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「在りし日の魔王・1453(後編)(GS+オリキャラ+α)」

いりあす (2006-10-15 01:30/2006-10-16 17:27)
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「ロケット・ア―――ムッ!!」
「うぐっ!?」「ぐあっ!」「うほっ!?」「ぎゃべ!」
 外壁を乗り越えかけたオスマン兵を、マリアのロケット・アームがまとめて吹っ飛ばした。
「大丈夫か、マリア!?」
「イエス、ドクター・カオス!」
 振り向かずにキビキビと返事して、さらに何人かを鉄拳で叩き伏せる。と言うより、振り向いている余裕はマリアにもなかった。
「ドクター! 前まえマエ、敵が来てる来てるっ!」
 隣にいるタディアス・コジナの悲鳴に、カオスの意識はマリアのいる地点から自分の目の前に引き戻された。

 ターン! タタタタ――――ン!!

「うっ!?」「ぐっ!」
 撃ち降ろしで降り注ぐ矢と小銃弾を食らって、数人の守備兵が倒れた。堀の半ばまで押し出されて来た攻城櫓から、オスマン兵が猛烈な斉射を浴びせてきているのだ。
「ドクター! あの攻城櫓……」
「わかっとる! しっかり支えてろよ!」

 ダダダダダダダダダダダダ……!!

 カオス・フライヤー用の0.5インチ機銃が、1秒間4発のスピードで絶え間なく火を噴く。後世で言う機関銃のようなペースで放たれる小銃弾は木製の防盾を軽々と突き破り、その後ろのオスマン兵を次々と撃ち倒した。
「よし、火だ!!」
 攻城櫓からの射撃がやんだ隙に、傍らの守備兵達が火炎放射器“ギリシアの火”を胸壁の間から外へ突き出す。外壁から櫓まで30ヤード以上は離れているが、カオスの改良したこの装置はこの程度の距離があっても正確に目標を捉える事ができる。

 ゴオオオオォォッ!!

 まして、高さにして20ヤードを越す巨大な櫓を外すほど、コンスタンティノポリスの守備隊はヤワではない……と言うより、攻防戦が始まって1月半を越しているのだから、練度が上がっていくのは当たり前だ。たちまち、木の骨組みに牛や羊の皮を張った攻城櫓は巨大な炎の柱になった。
「全く、なんちゅう物量だ! 後ろの方でもまだ何棟か櫓を建てているし!」
 砲撃と堀の埋め立てに始まり、突撃部隊による攻撃、破城鎚、地下道掘り、そしてこの攻城櫓。攻城戦術のオンパレードのような攻撃が延々と続いている。
「グチってる場合ですか!? ほら、また一つ近づいてますがな!」
「ちいいっ!」
 炎上している攻城櫓の隣に近づきつつある別な攻城櫓に、再び機関銃の弾が撃ち込まれる。銃弾を食らって櫓から転げ落ちる兵士達が、また十数人。

「全く、ドクターがスルタンを狙撃でもしてくれればこのような苦労をせずに済んだものを!」
 守備隊が攻城櫓を撃っている隙に外壁を乗り越えかけたオスマン兵を3人立て続けに斬り捨てて、カリシウス門の守備隊を預かっているミカエル・レーヴが毒づいた。
「悪いが、暗殺では歴史は動かん! それに、スルタンを確実に仕留められるわけでもない!」
 腰から抜いた短銃を乱射しながら、カオスも負けじと言い返す。
「歴史の潮流を論じていられるほど、傭兵はヒマな商売じゃ無いな!」
「悪かったな、お前と私で思想のタイムスパンが違っていて!」
 数ヤード離れたまま言い合う二人の戦いは正確で、数十秒後には外壁近くに立っている敵兵がいなくなった。
「マリア! その櫓を引き倒せ!」
「イエス、ドクター・カオス!!」

 がしっ!

 マリアが目一杯伸ばしたロケット・アームが、攻城櫓のてっぺんをガッシリと掴む。それに気付いたオスマン兵が手を外そうとするが、それより先にマリアがウインチを巻き上げる方が早かった。
「「「わ゛――――――っ!!??」」」
 攻城櫓というのは車輪で移動させるものである。しかも、頂上部に人が蝟集しているものだから必然的に重心も高くなるのであって、たちまちマリアが引っ張る力に負けて傾き始め………

 ドンガラガッシャァァン!!

 ……見事に横転した。地面に放り出されるオスマン兵達が、どこか気の毒に感じられた。

「よし! この周辺に攻城櫓はもう無いな!?」
「イエス、ドクター・カオス!」
「よし、移動するぞ! 次は北のブラケルナエ宮殿前だ!」
「休憩は無いんですか、休憩は〜〜〜っ!?」
「あるか!」
 グチるタディアスを引きずりながら、カオスとマリアは次の攻城櫓を叩くべく駆け出していった。


   『在りし日の魔王・1453』 Written by いりあす


    〜〜〜〜後編・歴史の潮流〜〜〜〜


 ユリウス太陽暦1453年5月28日。
 ドクター・カオスとマリアの二人がコンスタンティノポリスに入城してから、すでに2ヶ月が経過していた。

 この日の午後を、カオス・マリア・タディアスの三人はラボで過ごしていた。本来は防衛策を何かひねり出せないか調べるのが目的だったのだが、その結果は不調に終わっていた。今、三人は夕暮れ時の街角に、所在なげに腰を降ろしている。
「今日は何だかやたら静かっすね……」
「…そうだな」
 延々と50日以上に渡って続けられていたオスマン軍の砲撃も、今日は一発も行われていなかった。別に彼らがこの都の攻略を諦めて遠くハドリアノポリスに帰っていったわけではない。城外半マイルの地点に、彼らは相変わらず陣を構えている。
 ここまで数度の総攻撃をよく防いできたテオドシウスの大城壁も、砲撃によって最外壁は原形をとどめていない。二段目の外壁もすでにいくつかの地点でウルバン砲に破壊され、今日も必死の復旧作業が続いていた。かなりの地点で埋められた堀のあちこちには、倒壊した攻城櫓の残骸がそこかしこに転がっている。
 特に城壁が三重になっていないブラケルナエ宮殿は陸側と金角湾対岸からの二方向からの砲撃にさらされ、トレヴィザン提督以下海兵の一部を投入する事で何とか支えていた。

 この状況下で、オスマン軍が動きを見せない理由はただ一つ。これが嵐の前の静けさそのものだという事……つまり、空前の大攻勢が近いという事に他ならない。現に城外では、オスマン軍の一部が彼らの軍歌(メフテルと総称される)をどよめくような調子で合唱しているのが市内にも聞こえてきている。
「……歌ってますねえ」
「…そうだな」
「何て歌ってるんでしょう?」
「発音の・ブレ・過大につき・歌詞・推測できません」
 めいめいが調子の少しずつズレたトルコ語で歌っているので、ギリシア語とイタリア語しか知らないタディアスはおろか、ヨーロッパとイスラム圏の主要言語は大体網羅しているカオスやマリアでさえ、何が何だかわからないシュプレヒコールにしか聞こえない。ただ、20世紀末の日本人が聞いたら“ジェッディン・デデン”を思い出すかも知れないメロディではある。少なくとも、歌の調子だけ聞いても彼らがやる気マンマンだという事ははっきり理解できた。すでに数度の総攻撃が跳ね返され、100隻以上の軍船がカオス&マリア・東ローマ海軍・そして魔船スキュレーによって撃沈され、死傷者とてとうの昔に5桁にのぼっているだろうに、である。

 攻勢前の休息にでも入るのだろう、城外の歌声は徐々に静まっていった。太陽は西に傾き、そろそろ夕闇が東から迫りつつある。
「援軍……来ませんね」
「来ないと決まったわけでもない。だがオスマンの攻撃が始まった時点から概算したとしても、国内をまとめるのに半月、軍勢を調えるのに一月、ここまで移動するのに一月だ。あとは、西欧側の準備の早さ次第ではある」
「…そうですね」
 だが、西欧のカトリック勢力と東欧のギリシア正教勢力との間の溝は深い。彼らが素直にこの都を東地中海におけるキリスト教勢力の最後の砦と見なしてくれるだろうか? それとも異端者の都を救うには値しないと断ずるだろうか? あまり自信はない。確かにトレヴィザン提督やジュスティニアーニ隊長など、尊敬に値するカトリック教徒は探せば多々いる。だが、カトリック勢力とてそれぞれの国や都市が抱えるエゴという物があるのもまた厳然たる事実なのだ。

「………はは、結局のところ……世の中、なるようにしかならない、って事なのかも知れませんね」
「なるように、か……だが、“なるように”とは何だ? 我々が負けるべくして負ける、と断定する奴が全員と決まったわけではあるまい?」
「そりゃ、そうですけど……」
「望みを持て、とも捨てるな、とも言わん。だが、望みを見失うな。それとなし得る事となすべき事、いずれか一方だけでも把握しておけ」
「………そうですね」
 この今まではギャーギャー弱音を吐きまくってきたギリシア人の青年が妙に物事を悟ったような言い方をすると、カオスにはとんでもなく先行きが暗いものに思えてくる。その証左にコンスタンティノポリスには、まだイタリアからの援軍がエーゲ海に来ていないという凶報が数日前に届いていた。

 攻防戦が始まってもうじき2ヶ月。さすがに、圧倒的な数の差がジリジリと現れてきた。金角湾にオスマンの山越え艦隊が居座ったために東ローマ艦隊は金角湾の湾口の手前で釘付けになり、ほとんど身動きが取れなくなった。お陰で、第二・第三陣が企図されていた輸送船団はこの都に近づく事ができず、食料・武器弾薬・医薬品・火薬などの物資がいよいよ心許なくなってきた。
 人員の被害も大きい。4月28日の海戦で百人を超える死者とトレヴィザン提督始め数百人の負傷者を出したのを始め、ここ数度の城壁への総攻撃により、やはり数百人の犠牲者と千人を軽く超える負傷者を出した。皇帝、ジュスティニアーニ、カオス、タディアス、あのミカエル・レーヴやマリアでさえ全く無傷ではなくなっている。
 4月の間コンスタンティノポリスの上空を所狭しと暴れ回ったカオス・フライヤー6号の姿も、すでに無い。スキュレーに急降下爆撃を敢行した際に損壊したカオス・フライヤーは結局本調子に修復する余裕が無く、15日前にオスマン軍に爆撃を仕掛けた際に臼砲の砲撃を喰らって大破(オスマン軍は陣地のド真ん中にもかかわらず臼砲をブッ放した)、前後してジェット燃料になる石油のストックがほとんど無くなった事もあって、やむなく解体される事になった。
 機体のうち擬似ウーツ・ダマスカス鋼の特に頑丈な構造の所は城門の補強に使われ、機銃や“ギリシアの火”は城門に配置(なお“ギリシアの火”の燃料は航空燃料にその他諸々の薬品を混ぜて作るので、航空燃料に還元できない)され、このラボにはコクピットやキャノピーのスクラップだけが残っている。

「ま、いい。お前はメシでも食って少し休んどけ。お前の予想が正しいなら、今夜は忙しくなるだろうさ」
「……そうします」
「もしその気があれば、いつぞや言っていた昔の女を捜して来るか?」
「会わせる顔がないって、前に言ったでしょうが」
 そう言い残して、タディアスはラボの奥の自室に消えていった。

「まして、魔の領域からこの地を窺う奴が居るかも知れんとなれば、望み無しという言葉も脳裏をチラつく、か」
 そう独りボヤいて、カオスは腰のホルスターから短銃を取り出す。弾倉には、6発の銀の弾が仕込んであった。
「こういう事態になると分かっているなら、ウーツ・ダマスカスをもう少し貯め込んでおくべきだったかなあ……金に困っていたとは言え、易々と手放すべきじゃなかったか」
 ウーツ・ダマスカス鋼とは、インドのウーツ鉱山で採掘され、シリアのダマスカスで精錬されたと言われる、木目のような美しい紋様を見せる鋼鉄である。だが、カオスのような錬金術師にはこの鋼は特別な意味を持っている。
 古来吸血鬼や人狼、そして魔族には銀の武器が有効だとされている。だが銀は鉄に比べて硬度が劣り、銃弾や矢じり程度ならともかく剣や槍にするには不向きなのだ。そこに、ウーツ・ダマスカスの特殊性がある。この鉄は一見普通の鋼鉄と大差無い材質だが、実際は極めて強い霊力・退魔性を帯びた、霊剣・聖剣・あるいは魔剣と呼ばれる武器に適した物質なのだ。ま、要するに鋼鉄の強度と銀の退魔性を兼ね備えた金属なのだ。恐らく、ウーツで採掘されたレアメタル性の鉄をダマスカスに伝わっていた特殊な精錬法で鍛える事で、特殊な性質を得ることができるのだろう。しかし既にウーツのレアメタルは既に掘り尽くされ、ダマスカスの精錬法も散逸してしまい、そして手入れが悪ければ鉄としてごく普通に錆びるこの物質のこと、まっとうな鋼として現存するウーツ・ダマスカスは剣にして一ダースもあるかどうか。
 もちろん、カオスもこのウーツ・ダマスカス鋼を錬金術で再現しようと幾度と無く挑戦した。かつてこの都にいた青年時代もそうだし、ご当地ダマスカスやエルサレム、カイロ、バグダッド、そしてかつてのマリア姫の城でも研究した。しかし、ついに硬度と退魔性を併せ持った“真の”ウーツ・ダマスカスを作ることはできず、代わりにそっくり同じ紋様と従来の鋼鉄よりも一歩進んだ硬度を持ち、しかし霊力を帯びない“擬似”ウーツ・ダマスカスの製造法を発見するにとどまった。
 その真のウーツ・ダマスカスの剣を、かつてカオスは何本か所有していた。が、ある物は知遇のあった武人に譲り、ある物は研究資金と引き替えに譲渡し、つい先日まで持っていた最後の一本は、“魔の眷属から身を護るため”と言ってコンスタンティヌス帝に渡してしまった。その際にジュスティニアーニにはもう一丁の短銃を銀の銃弾共々譲ったため、今カオスの手元には魔物とまともに渡り合うための得物はこの銀の短銃と使い残しの呪符数枚だけである。
 ちなみに、マリアのフレームにも一部は真のウーツ・ダマスカスが使われ、それ以外は擬似ウーツ・ダマスカスを魔法処理した材質がかなりの部分を占めている。また、20世紀には真のウーツ・ダマスカスの知識は忘れ去られ、カオスら錬金術師達が確立した擬似ウーツ・ダマスカスの製造法が残るのみである。


