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▽レス始

「スクール・オブ・ロック! / 中編(GS)」

ロックハウンド (2006-07-07 23:14)
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 大過なく仕事を終えた後、帰り道の商店街で夕飯の材料を吟味するのが、ワルキューレの日課であった。
 葱や大根、豚肉に牛肉、生姜等々を詰め込んだビニール2袋分を右手に下げた姿も、やはり美貌を損なうことはない。
 商店街の面々に挨拶をしながら、ワルキューレはきびきびとした動作で足を家の方へと向ける。
 一瞬、まだ学校に居るような錯覚を抱いたのは、飽きるほどに見慣れた顔を見出したからだった。


 「おい、横島じゃないか。夕飯の買い出しか」

 「おおっ、ワルキューレ先生」


 思わず呼び止めていたことにも躊躇いは無かった。
 振り向いた瞬間の彼の表情は、学校に居る時のように、いつも通りだった。
 締まりが無く、凛々しくも無く、良く言っても凡庸、悪く言えば背骨の無さげな、緩みきった顔である。

 きらきらと輝く瞳は、商店街の並びを彩る光を反射しているようだった。
 彼もまたそうであろうが、鼻腔は商店街から漂ってくる香りを捉えている。
 新鮮な果物や魚介類、肉類に花の香りが混在しているのに、どこか調和の取れているような、あやふやだが心地良いバランス感覚。
 両手に下げられた重みと共に、ワルキューレはなぜか涼やかな居心地の良さを感じた。

 やたらと物が詰め込まれたスーパーマーケットの袋を両手に抱え、横島忠夫は変わらず、締まりの無い笑みを浮かべている。
 ワルキューレの、形の良い眉が少しばかり顰められたのは、彼の持つ荷を目にしたときであった。


 「なんだ、その食料は?」

 「ああ、今日はバーゲンの日だったんスよ。毎月欠かさず出張ってます。わははは」


 横島の返事も哄笑も、自分はどこか変だろうか、と一向に気付いてなさげな明るい雰囲気である。
 その口調は、ワルキューレの眉間を余計に顰めさせ、視線の輝きを剣呑なものにしていた。
 彼女が目にしたのは、カップラーメン等インスタント食品の山であった。
 よく見ればラーメン、そば、うどんと種類も多々だが、結局カップ入りである。

 色とりどりのプラスティック容器が重なり合ったその隙間には、2キロ分であろうか輸入米の姿が見える。
 万事に深く拘らない横島としても、日本人としての食性は否めぬものか、さすがに米は欠かしていないらしい。
 が、ワルキューレの視線は和らぐことが無かった。むしろ剣呑とした光が少しづつ強まっているようである。
 いつもの事という返事からして、彼が普段の食事を、おざなりというわけでもないだろうが、手を抜いていることは明白であった。


 「呆れたヤツだ。成長期の身体を何と考えている、横島」


 口調は厳しい。
 体育教師という職務にある以上、自分は勿論のこと、生徒たちの健康第一がモットーである。
 一食二食程度ならまだしも、これほど大量のインスタント食品を目にすれば、彼の食生活も察せられようというものである。
 それが理由でなくても美女の眼光には弱い彼であったから、ただ気圧され気味の横島は、ひたすらに頭を下げるだけであった。


 「すんまへん、バイトでいろいろと忙しいもんスから、無駄な出費は控えとるんです」

 「ああ、お前の両親はナルニア国に居るんだったな。それなら仕方が無いが・・・・・・。
  それにしても酷い食事だな。バイトの時給は幾らなんだ?」


 返答までには一瞬の間があった。
 言うべきか言わざるべきか、という躊躇があったようだ。
 が、相手が相手だけに、追求されれば呆気無くばれてしまうのは確実である。
 また嘘が下手なというより、女性に嘘を吐き通せるような気性ではないこともあった。


 「あー、その・・・・・・255円っス」


 葱の入ったビニール袋が、どさ、と重たげな音と共に地面を打った。
 ワルキューレの手の中からすり抜けたのである。一瞬の虚脱であった。
 が、頭頂部まで駆け上ってきた血の気で、思考活動はすぐさま再燃していた。


 「何処の馬鹿者だ! うちの生徒を薄給で扱き使いおって」


 激昂が声となって、口から迸っていた。
 横島の怯みも周囲の視線も、まったくお構い無しである。

 信じがたい思いであった。
 健康第一・文武両道がモットーのワルキューレとしては、青天の霹靂といっても良い衝撃を受けていた。
 昨今、家庭での食事のあり方が問題視されているというに、その局所的例外が眼前に居るのである。


 「横島、お前のバイト先を教えろ。教師として黙ってはおれん。私が断固抗議してやる」

 「い、いや、そ、そんな。だ、大丈夫っスよ、先生! オレ、身体だけは丈夫ですし、バイト先も問題ないし・・・・・・」

 「たわけ! 時給の金額だけで既に大問題だ。お前、死にたいのか?」


 襟首を掴み上げて、ワルキューレは横島に迫っていた。
 爛々と輝く眼光に、肉食動物の狩猟を思わせる攻撃的動作。
 生徒の身を一途に案じての意思と行動だろうが、その迫力は生半な人間のものではなかった。
 気の弱い人間であれば、そのまま失禁しかねない。

 が、その意味では、横島は凡人ではなかった。
 掴みかかって来る人物は顔見知りで、しかも人界でもめったにお目にかかれない特級の美女なのである。
 それは、確かに怖い。精緻さと肉感の調和した肢体と美貌の持ち主が怒るのは、かなり怖いのだ。
 であっても、横島としては恐怖以上に嬉しかった。むしろ官能に近い喜びである。

