まさないほうがいいのかなと考えた。
「俺、コーヒーマシンのメンテナンスしてるから、カイトは好きなことしてていいよ。テレビのリモコンそれね。雑誌も勝手に読んでいいし」
「僕もお手伝いできませんか?」
「メンテ? うーん……、あ、そうだ。戸棚の上とか掃除して貰える?」
「はい! 任せてください」
手持ち無沙汰にしているよりはいいのか、カイトは力強く答えてハンドワイパーを握り締めた。背があるから高い所を掃除してくれるのは助かる。
「そういえば、ロアがそろそろフルになるな……」
「ふる?」
「あ……、こっちの話……」
コーヒーの濾しかすを捨てながら、ふと思い出したことを呟いていた。カイトはロアだか、ロボットだかが好きじゃなさそうなのに、また口を噤んでしまうかもとひやりとした。
「僕、やりますよ」
「え……、ロボット苦手じゃないの?」
「苦手ではありません」
「そう……? ごみが満杯になりそうだから捨てようと思ってるんだけど」
「分かりました。すぐに点検します」
カイトは途中まで掃除していた棚をすっかり綺麗にしてから、ロアに取り掛かった。丁寧な手付きで嫌々やっているふうには見えない。それなら昨夜、黙ったのは何故だろう。俺が好きだと言ったから涼しい顔をして我慢してやっているとか? いろいろな表情を見せるカイトだが、心の内は複雑そうで計り知れるものではなかった。
俺の通うオフィスのある都市部を中心に現代化は進み、モーターカーの排気で煤けていたという建物やガードレールも映画や写真でしか見たことがない。都市部は真白いビルが整然と立ち並び、チューブで繋がれたビル間をエレクトリックカーが行き来している。三十秒置きに稼動しているそれは専らの移動手段だ。
そして、施設の入退場や物品の売買などあらゆる事がネットワークを通して行われていて、厳重なセキュリティ監視の下、秩序を保っていた。
街路は等間隔に植木が立ち並び、人々の行き交う賑やかな場所だったが、祖母と出掛けた時に『能面のようだ』と言われた言葉が忘れられない。無機質で、息の詰まる、ディストピアのようだと。
子どもの頃は、祖母の言っている意味がよく分からなかった。俺にとっては当たり前の環境で、身分照明のできるチップカードを一枚ポケットに入れていれば困ることはなかったから、どうしてそんなことを言うのだろうと思っていた。
時々訪れる末谷町は、未だ電子化に乏しくレトロな町並みを残していた。チップカードが使える、或いは必要になる場面は無いに等しい。ほとんど見かけなくなった硬貨や紙幣を用意してこなければ、飲み物ひとつ買うのに苦労する。
この地へ足を踏み入れると、祖母の言っていた意味が分かるような気がした。生まれ育ったわけではないのにどこか懐かしい、胸を掻き立てるような郷愁を覚えた。
「ほい、招待券、カイトの分」
「ありがとうございます」
「珍しいよね。紙なんて。コードも書いてないし。こんなので入れるの? って思ったな」
「チップカードで入場番号を確認するのがほとんどですからね」
「ちゃんと印刷されてるけど、何か手作り感がある」
「ふふっ、そうですね」
風に飛ばされてしまいそうなぺらぺらな小さな紙に、タイトルとメインの展示物、開館時間などの記載があるだけだ。同僚に『招待券届いてるよ』と言われて初めて見た時はジョークだと思ってしまった。
美術関連の仕事をしている人や学生には穴場として知られているようで、顔見知りの人がよく来ていたが、今日は空模様が不安なせいか、館内には片手で数えられる程度にしか人が居なかった。
「一緒に観て回ってもいいですか?」
「うん。来るの二回目だし、一緒に回ろうか」
「はい!」
なんだろう。失礼かも知れないがカイトは犬っぽいところがある。リードも付けず、横に並んで歩く犬はお利口さんだ。