「………ふ、オスマン兵に蹂躙されるのが先か、魔族や魔物の類が跋扈しだすのが先か。若い頃に何十年か暮らしたこのコンスタンティノポリスも、かくして滅びる時が来たという事か」
「ノー、ドクター・カオス」
 何とはなしにボンヤリとしていたマリアが、立ち上がりながら反論した。
「ドクター・カオスの発言・正確では・ありません」
「…どの部分が?」
「この戦い・負ければ・ローマ帝国・滅亡します。しかし・それは・コンスタンティノポリスの・滅亡とは・イコールでは・ありません」
「………」
「マリアの・データベース上に・登録された・都市・2405ヵ所のうち・コンスタンティノポリスの・立地条件・Sランク。Sランクの・都市・破壊することによる・相対損益比は・3マイナス」
「…ハッキリ言ってくれ。少しまどろっこしいぞ」
 少し苛立ったような雰囲気で、話をせかすカオス。
「スルタンには・この地を・破壊する・必然が・ありません。スルタンが・コンスタンティノポリスを・新しい・帝国の・首都にする確率・97.2パーセント………」
「…………」
「我々が・敗北すれば・この都・ムスリムの・物になる、そして・この都・造り替えられます。コンスタンティノポリスは・ムスリムの・都として・生まれ変わる」
 その点については、マリアはキッパリと言い切った。しばらくの間、カオスは言葉を返さなかった。
「……だが、我々が敗北すればこの街は一度は焼き尽くされ、多くの市民が命を落とし、後世に残されるべき貴重な文物は失われ、そしてこの地に残された、私の知っている“古き良き時代”が失われる。それは………イヤだな」
 何となく青年時代の記憶を刺激され、アンニュイな気分になるカオスである。
「我々が勝てば・多くの・ムスリムの命が・失われます。それに、古い物・イコール・良い物では・ありません」
「………」
 反論の多いマリアに対して、カオスは叱責する気にはなれなかった。彼女が言外に“貴方は結局なにを守りたいのか?”と訊いているような気がしたからだ。

 別に、キリスト教徒の味方をしているわけじゃない。第一、十字軍の蛮行に嫌気が差してイスラムの味方をしたのはどこの誰だ? ここの私だ。
 帝国に対する忠誠心が根ざしているとも思えない。私は孤高の錬金術師、“ヨーロッパの魔王”だぞ? 誰か目上に忠節を誓うなんて、ありっこない。
 友誼か? まさか。ジュスティニアーニやトレヴィザン、あるいはタディアスはここに来てからの知己だ。昔の知り合いは、皆あの世へ行ってしまった。
 人が大勢死ぬのを見たくないのだったら、何も武器を大量に持ち込むことはなかった。むしろ、流血を増やしているのは自分自身ではないのか?

 ………結局は、感傷なのだろうか。かつて住んだこの地が、過去の世界へと消えてゆくのを見たくない、そんな感傷に支配されて、私はここに来たのだろうか。


「……いや、やめよう。自分の意思で戦いに身を投じた以上は、最善を尽くさにゃならん。戦場の真ん中で戦いの意味をあ〜だこ〜だ悩むのは、恐らくやってはいけないことだ。無理矢理徴兵されて戦場に放り込まれたと言うなら、話は別だが……」
 そう言って彼は首をブンブン振り、陰気な形而上の思考を打ち切った。そして、宵闇に包まれ始めた市街を見回しながら立ち上がる。と同時に、再び沈黙していたマリアに目配せを送る。
「さて、マリア」
「……イエス、ドクター・カオス」
「それにしても、城というものは落城が迫ると色々な怪異が起こるものだとか言うそうだな。聖母マリアのイコンが重くて持ち上がらなかったとか、ミサの最中にとんでもない局地的豪雨があったとか……」
 そう独り言を言いながら、カオスは街の暗い一角に視線を送った。
「そういう怪異を起こすのは、人心を動揺させて何かの企みを実行するための布石かね? え、魔族殿」
「……………お気づきとは、お人の悪い」
 影の中から、ユラリと一つの人影が進み出てきた。その姿は、古代ギリシアの武具で身を固めた、往古のギリシア武人のものだった。

「貴殿のお命を頂戴しに参りました、ドクター・カオス」
「いきなりお命頂戴とは穏やかではないな。二千年近い昔の装束を見ると、上古の名のある人間の霊がキリスト教に疎外されて魔界に落とされて魔族になった、といったあたりか?」
「………アガメムノン様の手の者にて、アイギストスと申します。お別れまでのごく短い間、何卒よしなに」
 鉄板をつなぎ合わせたようなノースリーブの鎧に頭飾りつきの兜、そして背中に盾を背負い、腰に剣、手には槍。まさしく、ホメロスの英雄叙事詩から抜け出したような出で立ちで、アイギストスと呼ばれた男は一礼した。
「ほう? 一度は殺した男に随身するとは妙な話だな。察するに、悪役扱いされ続けて魔族になっちまった同士が、呉越同舟して地上に出てきたかね? ああ、私とてホメロスやアイスキュロスは読んだことがあるさ。しかし、軽々しく仲間の名前を口にするあたり、心理的には複雑なのだろうな」
「…お喋りはその程度にしていただこう」
 少し苛立った様子で、アイギストスは槍と盾を構えた。
「……ちっ。私もずいぶん高く買われたもんだ」
 内心舌打ちしながら、右手で短銃を握り、腰に引っかけてあった小剣を左手で逆手に持つ(退魔処理こそ一応されているが、擬似ウーツ・ダマスカス製なので大した効果は期待できない)。傍らには、油断無く右手をアイギストスに突きつけるマリア。タディアスがラボから出てくる気配はないが、その方が彼のためだろう。
「軍神アレスよ、ご照覧あれっ!!」
「っ!!」
 アイギストスの飛び込みながらの槍での一撃! 予想の数割増しのスピードで突き出される穂先を、カオスは横っ飛びでどうにかかわした。
「ちっ! 元が人間でも魔族は魔族、一筋縄ではいかんか!」
 突き抜いた後でさらに横薙ぎで飛んでくる槍をもう一飛びして避けつつ、銀の銃弾入り短銃を突きつける。右手はトリガー、左手は撃鉄のコック、いわゆるファニングと呼ばれる連射向けの体勢である。

 タタタタタタ―――ン!!

 カン!キン!ギャン!ガキン!バスッ!ビシィ!

 大した狙いもつけずに立て続けに撃った6発は、3発が素早く突き出された盾に、1発が甲冑に弾かれ、残り2発は盾に食い込んで止まった。
「――無駄だっ!!」
「そうかね?」
 内心の冷や汗を隠しつつ、カオスは冷笑しながら弾倉を開ける。蓮根状の回転式弾倉から、まだ煙を噴いている6つの空薬莢が落ちた。
「くたばれっ!!」
「危ない・ドクター・カオス!!」
 その隙を突いてアイギストスが槍をさらに薙ぎ払おうとした直前に、マリアが見事な跳躍から生前のマリア姫を彷彿とさせる綺麗な跳び蹴りをアイギストスの側頭部に叩き込んだ。

 バキィ!!

「ぶっ!?」
「いいぞ、マリア! ええと、銀の弾、銀の弾……」
「ドクターっ!!」
 懐をまさぐるカオスに投げかけられた声の方を彼が向くと、一つの物体が飛んできた。彼がとっさにそれを受け止めると、そこにあったのはクイックローダーに取り付けられた6発の銀の銃弾だった。
「いいタイミングだ、小僧のクセに!」
 得たりとばかりに銃弾を弾倉に素早く装填し、弾倉を銃身に戻す。そしてマリアを盾で突き飛ばしたアイギストスが槍を構え直すより先に、カオスは懐に飛び込んで左手を盾にかけた。
「おのれ、小癪なっ!!」
「大いに癪だと言ってもらいたいね」
 アイギストスが怒りに任せて横に振った槍を、カオスは盾にかけた手を軸にヒョイと半回転し、倒立前方回転の形で敵の頭上を飛び越し………

 タン、タン、タン!!!

 その途中で、兜と甲冑の間……アイギストスのうなじ部分に銀の銃弾を3発撃ち込んだ。
「な……!? ば、莫迦…な!?」
「思いつきもしない莫迦な事が起こり得るのが、人間の世界というものさ」
 愕然として、血を吐きながら振り返るアイギストスの顔面に、カオスは残りの3発を叩き込んだ。
「が、ぁ……! ア、アガメ……ムノン………!!」
 絶叫することもなく、何かを呟きながらアイギストスは地面に倒れた。そして、その姿は黒いチリと化して虚空へ飛び散っていった。

「いいタイミングで手を出してくれるものだ。お前さん案外筋がいいではないか」
「正直言って、見捨てて逃げようかとも思ったんすけどね」
 カオスがニヤッと笑いを向けた先には、いつの間にやらラボの外に出ていたタディアスがいた。カオスに替えの銀の銃弾を投げたのは、このギリシア人の青年である。
「この戦争が終わったら、私の助手になるか? 金にはならん稼業だが、少なくとも退屈はさせんぞ。この街には、さして未練もあるまい?」
「ま、考えときます。未練が全く無くなった、ってワケでもないし」
 肩をすくめて、タディアスは苦笑した。
「よし、とにかく行くぞ。ありったけの銀の弾を用意しろ!」
「用意? 行くって、どこへ?」
 ラボに駆け込みながら、それでもタディアスは質問してきた。
「決まってる、皇帝達のところだ! 奴の話の筋からすると、本命は私狙いではない! 恐らく奴のバックにいる存在は、今頃皇帝のところに忍び寄って……」
「まさか、陛下を闇討ちに!?」
 ありったけの退魔アイテム(と言っても呪符と銀の武器弾薬程度だが)を持ち出しながら、タディアスは驚愕の叫びをあげる。
「どちらかと言えば、協力者を装って皇帝をたぶらかす方がありそうだ! 首脳部とて、今となっては藁をも掴みたい気分だろうしな! 行くぞ、マリア! タディアス!」
「イエス、ドクター・カオス!」
「は、はい!」
 こうして三人は、脱兎のごとく駆け出した。


 魔族が人間を丸め込んで魂やら何やらを買う、俗に言う“契約”したとしても、手に入るものなどはたかが知れている。せいぜいが交換条件一つか対象者の魂一つだ。無論、下級の魔族などはそうやってせっせと魂その他を集めて上級の魔族に届けるか、自分の力をつけるのに使うかする事になる。
 だが、契約の相手が一国の支配者だったらどうなる? その国に協力者として居座ることもできるし、その国主に“王の命令だから、この魔族様に魂を捧げなさい”と命令させることだってできる。今コンスタンティヌス皇帝が魔族――恐らくは、アガメムノン――の誘いに乗ったりしたら、この先オスマン軍は撃退できても今度はローマ帝国は魔族の傀儡になりかねない。
 そうやって魔族の誘惑に負けて一時の栄華を得て、その後破滅した君主の事は歴史には明記されることはない。だが、詳しく調べれば結構な人数になるだろう。アウグストゥス以来のローマ帝国の系譜とて、チョイと裏の記録をめくれば魔族に魂を売った奴の一人や二人列挙できるはずだ。そして、いかに神族と魔族が人界への影響力を巡って人間の知性の届かぬ処で相争っているとは言え、“人間の願いにより地上に出現した魔族”という構図に対しては表だった介入ができないのだ。もし公然と介入すれば、神族(このキリスト・イスラム教世界では天使とも呼ばれる)こそが人間の敵という事になりかねないからだ。