 被虐主義者というなかれ。男としての性である。
 横島忠夫という人間は、美女と接点があること自体に歓喜があるのだ。
 しかも自分の身を案じてくれている。これが喜ばしいことでなくて何だというのだろう。
 ワルキューレの香りがほんのりと鼻腔を擽り、余計に横島の煩悩を煽り立てるとあれば尚更であった。


 ―――嗚呼、オレってば、夢みたいに幸せ。


 細くしなやかで力強い両腕に、化粧気がなくとも香る指先、マニキュア無しでも薄く光沢を放つ整えられた爪先。
 炎のように爛々と輝く両眼。固く結ばれた口元は程好い濃さのルージュで彩られている。

 鼻の蠢きはもはや自分の意志から放れている。
 この香しき高貴を、もう少し嗅いでいたかった。
 傍目も構わず『ごっつぁんでぇーす!』と飛び掛りたくもあった。
 が、まずは理を以て説かなくてはならない。だって命がなにより先だから。

 命を無くせば、こんな至福も儚く消えてしまうのだ。
 肉体を持ちながら夢見心地に浸れるという、こんな機会こそ絵から飛び出た餅である。
 ぼた餅はオレのもの。棚から落っことすのもオレがやる。故にオレのモノである。それが横島の理屈であり進むべき本道であった。
 人目には分からぬ意志の力を発揮しながら、横島は懸命にもワルキューレの説得を図っていた。


 「すんまへん、ワルキューレ先生。こればっかりは何人たりとも譲れんのです」


 熱い眼差しが、ワルキューレの視界に映った。
 思わず怒鳴り声が口から漏れそうになる。
 だが途中でせき止められていた。

 くっ、と咽喉の奥底で空気が鳴る。
 語彙も、脳裏から消え失せていく。
 横島の視線は、本気であることを如実に伝えていた。

 幾人もの相手と、幾多もの先頭を潜り抜けてきたワルキューレには、すぐにそれと知れた。
 真摯なまでの意思がそこに秘められていることを、瞬時に悟ったのだった。
 なんという強い眼差しだ。未だ幼さを残すとはいえ、これは紛れも無く戦士の瞳である。
 ワルキューレは先程までの激昂も忘れ、彼の視線を受け止めたままでいた。


 「確かにバイト先はつらいっス。仕事は勿論だし、上司も・・・・・・まぁ、どちらかといやぁ、かなり、相当に、すっげぇアコギです。そりゃ比類ないもんで」

 「だったらすぐにでも・・・・・・」

 「いえ。ここで辞める事は、絶対に出来ないっス」


 熱気を振り撒き、語り合う女性と少年を、商店街の人々は固唾を呑んで見守っていた。
 買い物客までその足を止め、威に打たれたかの如く、店先に道の途中にと佇んだままである。
 食材を手に、何やら真剣さを滲ませて語り合う女性教師と男子生徒の構図は、まさしく劇場の一コマであった。
 葱や人参、豚肉、魚等々で飾られた舞台装置だけが違和感があるといえばあったが、それを大きく上回る2人の雰囲気である。

 八百屋は葱と大根を片手にしたまま、商売の口上を忘れていた。
 魚屋はマグロを捌く手を止め、だが飛び交うハエは追い払う事を忘れず、視線を釘付けにしている。
 花屋は花束を手にしたまま、何故かこれをブーケにすべきかどうか、と真剣に悩んでいた。
 CDショップはムードを盛り上げるべくBGMを流す。

 曲目はシカゴの『素直になれなくて』であった。

 横島とワルキューレの会話は全部を聞き取れぬものの、そのただならぬ雰囲気は一目で分かる。
 商店街の人々としても、単なる野次馬根性で見ているのではなかった。
 少年の方はバーゲン時限定とはいえお得意さんであるし、女先生の方もすっかり顔なじみである。
 中には彼女の帰宅時間を見計らって、買い物へと出てくるファンも存在するくらいである。

 そんな2人が真剣な表情と眼差しを交し合い、人目を憚らず、強い口調で語り合っている。
 単なるケンカではないその真摯さは、一教師と生徒の間に生じている空気とは到底思えない濃密さを醸し出しているのだった。


 「理由を言え、横島! お前は私の生徒だ。である以上、お前に及ぶ危害を私は絶対に許さん。許すことなど出来ん。
  ただ、私は、お前に無事でいて欲しいだけなのだ。その気持ちを分かってはくれないのか!?」


 おお、と小波のようなざわめきが、観衆から漏れた。
 切羽詰ったワルキューレの表情と共に『・・・・・・気持ちを分かってくれないのか!?』という部分だけが聞こえたのだった。
 これはもう間違いない。まったく根拠の無い確信と共に、衆目は息を呑んだ。
 期待と不安と焦燥に、思わず呼吸を時折途絶えさせている。


 ―――間違いなく、『らぶ』だ。


 BGMが最初の主題部分へと入り込む。
 優しい中にも芯のあるヴォーカルが、下町を薄く、そしてほのかに甘い世界へと誘い出す。
 ドラムの力強い響きと、ピアノの旋律、弦楽器が重なり合い、メロディを紡ぐ。
 盗み聞きした女性の告白と相俟って、衆目の胸はときめいた。

 今は月曜の九時ではない。誰もが知っていることである。
 が、この胸中を激しく打つ鼓動は何故なのだろう。トレンディ恋愛ドラマを見ているわけでもないのに。
 男女を問わず高校生は胸をときめかせており、新婚ほやほやの主夫と主婦は互いに頬を染め、指を絡めて手を握り合う。
 子連れ夫婦も仲睦まじく、あんな時代もあったねと浸り合いながら、ただし子供の目を塞ぐ事は忘れずにいる。

