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▽レス始

「DAWN OF THE SPECTER 12(GS+オリジナル)」

丸々&とおり (2006-05-29 00:58/2006-05-29 01:34)
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薄暗い部屋で、僅かに差し込む光が作る影がゆっくりと上下している。
影の正体は、青年。
左手を後ろに回し、右腕だけで体を支えていた。
最大限に腕に負担をかけるため、出来る限りゆっくりと腕立てを繰り返す。
7月の蒸し暑さと鍛錬の過酷さから、全身には玉のような汗が噴き出している。

既に日が暮れているにも関わらず、電気も点けず、かれこれ一時間近くずっと体を酷使していた。
左腕はとうに限界を迎え、残った右腕の方も限界が近付いているのか細かく震えている。
だがそれでも歯を食いしばり、物理的な限界を迎えるまで鍛錬を続ける。
その後も10分ほど続けていたが、とうとう限界なのか、どさりと床に倒れ伏した。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


荒い息を吐きながら、目を閉じ、青年が呼吸を整えようと試みる。
脚、腹、背、首、腕、器具無しで鍛えられる箇所は全て限界まで酷使した。
普段からある程度の鍛錬は欠かさないが、今日のこれは明らかにオーバーワークだった。


「……あー、ちょっとはスッキリしたかも。」


もはや苦痛を感じるレベルまで痛めつけた体に、青年が満足そうに呟く。
体を起こそうとしたが、どうやらしばらく無理なようだ。
汗でまとわりつく衣類は不快だったが、シャワーを浴びるのはもう少し後になりそうだ。

ふと気付けば口の中に鉄の味が広がっており、青年が顔をしかめる。
昼間争った時の傷はまだ完全にふさがっていなかったようだ。
夕方、教会に戻った時に神父にある程度ヒーリングしてもらったのだが、神父には申し訳ないが、おっさんに頬を触られるのが何だか嫌だったのですぐに切り上げてしまった。
おかげで顔の痣はほとんど目立たなくなったが、ざっくりと深く切れた唇はまだそのままだった。
鍛錬により血の巡りが良くなった事と、床に倒れた時の衝撃でまた血が溢れてきたのだろう。

しばらくそうしていると、呼吸も安定し、少しくらいなら体が動くようになってきた。
何とか力を振り絞ると、ごろりと寝返り、仰向けの体勢に体を入れ替える。
今のこの時間、教会に人はおらず、薄暗い室内には虫の鳴く音色だけが響いていた。
リーリーと耳に響く音色を聞きながら天井を見上げ、青年は予想もしなかった昼間の再会を思い出していた。


「――――ええ、そうね。
会場の警備はいつものように最高レベルで。
私の方でも腕の良いのを雇っておくわ。
――――え、信頼できるのかって?
私が信頼できないような奴を、おキヌちゃんの側に置くとでも思ってるの?」


携帯電話で何やらやり取りしているのを眺めながら、横島が珍しい物を見るかのようにキョロキョロと辺りを見回している。
そこはビジネスホテルの一室で、ベッドも一つしか置かれておらず、泊まるだけを目的にしたような簡素な部屋だった。
敢えて一つ良い所を挙げるとすれば、このホテルは他のどのホテルよりも駅から近い事ぐらいだろうか。

警察で顔を合わせた後、二人は美神の宿泊先のこのホテルに移動していた。
美神はその場で別れようとしたが、横島が頑として譲らなかったのだ。
結局根負けした美神が横島を連れて行く事を認めたのだった。

ホテルに着いた横島は、美神が宿泊先にこんな安ホテルを選んでいる事に驚いていた。
あまりにも『らしくない』としか思えなかったのだ。

だがもう一つ、横島は驚いている事があった。
それは、美神の纏う雰囲気。

彼女の雰囲気からは、GS稼業の人間が纏う、一種独特のアクの強さが感じられなくなっているのだ。
昔の、宝石のような過剰に華やいだ気配は影を潜め、今では無駄の無い実務的な気配をその身に纏うようになっていた。
その雰囲気は、横島がアメリカで活動していた頃に依頼人としてよく接していた、企業に務める人間に似通っていた。
一言で言えば、素っ気無いのだ。