「………って事だ。事の重大さが理解できたか!?」
「イエス、ドクター・カオス。それで・皇帝陛下の・所在は?」
「それでしたら、ハギア・ソフィアに通じる道へ行ってください!」
 街路をよく知っているタディアスが(いや、カオスだって知っているのだが)、右へ通じる通りを指差した。
「今夜、ハギア・ソフィアで大きなミサをやるんです! 多分、陛下もそれに出席するはずです!」
「わかった! すると、ブラケルナエ宮殿からハギア・ソフィアに通じるこっちの道か!」
 ハギア・ソフィアの大聖堂は、この都がかつてビュザンティオンと呼ばれていた頃からの旧市街にあたる東部にある。ブラケルナエ宮殿からハギア・ソフィアまでは、皇帝はごく少数の護衛を随行しているだけのはず(大勢ゾロリと城壁から連れ出す余裕はない)。三人は、日がとっぷりと暮れた市街を突っ走った。

「前方に・魔力反応! 距離・45.6ヤード・皇帝陛下・および随員8名・至近です!」
「間に合ったか、それとも……!?」
 2マイルばかり全力疾走して、三人はようやく皇帝の一行のところに駆けつけた。そして、僅かにカーブしている大通りを曲がった三人が見たものは……

「残念だが、貴方のその提案を受け入れるわけにはいかない」
 行列の先頭にいたコンスタンティヌス11世が、キッパリと首を横に振る姿だった。そして、その傍らには古式ゆかしき4頭立ての戦車に乗った一人の男がいた。


「何故かね? 我々は今でこそ魔の眷属に身をやつしているが、かつて古きギリシアの神々が居ましたる“古き良き時代”の折には、ミュケナイの王として幾多の戦いを勝ち抜いた真の勇士なのだぞ? その我々が貴公達に代わってサラセンの蛮族どもを切り刻んでやろうというのを、何故断らねばならんのだ?」
「ドクター・カオスから授かった警句です。“神の使いは往々にして苦言を呈し、魔の一族はしばしば甘言を弄する”……と。貴方の言っていることは一見希望に聞こえるが、その実はコンスタンティノポリス全ての市民の魂を譲ることと引き替えにした悪魔の契約に他ならない」
 常に騎乗している白馬から降りていた皇帝は、戦車の上に座っている男――彼こそが、今回コンスタンティノポリスに現れた魔族の首領・ミュケナイの王アガメムノンなのだろう――をジロリと睨め上げた。
「もう数日早ければ、私とて貴方の提案に心を動かされたかも知れません。しかし、3日前にスルタンから最後通牒を受け取った事で、私の覚悟も定まったのだ。明日未明を以て、我々は雌雄を決する最後の戦いに臨むのですよ」
 不思議とよく通る声を、カオス達も聞いた。薄々予想していたとは言え絶望的な知らせを耳にしたタディアスが、ため息をつくのが後ろからでもよく分かった。

「貴方がた古代の戦士達が手を貸してくれれば、明日の戦いには勝てるかも知れない。だが我々は、自らの信仰、自らの祖国、家族、あるいは主君に民、そしてこの故郷、イタリア人達に至っては我々への友誼のために、これまでの2ヶ月間、生死と苦楽を共にしてきたのです。ムスリムの砲火からこの都を守り抜く、それが我々のなすべき事だと信じてきたからこそ。私も、トレヴィザン卿、ジュスティニアーニ卿、兵士達に市民達、そしてドクター・カオスにマリア殿もだ」
 そう言って、皇帝は周囲を見渡す。そこにはノタラス宰相、フランゼス財務卿ら帝国の重臣と共に、トレヴィザン提督やジュスティニアーニ隊長もいた。
「貴方にこの都を売り渡すことは、彼ら全て……いや、敵であるムスリム達にとっても裏切り以外の何者でもない。そしてこの地は、魔族に支配された千年の都として永劫の汚名を着ることになるでしょう」
「「「「…………」」」」
 コンスタンティヌスの静かだが決然とした言葉に、一同声もない。
「お引き取り願いたい。ここは異なる神を信じる人同士の戦場であって、二千年前の亡霊の戻ってきていい所ではないのだ。我々はあくまでキリスト教徒、ローマ帝国人として最後まで戦うのです」
「……と、言うわけだ。アテが外れたな、ミュケナイの王よ」
 後ろから投げかけられた冷ややかな声にアガメムノンが振り返ると、そこには注意深く短銃を構えながらゆっくりと歩み寄るドクター・カオス達3人の姿があった。
「アイギストスめ、不甲斐のない……」
「だが、内心期待していたのではないか? なんせ、10年の戦争を勝ち抜いてどうにかこうにか故国に帰ってきたお前さんを殺した張本人なのだ。意趣返しを考えてもおかしくあるまい?」
「アガメムノン殿・コンスタンティノポリスより・退去・勧告します。さもなければ・攻撃・します」
 腕から出したサブマシンガンを同じくアガメムノンに向けて、マリアも静かに告げる。
「どうする? 契約が取れなかった以上、大した魔力は発揮できまい。今のお前さんなら、我々二人だけでもどうにかあしらえるぞ。どこで見つけたのかスキュレーまでけしかけておいて、ご苦労様だとは思うが」
 遠巻きにする一団の中央に、ポツリと一人の魔族。流石のアガメムノンとて手が出せない……かに見えたが。

「アガメムノン閣下」
 皇帝達一行の後ろ――つまり、宮殿から通じる街路の方から、女性の声がした。
「……クリュタイムネストラか」
 アガメムノンがギロリとにらみ据えた方向。そこにいた騎馬の数人が気圧されるように脇へ寄ると、そこにはやはり古代ギリシア風の長衣に身を包んだ一人の女性がいた。が、ただの女性でないことはその尋常ではない魔気からもすぐに分かる。
「アガメムノン、アイギストスと来たら、やはり次はクリュタイムネストラか……!」
 娘を生贄にされた(一説には、されかけた)事を恨み、間男と共謀して夫を謀殺したミュケナイの王妃の登場に、半ば想像していたとは言えカオスも内心舌打ちした。
「閣下、御首尾はいかがでございましょう?」
 そんな人間時代の宿業など知らぬげに、クリュタイムネストラは恭しく一礼する。
「……見ての通りよ。この錬金術師めが、一神教の信徒どもに余計なことを吹き込みよる」
「それはそれは、お気の毒さまでございます」
 いや、やはりトロイア戦争時の愛憎劇はまだ糸を引いているらしい。クリュタイムネストラの声は、なかなか毒っぽい含みがあった。

「……そちらの首尾こそどうなのだ? “第二目標”は契約に応じたのであろうな?」
「はい、それはもう」
 クリュタイムネストラの淡々とした答えは、周囲の人間達にボディブローのような衝撃を与えた。
「我々の債務は、オスマンのスルタンの首・及びサラセンの蛮族の排除。債権として、明日以降に戦死する全てのジェノバ人に対する魂の取得権、及びコンスタンティノポリスとガラタのジェノバ人居留区への居住権。特例として、スルタンの殺害終了までに契約者が死亡した場合、契約者の魂と引き替えに手を下した者の陣営を排除する事」
「……よし、その条件で契約成立とする。契約者はそこにいるのだな」
「無論でございます」
 そう答えて、クリュタイムネストラは一歩横へ。
「ジェノバ人、だと………!?」
「ま、まさか……!」
 顔面蒼白になる一同の前に現れたのは……!

「……………」
「しょ、正気か!? ミカエル・レーヴっ!!!」
 そこにいたのは、魔族と取り引きしたというのに相も変わらず(少なくとも表面上は)ふてぶてしい表情のジェノバ人傭兵副隊長だった。
「正気も正気さ。むしろ、キリスト教やらローマ帝国やらの栄光に殉じようなんてムードの方が、私から見たら正気には思えませんね」
 流石というか何というか、コンスタンティヌス帝のような信仰心だの臣民に対する責務感だのは彼には縁のない事らしかった。
「そこのそいつは魔族だと知っての事か? そいつの誘いに乗るというのは、お前一人の問題ではないぞ!」
「しかし今は味方になろうと言ってるんだ! この都の高官達の言い分を見ろ、ローマ法王に膝を屈するのはイヤだ、さりとてトルコ人に降服するのもイヤだと言ってるんだ!」
 これは事実である。皇帝はともかく、帝国の枢要にいる人間にはギリシア正教会がカトリック教会に屈服する条件での同盟に反対する声が多かった。
「だったらこの連中と一時手を組んで悪いことなど無いだろうよ! こいつらが人間でない事の問題を解決するのは、その後でいい!」
「ラディカル過ぎる…っ!」
 この時代まだマキャベリは生まれていないが、イタリアはそういう権謀術数の渦の中にあったのは事実である。しかし、オカルトの世界に生きてきたカオスにとっては、手を組む相手が魔族というのは断じて譲れないラインである。
「レ、レーヴ! お前という奴は……!」
「待て、斬るな! 今言った“特例条項”とやらの真偽が不明だ! 拘束にとどめろ!」
 怒りに任せて剣を鞘走らせたジュスティニアーニを、カオスは慌てて止めた。

 そういう様子を面白くもなさそうな表情で見下ろしていたミュケナイの王が、手綱を引いて馬の頭を横に向ける。
「……さて、それではスルタンとやら言うサラセンの蛮族の首を挙げに参ろうか。クリュタイムネストラよ、この場は任せる」
「了解です。閣下の御心のままに……」
「! おい、待たんか!」
 馬車を方向転換させて駆け出すアガメムノンをカオスは追おうとしたが、その前にクリュタイムネストラがスッと立ちふさがる。
「おい、ミュケナイの王妃! お前さん、娘を犠牲にした夫に対する恨みはどこへ行った!?」
「それは既に生前のこと。今は私に悪女の汚名を着せ続け、挙げ句にキリストの名の下に我らを貶めたギリシア人を憎むのみでございます」
「文句はあの世で、アイスキュロスやソポクレスにでも言えばいいものを!」
 毒づきながら短銃を突きつけるカオスだが、それより先にクリュタイムネストラが手をカオスの方に突き出していた。既にアガメムノンを乗せた戦車は、両脇から取り押さえられたレーヴの脇を通り過ぎて走り去っている。
「サジタリスよ、汝は冬の星座なり!」
「うおぉっ!?」
 そう詠唱すると同時に、その掌から氷の矢が数本立て続けに飛び出してカオスに襲いかかった。横っ飛びにその矢ぶすまを避け、二回地面を転がってからパッと立ち上がる。
「ロケット・ア――――ムっ!!」
 カオスとは反対方向に横っ飛びしたマリアが、立て続けにパンチを飛ばす。

 バキィ! ドガッ!

 二発のパンチは、右はこの女魔族にかわされたが左ストレートはその肩にヒットしていた。
「……それが、何だと言うのだ!」
 が、クリュタイムネストラは動じない。マリアは有能なアンドロイドはあるが、残念ながら魔族に有効打を与えるほどの魔力・霊力を発揮できないのだ。今の一撃も、せいぜい打撲傷程度だろう。
「砕けよ!」
 クリュタイムネストラの放つ氷刃が、今度はマリアに向けて飛ぶ。
「攻撃・続行します!」
 しかし、氷自体が魔力を帯びていないことを瞬時に看破したマリアは、避けることなく攻撃を続ける。5本の氷の矢がマリアを直撃し、次々と粉々に砕けた。やや遅れて、二発目のロケット・アームが今度はクリュタイムネストラの額にクリーンヒットしていた。例によって服がボロボロになっただけで、マリアには外傷はない。
「ぐっ! この娘、アテナ・エクス・マキナ(機械仕掛けの女神)とでも申すか!?」
「戦と知恵の女神に比されるとは、マリアにとって名誉なことだねえ」
「ええい、鬱陶しい! プロメテウスは我らを嘉し給う!
 今度はクリュタイムネストラの掌から、火球が数発飛び出す。今度は脇に飛び退いてかわすマリア。その間に、カオスは自分からクリュタイムネストラへの射線上に人のいない位置に回り込んでいた。
「アイギストスは戦士だったが、あんたは魔女の類かね?」
「英雄の妻としての嗜みと申しましょうか? キュクロープスの力を、ここに……くっ!」

 タン! タン!

 恐らくは稲妻を放つであろう術の詠唱が終わる前に、カオスが短銃を二発立て続けに撃っていた。目にも止まらぬスピードの銀の銃弾を、それでもギリギリで避けるクリュタイムネストラ。銃弾がかすめた頬から飛び散る血は、何やら赤紫色だった。
「キュクロープスの力を、ここに示さん!!」
「どひょぅ!?」
 狙いをつけ直して三発目を撃つより先に稲妻が飛んできたので、今度はカオスが慌てて避ける番だった。退魔処理されたマントで身を包んで横に再び避ける。
「「うわあっ!?」」
「ぐっ!?」
 僅かにカオスをかすめた稲妻はその先の地面を電圧のショックでえぐり、その衝撃で射線上にいたミカエル・レーヴ、そしてその両脇の近衛兵二人をバラバラにはじき飛ばした。
「今だ、マリアっ!!」
「イエス、ドクター・カオス!!」
 クリュタイムネストラから斜め後ろのポジションにいたマリアが、三度ロケット・アームを飛ばす。さすがに苛立ちを隠せないでいた魔族の女は、意に介さずにカオスに次なる術を浴びせようとする……が、

 バンッ!!

