プラントにおける、ある晩のお話である。
ちくたく、ちくたく。
古典的なアナログ時計の如き音を立てながら、男が歩く。
ちくたく、ちくたく。
極めて胡散臭い、全身を覆い隠すようなボロ布を纏った男だ。
巨漢と言って差し支えない。やや不恰好で、ボロ布の上からでも、彼がひどく歪な姿をしていることが察せられる。
ちくたく、ちくたく。
ひどく清潔で、無機的な白い照明に照らされた廊下。
プラント総合病院、その遺伝子操作部門。
遺伝子工学の粋を結集した、自称新人類たちの出産を制御する場所である。
明らかに場違いと見受けられるその場所を、歪な大男は臆した風もなく堂々と進む。
ちくたく、ちくたく。
やがて男は一つの部屋の前で立ち止まる。
ちくたくと彼が扉のほうを向いた瞬間、電子的にロックされていたはずの目前の扉は、鍵などかかっていないかのようにあっさりと開いた。
男はそれが当然であるかのように歩みを止めず、部屋へと足を踏み入れる。
ちくたく、ちくたく。
部屋では白衣を着た青年がコンピューターを弄っていた。ディスプレイを見る限り、受精卵の遺伝子操作設定を変更しているようだ。
男とは対照的に、彼の行動はひどくこそこそとしている。
ちくたく、ちくたく。
歪な大男は青年を襤褸の下から一瞥した。同時に、青年の弄るコンピューターが、その構成上絶対にありえないほどの火花を放ち、放電する。
ちくたく、ちくたく。
青年がどたりと倒れ付す。
ひくり、ひくりと暫くは痙攣していたが、幾らもたたぬうちに動かなくなった。
ちくたく、ちくたく。
男は今度はディスプレイを見つめる。
奇妙なことに、人一人感電死させるほどの電流を流したはずのコンピューターは、何事もなかったかのように作動していた。
ちくたく、ちくたく。
男は、ディスプレイを見つめる。
ちくたく、ちくたく。
何も起こらない。
ちくたく、ちくたく。
男は再び、ディスプレイを見つめる。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
やはり、何も起こらない。
ちくたく、ちくたく。
男は更に、ディスプレイを見つめる。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
それでも、何も起こらない。
ちくたく、ちくたく。
男は、ディスプレイを凝視する。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
ちくたく、ちくたく。
結局それでも、何ら変化は存在しなかった。
ディスプレイは相変わらず、何の変化もなく光を発するのみである。
流石にそれ以上、ディスプレイを見つめることを無駄と考えたのか。
男は少し考えるようなそぶりを見せ、ディスプレイから視線をはずす。
同時に。
ごとり、と。
男の身体が崩れ落ちた。
纏っていたボロ布の下から、幾つもの大型の機械が零れ落ちる。
どごん、と。
男の身体が形を崩して床に散らばる。
広がり落ちたボロ布の下に、ヒトの肉体はない。
ただ、組み合わせれば人間の形と見えなくもないであろう、用途不明の機械の群れがあるばかりだ。
それきり、歪な大男であったモノは何も動きを見せることはなかった。
その晩の出来事は、そこでおしまいとなったのである。
翌朝、件の出来事の名残が、警備員によって発見された。
病院の職員でない、それでいて何故か白衣を纏った、不法侵入青年の感電死体。そして、何がなんだかよく分からない、ボロ布を被せられた、用途不明のガラクタ群。
発見した警備員も、死体が出た以上出張ってきた警官も。それらの存在から事件のあらましを組み立てることはできなかった。
結局、自殺か他殺かも確定されぬまま、捜査は打ち切られた。
何時までもさっぱりわけの分からない事件に関われるほど、プラントの治安維持機構は余裕に満ち満ちていないのだ。
じじじとかすかな音を立てるディスプレイには、遺伝子改造の設定画面が映るのみ。
個々の受精卵によって異なる処置を施すための、その設計図。
青年によって気づかれることなく書き換えられていた、それを施される者の名は、
”マユ・アスカ”と記されていた。
「お兄ちゃんと一緒♪/第一話(ガンダムSEED・Destiny二次創作)」
「……えーっと、どなたですか?」
時はコズミック・イラ 七十一年六月十六日。オーブ解放戦線の翌日のことである。
