「エヴァンジェリンさんが意識不明の重体って本当ですか!?」
「ふむ、すぐに話が伝わるとは思っていたのじゃが、耳が早いのネギ君。高畑君にでも聞いたかの?」
職員会議のために朝早く出勤した僕がタカミチにエヴァジェリンさんが重体との話を聞き、すぐさま学園長室に事の次第をかじりつくと学園長先生はあっさりと答えてくれた。その、あまりにも平然とした態度に何を言うべきか迷いつつも、僕は分かりきった質問をぶつける。
「意識不明だそうですけど、なんでですか?」
「聖堂教会じゃよ。恐らくはエヴァンジェリンの抹殺。他にも色々と思惑があるのじゃろうが。きっと京都での戦闘をみられとったのじゃろう。教会が動いているのは掴んどったが、こんなにはやく襲撃があるとは思わなんだ。もう少し戦闘部隊が遅れとったら確実に死んどったはずじゃ。全く悪運だけは強いんじゃから」
学園長先生はあくまで冷静だった。手元にある書類の山を片付ける余裕すらある。
それに付き合うほど、僕は楽天家ではなかった。エヴァンジェリンさんが敵に襲われて重体だなんてにわかに信じられないけれど、それ嘘だとしても確かめに行くぐらいはしなくちゃいけない。
そうして走り出そうとした矢先、学園長先生が待つのじゃ、と声をかけてきた。
「――――なんですか。僕は一刻も早くエヴァンジェリンさんの様子を見に行きたいんですが」
いささか不機嫌さを隠さずに吐き捨てるように言うと、学園長先生は神妙な顔でこちらを見つめた。
「心配なのはわかるのじゃが、もう少し落ち着いたらどうじゃ?あせったところでエヴァンジェリンの怪我が治る訳ではないのじゃから。もっともエヴァンジェリンを預かった時、わしはこうなる事は覚悟しておったがの」
ほんと、因果なことじゃ、と学園長先生は呟いた。
「それにのう。ネギ君。事はエヴァンジェリンと教会だけの問題ではないのじゃよ。『陰陽寮』という強力な組織があるので干渉こそないものの、日本は強力な一級の霊地が豊富にあるのじゃ。そのため諸外国の魔術組織は日本に介入する機会を虎視眈々と狙っている状況じゃ。そこに陰陽寮が匿ったわけではないが、先の京都の件で今まで消息不明じゃった賞金首『闇の福音』という存在が露呈した。このことがどういうことになるか、賢い君なら分かるはずじゃ」
そう言われて、僕はようやく事の重大性に気が付いた。
…………確かに、エヴァンジェリンさんはすごい魔術師で六百万$の賞金首の吸血鬼であるのは理解していたけど。
「だからといって、エヴァンジェリンさんをそのままにしておけません。彼女は僕の生徒なんです」
「そのことはわしも重々承知しておるよ。しかし今回の相手は百戦錬磨の異端狩り。この学園にいる戦闘部隊を一個小隊投入して、一人とようやく互角。死なずに立ち向かえるものとなると、ほんの二・三人といったところじゃ。そんな相手に技量・経験共に不足しているネギ君が向かうのは自殺同然なのじゃよ」
そうは言うけれど、何の権力もない、ローティーンの魔術師である僕にだって多少は戦力になると思うのだが。
その疑問を口にすると、首を横に振ってから違う、と学園長先生は神妙な顔で答えた。
「ネギ君。それはあまりにも無謀じゃ。君は戦場を知らなすぎる。致命的といってもいいほどじゃ。技量のなさが、力のなさが、知恵のなさが、心の弱さが死へと誘うのが戦場じゃ。はっきり言おう。今の君の実力では犬死するのが落ちじゃ。だからの、君は戦場に出ずに生徒たちが巻き込まれぬように守っていて欲しいのじゃ。戦いはわしら大人の仕事じゃからの」
弱弱しく微笑みながら学園長先生は言った。