 マリアの両腕がクリュタイムネストラに命中した次の瞬間、霊力と魔力が一気に爆発した。
「ぐわあぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
 今度こそ大きな打撃を受けて、吹っ飛ばされるクリュタイムネストラ。今マリアが叩きつけたのはただのパンチではなく、手にしたカオス特製の呪符である。これまでの二度の空手のパンチは、油断を誘って一撃入れるための布石だったわけである。もちろん、氷の矢を避けなかったのに炎を避けたのも、呪符が焼けるのを嫌ったためだ。

「ま、まさか……このような……!?」
「マリアを甘く見たのが、貴様の運の尽きさ」

 タン!

 地面に転がったクリュタイムネストラを一分の憐憫と二分の冷笑、そして七分の冷徹さを顔に浮かべて、カオスは短銃を彼女のこめかみに突きつけ、一発撃った。
「がっ…………!!」
 致命傷を受けたクリュタイムネストラが、先ほどのアイギストス同様に消えてゆくのを見下ろしながら、彼は苦痛で顔を歪ませた。
「しかし、さすがに、電撃は、シビレる……!」
「ドクター・カオス!?」
 痛みが今になって身体を走ったのだろう、片膝をついたカオスにマリアが目を見張る。彼女がカオスの体調をチェックすべくスキャンを始めようとした時――――


「ドクター!!」

 ドスッ!!!


「――――!?」
「………!!」
「ぐ……ぅ!!」

 苦悶の声と何かを刺すような音に、振り返ったカオスと顔を上げたマリアが見たものは―――


「な……!?」
「ミ・スター……!?」

 いつの間にか忍び寄ってきたミカエル・レーヴの剣に胸を刺し貫かれた、タディアス・コジナの後ろ姿だった。


「タディアスっ!!?」
「ミスター・コジナ!!?」
「ちぃ……!」
 タディアスの胸からレーヴが剣を抜いた直後に、駆け寄った数人の兵士達にレーヴは押しつぶされた。そして、
「ド、ドクター……無事……っすか?」
 そう言って振り返りながら、タディアスは地面に崩れ落ちた。


「おい、しっかりしろ! 一体これは、どういう事だ!? あ、そいつはふん縛ってどこかに放り込んでおけ!」
 レーヴを殴り倒してどこかに連行しようとする近衛兵達にそう指示しながら、カオスはタディアスの傍らに駆け寄る。その逆側には、マリアが駆け寄った。
「あの人だって……魔族と取り引きしたんなら……邪魔なドクターを片づけるしかないワケですからね………何となく、その事に気付いちまって………」
「バカ! そうじゃない、なんで私をかばった!? お前は死ぬのが怖いんじゃなかったのか!? 普段はギャーギャー悲鳴あげといて、こういう時にああいう事を何故するっ!?」
 既に、胸と背中から溢れ出す血で彼は真っ赤に染まっていた。
「そりゃ、死ぬのは怖いですよ…今だって怖くてしょうがない………けど、あんな魔族野郎に…この街が好き放題にされちまったり…あの子がひどい目に遭ったりするかも……なんて思ったら……勝手に身体が………動いてたみたいです…………」
「ミスター・コジナ……」
 カオスとマリアを交互に見ながら、タディアスは軽く微笑んだ。普段は芝居がかったように悲鳴だのわめき声だのをあげていた彼がそういう表情をするという意味を、二人とも悟ってしまった。
「ドクター……マリアさん……すんません、助手の件……無理っぽいっすね………陛下やジュスティニアーニ隊長にも……迷惑かけました……」
「この大馬鹿野郎! 迷惑だと思うなら生きろ! 生きて迷惑の償いをしないか!」
「ミスター……タディアス・さん……!」
 少しずつ血の気の失せてゆくタディアスの肩をつかんで、思い切り揺さぶるカオス。その様子に、彼は今度は苦笑を浮かべた。そして、タディアス・コジナは小さな声で独り言とも囁き声ともつかない事を口にした。
「ああ、そうだ…………もし、あの子に………キリュネーに……会うことがあったら……………」
 その言葉に、カオスも、マリアも、傍らにいた皇帝やジュスティニアーニ、トレヴィザン達が耳をそばだてる。
「お、おう、伝言か? わかった、伝えてやる。何て伝えればいい?」


 が、その伝言が言葉になることは、もう無かった。

「〜〜〜〜〜〜〜――――――っ!!!」
 魂を失った薄幸なる青年をかき抱き、言葉の無い叫びをあげるドクター・カオス。そして、周りにいた皇帝達一行も、その叫びに倣った。


 しばらくの間重苦しい沈黙が流れた後………マリアがスックと立ち上がった。
「……行きましょう・ドクター・カオス」
 無表情な彼女は無表情なりの哀しみを顔に浮かべながらも、それでも決然と言った。
「ドクター・カオス・魔族・アガメムノン・止めなければ・なりません。ミスター・コジナ……タディアス・さんも、それを・望んで・います。立って下さい・ドクター!」
 声にも抑揚がないマリア。でも、それだけに、彼女の声は沈痛だった。
「だが、しかし……奴の目的は、スルタンを斬るという……」
 ほんの僅かに、カオスの脳裏に迷いがよぎる。このままスルタンをアガメムノンに斬らせ、その直後に奴を倒すという手は無いのか? “悪魔の誘惑”と言うのは、まさにこの事だっただろう。が、
「……行って下さい、ドクター。これは我々全員の総意でもあるのです」
 カオスの傍らに、コンスタンティヌス11世がひざまづいた。手には、以前にカオスが献上した真のウーツ・ダマスカスの長剣がある。
「この戦争は、キリスト教徒とイスラム教徒の雌雄を決する戦いなのです。これ以上、魔界に堕ちた太古の怨霊に介入させてはいけない。どちらが勝つにせよ、決着は人間同士の手でつけられなければならないのです」
「ヴェネチア人も同感だな。あの連中がけしかけた黒い船に殺されかけた時に気付いたよ、あの連中は我々の味方にはなり得ないってな」
 そういって、皇帝の傍らにはトレヴィザン提督が立った。両手の上では、小ぶりの樽がズッシリとした重さを主張している。
「飛んでいけば、まだ追いつけるはずだ。こいつがあれば、マリアのお嬢さんは飛べるんだろう?」
「……使っていなかったのか?」
「彼女が飛ばなくなったのに気付いてから、一樽だけ残しておいたワケさ」
 それは、この攻防戦が始まる数日前に、カオスが海軍に提供した“ギリシアの火”の燃料の溶媒にもなるマリアとカオス・フライヤー共用のジェット燃料だった。
「………済まない。俺の部下が、とんでもない事をしてくれた」
 そして、ジュスティニアーニ隊長が沈鬱な表情で歩み寄る。手には、これまたカオスが譲った短銃と銀の銃弾の詰め合わせがある。
「許せ、とは言えないが……あとの事を、頼む」
 そう言って普段は陽気なジェノバ人の傭兵は銃を傍らに置き、そして物言わぬこの青年を抱え上げた。


「ドクター・カオス………」
「……分かった。行くぞ、マリア!」
 数秒の沈黙の後、カオスもマリアに倣いガバッと立ち上がった。そして、三人が差し出した剣・石油・銃を手に取る。
「そうと決まれば、給油と給弾だ! マリアの飛行ユニットは!?」
「ノー・プロブレム! タディアス・さん、持参・していました!」
「よーし、流石は私が見込んだ奴だった! お三方、作業を手伝ってもらうぞ!」
「「「おう!」」」 
 力強い表情で、三人が一斉にうなずく。そしてそこへ、一騎の人馬が駆けつけてきた。

「へ、陛下! 正体不明の戦車が、ケルコポルタ門を突き破って城外に駆け出して行きました!」
「追うな! それと門を応急修理しておくんだ!」
 伝令の意味する所は、明らかである。樽を手にした皇帝は最低限の指示を下してから、カオスの方に向き直った。
「流石に動きが速い。急ぎましょう!」
「そうだな。これで間に合わなかったら、笑い話にもなりゃしない。そうなったら、明日には暗黒がかった英雄譚の出来上がりで、コンスタンティノポリスは大喝采だ」
 そう言いながら、マリアの飛行ユニットの燃料タンクの栓を開けるカオス。その傍らでは、マリアの両腕のサブマシンガンに、二人の傭兵隊長が銀の銃弾を給弾している。


 この時代になるとコンスタンティノポリスには懐古的な風潮が流れていて、キリスト教以前の古代ギリシアの古典の研究が流行している。元々この街は西欧に比べると識字率も遥かに高く、アガメムノンと言えば古代の英雄の一人としてそれなりに広く人口に膾炙している。
 もしそんな人物がスルタンを斬り、オスマン軍を撃退したとしたらどうなる? コンスタンティノポリスの住人達は古代の英雄の帰還だと思うだろう。そして、彼が魔族と化したとは知らずに拍手喝采して迎える事になる。それは、即ち英雄信仰の復活だ。
 そして、神族や魔族にとって“信仰”という多数の人間の想念は大きな力の源なのである。その力を取り込んだアガメムノンは、そのうちこの地の守護者として認識される事になるだろう。魔族が一国の都の守護聖人に納まるとは、何という皮肉だろうか!


「私はどうも、こういう事態を防ぐためにこの街にやって来たらしいな」
 知らず知らずのうちに妙な事になった我が身に、カオスはほんの少しだけ苦笑した。


 ドドドドドドドド………!!!

「ぐわっ!」「がぁっ!」「ぎゃあっ!」
 人間の海を、一両の戦車が疾駆する……いや、正確には人間の海を蹴散らしながら爆走する戦車が一両。
「曲者! 曲者だ――!!」
「スルタンの天幕へ向かっているぞ! 皆起きろ、迎え撃て!!」
 スルタンの本陣を固めているのは、他教徒の捕虜を再教育した、一種の解放奴隷で構成されたスルタン直属の戦闘集団イェニチェリが1万5000人。バルカンやアナトリアの諸国に恐れられる、多分地中海最強の兵団である。しかし、
「愚かな一神教徒どもめ、古代の英雄の力を思い知るがよい!!」
「ぐぁっ!?」「だぁっ!」「ぐはぁ!」
 魔族相手に普通の剣や弓、あるいは鉛弾がまともな殺傷能力を発揮できるわけが無かった。まして、目の前を驀進するのは古代の英雄が悪霊化した挙げ句に魔族に変じた者である。ある者は馬車に轢かれ、またある者は槍に叩き伏せられ、刺し貫かれて地面に倒れ臥してゆく。
「……あれか」
 そしてアガメムノンの戦車はオスマン軍の陣営を駆け回った末、他の天幕より明らかに二回りは大きい色鮮やかな天幕に行き当たった。それが重要な場所である証拠に、十数人の衛兵がめいめい槍やクロスボウを戦車に向けて構えている。
「放て――っ!!」

 バスッ! バスバスッ!!

 重い弦音と共に、矢が一斉に放たれる(夜の、しかも陣地のド真ん中なのに、だ)。普通の戦車ならこれで射倒されるのだが、ところがどっこい敵は普通の戦車ではない。
「「「うわ――――っ!!?」」」
 アガメムノンはおろか馬すら射倒す事ができず、勇敢なるイェニチェリ達ははね飛ばされた。そして、戦車は天幕の横幕を引きちぎりながら中へと飛び込む。
「何者だ、貴様!?」
 天幕の奥の方に控えていた豪奢な衣装の男が、剣を片手に立っていた。
「我はアガメムノン、ミュケナイの王にしてギリシアの王達の盟主である」
 馬車を止め、しかし車上から傲然とその男を見下ろす。
「今宵ギリシア人とオリュンポスの神々の地を荒らす蛮族共に、鉄槌を下しに来た。おとなしく冥府へと下るがよい」
 そう告げ、ゆっくりと槍を構えながら一歩一歩戦車馬を進める。そして、その槍を一気に投げつけようとした時に、

 ベリベリベリっ!!

「ハーッハハハハッ!! “ヨーロッパの魔王”、只今見参!!」
「目標・魔族アガメムノン、捕捉・しました!!」

 天幕の天井を突き破って、一組の男女が飛び込んできた。そしてスルタンらしき男とアガメムノンの間に、逆噴射しながら軟着陸する。

「貴様……!」
「ド……ドクター・カオス……!?」
 絶妙のタイミングで現れた闖入者に、天幕の中の二人が目を見張る。
「冥府に行くのは残念だがお前の方さ、太古の王の亡霊よ!」
「ターゲット・ロックオン! 排除・します!!」

 ターン、ターン、ターン、ターン、ターン、ターン!!
 タタタタタタタタタタタタタ…………!!

 カオスの左手に握られた短銃と、マリアの左腕のサブマシンガンが一斉に火を噴いた。装填されているのは、もちろん対魔族用の銀の銃弾である。数十発の弾丸は、アガメムノンに向かった弾は甲冑と盾に阻まれたが、馬にかなりの数の弾丸が命中した。
「おのれ、小賢しい!」
 苛立ったアガメムノンは、傷ついた馬車馬に鞭を当てる。それに応えるかのように、馬達は一声嘶いて前進を始めた。馬が流している血は………やっぱり紫色である。
「ちっ! 馬もやはり魔界産か!」
「スルタン・避難を・勧告・します!」
 向かってくる戦車の馬蹄を避けるべく、カオスとマリアは左右に散る。と同時に、カオスはウーツ・ダマスカスの剣を鞘から抜いた。

「どっせぇ―――いっ!!」

 ザシュッ!!