 年上のお姉さんと年下の男の子。
 青い山脈の麓には居ないが、若く明るい歌声が黙っていても聞こえるようである。
 昨今、何事もエロ優先にあって、恋愛漫画にも寒風吹き荒ぶ浮世でありながら、なんという心地良き時代錯誤であろうか。

 買い物袋に住まう大根よ、人参よ。そして肉に魚よ。今だけは君たちの存在を忘れさせてくれ。
 世情に沿うたつもりで安易な快楽に走る短慮主義者に、バチよ、あれかし。
 お年寄り達を先達に、世代を問わず商店街は、感動と甘やかな期待感に胸を震わせていた。

 横島は、すっと眦を上げた。
 またも意思の輝きが、力強く宿っていた。


 「何故なら・・・・・・それはオレにとって、逃げになるんです。ワルキューレ先生」


 言葉が伝わった瞬間、ワルキューレの眼が大きく見開かれていた。
 横島の両肩を掴んでいた手から、力が抜ける。
 肩に食い込み、カッターシャツに皺を広げていた爪がゆっくりと離れた。


 「サシでタイマンを挑まれたとします。いつものオレならすぐに逃げます。そりゃもー躊躇無く。
  でもここばかりは逃げたら・・・・・・オレに残るのは敗北だけっス。それだけは死んでもイヤなんです」


 横島は、己が気持ちを譲れなかった。
 ワルキューレ先生の気持ちをありがたく、そして感動に打ち震えながらも、譲ることが出来なかった。
 自分への心配で微かに潤む彼女の眼差しを、ひしと受け止める。

 これほどの美女を悲しませるとは、オレも罪な男だぜ。なぁ、横島忠夫。
 ハードボイルド風味の1人芝居を心中で演じつつ、横島はやはり彼女の瞳をじっと見つめた。
 あわよくば、頬でも染めてくれないかな、などと益体もない事を考えながら。


 「それは・・・・・・お前の意志か。矜持なのか、横島忠夫」


 ワルキューレの口調が少しだけ和らいだ。
 同時に、バイト先の上司の姿が、横島の脳裏に浮かんでいた。

 亜麻色のロング・ヘアー。
 時代遅れとはいえ、ボディコンシャス・スタイルの衣服。
 その下で優雅な曲線を描く肢体。


 ―――あの『ちちしりふともも』を逃すわけには、いかない。


 決意が、再び固まっていた。
 ダイヤモンドも戦かせる堅固さである。
 逃げ出すわけにはいかぬ。死んでも引けぬ。
 過酷な労働も致し方なし。薄い給料とて躊躇いを吹き消せぬ。

 握った拳に更なる力を込め、横島は一つ頷くと、返事を返した。


 「はい。小さいけど・・・・・・確かにオレの、男としての意地っス」


 一人の戦士としての声だ。
 今度こそワルキューレは、険しさに満ちた力感を解いていた。
 彼の両肩から静かに手を放し、改めて彼の全身を見つめる。
 あくまで自然体なのに、どこか雄々しい木々のような佇まいを、ワルキューレは感じた。


 「そうか。では私はもう、何も、言わん」

 「押忍。ありがとうございます、先生」


 教師と生徒の間柄だが、自分の知らぬところで成長していたことを、彼女は改めて心地良い驚きの中で見知った。
 静かにこみ上げてくる感慨が、布に染み入る水のように胸腔を満たす。
 それは愛しさと言い換えても遜色ない温もりである。
 だから次に取っていた行動には、躊躇も、逡巡も無かったのだった。


 「生きて・・・・・・生きて帰るのだぞ、横島」


 彼女の腕の中に、横島は抱きとめられていた。
 ふくよかな胸の柔らかさと暖かさが、頬から顔全体を優しく包み込む。
 スーツ越しにとはいえ、心臓の鼓動が聞こえたときには、間違いなく自分は甘美なる死を迎えたと、横島は思った。


 ―――我が人生に、一片の悔い無し


 母さん、僕はいま天国に居ます。
 食材に金銭を惜しむ貧しい日々ではありますが、神は確かに居られるのだと、身を持って感じています。
 それが証拠に、この暖かさとボリュームが、僕の心身を飲み込みます。
 空腹感なぞ何処吹く風、津波のように圧倒して、足が地から離れて行きます。

 母さん、ご心配には及びません。
 理性も、意識も、バッチリ生きています。
 これが夢ではないことも、確固とした現実であることも。
 そして何より、ワルキューレ先生の『ナイスバディ』に埋もれて死んでいける可能性であることも自覚しています。

 母さん、嗚呼、僕は死にたくない。
 でも、出来ればこのままで死にたい。
 普段なら溢れる煩悩が、今だけは清々とせせらぐ小川のように、だが確かに力強く流れています。
 人の言うヘンタイチックなアプローチしか知り得なかった、この僕、横島忠夫がこうして理性と煩悩の狭間で呼吸をしています。


 ―――母さん。あの日、僕が初めて買ったエロ本は、何処に行ったのでしょうね・・・・・・?


