どこか、ひどく高いところにいた。
周りは曇天のごとく薄暗く、冷たい風がビュービューと強く吹いている。
空虚な寒さ。
それが恐怖なのか悔恨なのか、それとも単なる憂鬱なのか、そんなことを考えながら、下を眺めていると、目の前の視界がじわりと歪み始める。
視界の隅で強い風に流れていくものがあった。
自分の涙だった。
かくんと膝をついてしまう。
自分では抱えきれないほどのモノが、ゆるゆると胸に流れ込んでいった。
どうしようもないくらい痛む胸を押さえ、その場に蹲る。
何か言葉にしたいはずなのに……。
どうしても、声に出すことができなかった。
「…………っっ!!!」
声にならない声をあげ、横島は布団から飛び起きる。
のどはひどくカラカラで、胃の奥からは嫌な物がこみ上げてくる。
何に対するかは分からないが、強烈な衝動が体を支配しているような、そんな感覚が彼の体に付きまとっていた。
窓の外はもう日が昇っており、かなり明るい。
頬に手を持っていくと、やはりというべきか、自分が泣いていたのが分かった。
「最低……。いや、最悪だな……」
そんな気分で、そう吐き棄てた。
世界はそこにあるか 第32話
――戦士、再び――
顔を洗い終えると、横島は布団の上に座り、朝食のパンを齧る。
もう、涙の跡はないだろう。
気分もかなり落ち着いていた。
「……にしてもどういうことだろうな。こんな夢……」
こんなキモチの悪い目覚めは昔以来だ。
しかもそれでいて、あの時見ていたものとはまたかなり違う。
夢のことでもあるから、上手く言葉にすることはできないが。
『まあ、たかが夢を気にしていてもしょうがないだろう。
理由付けならいくらでもできるし、それこそフロイトの出番だ』
「そうなんだけどな。だけど俺も一応“れーのーしゃ”だし。
収束以外にあんな能はないけど」
当然だが、霊能者にとって夢とか直感などが意味を持つことは、普通の人と比べると断然多い。
横島とて、自身の言う通りその能力は収束に特化しているが、彼もいっぱしの霊能者。
藁人形で呪い紛いのことだってできるのだ。
だが、心眼の言うことももっともなので、夢のことはそこまでしておくと、今日のことを考え始める。
学校は休み。
事務所には行くだろうが、今日仕事があるかどうかはまだ聞いていない。
ビルの下から上まで除霊、とかそういうは面倒くさいな、なんて考えていると、自分の部屋のドアをコンコンと叩く音が聞こえてきた。
「ん、誰だ? こんな朝っぱらから」
『朝とは言っても、もう結構な時間だがな』
パンの残りを口に放り込み、ドアに急ぐ。
そんな様子を見ながら、心眼は自分の言葉とは裏腹に、先ほどの横島の話を頭の中で反芻していた。
その答えを探しながら。
「へ−い、どちら……っ!?」
ドアを開けた横島の顔が驚愕の色に染まる。
「こんにちは」
そこには、ある意味懐かしい人物。
「た、美神さんのお母さん……」
美神美智恵がそこにいた。
美神は自分の机に頬杖をつき、何するともなくぼーっとしていた。
部屋に一人。
横島はまだ来ていないし、おキヌも別の部屋にいる。
『オーナー、お客様です』
「ん、誰?」
『女性です。依頼人のようですが』
「そ。じゃあ、通して」
事前に連絡などがあったわけではないが、なんにせよ、この手持ち無沙汰な状況が解消されるのは嬉しい。
儲け話なら大歓迎だ。
人工幽霊の声を聞いたのか、廊下から「お茶入れますね」なんていう、おキヌの声が聞こえてくる。
コンコンと応接室の扉がノックされた音が聞こえる。
「どーぞー」
そう声をかけると、扉が開き、人工幽霊が言ったとおり女性が姿を現し、軽く頭を下げた。