 そしてすれ違いざま、右端の馬を袈裟懸けにバッサリと斬った。ただの剣ではない、魔族を生身の人間同様に殺傷する事のできる真のウーツ・ダマスカス鋼である。たちまち、その馬は血を噴水のように噴き出しながら倒れた。
「目標至近・アタック!」
 そして反対側では、マリアがやはり避けざまに左端の馬に左右の手に持った呪符を続けて叩きつける。クリュタイムネストラすら致命傷を喰らった一撃を二発喰らい、これまた馬が一頭倒れる。が、
「おのれぇぇ!」
「あがだぁっ!?」
 馬の後ろにいたアガメムノンが槍を一薙ぎするのを、カオスには避ける事ができなかった。胸のあたりを柄で思い切り殴られ、カオスははね飛ばされる。
「ドクター・カオス! ……うっ!?」
 返す刀、もとい槍で逆方向に振るわれる槍に、マリアも数歩たたらを踏んだ。その間に、倒れた馬を二頭引きずりながら、戦車は二人の間を通り抜けて後ろの男に襲いかかる。
「うおああああっ!?」
「しまった……!?」
 まともに馬蹄に踏みつぶされるのは避けられたが、スルタンはそれでもマリアの攻撃を受けて倒れた馬にぶつかる形ではじき飛ばされた。
「ぬ……貴様は……?」
 恐らくは中級魔族クラスの力を持っているであろうアガメムノンが、わずかに疑わしげに眉を寄せる。

「スルタン!?」
「いや、ドクター……私は何とか……!」
 呻きながらも身を起こすスルタンの姿に、カオスは安堵のため息をつく。一方のアガメムノンは舌打ちしながら、倒れた馬と戦車を繋いでいる馬具を槍で叩き壊していた。そして、倒れた馬を外してから馬車の向きを変える。今度こそスルタンを轢き殺そうとしているのは明らかだった。
「そうは、させるかっ!!」
 だからカオスは、その時わずかにはためいたアガメムノンの背中のマントを迷わず掴んで手前にグイと引っ張った。
「何っ!?」
 予想外の展開に、アガメムノンは後ろにつんのめる形でひっくり返り、戦車から転げ落ちた。だが、最後に彼は倒れ込む前に、槍で残った馬2頭の尻を殴りつけていた。

「「ブヒヒヒヒ――――ン!!!」」
 荷が減って軽くなっていた戦車が、スルタン目がけて疾走を始める。ほんの2〜3ヤードの指呼の距離、立ち上がる暇もなく転がって離れようとするスルタンなどものの数秒で潰されるだろう。それでも、騎手を失った事でコントロールされなくなった二頭の馬に、横っ飛びにマリアが組み付いた。戦闘態勢に入っていたのでエンジンと主翼はバックパックごとパージされていたが、それでも彼女の人間離れしたバネと反射速度は、戦車の方向を無理矢理横にねじ曲げる事に成功していた。と同時にマリアのサブマシンガンが両腕共に火を噴き、ほぼゼロ距離で魔馬2頭の脳天に銀の銃弾を撃ち込んでいた。

 ズガガガガガガガッ!!

 その代償として、マリアは死してなお疾走する馬にはね飛ばされ、さらに踏みつけられ、さらに戦車に轢かれた……ところで馬が倒れる。マリアは撹挫した戦車の下敷きになり、一時的に身動き取れなくなった。
「マリア、無事か!?」
「メインフレーム・及び・動力回路・破損……! 予備回路・及び・補助回路に・切り替え中……!」
「急いでくれ!」
 最高の作品にして人生の擬似的なパートナーでもあるマリアが倒れたので、流石のカオスもヒヤリとする。が、
「よくもここまで邪魔だてしてくれるわ……!」
 怒りに燃えた表情のアガメムノンがマントを外しながら立ち上がったので、カオスの背筋をまたヒヤリとした汗が伝った。
「死ねぇぇぇい!!!」
「どぉぉっ!?」
 渾身の力で振り下ろされる槍を、カオスは剣で辛うじて受け止める。だが、頭上1フィートで差し出したはずの剣は大きく下に沈み込み、頭から僅か1インチ足らずのところで止まった。
「い、いかん……流石はトロイア戦争の英雄の一人か……!」
 カオスは錬金術師であって、剣や槍の訓練など片手間でしかやっていない。そりゃ何百年も生きてきているので経験はそれなりにあるが、専業戦士と言っていい古代の戦士(それも、トロイア戦争の英雄達の中ではアキレウス・ヘクトルに次ぎ、アイアース・アイネイアース・オデュッセウスらに並ぶ実力者だろう)にはまともに戦って勝てるほどの技量など無い。さらに横薙ぎに振り回される槍の一撃に、あわやカオスは両断される所だった。

「この騒ぎは一体、何事だ!?」
 そんな危機的状況の天幕に、また人間の一団が入ってくる。その中の一人に、カオスは見覚えがあった。
「イーサー・ケマルか!? おい、そこのスルタンを連れてこの場を離れろ……って、ベラベラしゃべってる場合じゃないぃぃぃ!!」
 わずかに気が逸れた隙に、槍が次々と突き込まれてくる。カオスとしては完全に防戦一方、銃を手にする暇もありゃしなかった。
「ま、魔王殿! それにマリア!?」
 先月出会ったアナトリア人の騎兵が、いつか見た鋭い輝きの三日月刀を構えて駆け寄ってくる。
「お、おい! 危ないぞ……ぐはっ!?」
「物を知らん蛮族めが、愚かな事を……」
 ついに槍で叩き伏せられたカオス。イーサー・ケマルの接近を鼻で笑いながら、アガメムノンはカオスにとどめを刺すべく槍を振りかざした――

 ザン!!!

「ぐ、ぐおおおおおおおおおおおおおっ!!??」
 次の瞬間、カオスが目を疑った。イーサー・ケマルの振るった剣は、この魔族の背中を綺麗に断ち切っていたからだ。信じられない物を見るかのような表情で、アガメムノンは後ろを振り返る。背中からは、青紫色の血が滝のように地面へ流れ落ちている。
「そ、そうか……貴様が………!」
「ターゲット・ロックオン!!」

 タタタタタタタタッ!!

 辛うじて自由に動く右手を突き出したマリアが、愕然とした表情のアガメムノンの胸元に銀の銃弾をブチ込んだ。
「ぬおおおぉぉぉぉっ!!!」
 そして弾切れと同時に、カオスの渾身の刺突がこの魔族の首筋を貫いていた。
「こ……このような事がっ……!? 我はミュケナイの王……ギリシアの王の中の王だぞ!? このような事が……起こり得ると………言う……の……か……………!!?」
 そう呪詛の声をあげながら、現世に甦った古代の王の亡霊は消滅していった。
「……冥府の底で眠っているがいい。運があれば、オレステスとエレクトラが貴様を救いにやって来るだろうさ……」
 そう弔辞ともつかぬ言葉を投げかけて、カオスはウーツ・ダマスカスの剣を杖にして背筋を伸ばした。正面には、油断無く三日月刀を構えるオスマン軍の若き武官の姿がある。

「その刀も真のウーツ・ダマスカスだな……一つ処に二本集まるなんて、滅多にある事じゃない」
「剣の材質までは知りませんでした。ただ、サラーフ・アッディーン公が用いていたと言う伝が残っている」
「…………私がサラディンに贈ったのさ」
 苦痛に頬をゆがめながら、皮肉っぽい笑いを浮かべるカオス。視界の端で、マリアが戦車の残骸を押しのけてどうにか立ち上がるのが見えた。
「その柄の革帯を外してみるといい。確か“563年、カオス作”とか銘が書いてあるはずさ」
「成る程、貴殿が造った刀が我らを救う結果になりましたか」
 因みに563年はイスラム暦の表記で、ユリウス暦で言えば1184年に相当する。
「過去の帝王の帯びた由来の剣なんざ、一介の武官が持てるもんじゃない。どうやら、私もあの魔族もまんまと引っかかったという事かね? イーサー・ケマル……いや、スルタン」
 その一言に、目の前のトルコ人の青年は眉をピクリと動かした。
「……どこでお気づきになったのです?」
「あっちのスルタンは、私を見るなり名前で呼んだ。という事は、あのスルタンは私に会った事がある……という事になる」
 そう言って、どうにかこうにか身を起こした“スルタン”を指で示すカオス。
「影武者の存在を、考慮していなかったわけでもないしな」
「…………」
 しばし沈黙して、“イーサー・ケマル”は剣を鞘に納めた。
「いかにも、私がハドリアノポリスのスルタン、オスマン家のメフメトです」
 そう彼……メフメト2世が宣言すると同時に、十数人のイェニチェリ兵が天幕の中にゾロゾロと入ってきた。
「……ついでに聞くが、さっき魔族に襲われていた“あのスルタン”は?」
「彼は貴殿の顔を知っていた。となれば、自ずと答えは明らかでしょうな」
 そう言っている間に、スルタンとしてアガメムノンに殺されかけた男は立ち上がり、口から付けヒゲをベリベリと引き剥がした。
「スルタン、それにドクター・カオス……お手数をおかけしました」
「という訳です。4月18日に出会ったのは彼であり、4月28日に邂逅したのは私である。影武者という奴は、隠密裡に軍の中を監察するのにも向いている次第ゆえ」
「百騎長というそこそこの階級につけておけば、自由に行動しやすいという事かね?」
 付けヒゲの下から現れた顔……本物のイーサー・ケマルの顔は、確かにメフメト2世の容貌によく似て……いたのだろうか? 正直、つきあいの浅いトルコ人の顔は見分けづらかった。


「………成る程、事の次第は了承した」
 ボロボロになったスルタンの天幕から隣の天幕に移ったメフメト2世は、カオスの語った魔族の一件の事情を諒とした。周りにはイェニチェリの戦士達が十数人ズラリと並んでいて、その代わりパシャと呼ばれる重臣達は一人も座に加わっていなかった。先ほどのアガメムノンの大暴れがウソのように整然としている陣営の様子に、さしものカオスもその統制力の強さは認めざるを得ない。心中で“確かに、今のキリスト教国家が対抗できんわけだ”と舌打ちする。
「つまる所、この戦に乗じようとした魔族の陰謀を、貴殿が水際で阻止したという事ですな。その点に関しては、感謝申し上げよう」
 このスルタン、髭のせいで年を食って見えるがこれでも弱冠21歳である。そのくせにじみ出るような風格があるのは、生まれながらの帝王の血筋だという故なのだろうか。
「おやおや、一国の主が敵国の人間に感謝かね?」
「古代の怨霊が転じた魔族は、我々の敵だよ。そしてその魔族と敵対する貴殿は、敵の敵……魔族と戦うという一点においては、味方になり得る」
「ある種の・正論・です」
 キリスト教圏とは違い、イスラム教圏ではテーブルと椅子に就く風習は薄い。直立する兵士に囲まれて、絨毯の上で胡座をかくスルタンとカオス、彼の隣で正座しているマリア。なかなか妙な絵ではある。
「いずれにせよ、貴殿は我々の恩人でもある。何か酬いる事ができるなら、可能な限り聞き届けたいのだが……」
 と、そこまで言いかけたスルタンだが、ここで少し言い淀んで
「……ただし、我が国の国是を揺るがさぬ程度に、ではあるが」
 と付け加えた。その提案にカオスは少し考え込み、
「……3つほど頼みたい事がある」
「ほう、3つも」
 いささか虫のいい話に、呆れるスルタンを始めとする一同。しかし周囲の反応を意に介さず、カオスは指を一本立てる。
「まず、その1。私とマリアは、今夜のところはこのまま城に戻る」
「……ほほう」
 スルタンの目がスッと細くなったのは、気のせいではない。
「最後まで彼の地に対する義理を果たす訳ですな」
「前に言ったろう? 契約を一方的に破ったら、この先食っていけんとな。それに、風向き次第でホイホイ旗を変える錬金術師を、お前さんは雇うか?」
「いや、その点に関してはごもっとも。が、このまま入城すれば命の保障はしかねる」
「承知の上さ。それでは、この件は承認されたものとして」
 さっさと結論をつけて、カオスは二本目の指を立てた。
「2つ目の頼み事だが―――――」


 ――――――――――――――――


「……2つ目の件に関しては、約束はできない」
 と、メフメト2世は首をひねった。
「だろうな。世の中、国主の責務という奴は重そうで軽く、軽そうで重いものさ」
「3つ目の条件については、確約するが……それで構わないのですな?」
「構わんさ。この件については、皇帝の側にも同じ事を言い含めてある」
 そう言って、カオスはすっくと立ち上がった。偉丈夫の多いイェニチェリですら及ばぬ長身で屹立するその姿が放つ一種のオーラに、周囲の面々は一瞬ながら気圧された。それにやや遅れて、マリアとスルタンも立ち上がる。
「では、この辺で帰らせてもらおう」
「城門まで送らせよう。イーサー・ケマル!」
「はっ!」
 天幕の外にいたらしいスルタンの影武者(マリアの分析によると、体格は98.7%、頭部に限れば99.5%まで構造が一致しているらしい)が、入り口で直立不動の体勢をとった。
「ドクター・カオスとマリア殿を聖ロマノス門までお送りしろ。くれぐれも、丁重にな」
「ははぁっ!」
 今はあくまでもオスマン軍の一武官として、イーサー・ケマルは一礼した。
「それでは失礼する。運があれば、また会おう」
「次は、我々の国の研究室でお目にかかりたいものだが?」
「そりゃ、研究材料次第だな。私は根っからの新しがり屋で、面白い研究が出来る所を渡り歩くのさ」
 そう言って、カオスはニヤリと笑ってから天幕を出て行った。
「シー・ユー・アゲイン、スルタン・メフメト」
 最後に丁重に一礼してから、マリアがその後を追った。