加えて、美術品を見つめる秀麗な立ち姿は絵になった。キャッチコピーはこうだ。『休みの日は美術館へ。新たな自分に出逢う時』アンティークな書体で縦書きにして、末谷町の紹介も入れたら特集ページが出来るな。
あ――。つい、デザインのことを考えてしまっていた。刺激を貰いに訪れる美術館だが、カイトのおかげで良いインプットを得られた。
「カイトは絵になるね」
「そうですか?」
「うん。良いアイデアを貰ったよ。ありがとう」
「あ……、お役に立てたようで、嬉しいです」
カイトは初めて逢った時の、あの見蕩れるような笑顔を浮かべて俺を動揺させた。
モデルの広告写真を扱うことも多く、機会があって間近で対面した時はやっぱり本物は違うなと思ったものだが、カイトも負けていない。時々、オフィスに来るエージェンシーにカイトを紹介するのもありかも知れない。
「カイトは展示品で気に入ったのあった?」
「えーと……、こういうのはあまりよく分からないのですが、図形をシンメトリーに並べた絵が良かったです。色のバランスも良いと思いました」
「なるほどー」
奥にまとめて飾ってあった連作のことを言っているようだ。俺は少しお行儀が良すぎるかなと感じたが、なるほど、あの絵はカイトと波長が合いそうだ。
「だめですか?」
「だめってことはないよ。正解なんてないんだから。好きか嫌いかそれだけだよ」
カイトは伺いを立てるように俺の顔を見つめてきた。どこか模範的というか、集合知のようなものを求めている気がする。もっと自分の感性を信じていいはずだ。
「カイトは好きなんだろう?」
「好き……、と言いますか、安心できるという感じでしょうか」
「うん。良いんじゃないかな」
「そうですか。良かったです」
ほっと胸を撫で下ろした様子のカイトは、ありもしない間違いを恐れているように見えた。これも前職のショックのせいなのか、元々の性格なのか分からないが、彼を従順な犬のように思わせる一因だ。
「さて。昼飯どうしようか。カイト苦手なものある?」
「あ……、食事は、僕は要りません」
「え。朝から何も食べてないよね? 体調悪いの? 大丈夫?」
「いえ……、その……」
思わず覗き込んでしまったが顔色は悪くない。困ったような表情で視線を漂わせていた。
「体調は問題ありません。スープ類なら食べられます」
「そう? いつもそんな食事なの?」
「……はい」
減量中のボクサーかという程の少食だ。痩せ細っているというわけでもないし、腕も引き締まっていて不健康には見えない。それどころか、女性が羨ましがりそうな木目細やかな肌をしていた。スープ健康法? すごいな。
「じゃあ、通りのレストランに行こう。あそこのコーンスープは旨い」
「はい」
「もし、本当に具合が悪いとかなら言って?」
「大丈夫です。ありがとうございま……ッ、待ってください! 危ないです!」
「っわ……!」
広い通りに出ようとした瞬間、片腕を強い力で引っ張られ、仰け反った。高速度で走り抜けていく電動二輪が視界の端に映る。そのまま後ろに倒れそうになった体を、カイトに抱え込むようにして支えられ、面食らった。
「びっくりした……」
「すみません。ぶつかると思って引っ張ってしまいました。痛かったですか……?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
「良かったです……」
「……ごめん、もう放していいから……」
「あ、はい……!」
事故になりそうなところを助けられたとはいえ、今の体勢はちょっと恥ずかしい。鼓動が速いのは驚いたせいだ。
「どこのヒーローだよ」
「え……?」
「何でもない。スープ飲みに行こう。俺の奢り」
「いえ、そんな……」
「怪我するところだったし、お礼に奢らせてよ」
「分かりました。ご馳走になります」
「腹がタプタプになるくらい飲むといい」
「そんなに飲めません……」