「あ、ごめんね、待たせちゃったわね。」


携帯電話を折り畳み、スーツの胸ポケットにしまう。
服装も以前の露出の多い服ではなく、イタリア製のブランド物とはいえ、あまり派手ではないパンツスーツを着こなしている。


「いえ、別に気にしてないっす。
そういや今度、日本でやるらしいじゃないっすか。」


横島本人は意識していなかったが、何時の間にか口調が昔のものに戻っていた。


「……まあ、ね。
今日、その準備のために日本に戻ってきたんだけど。」


目を逸らしながら視線を下に落とし、美神が呟く。
何となくあまり乗り気でない様子なのが気になったが、それ以上に気にかかる事があった。


「もしかして、さっき空港にいました?」


無言で頷く美神に、今度は横島がバツが悪そうに目を逸らす。


「すいません、何か面倒かけちゃって……」


「別にいいわよ。この仕事やってると、色々と顔が利くだけだし。
ちょっと、流石にあれはやり過ぎかな、とは思ったけどね。」


空港での出来事を思い返し、美神が苦笑する。
その仕草に、横島が弾かれたように顔を上げる。


「俺はッ――――」


強い声に、美神がびくりと体を震わせる。
歯を食い縛り、横島が美神の肩を掴んだ。


「俺は、西条がいれば、美神さんが独りにならないと思ったから……。
あいつなら、力を失った美神さんを守ってくれると思ったから。
だから、俺は――――!!」


肩を掴む力に、美神が微かにその端正な顔を歪ませた。
だが振り解こうとはせず、優しく横島に微笑みかける。


「それは横島君が気にする事じゃないわ。
あの時、君が相談してきた時も、私は止めなかったでしょう。」


その、全てを予期していたかのような表情に、横島が表情を歪ませる。
歪んだ表情には深く苦悩が刻まれ、今にも滲んだ瞳から熱いものが零れ落ちそうだった。


「まさか、こうなるだろう事を予想してたんですか……?
だったら、何であの時言ってくれなかったんですか!?
言ってくれたら……俺はあなたの傍に居たのにッ!!」


「そうね……確かに、こうなるだろう事はわかってたわ。
でもね、だからこそ、私は君を止めなかったのよ。
こうなる事が、私が受けるべき罰だと思ったから。」


「違うでしょうが……!
あなたが悪い訳無いじゃないですか!
あれは、全部俺が原因じゃ――――!!」


すっと人差し指を横島の唇にあて、言葉を止める。
まるで、もうこれ以上自分を責めなくて良いとでも言うかのように。


「もう良いのよ、横島君。
あの夜から色々と変わってしまったとしても、君は君の人生を生きなきゃいけないの。
それに、私は独りじゃないわ。だって、私にはおキヌちゃんがいるんだしね。」


儚い微笑を浮かべ、時計を確認する。
そろそろ時間なのか、穏やかに横島に別れを切り出す。


「ごめんね、悪いけどそろそろ行かなきゃいけないの。
あ、そうだ、良かったらコンサートのチケット送ろうか。
私の権限で数枚くらいなら手配できるわよ。」


「え、ええ、おキヌちゃんのコンサートっすよね。
噂では聞いた事ありますけど、何か凄いらしいっすね。」


何とか横島も無理矢理に平静を装い、話をあわせる。
おキヌの顧問という立場の美神がどれだけ多忙か、その程度の事は理解できた。
国の偉いさんとの打ち合わせやおキヌの護衛の手配、後はマスコミの相手もしなくてはいけない筈だ。
国連専属GSという特殊な立場である以上、やらなければいけない事は山ほどあるのだろう。

そもそもコンサートは慈善事業であって、おキヌの本分は魂を鎮める事なのだ。
恐らく本来の目的―儚い霊を鎮める慰霊式典は、国を挙げての行事になる筈だ。


「ネクロマンサーの笛を完全に使いこなせれば、凄い事ができるのよ。
内容は、実際に見てのお楽しみって事にしとくけどね。」


悪戯っぽく笑うが、すぐに真面目な顔になり、言葉を続ける。


「その、コンサートのチケットは送るけど、悪いけどおキヌちゃんには会わないでほしいの。
本当はあの娘のためを思うなら、日本での公演は断りたかったんだけど……」


「え……駄目なんですか?
出来たら、会って勝手に姿を消した事を謝りたかったんですけど……」


「うん……もう戻れないのに、昔の思い出に触れても、辛いだけだと思うのよ。
だから、お願い……出来たらあの娘をそっとしておいてあげて。」


何故戻れないのか、と反論しようとした所で、横島がハッと気付く。
恐らく、おキヌはもう自分の自由などほとんど無い立場なのだろう。
国連専属のGSとなったおキヌは、あの六年前の大霊障の傷跡を癒すために全世界の国々を転々としているのだ。
国連のメディア戦略により『現代の聖女』として祭り上げられつつある彼女に、果たして自由などあるのだろうか。