 ぱ〜ぱぱぱっぱ、ぱ〜ぱぱぱっぱ、ぱ〜ぱぱ〜ぱっぱ〜♪

 ラッパをけたたましく鳴らしながら城門の手前まで近づき、イーサー・ケマルは高らかに宣する。
「コンスタンティノポリスの守備隊に告げる! これより魔族討伐の勇士、ドクター・カオスとマリア、両名が城内に帰還する! 城門を開けられたし!」
 その宣告に、城壁の奥の方から何人かの兵士達が松明を手に外壁に駆け寄る。その顔のいずれもが、この二ヶ月でカオスもある程度覚えたものだった。そのうち何人かが、慌てて城壁を降りてゆくのも見えた。
「……では、これにて」
「おう。世話になったな」
 馬首をひるがえして背を向けたこの若い武官に、カオスはそれなりに本心から出た謝礼を投げかけた。
「それでは、明日以降の御武運を」
「グッドラック、ミスター・イーサー・ケマル」
 マリアの挨拶を背に受けながら、彼はキャンターで走り去っていった。恐らく、明朝の戦いに備えるべく本来の部署に戻るのだろう。

「……さて、これで魔族なんぞの介入は無くなった。後は、本来あるべき人間同士の戦だ」
「イエス、ドクター・カオス」
 連日の砲撃でガタが来たのか、ミシミシとイヤな音を立てながら開いてゆく城門を眺めつつ、カオスとマリアは少しだけホッとした様子で語り合う。
 どうやら、コンスタンティノポリスは魔族の支援を受けることなく順当に敗北する事になるのだろう。その選択が正しいものだと言えるかは、カオスにもマリアにも、城内のコンスタンティヌス達にも分からない。人の行いなんてものは、よほど賢明か愚かな選択を除けば、ずっと後になってからでなければ判らないものなのだ。
 少なくとも、この地に古代の人間の系譜を持った魔族が溢れかえる事は無くなった。いずれホメロスやヘシオドスの著作が広く読まれ、ヨーロッパ人が彼らの事を再び認知するようになれば、彼らの怨念もいくらかは和らぐのではないだろうか。有名どころの名誉が回復され、天界に迎えられて神族に転じるという事もあるかも知れない……が、それはあくまで人間の世界とは関係のない話である。
「天にまします我らの主よ、地の底に住まう魔の一族よ、願わくば手を貸し給う事なかれ。人の世の事は、人の手によって落着すべきなれば………か」
 詩とも祈りともつかぬ言葉を口ずさみながら、彼はマリアと共に聖ロマノス門をくぐっていった。


 日は西に傾き、黄昏時が近い。

 二人の立っている丘は、この二ヶ月暮らした都を一望できる場所にあった。奇しくも、そこはかつてアガメムノンがアイギストス・クリュタイムネストラの二人を連れて大戦の始まりを見下ろしていた場所でもあった。

 ドクター・カオスとマリアの二人は、言葉もなく眼下の景色を眺めていた。白や黒の煙が随所から立ち上り、ムスリム達の歓呼の声に包まれている、夕焼けに赤く染まった都を。

 ユリウス太陽暦1453年5月29日夕刻。
 ローマ帝国の千年の都コンスタンティノポリスは、ついに陥落した。


 最後の戦いは、夜明けの数時間前から始まった。十万近いオスマン軍が一斉に喚声を上げて、怒濤の如く城壁に押し寄せてきていた。
「さあ、来るぞ! 最後の最後まで、希望を決して捨てるな!」
 この二ヶ月で最激戦区となったブラケルナエ宮殿の城壁で、トレヴィザン提督がヴェネチア傭兵を鼓舞する。
「臆するな! 我々は悪魔の誘惑にすら打ち勝って見せたのだ! ムスリムの軍団に打ち勝てない事などない!」
 聖ロマノス門とカリシウス門の中間あたりの地点で、これまたジュスティニアーニ隊長がジェノバ傭兵を叱咤激励する姿も垣間見る事ができる。
「今こそ決戦の時だ! 皆、今こそ己の義を見せる時ぞ!」
 そして、もう一つの最激戦区・聖ロマノス門ではコンスタンティヌス11世自らが剣を手に守備兵の列に加わっていた。その列の中には、カオスとマリアの二人もいた。

「やれるか、マリア?」
「ノー・プロブレム」
 城内に戻った後、カオスは自分のケガの治療の傍ら、大急ぎでマリアの修理にあたった。500年を超える人生の中で、恐らく最も慌ただしい時間だっただろう。とまれ、カオスは自らはかなりバテはしたがマリアの修理を総攻撃の開始前に終わらせる事ができた。疲労困憊のはずなのに疲れも眠気も感じないのは、多分脳内を特殊なホルモンだか何かが駆けめぐっているせいなのだろう、という自覚はある。
「来るぞ! 総員、構え―――っ!」
 皇帝の号令に合わせて、守備兵達はめいめいの武器――剣、槍、マスケット銃、クロスボウ、弓、ライフル銃などなど――を構える。カオスもまた自作のライフルを構え、マリアはサブマシンガンを右腕から出す。

「放てっ!!」

ヒュン!ヒュン!ターン!タタタタタタタ!

 最初の弾幕で、既に残骸と化した最外壁を乗り越えて外壁に駆け寄ろうとしていた敵兵が次々と倒れる。オスマン軍の先頭部隊は、正規軍ではない傭兵や属国の部隊が中核のようだった。
「砲撃、来ます!」
「本気かよ!?」
 マリアの警告に、カオスも流石に顔色を変える。が、上を向く間もなく、

 ズガン!! ドゴン! ガガン!

 大小の大砲から撃ち出された石弾が、次々と着弾した。砲弾のいくつかはモロにオスマン軍の隊列に落ち、たちまち数十人が死傷する。だが、城壁や守備兵の列に命中した砲弾もあった。
 とにかく、オスマン軍も必死である。歴史家や叙事詩人がこの戦闘を目撃したとしても、“死闘”としか表現ができない事だろう。不正規兵達による第一陣が多大な死傷者を出して脱落するまで、2時間にわたって城壁各所で凄惨な戦いが続いた。
「第一波・後退しました! 引き続き・第二波・来ます!」
「もう来たか! 全く、ひと息つく暇もありゃしない……!」
 休息を取る暇もなく押し寄せてきた第二陣は、先ほどの練度の低い部隊とは違い、オスマン軍の正規軍である。矢弾に倒れた兵達を踏み越えて、ついに第二の防壁である外壁に多数が取り付いた。
「迎え撃て! 一人たりとも城内に入れるな!!」
 皇帝が檄を飛ばすと共に、梯子を登って外壁の上に立ちかけたオスマン兵を自ら突き落とす。
「来るぞマリア! 抜かるなよ!」
「近接戦闘モード・移行・します! 最優先目標・外壁上の・オスマン兵!」
 カオスとマリアが、そして近衛兵達もそれに続き、外壁上で熾烈な白兵戦を始めた。
「攻城櫓・2棟・接近中! 小銃の・必中射程まで・あと34.77ヤード!」
「マリア、頼むぞ! せめて片方だけでも片づけろ!」
「イエス、ドクター・カオス!!」
 返事も高らかに、マリアが外壁を飛び降りる。そして、人の波をかき分けるかのように(現に数十人をはね飛ばしながら)攻城櫓目がけて突進していった。

「あの魔女です! “ヨーロッパの魔王”の従者の魔女が!」
 また一つの攻城櫓が音を立てて引き倒されるのを眼前にして、伝令の武官の一人が泡を食ったように報告する。
「うろたえるな! 魔女……マリアとて万能にあらず! 彼女を相手にせず、構わず城壁・城門の攻撃に集中しろ! 砲兵はありったけの弾を聖ロマノス門に撃ち込め!」
「「「はっ!」」」
 数人の連絡将校が前線へ馬を飛ばすのを尻目に、メフメト2世はしぶとい抵抗の続いているコンスタンティノポリスの城壁を睨み据える。その背後の空は次第に白み始めている。
「が、今日こそは退かんぞ。これ以上手間取る事は許されんのだ」
 まだオスマン軍には、ほとんど無傷のイェニチェリ兵団が控えている。日の出と共にこの死をも怖れぬ戦闘集団を投入する事を、彼は心の中で決めていた。


 決定的な事態が発生したのは、夜明けまであと数分といった時点の事である。既に明るくなった空の下、数時間に及ぶ戦闘は守備隊に疲労を強いていた。マリア達の必死の働きによって聖ロマノス門前の攻城櫓は全て無力化され、オスマン正規軍の吶喊攻撃もいったん途切れていた。
 次の突撃に備えて兵士達が一息入れようとしていた時――北、つまりブラケルナエ宮殿の方からどよめきとも歓声とも、あるいは悲鳴ともつかない叫びがあがった。と前後して一騎の騎馬が駆けつけ、馬から飛び降りると同時に皇帝やカオスの顔色を変える言葉を放った。
「ケルコポルタ門が突破されました! 現在、トレヴィザン提督が応戦中です、至急対処を!」
「ケ……ケルコポルタ門、だと……!」
 それを聞いた瞬間、カオスはアガメムノンの槍で頭を殴られたようなショックを受けた。昨夜、あの門を突き破って飛び出していったあの魔族を追う事に気を取られて、そして自分とマリアの傷を癒やす事にかまけて、壊された門を修復する事を忘れていたのである。
「ついに破られたか……! しかし、増援を送る余裕は……」
「陛下、私とマリアが行こう」
 すぐさま皇帝の元に駆け寄っていたカオスが、ほとんど反射的に名乗りを上げていた。
「我々二人なら、何とかできるはずだ。そんな事より、ここの守備兵達を動揺させるな!」
「よろしいのですか?」
「あの門を直し忘れたのは私のミスだ! そいつは償わなければならん! マリア、来い!!」
「イエス、ドクター・カオス!」
 周囲が何か言うより早く、二人は脱兎の如く駆け出していった。
 しかし、間に合わないだろうという予感が、見送るコンスタンティヌス帝の脳裏をよぎる。が、その不吉な予感をすぐさま振り払わなければならなかった。イェニチェリ兵団による第三波が、城壁に押し寄せつつあったからだ。


 二人が宮殿に駆けつけた時、門の周辺は凄まじい斬り合いが行われていた。勇猛にして戦い慣れしており、なおかつ甲冑で重装備しているヴェネチア傭兵やギリシア人守備兵達は善戦していたが、なにせオスマン軍は数が多い。少しずつ門内の攻撃隊が増え、守備隊が押されてゆく。
「よう、ドクター。それにマリア殿も」
 荒い息をつきながら、トレヴィザン提督が二人を出迎えた。彼とて1ヶ月前にあのスキュレーに船を沈められた時の傷が治りきっていないというのに、前線で剣と弓をとっていたらしい。その甲冑は、返り血でベットリ濡れていた。
「状況は……見ての通りか」
「ご覧の通りです。正直、一刻の猶予もなりませんな。で、マリア殿」
 と、すぐさま彼はマリアの方を向いた。
「イエス、アドミラル・トレヴィザン」
「ここの城壁の内側にいくつか、例のウルバン砲の砲弾が転がっているんですが……運べますか?」
「……………」
 唐突な質問だったが、マリアは少し考えてから
「可能・です」
 と断定した。そのやり取りから、カオスはこの剛毅なヴェネチア人の言いたい事を察した。
「そいつで門を塞ごうという事かね?」
「そう言う事。マリア殿、では頼みます」
「了解・です」
 そう言って、マリアは城壁のこちら側の地面にめり込んでいる砲弾の一つに駆け寄っていった。
「それじゃ、連中を押し返しますぜ!」
「おう!」
 剣を抜いて駆け出すトレヴィザンに並んで、カオスも右手に剣・左手に短銃を持って戦列に加わる。
「うおおぉぉ―――っ!!」

 目の前の敵兵を一心に斬り、撃ち、倒す。血に酔うなんてのは、錬金術師にあるまじき行為だ。
 なのに、今こうして戦っているのに心がどこかで躍っている。それは、人間の業という奴なのか?

「総員・ケルコポルタ門より・退避を!!」
 マリアのよく通る声が、カオスの意識を理性のエリアに引き戻した。慌てて横に飛び退くのと入れ替わりに、巨大な石の塊を二個両手に持ったマリアが、凄まじい地響きと共に突進してきた。

 ズズン!!!

