Tamako.R Episode-2

一橋学園駅エリアに関するエピソード

2つの駅が合併してできた一橋学園駅と、その周辺のエピソードを記しました。

1)ふたつの駅のお話し

昭和3年4月の開業時にはまず、現在の一橋学園の北側に「小平学園」駅ができます。
Mapionの地図 小平学園都市計画は当初思うように進みませんでした。実は明治大学も誘致しようとして それを理由に宣伝までしたものの、移転を取り消され、とんだ肩透かしを食らってしまいました。 そんなこともあって乗客は少なめで、「四十二人乗り(四十→いつも、二人→運転士と車掌)」 などというあだ名までついてしまいました(^^;

続いて昭和8年9月、「商大予科前」駅が新規開業します。→ Mapionの地図
やはり一橋学園駅から見るとすぐですね〜(;^_^A
駅名となった東京商科大学予科(現:一橋大学)をはじめ(予科とは大学の前過程。現在の高等学校にあたるでしょうか)、 津田英学塾(現:津田塾大学)など学校が多く移転して来はじめ、乗客が大きく増えたころでした。 「四十二人乗り」などというあだ名はもはや過去のものとなりました。
当時は駅前からまっすぐ一橋大学のキャンパスまで道が伸びていたのでしょう。 現在は駅舎部分には商店が建ってしまいましたが、ローソンのある交差点を見ると、 当時はちょっとした駅前広場だったのかと思える雰囲気です。
なお、昭和24年5月には駅名が「一橋大学」駅に改名されています。

商大予科前駅の跡
商大予科前(一橋大学)駅跡の風景。右側の線路は交換駅だった名残。
対向式ホームで、西側の駅舎から踏切で国分寺行ホームに渡ったそうです。


2)電車破壊事件!?

なんと、こんな事件が起きていたんです(@_@;;;; 時は昭和10年5月、商大予科前駅にて(たぶん)。

当時の多摩湖鉄道は、前述のとおり学校が多数移転してきたこともあって、ラッシュ時には「四十二人乗り」を 返上するくらいの混雑を見せるようになっていました。商大予科前駅ができた当時、多摩湖鉄道では4両あった電車では厳しいため 2両増備したそうです。しかしそれでも、学生+教職員およそ600人の乗客をさばくのは困難でした。 国分寺の駅から電車を3両続行で運転しても乗り切れない状態だったとか。
無理がたたって、車両や変電所のトラブルによる運休が相次ぎ、そのたびに国分寺から歩かされた学生たちのストレスは たまっていきました。そしてついに、怒りはこのような形で爆発しました。

商大予科の記念祭が行われたこの日、酒に酔って調子に乗った学生がボロボロの電車に襲いかかり、 屋根やボディーをこてんぱんに破壊してしまったそうです。
このことで沿線は騒然となりましたが、警察や大学の速やかな処置によって一件落着したとか。
今では知る人は少ないですが、歴史の中でもひときわ目立つ大事件でした。


小平学園駅の跡
小平学園駅の跡地風景。奥が一橋学園駅。ホームは線路の左側にありました

3)混雑緩和と駅合併

昭和33年、萩山駅の移転によって、多摩湖駅(現:西武遊園地駅)から萩山駅を経て、西武新宿駅への直通運転が始まりました。 このとき萩山〜多摩湖駅間は、架線電圧も1500Vに昇圧され、西武新宿線から20メートル車両(1両の長さが20メートル。 現在の西武鉄道は全てこのタイプ)が、最大4両編成で入線するようになってずいぶんと出世(?)しました。 ところが、多摩湖線でも混雑する区間である国分寺〜萩山間は、未だに17メートル車両の2両編成しか入ることができず、朝夕には 相変わらずの超ラッシュが続いていました。
そこで昭和39年6月、西武鉄道が多摩湖線について、以下のような改善計画を発表しました。

(1) 駅の統廃合によりホームを延伸し、2両編成を3両編成化。
(2) ラッシュ時の運転間隔を15分間隔から10分間隔に短縮。

この知らせを聞き、小平市が動きだしました。う〜ん、改善してくれるならいいことだと思うのですが、何故でしょう。 こんなんじゃ不十分だ!!という事なのでしょうか。多摩湖線の現状が、周囲の中央線や西武新宿線に対し、あまりにも劣っていたというのもあるでしょう。
小平市議会に「西武多摩湖線輸送力増強対策特別委員会」という、舌をかみそうな名前の(^^; 委員会が発足します。 まずは現状の調査が行われました。午前7時から午前8時までの間、一橋大学→国分寺の利用者数は2981人、これに対し電車の 輸送力はといえば、定員118人の車両×2両編成が15分間隔、つまり1時間に4本でした。乗車定員は合わせてたったの944人。
つまり、混雑率は実に316%という、物理的に限界な殺人的混雑だったのです。

この事実を受け止め、討議・検討が続けられましたが、やはりこのどうしようもないラッシュの緩和には 路線を複線化するしかない!という結論に至ります。
9月、委員会は西武鉄道に複線化の要望を出しました。対して、西武鉄道からの回答は「すぐに複線化するのは難しい」 「一橋大学、小平学園の両駅の合併準備を急ぐ」というものでした。
複線化は今でもされていませんが...(;^_^A 駅の合併については、地元の利便性を損なわないよう、両者で協議を重ねました。
そして2年後の昭和41年、一橋大学・小平学園の両駅は廃止され、中間に設けられた新駅「一橋学園」に今後を託すことに なりました。駅名は、それぞれの旧駅名(一橋大学、小平学園)から頂戴して決められ、ホームも十分に長く、 現在でも難なく20メートル車両4両編成がすれ違えるだけの長さが確保されました。
一橋学園駅ホーム
一橋学園駅のホーム。4両編成に備え十分な長さと幅がとられました。


ただ、国分寺駅だけはホームを延ばすスペースが厳しく、17メートル車両の3両編成までとなった理由はここにあります。しかし、 この改善により混雑率は140%近くにまで下がったのです。
多摩湖線の利用者はその後も増え続け、一橋学園駅始発の電車も登場するなどしましたが、長年の懸案だった国分寺駅の ホーム延長は、平成2年6月にようやく行われました。これにより、西武鉄道最後の「赤電」351系が惜しまれつつ引退。 多摩湖線は全線でクーラー付き20メートル車両(701系、801系、101系等)が入線するようになり、ひととおりの近代化はこの日をもって完了したといえそうです。

以上、一橋学園駅にまつわるエトセトラでしたっ!!(笑

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