………なるほど、確かにその通りだ。僕に実力がないのは、修学旅行のとき以来理解していたことだ。きっと戦闘部隊の人たちは戦いに赴くだろうし、学園長先生も政治的に何とかするために奔走するだろう。そこに僕が出て行ったら援助するどころか、むしろ皆の行動を阻害する害悪にすらなりかねない。
―――学園長先生の言葉は正しい。
だけど、それでいいのだろうか?勿論僕が戦うのは愚の骨頂というのは分かっている。
教会の人たちが、エヴァンジェリンさんを殺そうとしているとしても、僕は黙ってみているしかないのだろうか?いまだ何も事情の知らない明日菜さん等一般人たちを巻き込まれないように守ることも大切なことだろうけど、エヴァンジェリンさんも僕の大切な生徒の一人なのだ。
いつか心に誓った戒めが僕を縛る。何もできないという現実と、失いたくない、自分自身の手で守りたいという二律背反。
「そういうことじゃ。君に悪い点はなんらない。京都の事件がなくとも、いずれ発覚しとった。ただ、それが予想より早すぎただけのことじゃ。それに君に実力が足りないのは仕方が無いこと。なにせ君はまだ十歳なのじゃからの。ここから得られる教訓はの。ネギ君。物事には常に邪魔や不確定要素が絡むが故に、完璧などはなく、事に当たるための準備などは必ずといっていいほど、不足するのは当たり前ということなんじゃ」
僕のことを言っているのか、自身に対する皮肉なのか、かなり穿った事を学園長先生は言う。
………僕がピンチになったらと思ったから?
だけど、そんなことで納得できる訳じゃない。
………ピンチになったらお父さんが来てくれるって思ったから?
僕はどうすればいいのだろう。
………だから、天罰がくだったの?
―――紅い地獄がぼくの脳裏を焼き尽くす。
心中の葛藤が顔に出ていたのだろうか。僕の顔から視線をはずすと大きなため息をついて学園長先生は話を打ち切った。
「話は終わりじゃ。くれぐれも先走らぬようにの」
ぱらりぱらりと書類をめくる音。
僕はそんな学園長先生の姿に何も言えず、そのまま学園長室を後にした。
―――答えは、まだ出ない。
今日は朝から雨だった。
雨音の中、春日美空は一階の渡り廊下を歩いていた。
授業が終わり、放課後の校舎にはあまり生徒の姿が無い。学園側が突如一週間ほど、生徒の部活動を禁止したためである。
理由として、最近夜に変質者が出没するため、事件が解決するまで生徒の安全を考慮したということになっていたが、美空はそれが『真実ではない』ことを知っていた。
事件は、今月で四件起こっているということに『なっていた』。今朝のHRで担任の子供先生が伝えたので、既に情報が相当なところまで廻っているのだろう。
犯人の正体は掴めず、その動機さえ明らかになっていない。被害者に共通点はなく、その全てが深夜に出歩いていて襲われたという旨が伝えられた。
遠く離れた場所での出来事なら傍観できるが、それが自分達の住んでいる地域となると話が違ってくる。
生徒達は暗くなる前に帰宅し、女子はもちろん男子までもがグループになって下校していた。
夜も九時を過ぎたあたりで広域指導員に扮した魔術使いが巡回するのだろう。おかげで迂闊に夜出歩くことも出来ない。
「……闇の福音……」
呟く。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは風邪を引いていると子供先生は言っていたが、実のところ意識不明の重体であることは『視ていた』。
「シスター・ミソラ」
突然、そう呼び止められた。
足を止めて振り返ると、そこに自分の上司が立っていた。
黒い修道服に胸元にロザリオという、いかにもシスターという服装に、気の強そうな顔をした人物。シスター・シャークティだ。
「何か?」
「いえ、たいしたことではないので、そう気構えなくてよろしいですわ」