 そして、その砲弾がケルコポルタ門の門扉があった所に置かれる。あっという暇もなく、突破口はひとまず塞がれてしまった。城内に孤立した数十人のオスマン兵は、たちまち斬り倒されていった。その間にマリアがさらに石を積み、門の向こうはほとんど見えなくなる。
「……よし、これで時間が稼げる。それよりドクター、皇帝の所に戻って防衛体制を立て直させてくれ! 最悪の場合、都からの撤退も考えねばならん!」
 城壁の上に駆け戻りながら、トレヴィザン提督は城壁下のカオスに呼ばわった。が、下の側にいるカオスには別なものが見えていた。城門にかかずらっている間に、城壁の上もオスマン兵で充満しつつあるのだ。すでに城壁の上の通路にせよ城壁下にせよ、倒れた敵味方の兵士達がゴロゴロしている。
「……ここも長くは保たん! 戻るぞ、マリア」
「イエス!」
 返事も惜しんで、マリアが先に駆け出した……が、すぐさまスピードを落としてカオスに並ぶ。
「城壁の一部・突破・されています! 外壁及び内壁上・白兵戦・展開中!」
「くっ……!」
 歯がみしながら、それでもカオスは走りに走った。


 聖ロマノス門周辺の城壁は、ここでも壮絶な白兵戦が展開されていた。いや、聖ロマノス門自体も既に破壊され、門の残骸を乗り越えて城内に侵入するイェニチェリの兵達とギリシア人の兵士達が流血劇を繰り広げている。
「兵士達よ、進め! もはや、街は我々のものだ! 進め―――っ!!」
 城壁の外で、通りのいい声で叫ぶ声が聞こえる。それがスルタンの声だと、カオスにもマリアにもすぐにわかった。そしてカオス・マリア両名の視界に、倒れた馬の傍らで立ちつくす皇帝の姿が入った。

「陛下っ!!」
 ただ一人でぽつねんとしている皇帝に、二人が駆け寄る。
「これ以上は無理だ! 全軍をまとめて、1マイル東へ下げろ! あそこにはコンスタンティヌス1世の城壁がある、この城壁以上のオンボロだが、それでも2日や3日程度なら何とかなる――」
「ドクター、既にそれは手遅れというものです」
 沈痛な表情で、皇帝はそう言ってカオスの提言を遮った。彼が見つめる先にあったのは、城壁の塔の一つに、ムスリムの星と三日月の旗が掲げられる様だった。
「………っ!」
 声にならないうめき声をあげるカオス。すでに城壁の下では、ギリシア人の兵士達がトルコ人達に追い立てられ、次々と倒れてゆく情景が広がっている。
「ご覧の通り、打つ手は尽きました。この二ヶ月、よく保ったものです。貴方がたを含めて、戦ってくれた者達全員に感謝せねばなりますまい」
「……ジュスティニアーニ達は?」
 あの陽気なジェノバ人達がいつの間にかいなくなっている事に気付いたカオスが、疑わしげな声をあげる。
「先ほど退去しました。昨夜のうちに、防戦の見込みが無くなった時は、市民を連れて脱出するよう言い含めておきましたので。ジュスティアーニ卿の手傷が酷いのが、気がかりではありますが」
 恐れをなして逃げ出したわけではない、と言外に皇帝は告げていた。

「さて、ドクターとマリア殿には、別な事を頼みたいのです」
 と、コンスタンティヌスは声を低めて二人に顔を寄せた。
「お二人には、ハギア・ソフィアの大聖堂へ行っていただきたい。今、あの場所にはかなりの数の市民が集まっている。あの場所にいれば神の救いが差し伸べられると信じている者達が、相当数いるのです」
 非現実的な話だが、苦しい時の神頼みというものは洋の東西を問わないものである。だが、魔族と違って神族は腰が重くなりがちだ。それに、イスラム教徒達だって神を信じている事には違いないのだから、奇跡が起こるなんて事はまずあり得ない。
「一つの都市が落ちれば、3日間は略奪が行われるのが慣習です。お二人なら、ある程度の人数を救う事は可能でしょう。もし出来る事なら、港に市民を誘導して脱出させて下さい。無理は申せませんが、これが私の最後の頼み事です」
 そう言って、彼はカオスの手を握って振り回した。
「ああ、分かった。それは任せろ。だが、お前さんはどうする? お前さんもここから退去を」
「いえ」
 カオスの承諾を取り付けた事に満足し、皇帝は手を離した。そして、カオスの提案を断りながら、皇帝にのみ許されている深紅のマントと装束を脱ぎ、近くでまだ燃えている篝火に放り込んだ。
「誰かがここに残って、脱出の時間を稼がなければ。そして、それは私の責務でもある」
 東ローマ帝国の国章である双頭の鷲の飾りも全て甲冑から外し、彼はそれを城壁の外へ投げ捨てた。
「……皇帝の証を全て捨てて、か?」
「私の胸に剣を突き立ててくれるキリスト教徒は、もう一人もいなくなってしまったようです」
 そこらの兵士と変わらない甲冑姿になって、彼は寂しげに微笑した。
「この上は、一人の騎士に戻って最後まで戦うしかないでしょう」
「そうか………」
 東洋の者達ならいざ知らず、キリスト教徒は自刃を許されない。だから自ら死を選ぶ時は、必ず誰かの刃を受けなければならない。そして、それは彼の責任感が許さないのだろう、とカオスは思った。

「お別れです、ドクター・カオス。この2ヶ月間を貴方がたと共に戦い抜けた事は、私にとって望外の幸福だったと言っていいでしょう。もしこの間、私が知らずに貴方を傷付けていたとすれば、どうか許して下さい」
 そう言って、彼は親愛の証としてカオスと抱擁を交わした。そして、次にマリアにも同様の抱擁をしながら、
「さようなら、マリア殿。これからも、ドクターと二人で強く生きていって下さい。もし叶う事なら、私は貴方のような女性を皇妃に迎えたかった」
 そう告げて、彼女の頬に軽く口づけした。

 そして、ローマ帝国の最後の皇帝は剣を抜き、二人に向かって柔らかく微笑しながら、
「では、お元気で」
 と言いつつ軽く一礼したあと、なおも戦いの続く内城壁下の通路へ通じる階段を降りていった。

「…………」
「…………」
 言葉もなく、二人は彼の姿が既に確認できなくなった戦場を見つめていた。そして数秒後、カオスはマリアの方に向き直った。
「行こう、マリア!」
「……イエス、ドクター・カオス!」
 そう、二人の使命はまだ終わってはいない。


 混乱する市街を、二人は疾走している。既に市街地にはオスマン兵が大挙して侵入していて、市民が逃げ去った後の家々から金品を漁っている姿が見えた。
「ロケット・アームっ!!」
「べっぼぉっ!?」
 道々、逃げ遅れた市民が襲われているのを助けつつ、二人は東へ向かう。救出した市民達には金角湾の港へ向かって船に乗るように伝えたが、その全員が港へたどり着けたかどうかまでは、カオスにも責任の持ちようがない。
「オスマン騎兵・後方より・接近中! 数・14騎!」
「何っ!?」
 ハギア・ソフィアまであと数百ヤードという所で、マリアが警告を発した。カオスが振り返ると、確かに騎馬の一団が街路を駆けてくるのが見えた。舌打ちしつつ、距離を稼ごうとカオスが走り出しかけた時、
「きゃあぁ―――っ!!」
 近くの家から飛び出したらしい、二人の人影がこちらに向かって走ってくる――つまり、オスマン騎兵に追われているのが見えた。
「逃げ遅れがいたのか! 助けるぞ、マリア!」
「イエス、ドクター・カオス!」
 弾かれたように、二人はこれまでとは逆方向に駆け出した。みるみるうちに迫ってくるオスマン騎兵に、カオスが短銃を、マリアがロケット・アームを突きつける。

 バキッ!! ドカッ!! ターン!! ターン!!

「ぐわっ!」「うわっ!」
 撃たれ、あるいは殴られ、たちまち4人が馬もろとも倒れる。残りの騎兵達は、二人の姿に気付いて馬を慌てて止めた。
「ヨ、ヨーロッパの魔王とその従者だ! 逃げろぉっ!!」
 二人の面体を知っていたらしいその騎兵達は、慌てて回れ右して逃げ去っていった。
「おい、大丈夫か?」
「は、はい、何とか……あ、ありがとうございます」
 そう言って頭を下げたのは、20歳をいくつか過ぎたぐらいの若い女性だった。彼女の隣にいるのは、彼女の娘らしい4〜5歳ぐらいの少女である。この二人に港へ行くよう伝えるべきかとカオスは少し考えたが、
「ついて来い! こんな所をウロウロしていたら、連中に捕まって奴隷に売り飛ばされちまうぞ!」
 そう言って、母親の方の手を引いて走り出した。隣では、マリアが娘の方を抱え上げて走っている。やがて、しばらく走っているうちにハギア・ソフィアの姿が建物の切れ目から見えてきた。


 ターン! ターン! タタタタ―――ン!!

「うわっ!?」「があっ!」「たわっ!」
 また数人、欲望に目をぎらつかせた兵士達が倒れる。2万人を超える市民達が逃げ込んだハギア・ソフィア大聖堂では、まだ小規模ながら戦闘は続いていた。
「警告・します! ハギア・ソフィアに・近づく・オスマン兵、全て・排除します!」
「引っ込んでいろ! この聖堂は900年前にユスティニアヌス大帝が造ったもんだ、お前達に荒らす資格はない!」
 慣習として市内で金品を漁り、市民を捕虜にして引っ立て、女性と見れば集団であ〜んな事やこ〜んな事をするのがこの時代の攻城戦である。だが、ハギア・ソフィアには市民達のみならず何十人かの武器を捨てずにいた兵士達も駆けつけていたし、何よりカオスとマリアの二人がいる。聖堂内に踏み込もうとするトルコ人中心の兵士達と、最後まで抵抗しようとするギリシア人の兵士達の間に小競り合いが続いていた。
「おい、もう少し物陰に隠れていろ! そこにいると流れ弾が当たるだろ?」
「は、はい……」
 カオスとマリアの後ろには、まださっきの母娘連れがいた。と言うのも、ハギア・ソフィアの聖堂は市民達が内側から閂を下ろした後だったので、二人を中に入れる事はできなかったのだ。カオスが空をチラリと見上げると、太陽はすでに南天を過ぎつつある。
「オスマン兵・423名±4名・接近中。破城鎚・運搬・しています」
「おいおい、そこまでするか?」
 初夏の日差しを浴びて額からにじむ汗を拭いながら、カオスは閉口したような声をあげる。そして彼らが200ヤードばかりの距離に近づこうとしていた時、

「両軍、戦いをやめよ! スルタンの布告である!!」

 そう叫びながら、羊皮紙の束を手にした一騎の騎兵が両者の間に駆け込んで来た。

「スルタンの布告である! スルタンはこの都に敬意を示し、これ以降の都市に対する破壊・略奪、及び抵抗せざる市民に対する殺害・暴行・連行の全てを禁止された!! スルタンに臣従し、あるいはアッラーに信仰を誓う者は、この命令を受領し次第全ての略奪・暴行・殺害を停止せよ!」
 羊皮紙の一枚を広げて高らかに宣告するのは、あのイーサー・ケマル本人だった。
「従わぬ者はスルタンへの反抗と見なし、極刑が下されるであろう! 各部隊ごとに集合し、スルタンからの次の御下命を待て!!」
 トルコ語とギリシア語でそれぞれ読み上げてから、彼は今度はハギア・ソフィアを向いて二枚目の羊皮紙を広げる。

「コンスタンティノポリスの市民、及び兵士達に告げる! 直ちに武装を解除して全建造物の門を開放し、スルタンに対して服従の意を明らかにせよ! この布告に従う限り、全市民の生命はスルタンの名において保障する!! 開城して投降せよ! さもなくば、ハギア・ソフィアの市民の安全は保障できない!!」
 ギリシア語でそう言ってから彼は二、三度咳払いをして、なおも続ける。
「市民及び兵士は全員スルタンの捕虜となるが、一人当たり3ドュカートを貢納する者については引き続きコンスタンティノポリス市民としての権利を保障するものとする! なお、市内のキリスト教徒及びユダヤ教徒については、スルタンに対するジズヤ(人頭税)の貢納を併せて行うべき事とする! 以上、スルタンの名において布告する!!」
 そうありったけの声で叫び終えて、イーサー・ケマルは羊皮紙をクルクルと丸めながらカオスの元に馬を寄せた。
「……という訳です、ドクター。ドクターにもマリア殿……でしたか? お二人とも、これ以上の手向かいをなさらぬようお伝えします」
「なるほど、これが私の頼み事に対するスルタンなりの返答という事かね」
 不平を鳴らしながらも渋々引き上げてゆく兵士達を見ながら、カオスはニヤリと笑った。慣例として三日間行われる略奪を半日に縮める事が、カオスの二つ目の頼み事――“コンスタンティノポリスの市民に対して、寛大な処置をとる事”を聞き届けたという意思表示なのだろう。
「どの道、スルタンにはこの都を必要以上に破壊する必要を認めておられぬ様でした。ドクターの頼みがこの都に関する類の事ならば、それが最後の一石になったものと存じます」
「そうか……そいつは重畳」
 安堵のため息をつくカオス。マリアも、マシンガンを収納して手を下ろした。
「3時間後には、スルタンがこのハギア・ソフィアを表敬訪問なさいます。それまでに聖堂内の市民を全員退去させますが、彼らの安全については我々が責任を取ります故、ご安心を。ドクターにおかれましては、スルタンに再度面会なさるなり退去されるなりご自由に、との内意を得ております」
「……分かった。では、ここの連中をよろしく頼む」
 中から開かれた扉からゾロゾロと出てくる市民達、その傍らで剣を地面に投げ捨てる兵士達を親指で指し示しながらカオスは軽く会釈した。