 年上の女性の、しかも知己である教師の腕の中で、息絶える。
 これ以上にロマンスの代名詞ともいうべき死に様があるだろうか。
 若き青春を花と散らせるに、これに勝る舞台は決して無かろう。
 横島は、身動ぎ一つ取ろうともせず、脳内活動の活発化に勤しんでいた。

 世に薬物中毒というものがあるが、あれこそ無意味の極みだと横島は思った。
 だって、今、自分の脳内麻薬は文字通り、元栓の蛇口が開放された状態なのである。
 キノコ? 馬鹿を言うな。錠剤に粉末? とんでもない。何事も自力で解決する。それこそが勝負師としての本望ではないか。
 酒もいらなきゃ薬もいらぬ。今はも少し美女が良い。

 横島は勝利感に浸っていた。しかして酔っていた。
 耳朶の奥で滝の如く流れる怒涛の水音がする。アドレナリン、エンドルフィンの洪水であろう。
 視界が色付きのモザイクガラス模様になっているところを見ると、知らず涙も溢れているようだ。


 「先生・・・・・・オレ、勝ちます。勝って、必ず生きて帰ります」

 「待っている。私は待っているぞ、横島!」


 横島も泣いていたが、ワルキューレも自身知らず目元を潤ませていた。
 知らず知らず彼の身を包み込んだ両腕に力が入る。力になれぬ我が身が憎かった。
 何が教師だ。現に苦境に在る生徒にも気付かずにいたではないか。ワルキューレ、この愚か者。
 自責の念が沸々と湧き上がってくる。

 だが彼の心はどのような苦境にあろうとも、決して折れることは無い。
 その事実が、ワルキューレの心に一抹の希望と、生徒への信頼を抱かせた。抱く腕に願いを込める。
 先程の眼差しの中に光っていた横島忠夫の決意は、まさにワルキューレが心中に持つ戦士の像であった。
 信じられる。信じていられる。この意思がある限り、未だ熟さぬとはいえ、巣立ちつつある男としての萌芽は失われない。

 一方の商店街でも、優しく流れるBGMを全身に浴び、衆目もまた泣いていた。
 はらはら、と涙を零し、女性陣はハンカチを片手に、男性陣はシャツの袖口で目元を拭っている。
 電柱やら店先の立て看板の隙間から覗きこみ、一同は年上の女先生と年下の男子生徒の柔らかき抱擁を見守っていた。
 嗚呼、あの恋よ、どうか実ってくれ。これで別れ話にでもなった日には、もはや目も当てられない。世に神も仏も居なくなる。

 幾人かは神仏に祈りを捧げ始めていた。
 何しろ、リアルタイムで恋愛模様(らしきシーン)が展開しているのである。
 こと恋愛に関しては、現実もテレビも『ファッキン・シット』な連中が余りに多い。
 だから女先生が少年を抱くその手を、やがて静かに離した瞬間には、衆目ははっと息を呑んでいたのだった。

 いよいよ、次の展開が来る。
 誰が唾を飲む音が、聞こえた。
 数十人分はあったかもしれなかった。

 女先生の微笑と、何か語りかけている様子が見える。
 そして少年の少し驚いている表情が、観客の心臓の鼓動を早める。
 2人の声が聞こえないのがいかんともし難いが、そこはプライバシーの尊重ということで我慢しよう。
 いまや観客は1人残らず、その全身を耳目にしていた。


 「よし、今夜は私の家に来い。ここで会えたのも天の・・・・・・じゃなくって魔界の配剤だ。ちゃんとした料理を食わせてやる」

 「マ、マジっスか!?」


 横島は、死中に活を見出した思いであった。語頭から語尾にかけて震えが抑えられない。
 夕飯はカップラーメン1パックという、侘しいにも程がある献立の予定だったので、ワルキューレの言葉はまさしく青天の霹靂。
 捨てる神あれば、拾う悪魔ありとでも言うのか。いずれにせよ望んでも容易くは得られない生存手段であった。

 『いいえ、いりません』などという選択肢なぞは端から無視である。横島は真摯なまでに申し出を受諾する意志を固めていた。
 口にするだけでも馬鹿げているのに、拒否を一文字を脳裏に浮かべることすら出来ようか。否である。絶対に許されない。
 ゲームでの分岐点における選択であれば、ゲームごと破壊する。彼は心底から決意していた。


 「うむ。教師に二言は無い」


 ああっ、女神さまっ。魔族であろうと、かまいやしまへん。
 ワルキューレの微笑みを見た途端、横島は心身ともに屈服していた。 
 付いて行きます、どこまでも。先生のためなら、エンヤコラ。


 「・・・・・・メシだぁっ!!」


 タイトル・マッチで勝利を得たボクサー。
 第一志望校への合格を果たした受験生。
 登頂踏破を成し遂げた登山家、あるいはロック・クライマー。
 極めた瞬間に浮かぶ表情は、涙と誇り交じりの喜びである。

 心の奥底より駆け上ってくる歓喜の情は、今、横島忠夫の突き上げられた両手から迸った。
 自分もまた一つの壁を越えたのだった。横島はガッツポーズを全身で表していた。

 と、大歓声が上がった。
 少年の表情、そして勢い良く伸ばされた両腕を、商店街が見た、その瞬間の出来事であった。


 「さぁ、行くぞ、横島」

 「ういっす、先生! すっげぇ期待してますっ!」

 「ああ、勿論だ。裏切ったりはしないぞ。ふふふ」


 ワルキューレが拾おうとしたビニール袋を、急いで自分の手に握った横島は、暗黙の内に荷物持ちを引き受けていた。
 足も心も浮き出した今、手にどれほどの荷物があろうとも、綿菓子や風船の如く軽いものに感じられる。
 何やら人の声やらカラオケやらで近所が騒がしい気もするが、ワルキューレ先生手ずからの料理を食せることが、万事に優先する。
 先行する女性教師の背を追いかけて、横島は増えた荷物も苦にせず、素早く駆け出していた。