オーブを脱出し、避難した先である赤道連合の、とある病院でのことだ。オーブでの負傷から昏睡状態となり、今の今まで眠っていたマユ・アスカ。その彼女が目を覚ました直後、兄たるシン・アスカに放った第一声がそれであった。
普段とは違う、他人行儀な言葉で誰何する目の前の少女に、シン・アスカは絶句した。
肘から先の右腕を失い、骨折、火傷も負った重傷の身でありながら。目の前の愛する妹は、今まで見たこともない大人びた表情で自分を見上げている。
自身と同じ紅い瞳は微笑の中に警戒心と不安を秘めており、それが重度のシスコンである十四歳の少年の胸をきりきりと抉った。
「ぼ、僕だよ。シン・アスカ。マユのお兄ちゃんだろ?」
フリーズしかけた脳みそを慌てて再起動。身を乗り出すようにして訴える。両親は先ほどのMSの流れ弾によって彼岸へと飛ばされた。残った只一人の肉親に心無い言葉をかけられ、ただでさえ弾力のない彼の精神が悲鳴を上げる。
「マユ?」
「じ、自分の名前まで忘れちゃったの?マユ?」
心底不審そうに目を細める妹に、シンは唖然とする。
まさか、これが噂に聞く記憶喪失という奴なのだろうか。
確かに、彼女が浴びた爆風は激しかった。また、かなり強く頭を打ってもいた。医者に言わせれば、死ななかったこと自体奇跡だとのこと。腕を失うだけでなく、記憶まで失う可能性だってあるのかもしれない。
漫画やテレビで聞き及んで入るが、まさか身近な人間が。それも、よりにもよって自分の妹がそれになるとは。
記憶喪失にしては欠片も不安そうでないとか。普段のマユ・アスカと今の彼女では人格や様相が違いすぎるとか。色々と記憶喪失の一言で済ませるにはおかしな点が目白押しであったが、ともかくシンはそう判断した。
そうであるなら、自分が取り乱すわけには行かない。記憶がなくなっていたら、やっぱり不安だろう。ここは兄たる自分が、しっかりしなければ。
内心、そう決意するシン。欠点は売るほどあれど、健気な少年である。
片腕を失った少女は、残った腕であごの辺りにふれながら、なにやら考え込んでいた。彼の妹に、そんな癖はかった筈だが、残念ながらそれに気がつくほどシンは鋭くない。
「……まさかとは思うけど。あたしの名前って、マユ・アスカ?」
暫く黙り込み、周りや、自身の体を観察していた少女が問う。
シンには相変わらず彼女が冷静で、こちらを警戒しながら見ているようにしか見えなかった。が、ある程度人間観察に長けた者ならば分かっただろう。彼女の瞳には、困惑と、紛れもない恐怖心が揺れていた。
だが、未だ幼い少年がそれに気づくことはない。言い方に引っ掛かりを覚えないことも無いが、取り敢えず、記憶を失ってしまったかのように見えた妹が名前…………というか姓名だけでも覚えていてくれたのだ。記憶喪失ではなく、単に少し記憶が混乱しているだけなのかもしれない。そう考え、喜び勇んで肯定する。
「良かった。そこら辺はちゃんと覚えていたんだ」
「あはは。ま、そういうことになるんだろうね」
安堵に思わず涙する少年とは対照的に、少女は俯いて乾いた笑いを上げただけだった。時折、「マジでSEED世界?」とか、「ついにあたしも発狂したかぁ」とかぶつぶつ言っていたようだが、シンがそのことを気にすることはなかった。
彼とて現在の境遇で、精神に余裕があるわけではない。鈍感と責めるのは酷であろう。
「でも良かった。マユ。お前だけでも生きていてくれて」
涙をぬぐいながら、嬉しそうに言うシン。明らかに失言である。重傷の妹に、両親が既に亡いことをあっさりばらしてどうするのか。だが目の前の少女はそれに何らかの感想を言うことは無かった。ただ、少し考えてから、俯いていた顔を上げる。
「うーん。まだ起きたばかりで、頭が朦朧としてるんだよね。悪いけど、まだちゃんと話せないから。少し、一人にさせてくれないかな」
全く、全然、欠片も朦朧とした風のない口調でそうのたまうマユ・アスカ。流石にちょっと変だなと思ったシンであったが、まだ記憶が混乱しているからかも。と勝手に納得したらしい。
「わかった。少ししたら先生を呼んでくるよ。あ、お腹とか、空いてない?」
彼の主観的には、目の前の少女は重傷の上記憶が混乱し、不安になっているのだ。安心させるよう、微笑みかけて、出て行くついでに優しく聞く。
「え? あ、ううん。大丈夫。ありがとね」
何か思うところでもあったのだろうか。一瞬、口を噤んだ少女はそう言って頭を下げた。その他人行儀な所作に一抹の寂しさを感じながらも、シンは最後まで彼女を安心させるよう笑顔で部屋を出て行き、ドアを閉めた。