「あのう………」
 イーサー・ケマルが部下の兵士達と合流して離れて行ったのと入れ替わりに、先ほどの母娘連れが寄ってきた。
「結局私達は、どうなるのでしょうか?」
「ママ〜……」
 先ほどの布告の意味を図りかねたのか、二人とも不安げにしていた。
「要するに……第1に“降伏して奴隷になるなら、命は助けてやる”だ。
 第2に“身代金として金貨3枚払えば、奴隷にもしないで置いてやる”と言い、
 最後に“この後も税金を払うなら、イスラム教に改宗しなくてもいい”だとさ」
 そうかみ砕いて、カオスは説明してやった。
「……身代金、持ってるか? これも何かの縁だ、二人分ぐらいなら持ってるぞ」
「いえ、大丈夫です。二人分ぐらいでしたら、ちゃんと持ち合わせがありますから」
 そう言って、若い母親が7〜8枚のドュカート金貨を持ち出すのを見て、内心カオスは
(女というのは、たくましいもんだ)
 と思った。

「おじさん、ママとルシエをたすけてくれて、どうもありがとうございました」
 事情を聞いて安心したのか、そう言って娘の方がペコリと頭を下げた。そして頭を上げてから、
「もしよかったら、ルシエのパパのことも、たすけてあげてください」
 と締めくくった。
「いいのよ、ルシエ! あ、どうもお気になさらずに……」
 そう言って、母親はルシエという名らしい娘を抱き上げながらペコペコと頭を下げた。
「失礼だが、ご主人は今どこに?」
「いえ、実は夫ではないのです」
 そう言って、彼女は寂しげに笑った。
「この娘の父親とは将来を誓い合った仲だったのですが、彼は生計を立てる術がないからと言ってこの街を出て行ってしまいまして。その後1ヶ月ほどしてからこの娘を身ごもっている事に気付いたのですが、結局呼び戻すわけにもいきませんでしたから」
 と、この未婚の母は苦笑する。
「消息は分からないのか?」
「あれから5年経ちますから。最初は伝手を当たってもらいましたけど、彼も傭兵になったみたいですので、1年ぐらいで諦めたんです。お人好しの上に鈍くさい人でしたから、もうどこかで戦死しちゃったんでしょうねえ」
 娘の頭を撫でながら、そう彼女は続ける。
「……もし生きていたとしても、彼の方で迷惑に思うでしょうから。ですから、もし消息が分かったとしても、“私はうまくやっている”とだけ伝えようかと思っているんです」
「……参考までに聞くが、お前さんの名前は?」
 何となくイヤな予感を感じながら、それでもカオスは緊張しながら尋ねてみた。
「キリュネーと言います。この子の父親はタディアス・コジナ」
「…………そうか」
「何か、心当たりでも?」
「いや、似たような話を聞いた覚えがあるが、名前が違う」
 内心の顔には一切出さず、カオスはそう誤魔化した。

「さて、どうも安全も保障されたようだし、私はここを離れる事にしようか」
 どうもスルタンに会うと何を頼まれるか分からんからな、と口の中だけで付け加える。
「行こうか、マリア」
「イエス、ドクター・カオス」
「ありがとうございました。タディアスの事なら、本当に気にしないで下さいね」
「おじさんにお姉ちゃん、バイバーイ」
「ああ、さようなら」
「グッド・バイ、ミス・キリュネー、ミス・ルシエ」
 あの青年の事を彼女に伝えようかとも思ったが、結局やめた。伝えたところで彼女の重荷になるような懸念もあったし、何よりそれはタディアスの本意ではないように思えたからだった。


「……終わったな、マリアよ」
「終わりました・ドクター・カオス」
 スルタンがいるらしい人馬の列がハギア・ソフィアに向かってゆっくり進んでゆくのを双眼鏡越しに眺めながら、カオスとマリアはそう言葉を交わした。既に金角湾内にいた東ローマの船は全て港を離れ、市民やイタリアの傭兵達を乗せてエーゲ海へと去って行っている。
「………そう、終わったな」
 そう呟きながら、カオスはしばし瞑目しながら万感の思いを込めて息を吐き出した。そして目を開けてから、
「さて、これでほとんどスッテンテン状態になっちまったな。また新しい雇い主を捜しに行くとしようか」
 そう言って、普段の飄々とした表情に戻るカオス。それは別に薄情とかそう言うものではなく、長すぎる人生故に失うものも少なくない彼なりの気持ちの持ちようなのだろう。それが分かっているからこそ、マリアもあるかないかの微笑みを浮かべる。
「次の研究・何を・テーマに・しますか? そのテーマにより・検索・します」
「そうさな……」
 不精ヒゲの生えたアゴに手を当ててしばし彼は考え込み、手をポンと打った。
「船がいいな。造船だの航海術だのを研究するのも面白そうだ」
「………最有力候補、ポルトガル・リスボン市。エンリケ王子・航海士・造船技師に・対して・後援中」
「噂に聞くエンリケ航海王子か……よし、行ってみるとしようか。どうせここ何年かの研究成果は全部あの街で使い切ってしまったからな」
 結局カオスに残ったのはいくつかの設計図と何冊かの本、ウーツ・ダマスカスの剣、短銃二丁にライフル銃一丁、何ドュカートかのお金とあとはマリアだけだ。
「まずは、どこぞの港で船を探すぞ。その後は、ポルトガルまで一直線だ」
「イエス、ドクター・カオス」
 そううなずき合い、二人は夕日を追いかけるかのように西に向かって歩き出した。去り際に、カオスはかつて住んだ都をもう一度眺め、そしてもう一度ため息をついた。


 コンスタンティヌス11世のその後は、結局分からなかった。スルタンは戦死者の中から一人を探しだしてこれが皇帝だと言ったらしいが、それが本人だったかどうかは不明のままである。彼の死に様がどのようなものだったか、カオスは深く追求しなかった。

 魔族の誘いに耳を傾けてしまったミカエル・レーヴがどうなってしまったのか、全ての記録や文書は沈黙している。あの日コンスタンティノポリスで死んだのか、それとも生き延びながらも社会的に抹殺されてしまったのか。魂を魔界に落とされるのとどっちがマシだったのかは、カオスにも分からない。

 ジェノバの傭兵隊長ジョバンニ・ジュスティニアーニは都からの脱出には成功したが、数日後船内で息を引き取ったという。後で聞いたところによると、負傷したのを潮時と見て撤退したらしいのだが、その行為があまりに変わり身が早いという批判を残したらしい。戦闘の傷以上に、その悪評が彼の命を縮めてしまったのかも知れない、とカオスはチラリと考えた。

 ヴェネチアの海軍提督ガブリエレ・トレヴィザンは、脱出行の最後尾を務め、そのままオスマン軍の捕虜になったと言う。半年後ヴェネチア政府によって多額の身代金と共に解放され、再びヴェネチア海軍に復帰したようだ。ただ、カオスと顔を会わせる機会は、残念ながらついぞ無かった。

 ドクター・カオスとマリアの二人の事は、コンスタンティノポリスの陥落に関する記録や文書には一切書き残されていない。都の主立った者達にも、そしてスルタンにも三つ目の頼み事として“自分達や魔族の事は、一切後世に残さない事”と申し入れたのが、ちゃんと聞き入れられたのだ。
 ただ、僅かながらの影響として、こののちドクター・カオスには“ヨーロッパの魔王”という二つ名がつくようになった。トルコ人達から漏れ伝わったというこの異名を、彼は苦笑と共に受け入れる事にした。


 こうして、1500年に渡って続いたローマ帝国の歴史は終わった。
 だが、それはコンスタンティノポリスという街の終わりにはつながらない。
 名実共に東地中海の覇者となったメフメト2世はこの街に王宮を移し、新たな都市計画をもって都の再建を開始する。
 そして、いつしかイスタンブルと呼ばれるようになったこの街は、かつての東ローマ帝国の最盛期をも上回る繁栄を手に入れる事になる。
 マリアが予言した通り、古代ギリシア人が建設し、キリスト教徒の都として数々の栄枯盛衰を経た街は、今度はイスラム教徒の都として生まれ変わったのである。


 ――――そして、時は悠久なる大河ドナウのように流れ――――


 199×年、某月某日。
 トルコ共和国・イスタンブル市内、アタテュルク国際空港。

 あれから五百年以上経つが、当時の建造物としては修復なったテオドシウスの城壁や、ハギア・ソフィアの大聖堂などは今もなお現存している。だが、かつての街並みは大きく様変わりし、当時の市民達の暮らしをそこに見出す事はできない。
「もっとも当時の街並みなんてまるっきり覚えておらんがな、ワハハ」
 と、ロビーの一角で時間待ちをしながら、ドクター・カオスは自嘲気味に笑う。
 カオスも1000歳をとっくの昔に超えてしまい、めっきり年を取った。身体こそそれなりに頑健だが、知識と記憶の方はすっかりウロが来てしまい、研究を続ける事もままならなくなっている。
「マリア・データ・残っています。映像・再生・しますか?」
「……いや、いい。今さらじゃよ」
 あの時この街で出会った人々の姿も、ロクに思い出す事はできない。が、おぼろげながら思い出は残っている。かつて生死を共にし、あるいは戦った者達。それがまだ胸の奥に残っている以上は、無理に記録を再生する必要を感じなかった。


「さて、次は日本じゃな。あの占い師二人の助言がどういう形で成就するか、今から楽しみじゃわい」
 揉み手をしながら笑うカオス。少し前にイタリアで出会った二人の占い師。ヴェネチアで出会ったザカーリという青年にせよジェノバで知り合ったローズなる女性にせよ、二人とも“日本に行け”と言ったのだ。二人の話を繋げると、
“日本に行け。そこで古き物を失い、かつて失った物を取り戻すだろう”
 ……となった。
「ドクター・カオス、あの占い・どう・解釈・していますか?」
「ん? 古い物と言えば、やっぱりわし自身じゃろう? で、失った物と言えばやっぱり若さじゃ」
 と、根拠も定かではないのに胸を張るカオス。
「じゃからアレは、“肉体を入れ替える秘術が今度こそ成功する”って意味だと考えればよかろう。イヤー、どんな奴の身体が手に入るのか今から楽しみじゃわい」
「………………」
 マリアはそれに応えず、少し蔭のある表情をした。
「ん? 何じゃ?」
「……ドクター・カオスにとって・マリア・ドクター自身の・次に・古い。あの占い・マリアが・壊れるという・意味かも・知れません」
「おいおい、縁起でもない事を言わんでくれ。マリアに壊れられたら……わしは困る」
 心底困惑した表情で、カオスは文句を言う。
「だとすると、わしが取り戻すのは一体何じゃ?」
「……あるいは・友達。あるいは・好奇心・冒険心」
 少し考えながらも、マリアはそう例を挙げた。
「………ま、よかろう。ヨーロッパの片隅でボンヤリしているのも大概に飽きた。そこに何かがあるというなら、わしは日本へ行くぞ、マリア」
「イエス、ドクター・カオス。マリア・お供・します」

「では、そろそろ時間じゃな。さあ行くぞ、“ヨーロッパの魔王”日本上陸じゃわい!」
「イエス・ドクター・カオス!」
 そして二人はいつものように寄り添い、搭乗ゲートをくぐっていった。


 ビュザンティオン、コンスタンティノポリス、そしてイスタンブル。

 名を変え、住人を変えつつ二千数百年の時を生きた街よ。

 どのような形であれ、人の世の終わるその日まで、

 願わくば汝が地中海に咲く都市の女王であらん事を。


 〜〜在りし日の魔王・1453  了〜〜


 あとがき


 あ〜、手間取りました。遅筆という自分の決定的な欠点を自覚せずにはいられないいりあすです。

 この話を作るに当たって、塩野七生先生の歴史小説をあちこち参考にさせてもらってます(あの小説について、フィクションとノンフィクションの境界がどのあたりなのかは不明ですが)。だからKKK&みぃ様やスケベビッチ・オンナスキー様がおっしゃる通り、全然GSらしくありません。むしろクロスオーバーものに近い。でも一応クロスとも言い難いかな〜と思ってます。
 前編でレスしていただいた黒覆面(赤)様、滑稽様、ダヌ様、KKK&みぃ様、内海一弘様、スケベビッチ・オンナスキー様、それにレスはしてないけど読んで下さった皆様、遅くなりまして申し訳ありませんでした。

 また間は開くかも知れませんけど、プロットができたら何か書きたいと思っています。とりあえず、“小鳩バーガー〜学校対抗試合”もののさらに続きかなぁ………w


 あと、細かい点のレス返しも。


>ダヌ様
>まぁカオスフライヤーの大きさを考えたら、それは難しいかもしれませんが。

 ちなみに、サイズ的には零戦より1回り小さいサイズですね。


>スケベビッチ・オンナスキー様
>二枚目半(ちょいボケ始まってる?)カオスはじめ、キャラクターたちがいい味だしてます。

 ボケてなくてもカオスは二枚目半がよく似合うと思ってます。
 と言いますか、完璧二枚目なカオスと言うのは何か違和感を感じますのでw

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