「まだまだ現世で遊んでいたいのはわかるけれど、ちょっと悪戯が過ぎたようね」
右の神通鞭をぴしりと鳴らし、左手に持ったお札の束をばっと広げる。
「このゴーストスイーパー美神令子が、極楽へ……逝かせてあげるわ!」
美神の右手から鞭がうなる。青白い輝きで朽ちたビルの一室を染め上げながら、前方に漂う悪霊を祓わんとする。
「を゛ぉおこおぉお゛おをあ」
理性どころかその正体すら失った悪霊に避けるすべはない。
はずであった。
「くっ!」
悪霊は二つに分離し、鞭は中空を掠めた。
さらに二手に分かれた悪霊が前方左右から迫る。どちらか一方を叩けばもう一方にやられる。
「ここ!」
左から迫る悪霊の片割れに破魔札を叩きつけつつ飛び込む。祓うまではいかなかったが怯んだ隙を突き、空いた空間で受身を取れた。二体の悪霊は、先ほどまで美神がいた地点でぶつかるとまた一体に戻った。
「厄介ね、自分を見失って二体の悪霊が一つになってる。それなのに分離して行動することも可能……確かにこれは並大抵のGSじゃ返り討ちにあうわけよ」
悪霊を見据えつつ、じりっと後退しながら分析する。背はドアに当たったが、これを開けて逃げる隙を見逃してくれるかどうか。
美神の持ってきた攻撃手段は四つ。
一つ、吸引札。相手が強力すぎて役に立たない。
一つ、破魔札。手元にあるのは安い札だけ。怯ませることは出来ても祓うことは出来ない。
一つ、神通棍。二度の妙神山での修行を経て出力は最大。だが、当たらなければ意味はない。
一つ、精霊石。最後の手段。今回の報酬では少々割に合わない。
今回、美神は神通棍だけで片をつけるつもりであった。相手は、多少強力でも単純な悪霊であると判断されていたのである。
所詮は悪霊であり、魔族などと戦ってきた美神にとっては雑魚に等しい。吸引札は効かなくても、破魔札ならば5000万クラスの札で祓えるだろう。神通鞭ならば一撃だ……あたりさえすれば、だが。
速くて、その上分離が可能な悪霊……強大ではないが、まさしく厄介な敵である。
「あー! もう! これならもっと搾り取っても良かったじゃない! 聞いてないわよ、私!」
頭を抱えてきーっ、と叫ぶ。報酬は5000万だった。だからこそ神通棍主体の装備で経費を抑えようとしたのだ。それも間違ってはいない。美神の神通鞭を受けて平気でいられる悪霊などそうはいないのだから……
もっとも、今そんなことを叫んでいる場合ではないと思うのだが、余裕である。
「お゛おをぉぉあぁ」
この悪霊に隙を突くなどという頭があるようには思えないが、その間に再び突進してくる。
美神は既に戦闘態勢。隙だらけに見えても警戒は解いていない。
「この!」
今度は鞭を薙ぐ。
しかし悪霊は今度は上下に分離し、やはり鞭は中空を掠めた。
また破魔札を投げつけ離脱し……
美神の背でガチャリとドアの開く音がした。
「あ、美神さんこっちは終わりましたけど」
「バカ! 横島!」
暢気な声でドアを開けたのは横島である。
美神は地面に肩をつけたまま慌てて振り返ると、まさに上下に別れた悪霊が横島に襲い掛かる瞬間であった。
「うわ!」
横島の慌てる声が聞こえる。美神は悲鳴をあげようとした。
ぐすり、とやわらかいものに刃物をつきたてる音がする。
上下に別れた悪霊を、それぞれ『栄光の手』が貫いている。横島の普段使う霊波刀が刀であればこちらは短刀、いやせいぜいナイフがいいところではあるが、それは両手から発現していた。
「ふっ! 急なことで驚きはしたが、見たか! これが栄光の手、第三の姿だ!」
悪霊はその二本のナイフ状の栄光の手で貫かれていた。元々どちらの手でも発現出来ていた栄光の手だが、白虎の霊波刀を手本にして両手で使ってみようとしたのがこの姿である。現在は慣れないこともあり、明らかに出力が弱く大したダメージを与えられる代物ではない。それでも、悪霊を一時止めるぐらいなら十分だ。栄光の手は、ほんとに使いようでいくらでも変わる便利な霊能である。見得を切る横島は十分かっこいい、のだが……
「よくやった、横島ぁ! そのまま動くんじゃないわよ!」
「え゛」
美神の声に横島が硬直する。続いてぶんと神通鞭が振られ、まず上の悪霊を滅ぼし、真ん中の横島を吹き飛ばし、下の悪霊を滅ぼした。
ぐはっ、と廊下の壁に叩きつけられて横島がうめく。
「な、何すんですか! 美神さん!」
「あー! すっきりした」
横島の抗議など馬耳東風。いい笑顔で額を拭っている。
「だいじょーぶよ。ちゃんと加減はしたし」
「そういう問題じゃないです……」
仲間ごと敵を葬り去ろうとした行為自体が問題だ。
「うん、そうね……ま、今回は結構危なかったし。助かったわ。ありがとね、横島クン」
少しだけ素直な美神。まるで純朴な乙女のような笑顔を浮かべたその頬は、少し赤く染まっている。
「え、はい。どういたしまして」
礼をしてきた美神のその笑顔に、横島はしどろもどろになってしまった。
美神さんの性格捻じ曲げるほど危ない場面だったか、いやきっと危なかったんだ。つまり今なら美神さんも全てを受け入れあのダイナマイトバディが今こそ俺の手の中に「みっかみさーん!」
思考の途中で体が動く。
目標、美神令子。横島、いっきま〜す!