俺のスープが飲めないのかーなんて迷惑な酔っ払いのような台詞を吐いても、カイトは真に受けて無理して飲みそうだったので止めておいた。せっかく美味しいスープなんだ。味わって飲んで貰いたい。
小ぢんまりとしたレストランは幾度か入ったことがあって、いつも給仕してくれる婦人と「あら、今日はうちで召し上がっていかれるのね。嬉しいわ」なんて会話を交わして席に着いた。
「散々言われてるだろうけど、カイトはもてるだろう」
「もてる……、人に好かれるってことですよね……。どうでしょう……」
「余裕っすねー」
「え。いえ、本当に。分からないです……」
確かに、見た目は良いのに残念な人もいるけれど、カイトはそうじゃないだろう。実はかなりの腹黒で、俺に接する時は精一杯取り繕っているとしても――とてもそうは見えないが――外面がすごく良いのだから。
誰がカイトを放っておくだろう。ああ、〈主人〉が居なくなってしまったんだった。鬼籍に入ったとかではないなら俺は〈主人〉に問いたい。どんな問題があったのかと。
「どう? スープ旨い?」
「はい、おいふぃ……、美味しい……す」
「っはは! 良かった」
気を抜いていたのだろうか。噛んだ。面白い。
コーンスープとミネストローネの二杯を頼んだとはいえ、どうみてもスープのほうが先に飲み終わるだろうと思っていたが、カイトはペースを合わせてくれたのか、ほとんど同じぐらいに食事を終えた。
「ご馳走様でした」
「カイトの口に合って良かったよ。御姐さん、お勘定お願いします」
俺は硬貨の詰まった皮袋を取り出して婦人を呼んだ。昔、冒険映画で見たコインを取り交わすシーンが格好良くみえて、真似して似たような袋を探したのだ。金銀財宝の詰まった宝箱のようなわくわく感があった。本当は、高い額を払える紙幣のほうが良いのだろうが、ぺらぺらの紙を持ち歩くのは不安でいつも硬貨で支払っている。
婦人はじゃらじゃらと出される硬貨に嫌な顔ひとつせず「ちょうどあるわ。ありがとう」と微笑んだ。初めてこの店に入った時、「紙幣は失くしそうで数えづらくてすみません」と伝えたら、「そう言うお客さん多いのよ。気にしないでまたいらしてね」と言ってくれて、以来お気に入りの店になっている。
外に出ようとした俺たちを婦人が引き止めた。
「東の方は雨が降ってきてるみたいなの。傘、持っていかれる?」
「いえ、大丈夫です。傘などお借りしなくても、また旨い食事をいただきに来ます」
「あら、ふふ、ありがとう。気を付けてお帰りになってね」
婦人との会話はいつも温かい。
分厚い雲に覆われた遠くの空を見遣って、今日はもう帰ろうかとカイトを振り返った。
「格好良かったです」
「ん? 格好良いよね。居心地がいい。カイトも気に入った?」
「あ、いえ……、ご婦人もお店もですが、貴方も格好良いと思いました」
「え、俺?」
「会話が粋といいますか……、格好良かったです」
「そう? サンキュー」
俺も先輩にご馳走になった時は頼もしかったし、カイトもそう思ったのかな。
それにしても夕食もスープがいいのだろうか。一度使ったきりのフードプロセッサーが役立ちそうなのはいいが、それで体力が持つのかとか、栄養が偏らないのかとか心配だった。俺を引き寄せた腕はとても力強かったけれど――。思い出すとやっぱり気恥ずかしい。もしかしたら栄養満点のレシピがあるのかも知れないし、あとで聞いてみよう。
「雨降るかも知れないけど、どこか寄りたいとこある?」
「今日は大丈夫です。ご一緒できて楽しかったです」
「そっか。あとは家でのんびりしようか」
「はい」
カイトは空を見つめていた。一見、雨雲の様子を気にしているふうだったが、もっと遠くのほうへ想いを馳せているような眼差しだった。〈主人〉のことを思い出しているのだろうか。物思う横顔を眺めていたら何だか胸がつかえた。