 また常連客である教師と生徒を見送っていた商店街の面々も、2人の取った一連の行動とその結果に沸きかえっていた。
 詳しい事は良く分からぬ。が、恐らく少年は勝利を得たのだ。ガッツ・ポーズと満面の笑みがその証左である。
 女先生とあの少年との間にどのような会話が交わされたかは分からないし、また内容を問うのも野暮というものである。

 二人の間に漂っていたあの雰囲気と大気は、薄い桃色に染まっていた。商店街の人々には確かに見えていた。
 麗しき世界が生まれたと誰もが思った。生放送で月9のドラマは急展開でハッピーエンドを迎えたのだ。
 結論は商店街の中を、光回線も驚くスピードで駆け回り、結果生じたのは人々の大歓声と万歳三唱であった。


 「特売だぁ、特売だぁ。今夜は臨時に突発的バーゲン・セールだよ、奥さん方!」

 「畜生、畜生、畜生。熱いじゃねぇか、泣かせるじゃねぇか。見事だ、少年。それでこそ青春ってぇモンだ。
  2人とも幸せになるんだぜ。おじさんは心から言祝いでやる。さぁ、8割9割引は当たり前だ。持っていきやがれ、このドロボー!」


 親父さんも、小母さんも、旦那も、奥さんも、子供たちも。
 ご近所の爺さん婆さん、つまるところ老若男女を問わず、商店街は大いに騒いだ。
 皆が歓喜の中に在った。

 おめでとう、おめでとう。よくやった、よくやった。
 誰もが涙を流し、酒が振舞われる。太鼓が鳴り響き、囃子の音が聞こえる。
 花屋は花吹雪を、米屋はライスシャワーを撒き散らした。
 魚屋は黒マグロの刺身を大盤振る舞い、肉屋はバーベキューを始める。

 数分と経たぬ内に、商店街だか夜店だか判別の付かぬ宴会場が、入り口から出口までに連なっていたのだった。


 「御前様、何やら盛り上がってますなぁ」

 「うむ、良きかな良きかな」


 乾杯の声は未だに途切れない。
 樽酒にビールのタンクも、ありったけ倉庫から持ち出してきたものか、近くの駐車場に山積みとなっている。
 近所の団子屋『どらや』と寺の住職は、ジョッキを片手に問答を繰り返していた。


 「しかし女先生のほうは、ありゃ魔族みたいですぜ」

 「何を言うか。『らぶ』に魔族も神族も無い。御仏の慈悲は広大無辺。愛こそ全てじゃ」

 「おお、ありがてぇ御教えでございます」

 「うむ、ジョンとポールも歌っておる。ありがたやありがたや。南無阿弥陀仏」

 「愛でございますな」

 「む、全てである。さぁ、歌おうではないか。愛と青春のために」


 ―――おーりゅにーでぃっずらぁーっぶ

 ―――ぱーぱぱらぱぁ


 団子屋の若旦那と住職は互いに肩を組み合い、咽喉も割れよとばかりに高歌放吟したのだった。
 傍らには日本酒の一升瓶が4本転がっている。歌ってはジョッキに酒を注ぎ、更に乾す。
 まだまだ消費は続くようであった。


 「先生、なんか商店街が賑やかでしたね」

 「ん? ああ、そういえばそうだったな。誰か福引でも当てたんだろう」

 「なーるほど。あの騒ぎようじゃ一等かもしれないっすスねぇ。グアム旅行だったっけか。
  ちくしょー、いいなー。どうせどっかのカップルかなんかが・・・・・・ああっ、腹が立つッ!!」


 背後から今も響いてくる、歓喜に満ちた人々の声は、花火の勢いも押し退けようほどに華やかな広がりを見せていた。
 カップルを妬っかむ横島の気持ちと、荷物を手にしてくれた気配り。そして商店街の楽しげな雰囲気が自然、ワルキューレの口元を綻ばせる。
 そのまま横島を促すと、2人は再び背を向け、家路を辿り始めた。

 後日、『卒業 −商店街の一夜−』と名付けられたこの夜のバーゲン・セールは、夜を徹して開かれた。
 ちなみにこの晩、商店街の売り上げは、平日の10倍もの利益を上げたという。


 ――――――――――――――――――――――――――★――――――――――――――――――――――――――


 いつもの一日のようで、どこかが少しだけ違っている。
 同じ絵が2つと描けないように、同じ雲を2つと見ることが出来ぬように。
 ふわふわと漂うような違和感を、ワルキューレはベッドとまどろみの中で、感じていた。

 酔いとも呼べぬアルコールの残滓が、脳内を微かな潮騒の響きのように圧している。
 魔族だからという理由だけでもなかろうが、酒精への耐性はかなり高強度のようだ。
 瞼を閉じたまま、自覚の呟きを、心の中でそっと呟いていた。

 食事の準備中に、シャンパンを一瓶。
 食事の最中に、更に赤ワインを一瓶
 食後に、横島を送り出してから、入浴。
 身支度を整えてから、最後にバーボンを一瓶。

 夕飯の出来具合、献立の内容、彩りのいずれもが、評価で星三つを最高とすれば、二つ半は取得できただろう。
 帰り際に見せた、横島の底抜けといっても良い笑顔が、妙に瞼の裏にこびり付いている。
 『ホンマ、ごちそうさんでした』という一言は、心底からの嬉しさと共に言っているように聞こえた。