「アホ!」
美神は飛び掛ってきた横島を拳一つで撃墜した。
「あんたって奴は、おキヌちゃんはどうしたのおキヌちゃんは! あんないい子がいるってのにこのアホはこの、この」
ぐりぐりと踏みにじる。片手にムチでボディコンの美神がそんなことをやっていると、まさしく女王様だ。
「ち、ちがうんやー! 俺は悪くない! ただ男としての本能が飛び掛れと命じるんだー!」
「余計悪いわ! それを抑えなさいって言ってんの!」
ここ一月ほど美神は横島に煩悩を制御する為の修練をするよう命じている。一年の修行で戦術の基本は身についた。次は霊力の研鑽だ。煩悩を減らすことなくコントロールする。それは煩悩を霊力の源とする横島にとって、どうしても必要なものである。出力を上げるだけでなく、コントロールできるようにならなければこの先には進めない。
その成果は……
「あ、でもこのアングルからだと美神さんのパンツが見えがふっ」
前途多難である。
−1−
「よー。よー」
よちよちと歩いて横島によって来る小さな女の子は、美神家の次女ひのめである。
夕日差し込む美神除霊事務所。オカルトGメンの仕事で出かけたひのめの母、美智恵が預けていったのだ。
「そうそう。ほら、もうちょっとだ」
ひのめから少し離れたところでしゃがんで横島は待っている。
「よー。よー」
そこまで懸命に歩いていくひのめ。ちなみに、「よー」とは横島のことである。周りが横島横島と言っていたので、そう覚えてしまったらしい。
「よー!」
「よーし、いい子だ。ひのめちゃんはすごいなー」
ぽすっと腕の中に納まってきたひのめを抱き上げ、頬擦りする。ひのめのほうもきゃっきゃっ、と楽しそうに笑った。
『横島さん、おキヌさんが帰ってこられたようです』
二人しかいない事務所に響き渡る声。人工幽霊壱号は横島に話しかけた。その声は無機的でありながらも、まるで長年つかえた執事のように柔らかな響きを持っていた。
「お、そうか。こっちまで呼んでくれるか? 人工幽霊壱号」
『かしこまりました』
ひのめを抱き上げあやしながら少し待っていると、外からぱたぱたと足音がして扉がガチャリと開いた。
「ただいま、横島さん」
扉を開け微笑むのは六道女学院の制服を着たおキヌである。
「お帰り、おキヌちゃん」
横島も笑顔で迎え入れた。
「あれ、横島さん一人でひのめちゃんを見てるんですか?」
そこでふと気づいたようにおキヌは辺りを見回した。
その言葉に苦笑して横島は答えた。
「シロとタマモは二人で昼からどっか遊びに行ってる。美神さんはひのめちゃん用の離乳食を切らしてたもんで、それを買いに行ったよ」
美神曰く、あんたの方がひのめも面白がるだろうしね、とのことだ。確かに世話全体ならともかく、少しの間遊んでいるだけならひのめも横島と二人のほうがご機嫌だった。今もぺちぺちと横島の顔を叩きながら笑っている。
「やっぱり俺一人だと不安だからさ。おキヌちゃんが帰ってきてくれてよかったよ」
言いながら体をひねり、ひのめをおキヌのほうに振り向かせてほーら、おキヌちゃんだぞーなんて言っている。
ひのめに手を振りながら、おキヌは横島のほうに歩いていった。
「ふふ……横島さん、すっかりお兄ちゃんですね」
「そうかな?」
横島がひのめを床に下ろしてやると、ひのめはよちよちと歩いていって、おキヌの足に抱きついた。
「やっぱり、おキヌちゃんのほうが安心するみたいだなー」
ちょっとだけ寂しそうに横島は笑った。
「しょうがないですよ。私のほうがひのめちゃんといる時間は長かったんですから」
おキヌは鞄を横に置いてひのめを抱き上げた。
一年ほど妙神山に修行に出ていた横島は、ひのめとも一年は会っておらず再会したのはここ最近である。赤ん坊と言うものは成長が早く、横島も一年会わないでいる間に大きくなったひのめに驚いたものだ。
その間も仕事の忙しい美智恵にひのめの世話を頼まれることはよくあったので、横島以外のメンバーはひのめの子育てに多かれ少なかれ関わっている。