「別に、嫌なら無理に続ける必要なんて無いでしょう。
おキヌちゃんが無理しなくても、GSなんて他にいくらでもいるじゃないですか!」


美神の責任では無いとわかっていながらも、思わず横島が声を上げる。
優しいおキヌに無理矢理押し付けているように感じたのだ。


「駄目なのよ……もう、戻れないの。
ネクロマンサーと普通のGSは違うの。
きっと、あの娘はもう、今の立場から離れる事は出来ないわ。」


そして、たぶん、私もね――――


最後にポツリと呟いた言葉が、横島の耳にいつまでも残り続けていた。


呼吸もある程度落ち着いたところで、少しふらつきながらも体を起こした。
汗でびしょ濡れになった髪をかき上げつつ、シャワーを浴びるために部屋を出る。
錆びた歯車のようにぎこちない動きだったが、それでも無事に風呂場に辿り着けた。

少し古臭いデザインの、タイル張りの壁がどこか懐かしい、人が二人入れるかどうかの狭い風呂場。
真夏の今は湯を張る事も無く、横島はほとんどシャワーしか使っていない。

汗でべとついた衣服を脱ぎ捨てると、冷たいシャワーを思い切り頭からかぶり、汗を落とす。
突然の冷水は肌を引き締める感触で、普段ならすぐに離れていただろうが、体が熱を帯びている今ならその感触が心地よかった。
洗い場に赤い色が流れている事に気付き、唇に手を当ててみると、傷口が完全に開いているようで血が溢れていた。


「けッ……俺の方が10発は多く入れたっつーの。」


昼間の乱闘を思い出しながら、横島が血の混じった唾を吐く。
口内の切れていた部分も、激しく体を動かしたため、唇と同様に傷口が開いてしまったのだろう。
風呂場に備え付けられた鏡を覗き込むと、意外な事に痣や腫れはもう完全に引いていた。
聖職者の神父のヒーリングは、予想以上の効き目だったようだ。


「俺は俺の人生を、か……」


昼間の美神の言葉がふと零れる。
アメリカで暮らしていた時は、誰に遠慮するでもなく、自由気ままに暮らしていた。
ラルフに散々迷惑はかけたが、それでも自分のやりたいようにやりたい事をやっていて、それに後悔など無かった。
GSの仕事をこなし、それを通じて知り合った友人達と笑いあい、殴り合って、酒を浴びる様に飲み、疲れたら味気無いあの部屋で眠り、街に良い女がいれば抱いた。
あの頃は自分の人生を生きていると胸を張って言えただろう。

こうして日本に戻ってきた今、果たして同じように胸を張って言えるだろうか。

日本に戻ってきた最初の頃は、好き勝手に生きるつもりだった。
神父の所に戻ったとしても美神事務所があるわけでもなく、昔の様にはしたくとも出来ない。
自分は今、根無し草だ。
一抹の寂しさを感じないではなかったが、それもアメリカでの経験が覆い隠してくれていた。
せいぜい食うに困らない程度にGSの仕事をし、カワイイ女の子に声をかけて一夜を共にしたり、口説きの駆け引きを楽しんだり、その日一日を楽しんでいくつもりだったが、どうにも最近は違和感を感じつつあった。

女の子と遊ぶ、それはそれで楽しい。
それは間違いないのだが、どうにも何かが違うのだ。
そして今、違和感の原因をようやく理解しつつあった。

やはり自分も、あの頃の美神所霊事務所の生活が好きだったのだ。
馬鹿をやったり、美神に怒られたり、おキヌに慰められたり、シロと遊んだり、タマモに呆れられたり、人工幽霊と世間話をしたり――――
日本、それも東京。
相変わらずな神父の教会。
横島にとっては、郷愁を誘うのに十分すぎる環境だった。