 片付けも明日の準備も、何もかもを済ませ、こうして就寝の時を迎えている。
 だのに、ワルキューレは目を閉じても、一向に眠れる気配が無かった。
 睡眠欲以上に心身は、いまだ思考の迷路に漂うことを、無意識の内に欲していたのかもしれない。


 ―――あれは、結構、気に入っていたんだがなぁ・・・・・・まぁ、良いか


 まぁ、良い? 何が良いのだ。
 なぜか深く追求する気を無くしかけている自分に気付き、ワルキューレは布団の中で両眉を軽く顰めた。
 脳裏に浮かぶ一枚の女性下着は、鮮やかなクリムゾン・レッド色で細かな刺繍が施されたシルク製である。
 下着を横島の荷の中へと落としたことに気付いたのは、入浴後に着替えを済ませた後であった。

 洗濯物を取り込んだ際に、籠を少し傾けすぎたものか、淵に引っかかっていた下着が緩やかな動作で落ちた。
 横島の鞄がそれを受け止め、折り悪くというべきか、蓋の留め金は外されており、布はテキストの隙間へと滑り込んでいた。
 夕食が作っている間に宿題を済ませておけ、と指示を出したことが、結果的に鞄の中へと下着を投下することに繋がったのである。

 よくよく考えてみれば、取り込んだはずの下着が探すだけ探して見当たらない以上、彼の手元に在ると見て良いだろう。
 横島が意図的に持っていったという考えも無いではないが、回想の中での彼の表情はいつも通りに締まりのないものであった。
 後ろめたさがあれば、基本的に態度がギャグ化するか妙に生真面目になるかのどちらかで、ある意味分かりやすい少年である。

 では電話するか。ワルキューレは薄目を開けて、ベッド脇に置いてある携帯電話を見遣った。
 時間的に考えて今ならば横島も自宅に居るだろうし、バイトの仕事柄、最近は宵っ張りであるとも聞いている。
 いや、いかん。と、携帯に手を伸ばしかけていた手をすぐさま布団の中に戻し、ワルキューレは思い止まっていた。
 異性が深夜に電話など以ての外だし、第一、もし横島が電話に出たとして、なんと言うのだ。

 結論を想起し、ワルキューレはしかめっ面になっていた。
 よくよく考えてみれば、何と言って話題を差し向ければ良いのだろう。
 あまり話し上手とは言えない自分であるし、受話器をとった瞬間、自分はこう切り出さざるを得ない。


 『おい、横島。私の下着を知らないか? もしお前の手元にあるのなら、明日、学校に持ってきてくれ』


 馬鹿なことを言うな、ワルキューレ。お前は自分の生徒を下着泥棒にしたいのか。
 ううう、と腹痛に耐える様にも似た苦悶が、彼女の口から零れた。
 そこはかとなく、頬が熱を孕んでいる気がした。

 薄給と労苦の重圧にも耐えて、日々を送る生徒、横島忠夫。
 そんな生徒に対し、自分は青少年には刺激が過多であろう質問をしようとしている。
 教師として、それ以上に女として、ちょっとそれは拙いんじゃないだろうか。

 眠れるどころではない。電話すべきか、せざるべきか。
 だが電話しなければならない気もするし、大事な下着でもあるし、男の子に持たせるには少々危険度の高いものでもある。
 無事に帰れたかも気になるし、ひょっとしたら時間が時間だけに、帰り道の途中で警官に呼び止められているかもしれない。

 せっかくシャンプー・リンスで丁寧に洗い、ブロウまで施した頭髪を、ワルキューレは少しばかり乱暴に弄っていた。
 もしゃもしゃと音を立てて掻き回す様は、まさに煩悶、煩悶、そして煩悶。その繰り返しである。
 結局、ワルキューレは電話することにしていた。
 相手は違っていたが。

 十数秒の呼び出し音の後に、張りのある若々しい声が聞こえてきた。
 ワルキューレの実弟、ジークフリードのものであった。


 「はい、こちら魔界軍統合作戦本部司令室・第666分室」

 「わたしだ」

 「姉上!?」


 きびきびと任務をこなしていたらしい声の主は、一瞬の内に仰天をあらわにしていた。
 予想外の相手だったらしく、物を取り落としたような音がスピーカーの向こう側から聞こえてくる。


 「こ、これは軍司令部の直通回線なんですよ!?」

 「驚くな、たわけ。人界への赴任指令が出た時点で、ダイレクト・コールの使用許可は取得してある。
  ところでお前は今夜も残業のようだな。分室にかけた予想は的中したか」

 「何しろ目下、我が分隊は司令を欠いていますので、書類整理が滞り気味なのです」

 「甘えるな。たまにはデスクワークも経験しておくがいい。生半な敵より始末が悪いぞ。その忍耐が明日へと繋がる」


 魔界軍所属、少尉の位階にあるジークフリードは、現在、実姉であるワルキューレの補佐として職務に当たっていた。
 彼女が人界赴任に在る間だけという臨時の部署ではあったが、軍隊内においても、位階が上がると同時に書類処務の量が飛躍的に増加する。
 姉の苦労を知らしめるには調度良い機会だ、とワルキューレが内心思っていたかどうかは、何人とて図り知り得ないことであった。