ちなみに、ひのめが最もお気に入りなのはシロである。美智恵のように仕事が忙しい美神や学校のあるおキヌと違い、シロとタマモはひのめと接する機会が最も多かった。その二人のうちでも赤ん坊の無邪気さと波長が合ったのか、シロはひのめに気に入られたようだ……呼び名は「わんわ」だったりするのが、シロにとって複雑ではあった。
ともあれ、横島もそうは見えないが子供好きな一面を十分に発揮し、再会して一月経たずで今ではここまでなつかれるようになったのである。
それでも、今はやはり長く共に過ごしていたおキヌに軍配が上がったようである。
「あれ? ふふ……ひのめちゃん、おねむになっちゃったみたいですね」
おキヌに抱き上げられたひのめは、目をしぱしぱさせている。
「そういえばそんな時間か……っと」
見ているうちにひのめは完全に目をつぶり、微かな寝息を立てていた。横島とおキヌは向かい合ってしーっと人差し指を立てると、そのまま静かに部屋を出て行く。
静かに静かに移動して、二人はひのめをベビーベッドのある一室へと連れてきた。横島がドアを開けてやり、おキヌがゆっくりとひのめを運ぶ。
そっとひのめを寝かせやさしくかけ布をかけてやり、そのまま二人は黙ってひのめの寝顔を眺めていた。あどけないひのめの寝顔を眺めていると、心が和まされる。
最後におキヌはひのめに起きる様子がないのを確かめて、振り向くと後ろに立つ横島にドアから出ていこうと指で示した。
かちゃりとドアを閉める音も最低限にして廊下に出た二人は、そっと息をついて微笑み向かい合った。
「ひのめちゃんの寝顔、可愛かったですね」
幸せそうにおキヌは横島に語りかけた。
「そうだなー……あの子が美神さんみたいにならないようにしてやらんとな」
対する横島の返答は同意と、わりと真剣な決意である。
「もう、美神さんに怒られますよ」
おキヌは苦笑で返した。
「でもなぁ美神さんも子供のときはあんなに可愛かったのに、あーいう風に育ったわけだし」
やっぱり俺たちが頑張らないと、と横島は腕を組んでうなずいている。脳裏に浮かべているのは、横暴ながらも素直で可愛かったれーこちゃんだろうか。
「横島さんったら……なんだか、お兄ちゃんと言うよりお父さんみたいですね」
「え? そうかな」
「そうですよ。横島さん、いいお父さんになれそうですね」
戸惑う横島に、おキヌはそこまで言い切って、
「……っ! えっと、あの。そうじゃなくて、その……」
顔はうつむき、だんだん声は小さくなっていく。うつむいた顔は耳まで真っ赤だ。
「あー……えっと、そのう……」
向かい合う横島もつられて顔が赤くなっていき、
「だ、大丈夫! おキヌちゃんもきっといいお母さんになれるって!」
とち狂ってそんな言葉をぶちまけた。何が大丈夫なのか分からない。口をついてしまった言葉を、横島は視線をさまよわせて誤魔化そうとした。
おキヌも横島もさらに真っ赤になってしまっている。そのまましばらく無為な時が過ぎた。それは、とても暖かい時間ではあったけれども。
正気に戻って最初に声を出したのはおキヌだ。まだ顔は少し赤みを帯びてはいたけれど、視線をさまよわせている横島に微笑んだ。
「まだ、ちょっと早いとは思いますけど……いつか、二人ともいいお父さんとお母さんになれるといいですね」
「きっとなれるさ。俺はちょっと心配だけどね」
横島もおキヌのほうを向いて、照れくさそうに頭をかきながら答える。
「大丈夫ですよ、きっと」
やわらかく微笑んで告げる。
「だって、私の大好きな横島さんなんですから」
理由になっていない答え。でも横島はそうだな、と納得する。自分なんか一番信じられない奴だけど、おキヌちゃんが言ってくれるなら多分そうなれるだろう、と。
「ねぇ、横島さん?あの、こんなの今更だとは思うんですけど……」
唐突におキヌが少し思案するような表情になって、それからもじもじとしだした。
「なに? おキヌちゃん」
横島はちょっと小首をかしげて軽く聞いてみる。