突然、風呂場に鈍い音が響いた。


タイル張りの壁に、横島が拳を打ちつけていた。
限界まで疲れ切った体は、力などほとんど残っておらず、打ちつけた拳も小刻みに震えている。

今更戻る事など出来ない事は、自分が一番知っていた。
あの暮らしを台無しにしてしまったのは、他ならぬ自分なのだから。
もしもあの頃に戻りたいと、痛いほど思ったとしても、それは決して叶う事は無いのだ。

詰まる所、今の自分は過去に引き摺られているのだろう。
だから、何をしていても常に違和感が付き纏い、自分の意志で行動している気がしないのだ。


「――――俺は俺の人生を、か。」


同じ言葉を繰り返すと、うなだれながら深い溜め息を吐くのだった。


「いててて……やっぱ、昨日は無理しすぎたか。」


体中がギシギシと痛む中、横島は目を覚ました。
教会がしんと静まっているのに気付き、声をかけてみる。


「あれ、神父ータマモー?」


誰かいないかと声をかけてみるが、昨日と同様、教会には人の気配が無い。
翌朝になっても、神父もタマモも戻ってきていなかった。
神父は慈善事業の除霊に行ったので仕方ないとしても、タマモも戻って来ないとは予想外だった。
朝食を用意してくれる人がいないので、キッチンに何か食べる物がないか漁ってみたが、手軽に出来るインスタント物は置いていなかった。
流石に横島に料理をするような技術は無いので、米を炊き、白米と漬物だけという質素な食事で我慢する。


「さあてと、タマモがいないんじゃ勉強もできんしなあ。
仕方ないから日課の鍛錬でもしながら帰って来るのを待とうかな。」


でも帰って来たら帰って来たで、昨日の空港の件で小言か説教でもされるんだろうな、と頭を抱えつつ部屋に引き上げていった。


「……ぬうう、いくらなんでも遅くないか。」


既に太陽は一番高くまで昇り、昼飯時はとうに過ぎ去っていた。
ぎゅるると空きっ腹が鳴くのを聞きながら、そろそろタマモを待つのを諦めかけていた。


「流石に、昼飯はまともなもん食わなきゃやってられん。
……よし、何か食いに行こう。」


昼飯まで白米に漬物では体が持たないと判断し、何か食べに行こうと部屋を出る。
金ならまだまだ余裕あるしなーと鼻歌混じりに出掛けようとした所で、教会の礼拝所の扉が開く気配を感じ取った。
迷える者は決して拒まないという神父の信念により、礼拝所の扉は常に開放され、鍵すら付けられていない。
当然、居住区までは鍵を持たないと入れないようになっていたが、悩みを抱える子羊が祈りを捧げたりするくらいは出来る。

気にせず昼飯を食べに行こうかとも思ったが、ふと横島は考えてみた。
恐らく神父を頼って来た来客なのだろうが、残念な事に神父は今は不在だった。
だが、わざわざ神父を頼ってくるという事は、霊障に悩まされているという事だろう。

あまり専門的な知識は持たないとはいえ、自分もそれなりに腕が立つGSだ。
別に神父じゃなくても、自分が話を聞いても良いだろう。
無理そうなら神父に任せれば良いし、出来そうならやってみたら良い。


「うむ、たまには神父を見習って慈善事業をやってみるのも良いかもしれん。
もしかしたら依頼人はキレイなネーちゃんかもしれんしな。
いや、きっとそうだ。そうに違いない。」


男だったら華麗にスルーしようと内心考えつつ、軽快な足取りで礼拝所に向かうのだった。


「やーどうも、何かお困りですかぁ♪」


礼拝所への扉を開きつつ、最高の笑顔で声をかける。
相手が男なら挨拶などする気は無いが、女性には第一印象が肝心なのだ。
教会には場違いとすら思えるほどの爽やかさを披露しつつ、素早く目を走らせて来客を値踏みしようとする。


「あ、先生!」


目を輝かせながら、一人の女性が横島に駆け寄ってきた。
横島は意外な来客に目を丸くしている。
だが、すぐにこの女性の昔の行動を思い出し、次に来るであろう衝撃に備えて身構える。
しかし昔のように横島を押し倒すような事はせず、ある程度の距離を置いて立ち止まった。