 「とにかくお久しぶりです、姉上。ご機嫌はいかがで?」

 「うむ、すごぶる麗しい」

 「副長を筆頭に、隊の皆が不満を漏らしていましたよ。張り合いが無いって」

 「人界の教育に携わるという事が、これほど心身を活発にするとは知らなかった。意外だったよ」


 ワルキューレの声には、紛れも無い真摯さがあった。
 弟の声音もそれを受け、共感したかの如くやや弾みを帯びていた。


 「よろしゅうございました。ところでこんな時間にお電話とは、何事かお有りでしたか、姉上。お声から察するに余程楽しい事とお見受けしますが」

 「実はな、下着を持っていかれたのだ」


 明快を極めた回答ではあったが、ジークからの沈黙はきっかり30秒を数えていた。


 「・・・・・・は?」

 「要点と容疑者は省くが、今回の件に関して常識で考えれば、即断即決。可及的速やかに奪取せねばならないところだ。しかしだな・・・・・・」

 「いや、姉上。省かれては困るのですが・・・・・・」

 「黙って聞け。人が話しているときに口を挟むのが、誉れ高き魔界軍士官の在り方と言えるか」


 ワルキューレの言には躊躇も逡巡も無かった。
 ジークは沈黙を続けた。少しばかり理不尽な命令もあったが、姉を怒らせると後が怖いからである。
 しかし実に珍しいことであり、また彼女の思考回路は蛇行運転の如き迷走をしているようだ、とも思った。
 ワルキューレの整然たる口舌は、更に続いていた。


 「曖昧模糊とした感情を抱いているのは確かだが、不安でもなく不快でもない。これはどう認識すべきなのだろう、ジーク?」

 「申し訳ありません、姉上。僕には全く分かりかねます」

 「戦略理論・構築概論を常日頃勉強しておけといっただろうが。この程度の情報から読み取れないでどうする!」


 ますます理不尽だ。沈黙の中にジークは反論を呈していた。
 もっとも、そんな空気が読み取れるような姉でないことは知っていたから、やはり何も言っていないに等しい。
 ワルキューレが就寝前であることは先程本人の口から聞いたが、それにしても寝惚けて電話してきた訳でもなかろう。

 いつも以上に忍耐が必要な一夜になりそうだ、と彼は知らず心身を引き締めていた。
 語尾の震えだけは、隠し様が無かった事が残念である。


 「あ、あの、お言葉ですが、竜骨もなしに船を組み上げるような真似は出来かねます。
  僕が知りたいのは、容疑者が分かっているのに、何故姉上は『下着を取り返す』という行動を選択なさらないのか、という点に尽きるのです」

 「私がそうしたくないからだ」

 「だから何故かと聞いているんですよ! まさか取られて嬉しいとでも仰るんですか?」


 人界でいったい姉の身に何があったのだろう。
 受話器を見つめながら、ジークは持てる戦略理論と交渉術の大半を、脳内で駆使していた。
 訝しさとあほらしさが7:3の割合で、自然自分の両眉が顰められているのが、鏡を見ずとも分かった。
 脳内での口頭弁論が、耳朶の奥底で響き渡っていた。

 電話での、さらに口頭のみでのやり取りでありました。
 姉が下着を取られたと述べていましたが、にもかかわらず怒りの兆候は見られませんし、むしろ嬉々としておりました。
 小官の交渉術と理論の全てを以て、構築し、推理し、ついに得た結論は以下の通りです。


 『姉は人間界で恋人を作り、その人物には下着を取られても喜んでしまう。そんな相手である』


 馬鹿げている。魔界士官学校の教官や同輩の者達には、死んでも聞かせられない推論であった。
 色恋沙汰が問題なのではない。また自分が構築した理論と思考回路の惑乱振りも、問題の一つではある。
 何が悪いといえば、たかが下着一枚で魔界軍の知識を総動員して、その被害者である姉の意識を推察せよという、はっきり言えば無理難題なのである。
 それをたかが電話で、しかもこんな夜中に姉は、自分はどうしたんだろうなどと言う。

 軍歴にはまずもって絶対に残せない履歴である。
 それ以上に、自分が司令部侮辱罪で軍法会議に掛けられかねない。
 だが逆らうことは考えも出来なかった。ジークは切々たる気分で再び受話器を握り締めた。

 なんといっても姉は怖い。
 魔界軍にその人在り、と言われるほどの怖さである。
 しょうがない。軍とはそもそも理不尽なものなのだ。ましてや姉の理不尽さは、弟である自分が一番良く知っている。
 理不尽と書いて姉、姉と書いて理不尽と読む。幼心に刻み込まれた文字は、軍属生活になってから益々その光芒を強めていた。


 「馬鹿なことを言うな! 取って置きのお気に入りのものだぞ。『ヴラディレーナズ・シークレット』だったか。こちらでいう『ブランド品』だ。
  なかなかの値段だったな。たかが布切れの分際で生意気な話だが」

 「姉上、お気は確かで?」

 「無礼な。極めて正常である。酒精が入っているが微々たるモノだ」


 やはり、酒のせいか。
 事ここに至って、ようやくジークは救いの一手を見出した様な気がしていた。
 安堵の余り、肺の底から溜息を漏らしてしまっている。
 1日3本という量にはさすがに驚いたが、姉であれば水のような気がしたのも確かであった。


 「そうですか。ですが人界において、ヒト1人にボトル3本という分量は、かなり高濃度レベルの飲酒であるとの報告を受けていますが」

 「む、そうか。それで人体に及ぼすレベルは如何程だ?」

 「はい。これに痛飲性と恒常性が加わりますと、心身ともに激烈な損害を及ぼす『アルコール中毒性依存症』に陥るとのことです」

 「それはいかんな。了解した。明日からは1日1本に制限するとしよう。少しばかり残念だが」

 「そんなに美味しいのですか」

 「ああ、実に美味い。生徒たちの事を思うと尚の事だ」


 何気ないつもりの一言であったが、見えぬ弟から発せられた一言は、確かにワルキューレの心臓を刺したのだった。
 漫画であれば『どき』という擬音効果が、彼女の背後に在ったに違いない。