「SEEDの世界とはね……。大丈夫かな、あたしの頭」
シンが出て行った途端、マユ・アスカは頭を抱えた。この状況は彼女にとって極めて信じがたいものであり、虚勢を張って平然とはしていたものの、その理性は切れる寸前であった。
確かあたしは、トラックに撥ねられたはずだけど―――――
彼女の記憶が正しければ、彼女の本来の名は風待ほのかという。
高校三年生。先日推薦で大学も決まり、剣道部後輩の試合を見に行くという題目で、取った二輪免許を有効活用すべく、バイクで遠出をしていたはずだ。
で、ものの見事に撥ねられたような気がする―――――
途中の道で、明らかに居眠り運転と思しきトラックに接近されたのだ。慌てて離れようとして、それに失敗した記憶がある。最後に見たのは、視界一杯に広がるトラックの前面だった。あの状態から、生き残ったというのも考えにくい。
だけどあたし、まだ生きてるっぽいよね。まあ、体がちょっと変だけど―――――
現状が悪質克大掛かりなトリックであるという可能性はないと彼女は考えていた。如何せん、今の体は明らかに自身よりも小柄なのだ。おまけに右腕の肘から先がない。
また、火傷のものであろう。体のそこかしこから感じる疼痛も、それが単なる特殊メーキャップでないことを主張している。
で、あたしはマユ・アスカだと―――――
マユ・アスカにシン・アスカ。確か、兄と一緒に見ていた「機動戦士ガンダムSEED・Destiny」なるアニメに、そんな登場人物がいたはずだ。
番組開始五分で、十歳の子供に見せるのは如何なものかと思わざるを得ない、容赦の無い死体となる哀れな少女。確かそれが、マユ・アスカだ。
設定上の主人公、シン・アスカの妹であり、シンは彼女の携帯を形見としてずっと持っていたはず。時々、それに登録されたマユの肉声の留守電メッセージを聞いている場面があったり。
明らかに不健康だよね。あれ―――――
当初は、最終的に執着していたそのマユの携帯を墓前(慰霊碑?)に添えるとか、彼女の死とシンが決別するシーンでもあるのかと期待したのだが。
彼は結局、彼女の携帯を持ち続け、妹の死を昇華できぬまま番組の最後まで突き進んでしまった。あれでは問答無用でぶち殺されたマユ・アスカも浮かばれまい。
「しかしアニメの世界、それもよりにもよって種運命の世界に来てしまうとはね」
ほのかは苦笑した。兄と一緒に見たあのアニメは、彼女には決して出来がいいようには見えなかったのだ。彼女はロボット戦闘にさして興味があるわけでもなかったので、彼の番組の物理法則に何らかの感想を抱くことはなかった。しかし、その分ストーリーそのものに対する幻滅も大きかった。
(まあ、ここで批判しても仕方がないか)
色々と浮かんだ本編に対する批判を頭の隅に追いやり、ほのかは気持ちを切り替える。
(ともかく、現状を整理してみよう)
そう考えて、頭の中のノートに必要事項を列記していく。マユ・アスカというコーディネイターの体を使っているからであろうか、ほのかの思考は、この状態になる前よりもずっと早く、正確に働いていく。
風待ほのかは、マユ・アスカとなっている。
先ずは、これだ。これはまあ、いいだろう。
いや、あまりよくないが。とほのかは思考を進めていく。
(実際の所、これに関しては疑ったり、原因を究明したりするのが無理っぽいんだよね)
最新の物理学を持ち出すなら話は別なのかもしれないが、彼女はそういった学問に造詣が深いわけではなかった。ただ、異世界だの平行世界だのという概念が、多分にオカルティックであるか、或いはSF的なものであるかしていて、厳然たる科学として一般に認知されているものではないということくらいは知っていた。
そうである以上、このことについての追求は無理であろう。そう、ほのかは結論付ける。
(取り敢えず、あたしはマユ・アスカとして生きていかなくちゃいけないわけだ)
元の……風待ほのかとして、能動的に自分のいた世界に戻るという方法がない以上、そうするしかないだろう。だとすると、問題となるのは衣食住の調達である。
(あたしの……マユ・アスカの保護者は、どうも死んじゃっているようだしね)
『でも良かった、マユ。お前だけでも生きていてくれて』
先ほどのシンの台詞から類推する。
(本編を見た限りじゃ、アスカ家には親類はいないみたいだったし、つまりあたしはシンがいる以外は天涯孤独か!?