スーツを着た少し大柄な女性だ。
雰囲気からすると、どこかの企業で秘書などをしているのだろうか。
そこから動かない相手に、すでにソファに腰掛けた美神は、ジョスチャーで目の前の席に座るように促す。
「依頼でしょうか?」
仕事を始める際に使う書類に目を落としたまま尋ねる。
「ああ、そうだな。依頼だ……」
ヒールがコツコツを音を鳴らしながら、近づいていく。
そして、美神の脇まで行くと、その音が止まった。
「ただ、依頼はお前の抹殺だがな」
「!!?」
美神のこめかみに拳銃が突きつけられる。
それと同時にそれと突きつけた本人の背中からは真っ黒の翼が現れた。
「魔族? どういうつもりかしら?」
こんな状況でありながら、あくまでも表面上は不敵に冷静に。
そして時間を稼ぐと同時に、この場を切り抜ける手段を脳内でめぐらせる。
もともと美神令子というのは、この程度のことで動じる胆力ではない。
「どうもこうもない。……死ね」
目的を美神の殺害のみにおいているのか、相手は彼女の考えなどまるで意にも介さず、引き鉄にかかる指に力を込める。
その様子に、彼女の首元の大きな精霊石に瞬時に霊力を集めた。
精霊石フラッシュ――これで一瞬の隙ができるはずだ。
あとは机の上の文珠を使うなりすれば、なんとでもなる。
だが、両者がまさに動こうとした瞬間、思わぬイレギュラーが入った。
「美神さん!!?」
ガチャーンッ、という盛大な音とともに床にコップが弾ける。
反対の扉から入ってきたおキヌだ。
「動かないでっ!」
おキヌに向かって、美神が思わず叫ぶ。
今ので状況は一変した。
これで今すぐ引き鉄が引かれるという事態は去ったわけだ。
しかし、適当に相手をあしらった後、外の彼女を拾って逃げればよかったはずが、目の前のおキヌを守るという命題が増えたことになる。
感覚的には正面から戦って勝てないとは思っていないが、相手とて人工幽霊の結界に気付かれずに侵入し、自分の頭に拳銃を突きつけているほどの相手だ。
判断を誤れば二人とも死ぬ。
それでも動くときは、突然のことに意識が分散している今すぐしかない。
だが、美神が銃の射線から外れ、反撃に出ようとした瞬間、更なるイレギュラーが入る。
「ふん。
前はあっさりだったが、やはりこの程度の実力はあったというわけか」
相手の背後に、また女性が現れ、後頭部に銃を突きつけたかと思うと、即座にその引き鉄を引いた。
「えっ!?」
「なっ!」
二人は驚愕の声を漏らすが、次の瞬間には銃声が響き、床には先ほどまでの姿とは違い、筋肉質の男性型の魔族の姿があった。
「ぐうっ!! 最初から分かっていたのか!?」
このタイミングで介入するなど、ずっと見ていたと考えるのが普通だ。
「ああ。貴様からぷんぷんしていたぞ。
魔族の匂いが。そして、嘘を吐いている匂いがな……」
後頭部を貫かれたにも拘わらず、死にきれず呻く相手に向かって、残りの銃弾を食らわせた。
ダンッ、ダンッ、ダンッ、という銃声が連続して響き、辺りには硝煙の匂いが漂う。
「また……、名前を知りそびれたな。どうでもいいことだが……」
事態のあまりの急展開にまだ動くことのできない二人を尻目に、ワルキューレは黒き翼をあらわにし、静かにそう呟いた。
二人は数瞬、お互いの瞳を見つめていた。
「……まあ、どうぞ。お母さん」
とりあえず中に入るよう促す。
「あら、いきなりお義母さんだなんて、いつの間に令子とそんな仲に!?」
そう言うと美智恵は瞳を輝かせた。
それはもう、爛漫といった感じに。
「違う! 義はいらん義は!