 「つまり、姉上の下着を盗んだのは生徒の1人ですか」

 「ジーク、貴様! 実姉に向かって誘導尋問とは、そこまで堕ちたか!」


 布団を跳ね上げ、思わずワルキューレは語調を強めていた。
 ジークもまた、ある意味彼女以上に慌てていた。


 「た、単なる憶測だったのに、本当だったんですか!? 姉上は年下好みでいらっしゃったのですね」

 「馬鹿者!! 教師は聖職者だ。不埒な気分で生徒に接するなどあってはならん」

 「も、申し訳ありません。口が過ぎました」

 「いや、許さん。休暇で帰ったら、私が直々にみっちり鍛えなおしてやる。貴様の根性は少しばかり歪んでいるようだ」


 これはもはや八つ当たりの境地にあるのではないのか。ジークは数時間分の疲れを肩と脳に感じていた。
 酒のせいだけでは済まされぬ突発的な感情の吐露が、単なる弟いじめに発展しているようである。
 涙交じりでハンカチでも噛んで、姉の前に姿を現した方が良いかもしれない。


 「ひ、ひどい・・・・・・。姉上こそ教師という立場にありながら、自らの下着を生徒に取られて、それでお咎めなしというのは良いのですか!?
  教師であればこそ、教え諭すのが正道ではありませんか」

 「私が手や口を出さずとも、その子は既に知っている。人として何が大事なのかをな・・・・・・。
  そう、あの子は戦士の瞳を持っているよ」

 「そんな子が下着なんて取りますかね?」

 「なんだと。私の愛する生徒を侮辱するかっ!!」


 ジークは思わず受話器を耳から遠ざけていた。
 これは早々に解決を急いだ方が良さそうだ。今夜の姉の逆上する様は、ともすれば軍隊時代より振れ幅が広い。


 「分かりました。姉上。ここは焦る必要はありません」

 「焦る? 焦ってなどいないぞ、私は」


 それはそうだ。焦っているのは自分なのだから。
 内心だけの呟きをジークは、胸の内で零す。
 幾つになってもお姉ちゃんを怖がる、弟の見本が受話器の先にあった。


 「明日、学校で確かめてみて下さい。正々堂々と、正面から、その生徒クンに伝えるのです、姉上」

 「・・・・・・・・・・・・むぅ、策は無しか。正攻法で行けというのだな、ジーク」

 「この際は、無策の策です。姉上は教師。生徒クンは生徒クン。ならば自ずと問うべき問いは見出せるはずです」

 「つまり、お前はこう言いたいのだな。『私の下着はどこだ?』と聞けと」


 ジークは、どこか根本的に間違っているような気もしたが、姉自身が答えを導き出したことは確実である。
 見えもしないのに、必然とばかりに一つ頷いた。


 「姉上、武運を祈ります」

 「うむ、心から感謝するぞ、ジーク」


 静かに熱い姉弟の情が、受話器越しに交わされる。
 後日、というより、明日の朝になって、姉がこの会話の内容を深く思い出さないことを、切実にジークは祈っていた。


 「連絡を終わります。魔界軍少尉・ジークフリード。以上(オーバー)」

 「了解した。時刻、二四三六(フタヨンサンロク)。春桐真奈美、不定時連絡を終わる。以上(オーバー)」


 家庭用電話機で軍回線に繋げた会話は、軍隊式挨拶で終了した。
 ワルキューレは携帯電話を置き、静かに立ち上がっていた。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、三口ほど含んで仕舞いこむ。
 再びベッドへと戻り、布団とタオルケットの隙間へと潜り込んでいた。

 消えた電灯の中で、すうっと鼻息が零れる音がした。
 自分の耳に入った途端、落ち着いたのだという実感が伴ってくる。
 心は、電話の前とうってかわって、凪ぎの日の様に静かになっていた。
 悩んでいても仕方が無い。弟の会話でそれが分かった。

 目を閉じているうちに、ワルキューレは夕食時のことを思い出していた。
 ひたひた、とようやく押し寄せてきた眠気の中で、少年の声は柔らかく響いている。
 湯気を立てて、調理した自分でも満足げな気分になれる食材の間から、彼の言葉は確かにこう言っていた。
 あけすけな、その笑顔と共に。


 ―――マジでイケてますって。オレが請け合います


 「・・・・・・ホントか、横島?」


 吐息と共に零れた笑い声は、夢の中だったか、それとも現でだったのか。
 眠りの船の中では、それすらもワルキューレには分からない。

 が、どちらでも良い気がするのも、確かなのだった。


                               続く


 ☆―――――――――――――――――――――――――――――★―――――――――――――――――――――――――――――☆


 【後書き】


 Night Talkerをご利用の皆さん、今晩は。ロックハウンドです。ご無沙汰しております。
 『スクール・オブ・ロック!』の中編がようやく上がりましたので、お届けさせて頂きます。

 このお話は、絵師のたかすさんを中心とした会話の中で生まれたものでして、進むに連れて、なかなかに楽しそうなシーンが自分の脳裏に浮かんでいました。
 楽しさがそのまま表現と描写に繋がっていれば、と思い、筆をとっていますが、やはり難しいものです。
 後編に向けて、少しでもより良い、おバカで笑える作品をお届けしたいと思っております。

 前編では、感想を頂き、ありがとうございました。
 後編の投稿の際に、まとめてレスを返させて頂きますね。

 それではまた、後編でお会い致しましょう。

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