「よ、よう、久しぶりだなシロ。」


咄嗟に、タマモと再会した時のように二、三発殴られるのではないかと身を引いたが、シロはただじっと横島を見つめている。
その様子から、どうやら殴りに来た訳では無いと判断し、ほっとしていた。

「先生…でござる…」

無言で横島を見つめていたシロの瞳から、不意に大粒の涙が零れ落ちた。
本当にイイ女に成長したよなー、などと暢気に考えていた横島だったが、流石にこれには驚いた。


「お、おい、どうしたんだよ急に。」


「先生……先生ぇ……」


両手で顔を覆い、しゃくりあげるシロに、横島が困り果てたように頭をかく。
女の涙は見たくなかったが、伊達に女性経験は積んでいない。
これまでもこういう修羅場を幾度と無く潜り抜けた来たのだ。
こういう時は、言葉よりも行動あるのみ。

スッと一歩前に出ると、おもむろにシロを抱き寄せた。
シロの背中に優しく腕を回すと、いきなりの大胆な行動に呆気に取られているシロの耳元に、落ち着かせるように穏やかな口調で囁きかける。


「ほら、落ち着けって。
泣いてちゃわからないだろ?
急に泣き出すなんて、びっくりするじゃないか。」


「うう……だって、先生が……」


抱きしめたシロの柔らかな感触に頬が緩みそうになるが、ここは流石にぐっと堪える。
女性が胸の中で泣いてるのにヘラヘラ笑っても、メリットなど欠片も無い。


「急にいなくなって……四年も経って、また戻ってきて……ようやく逢えたと思ったら、あんな……」


ああ、そう言えばシロも居たんだったな。
昨日の空港の一件を思い出し、横島の表情が僅かに曇る。
確かに、いきなりアレを見られたのでは印象が悪すぎる。


「あー、その、何だ。
急に姿を消したのは……本当に悪かったと思ってる。
でも、こうして戻って来たんだから、許してくれないか……?」


「怒ってる訳じゃ……ないのでござる……ただ、先生の顔を見たら、涙が溢れてきて……」


「そっか……じゃあ、落ち着くまでこうしとこうな。」


理屈じゃないのなら、感情の昂ぶりが鎮まるまで、しばらくこの調子だろう。
それなら下手に言葉をかけてもあまり意味は無い。
内心、これはこれでラッキーだなと思いつつ、かつての弟子を優しく抱きしめていた。


礼拝所の長椅子に二人は肩を並べて座っている。
ようやくシロも落ち着いたようで、もう涙は止まっていた。


「ほら、じっとしろ。」


「じ、自分で出来るでござるよ。」


まだ少し目元が濡れているのに気付き、横島がハンカチで優しく拭おうとする。
だが恥ずかしいのか、シロは顔を赤らめ、慌てて距離を取ろうとした。


「いいから、じっとしてろ。
そんなに赤い目してちゃ、せっかくのカワイイ顔が台無しだぞ。」


「あ、う、うぅぅぅ……」


何気ない口調でカワイイと言われ、シロが口ごもりながら俯いてしまう。
泣いていた時も赤い顔をしていたが、今では耳まで真っ赤になっていた。
大人しく横島にされるがままになりつつも、どうにも気恥ずかしい想いを抱えていた。

昔はここまで意識してしまう事はなかったのに、何故以前のように自然に振舞えないのだろうか。
ふと横島も同じ想いなのかと思い、こっそりと顔を盗み見てみる。

だが横島の表情は、至って真摯なもので、本心から自分を心配してくれているように見える。
その時、盗み見るだけのつもりが、目と目が合ってしまい、理由も無く目を逸らしてしまう。
そんなシロの様子に、横島は首をかしげながらも、丁寧に涙を拭き取ってやっていた。