俺のは前に『美神さんの』が省略されて……って、何でこんな説明をせなならんのだ……」
横島は疲れたように肩を落とすと、部屋に戻り、床に散らかっていたものを端のほうに追いやって片付け始める。
一方美智恵のほうはマイペースな様子でその後ろについて入ってきた。
「散らかってるわね。まあ、この年頃の一人暮らしじゃしょうがないか」
「もう一人同居人がいるんすけど、そいつがいるときはもっと片付いてますよ」
「へぇ……」
タマモはしょっちゅう出かけているのだが、またここしばらく帰ってきていなかったのだ。
いくらタマモが小さいといっても、二人のときは片付けていなければ狭くてさすがに生活できない。
「さて……」
お互い向き合って座ると、美知恵のほうから口を開いた。
あと、横島はお茶でも入れようかと言っていったのだが、丁重に辞退されている。
「あまり、驚いてないわね。死んだはずの人間が現れたのに」
「いや、まあ、お母さんは時間移動能力者だし、前にも一度ハーピーのときに現れてるっすから。そういうのはあんま関係ないでしょ?」
「あら、そうだったわね。
貴方にとっては最近だろうけど、私にとってはかなり昔のことだから忘れちゃってたわ」
かなり白々しい感じだ。
美智恵の表情はそんなこと言ってはいなかった。
腹の探りあいになるか――そう思って、心の中で身構える。
そういうやり取りは彼女相手では、かなり分が悪いが。
「で、どうしてここに?」
「実は私死んでいなかったのよ。
それで、あれからずっと隠れてたんだけど、こうやって今出てきたってわけ」
「えっ!?」
美智恵の口から出た思いもよらぬ言葉に、驚愕の声を漏らしてしまう。
目の前の美智恵が過去の人物でなく、現在の彼女だということ。
いや、それは想像できていなかったわけではない。
それよりも、なぜそのことを言うのか。
何を意図してここに来たのか、分からなくなったからだ。
「知ってた?」
くすくすと笑う様な感じで問いかける。
向こうのほうがどこまで知っているのだろうか。
「い、いえ。美神さんにはこのこと言ったんですか?」
「まだなのよ。今朝、本部の西条クンのところに顔を出して、こっちに来たから。
驚くかしら?」
「そりゃ驚くでしょ!!」
おキヌは例外として、死者が生き返るなど普通はありえないことだ。
まあ、どちらも死んでいたわけではないのだが。
美智恵のほうはといえば、横島とのやり取りを楽しむかのように笑っていた。
世間から隠れることから開放されて、少しテンションが上がっている可能性がある。
「本当は過去から時間移動するつもりだったわ。
そうやって敵に対抗するつもりだったの。でも、出来なくて……」
「!? 出来ない?」
「ええ。どうしてかは分からないけど、能力が消滅したみたいに」
「…………」
最高指導者の二人あたりが細工したのだろうか。
だが、そんなことする理由が分からない。
心眼にも聞いてみるが、どうやら彼女にも分からないらしい。
「でも、そのことはいいの」
「どういうことっすか」
自分の計画が潰れたのに、いいとはどういうことか。
「貴方、前に言ったでしょ。『人は変わっていくものだ』って。
確かに私の時間移動能力はなくなった。けど、令子はといえば本当に強くなったわ。GSとしても人間としても。なら……、それでいいのよ」
変わらないものなんて、何もない。
先ほどまでのおちゃらけた感じとは違い、優しげに目を細める。
「たぶん、あなたのおかげなんでしょうね……」
『そうかもしれない。違うかもしれない。
だが、弱くなったのは貴方のせいだな』
今まで傍観に徹していた心眼が口を開いた。
横島としても若干焦ったが、横から口出しはしないことにしたらしい。
「そうね……。でも、まっ、いいじゃないそんなこと」
『そうだな。別にいっか』
「軽いなっ、おい!!」
二人の会話に身構えた自分は何だったというぐらい、メチャクチャ軽い。
そんな様子に横島も「どっちも変わらんなー」なんて、心の中で思っていた。
心眼は変わった結果なのかもしれないが。
「ふふふっ。あの子にはあなたがいるからね」
『美神にはこいつ以外にいないだろうしな』
「あら、やっぱりそうかしら?