にこり、と作り物めいた笑顔を浮かべて、彼女は言った。
「なら、早く用件を言ってください。私は家にいる『彼』の世話をしなくてはいけないので」
「分かっているわ。その『彼』に伝えて欲しいことがあるの」
そこで一旦区切るとシスター・シャークティは続けた。
「『弓』が今夜麻帆良学園に到着する。ただ合流はせず、『闇の福音』を狩る機会があるまで、今現在潜伏している場所で待機せよと」
「―――えっ?」
知らず、美空は疑問の声をあげた。
シスター・シャークティは作り物めいた――いや、明らかに作り物の笑顔を浮かべる。
――なんてことだ。あの厄介者をまだ世話しなくてはならないなんて。
美空は、思わず天を仰ぎたくなった。
「それでは、確実に『彼』へと伝えてくださいね。それではごきげんよう」
シスター・シャークティは、かつんかつんと足音を響かせながら遠くなっていった。美空は大きくため息をつくと、それを見届ける事もせず、下駄箱へと向かった。
靴を履き替えて外に出ると、霧のような雨が美空を出迎えた。
周りにはやはり生徒の姿は無い。
こんな雨の日は傘を差していても服が濡れるので、美空はあまり好きではない。
好きではないのだが、家に帰るにはそうも言ってられないので、傘を差すとそのまま雨の中歩き出した。
淡いヴェールのような雨が、そこら中を曇らせていた。
秋とはいえ雨に濡れると寒く、手足が冷えた。
………どれくらい歩いただろうか。気が付くと、美空の横には一人の少女が歩いていた。
少女がじっと美空の横顔をみつめる。そして、一言。
「寒くない?」
「いいの、もうすぐ家につくから。ザジこそ家はこっち方向じゃないのにどうしたの?」
「たまたま。ミソラを見かけたから」
少女― ザジ・レニーデイ ― は、だからと頷いて美空の横を歩く。
美空は今、ザジの話に付き合えるような心境ではなかった。彼女が何を話そうが全て無視するつもりでいた。もっとも、ザジはめったに口を開くことはないが。
だから、彼女がいようといまいと関係がなかった。
ただひたすら雨の中を歩く。
不思議と静かだ。雨音だけが鼓膜を振るわせる。
ザジは一言も話さなかった。
横を歩きながら、満足そうに微笑んでいる。美空は、何がそんなにうれしいのだろう、と呆れて見たが、何か小さく歌を歌っていた。流行歌なのだろう。余計に呆れてしまった。
ザジは話さない。
美空とザジの距離はほんのわずかで、傘と傘が時々触れ合ったりもした。二人の人間がこんな至近距離にいて会話がないのはひどく落ち着かないな、と美空は思った。
そんな気まずい状況は、けれど苦にならない沈黙だった。
―――不思議だな。なんでこんなにあったかいのかな。
だが、美空は不意に疑問に思った。
「―――ザジ!」
「なに?」
無意識に叫んだ美空に、ザジは驚いて彼女から離れた。
「どうしたの?」
美空を覗き見る瞳には、美空自身が映っていた。
春日美空は改めてザジ・レニーデイという人物をみた。
ザジはひどく幼い、柔らかな顔立ちをしていた。大きな瞳は温かく、夜の闇のように黒い。性格が表れているのだろう、髪型は年頃の少女にしては大雑把に刈られていた。
顔に描かれたピエロのペイントが、その独特な雰囲気に一役買っていた。
「……今まで……」
美空は、俯いてザジの顔を見ないようにする。
「どこに、いたの?」
「いろいろ」
美空自身わかっていたことだが、ザジは自分のことを話したりすることが無い。
美空はそれに対し反感を持つしかなかった。なぜなら、伝えなければ理解しえない未知だから。
そう、と一言美空は呟くとそれきり黙りこんだ。今日ほど家に早く帰りつかないかと感じたことは無い、と美空は思った。
程なくして二人は美空の家の前まで辿り着いたので、美空はザジと別れた。