「せっかく来たのに悪いんだが、今は神父もタマモも居ないんだ。
神父は除霊に行っちまったし、タマモは……うーん、よくわからん。」


「あ、いえ、拙者は先生に……あれ、その唇はどうしたのでござるか?」


横島の深く切れた唇に気付き、シロが声をかける。
面倒くさそうに肩をすくめる横島の仕草から、昨日の空港の一件での傷だと察しがついた。


「あ、そうだ、お前ってヒーリングできたよな。
もし良かったら、この傷治してくれないか?」


悪戯っぽく笑いながら横島が唇の傷を指差す。


「お安い御用でござるよ。
それでは傷口を――――って、あ、その、それは……」


横島の役に立てると喜んで頷き立ち上がろうとしたが、傷口の場所に気付き、さらに顔を赤くしながら口ごもってしまう。
シロのヒーリングは傷口を舐める事で癒すという、獣族特有のものだったが、唇を舐めるという事はつまり――――


「あっはははははは♪
悪い悪い、ちょっとした冗談だってば。」


予想通りのリアクションに、横島が屈託の無い笑い声を上げる。
あまり大きく笑うと傷口が開きそうで不安だったが、笑いが込みあげてきて仕方なかった。


「さっき少し言いかけてたけど、俺に何か用なのか?」


ひとしきり笑った後、横島が思い出したように声をかけた。


「あ、そうでござる、実は……えーと、その……拙者は……」


どうにも上手く言葉が出てこない。
そもそもどう話を切り出せばいいのだろうか。
本人に隠れて父親から過去の話を聞きだそうとし、それが無理だったから本人に聞きに来ました、などと言える訳も無い。
オカルトGメンの一員として職務に励み、ある程度の交渉術や取調べの技術は身に付けたと思ったのだが、こんな時にどうすれば良いかなど誰も教えてくれなかった。


「ああ、そっか。そう言えば、まだだったな。」


何やら言い難そうにしているシロの様子から何かを察したのか、横島がぽんと手を叩いた。
もしかしたら横島の方から話してくれるのかと、思わずシロが目を輝かせる。
シロが嬉しそうに反応したのを見て、横島が何かを確信するかのようにうんうんと頷いている。

長椅子から立ち上がると、シロの手を取り礼拝所の扉に向かう。


「え、あれ、ちょっと、先生?」


てっきり話が始まると思っていたシロは、横島の行動が理解できず、あたふたとしてしまう。
人目を避けたいのならこの礼拝所はうってつけの場所なのに、そこから出て行くのは理解できなかった。


「ちょっと今日は体が痛くてな。
あんまり無茶は出来ないけど、軽いジョギングくらいなら平気だぞ。」


「えっと、あの、それはいったい何の話をしているのでござるか?」


シロの言葉に横島が首を傾げる。


「何って……散歩に行きたいんだろ?
そんな遠慮しなくても、いつも付き合ってやってたじゃないか。」


どうやら横島は、シロが言い難そうにしていたのを、散歩に行きたいが言い出せないのだと受け取ったようだ。
自分が横島にどういう風に思われているか理解し、シロががっくりと肩を落とす。


「何だ、もしかして違ったのか?」


何やら意気消沈しているシロの姿に、読みが外れたのかな、と首を捻る。
シロは恨めしそうに上目遣いで横島を見上げていたが、さっきからずっと手を握られていた事に気付き、目をまたたかせる。


――――あ、先生の手……大きい。


握られた手から横島の体温を感じ、この四年間で冷えてしまった心が温もるようだった。
昨日空港で見た、あの鬼気迫る表情は夢か幻だったのではないかと思ってしまうほど、今の横島は昔の姿に近かい。
違うところと言えば、背丈が伸びている事と、良い意味で余裕があるように見える事くらいだろうか。
職業柄、普段からスーツを着るようになり、大人っぽくなったと思っていたのだが、今の横島はラフな服装だというのに立派な青年に見えた。
さっきまで話をしていた大樹の姿を思い出し、ああ、やはり親子なのだなと納得してしまう。


「いえ、その……拙者、先生と一緒に……歩きたいでござる。」


消え入りそうな声で、しかし心の底から嬉しそうに頷き、ぎゅっと横島の手を握り返す。
女性になったシロが嬉しそうにしてくれるなら、痛む体に鞭を打ってでも無理をしてみるのも悪くない。
シロのおかげなのか、何時に無く、自然体になれていると横島は感じていた。

礼拝所から出ると、この瞬間に命を燃やすべく、蝉達がうるさく鳴いていた。
確かに鳴き声はうるさいが、それも夏の風物詩と思えばそう悪いものではない。
照りつける夏の日差しの下、二人はずっと手を繋いだまま並木道を歩いていった。

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