それは拙いな。あたしもシンも未成年。この戦時中、難民で未成年の兄妹が、まともな職に付くのは……無理だよなぁ)
(でも原作だと、シンはこの二年後、ZAFTの赤服として初陣を迎えていた。ってことは、ZAFTに入隊すれば喰いっぱぐれないということだけど)
ほのかとしては、軍隊に入るのは気が進まなかった。本編ではシンは死ななかったが、だからといって自分も軍人になって死なないとは限らないのである。
(あたしは生きるための方策を考えているんだ。死ぬ可能性の高いところには行きたくないのだけど……)
いや、でも。とほのかは考え直す。
(でもよく考えてみると、ZAFTに入るかどうかはさておいて、プラントには行っておいた方がいいんだよね。“あたし”もシンも、コーディネイターなんだから。
少なくとも、地球にいるよりは迫害されないだろうし。なにより二年後地球には、ユニウス7が落ちてくる。あれって何処に落ちてきたっけ?よく覚えてないけど、確実に落ちてこない所って、ジブリールのシェルターとかしかなさそうな気がするんだけど……)
少なくとも、ラクス・クラインのシェルターも無事だったはずだが。そこら辺はほのかは覚えていなかったらしい。
彼女はため息をついて、思考を進める。
(はあ。この世界って最終兵器っぽいものが一杯あるんだよね。でもってそういうものを平然とばかすか撃ち合えるいかれた指導者が目白押しだし。そーゆー危ない武器って抑止力に使うものじゃないの?
確か地球軍もガミラスの反射衛星砲使ってプラント攻撃してたし……。げ、ってことはプラントも危ないのかぁ)
考えれば考えるほど、物騒な世界である。
因みに地球軍は異星人の技術など使っていない。彼らが使っていたのは“レクイエム”という。巨大な、ビームを曲げる装置。それとセットで運用される、超大型の破壊光線砲である。
(宇宙に地球。どっちにいても危ないなら……。まあ、比較的安全なプラントに行ったほうがいいか。取り合えず民間人のいるコロニーが直接戦場になったことは無かったと思うし。何よりユニウス7が堕ちてくることは絶対にない。反射衛星砲でも、プラントが滅亡したわけじゃなかったはずだし。
何より、プラントに行けばコーディネイターであることで迫害される心配はないしね)
「ともかく、一度シンと……いや、“お兄ちゃん”と相談しないとね」
現在のほのかは、マユ・アスカとなっている。彼女はたったの十三歳であり、はっきり言って生活能力はゼロに近い。
無論、窃盗恐喝強盗脅迫その他によって金銭或いは物資を調達することも出来なくはないだろうが、道徳倫理以前にその失敗時の危険性を鑑みて、ほのかはそれをやる気にはなれなかった。そういった行動は最後の手段であり、風待ほのかはまだ全ての手段を試してみたわけではない。
それに、怪我のこととか、右腕のこととか、或いはこの世界が本当にアニメと同じ世界なのかとか―――
「アニメと同じなら、右腕のことは何とかなりそうだけど」
虎のサイコガンを思い出しつつ呟く。
ともかく、まだまだ考えなければならないことは沢山ある。少女は再び、得たばかりの高い能力を生かし、思考の海へと没頭していった。
<続く>
<あとがき>
初めまして。春の七草と申します。この掲示板の非常に有名な某憑依もの二次創作を読んで触発されました。……アレを読んでこの程度しかかけないというのも、情けない限りですが。
人様に見せることを前提にお話を書くのは、小学生以来です。
お目汚しですが。まあ、読んで苦笑でもしていただければ望外の幸いです。
それでわ、失礼いたします。