令子はあの性格も含めて、かなり普通じゃないからねえ」
「ちょっ! なにを……!」
話が妙な方向に転がっていったので、口を挟もうとする。
だが、そんな横島の声を全く無視し、喫茶店の女子高生のようにそのまま二人は話を続けていった。
さらに心眼の台詞は横島本人以外が言うとかなりイタイ。
――言われた本人が。
「じゃあね、令子はともかく横島クンは脈があるの?
まあ、感じからして全くないってことはないと思うんだけど」
『こいつは美人でさえあれば男と幼女以外は割と何でもアリだが、基本的な好みは“少し気の強いお姉さんタイプ”だからな』
「なにを勝手に……ってか、少しどころかあれだけ気の強い女はほとんど知らんが……。
って、ちょっとは聞けよっ!」
横島を完全に排除して話している。
少し昔風に言えば、アウトオブ眼中。
アパートのこの部屋自体がネタを発生させるフィールドになっているのだろうか、美知恵も妙にノリがいい。
ただ、横島の好みの方はあながち的外れではない。
マザコンの気がある彼であるのでタイプも似てくるのだ。
『美神もギャーギャー言って、意地を張ってるだけでなく、少しは素直になればいいのだ』
「でも、そうやってギャーギャー言ってる子は、人一倍寂しがり屋で、甘えたがりなのよ」
『確かに。それに、そこがある意味彼女の萌え要素だからな。
無くしてしまっては……。だが、多少のデレもなければ……』
「そうよねえ」
しゃべくっている二人を横目に、横島はすべてを諦めたかのように黙っていた。
美智恵がどこまで知っているのか、いや、推定――勘に近いだろうが――できているのか知りたかったのだが、それももう出来そうもない。
彼女自身もこちらに対して突っ込んだことを聞こうとしてやって来たはずである。
そういう人だし、実際に最初はそんな雰囲気があったのだ。
それが、どこで彼女にその心情に変化が訪れたのかは分からないが、これからどうなるのか。
そういうことで、朝だというのに一人でたそがれているのだ。
あまりの放置プレイにちょっと涙でそうになっていた。
美神にしても自分の知らないところで、こんなことを言われているなんて露にも思わないだろう。
そんなところに、ドンドンと玄関の扉を叩く音がし、ずっと喋っていた二人も扉のほうを注視する。
「……今日は朝から千客万来だな」
二人の会話で、正直しばらく動きたくないほど精神的に磨耗していたが、なんとか立ち上がり、めんどくさそうにドアを開ける。
「久しぶりだな、横島」
そこにいたのは、汚いスーツを着て趣味の悪い帽子をかぶった、背が低くて目つきのひどく悪い男。
「いきなりだが、俺に少し付き合ってくれねえか?」
本当にいきなり言い出した雪之丞を、冷たい眼で見る横島。
彼のいつもの調子が、今の彼にはムカつくほどの倦怠感を促す。
「…………空気読めよ」
その通りといえばそうなのだが、少し理不尽すぎる一言を言い放つ。
ただ、これで次回は自分も多少マシかもしれない、そんなことも考えていた。
あとがき
三ヶ月ぶりくらいの本編。
本当に久しぶりですが、また一月に三つか四つくらいのペースで、終わりまで持っていきたいと思います。
さて今回。
ワルキューレのために、多少美神が不甲斐ないですが、まあ彼女はこれからいくらでも出番も見せ場もあるんでいいでしょう。
あと、美智恵に関してはまた。
それにしても、彼女はアシュタロスの動き出す時期を、どうやって知って時間移動したんでしょうか? 私の原作見落とし?
サブタイトルは、ΖΖの最終話からです。
いまいちだったかな。
今回も読んでいたただ気ありがとうございます。
では。