それに答えようとおキヌは横島の顔を見て、でもその瞬間に伏せてしまう。そのまま小さくつぶやいているようだが、横島には聞き取れない。もっと良く聞こうとして横島が一歩近づいた。
近づいてきた横島の顔を見上げるおキヌ。横島の顔は目と鼻の先だった。また顔を伏せようとして、でも今度は思いとどまる。頭一つ高い横島に、おキヌは自然と上目遣いになって話しかけた。
「名前で、呼んでもいいですか? 忠夫さんって」
「え、あー……いい、けど」
「本当ですか!?」
照れてぽりぽりと頭をかく横島に、おキヌは幸せそうに微笑んだ。
「でも、何で急に?」
「前から呼びたかったんです。私たちもう、その……」
顔を伏せたおキヌが恋人なんですから、と言うのがかろうじて横島の耳に届いた。横島は顔を赤くして、おキヌも耳まで染めて。二人の間に穏やかな、幸せな空気が流れる。
あちこちでいちゃいちゃしたりする反面、おキヌはまだ恋人と言う関係に慣れていない。それ以外であった時間が長く、その間夢であった恋人に急になったのだから……やることやってるのに今更だとは思うが、女とはかくも不思議なものなのである。
心地よい沈黙が過ぎて、おキヌは顔を上げた。
「じゃ、じゃあ、呼んでみますね」
「お、おう」
やたら気合の入ったおキヌに、横島も身構える。
「た、忠夫、さん」
「うん、おキヌちゃん」
初めての呼びかけは硬かった。横島はうなずいてそれに答える。
「忠夫、さん」
「そうだよ、おキヌちゃん」
二度目の呼びかけは口の中で確かめるように。それを肯定してみせる横島。
「忠夫さん……大好き!」
三度目の呼びかけは笑顔と告白がついていて。
「おキヌちゃん、好きだよ」
微笑んで、答えて、抱きしめた。
「忠夫さん、好きです」
横島の腕の中で、何度も小さく繰り返す。瞳は潤んで、頬を赤く染めて。
「俺も好きだよ、うん、大好きだ」
背に回した手でおキヌの長い髪を梳きながら横島もまた答えた。
やがてどちらともなく視線が絡んで、二人の唇が触れ合うまでに、そう時間はかからなかった。夕日射す静かな廊下に、触れ合う音が響く。
そのまま少し時間が過ぎた。やがて二人だけだった廊下に、新たな影が現れた。
「……」
言葉はない。その視線の先には一つになった男女の姿がある。あたりには二人の吐息と微かな衣擦れの音だけが響いている。
「……ねぇ?」
呼びかけてみた。二人にとっては心地よい静けさも、影にとってはいたたまれないものだったらしい。
「忠夫さん……」
「おキヌちゃん……」
反応は返ってこなかった。見詰め合って、完全に二人の世界に入っているようだ。
「……ちょっと?」
影は一歩近寄って、強く呼びかけてみる。
「好き……」
「俺も好きだ……」
無反応。今度はキスまで始めている。
「……」
怯んで、再び影に言葉はなくなった。しばらくそのまま時間が過ぎる。廊下の真ん中で絡む二人と、それを突っ立って見つめる影。
ほんの少し時間が過ぎて、やがて影がまた一歩踏み出した。額には井桁が浮かんでいる。その表情を言葉にするなら何で私が遠慮しなきゃならないのよ、といったところか。
「いい加減に」
横島とおキヌの肩にそれぞれ手を置く。
「離れなさい!」
そしてべりっと引き剥がした。離された二人はわけが分からず影のほうを振り向く。向いた先にいたのは……照れでほほを赤く染めた美神令子だ。どうやら二人の空気に中てられたらしい。
おキヌは肩をつかむ影にやっと気づいて
「あ、美神さん……えっと、その……」
顔を真っ赤にしてうつむいた。とても廊下のど真ん中でラブラブしていた様には見えないうぶさだ。
「み、美神さん!?」
横島のほうは驚きが先に立った。肩をつかまれたまま美神の顔を見る。
美神は顔を真っ赤にして横島を睨んでいた。
「あんたね、いちゃつくなとは言わないからもう少し場所を考えなさい! 場所を!」
呆れたように顔を横向けながら話す。
「横島クンの方はもう学生じゃないんだし、そういうことを考えるのはあんたの役目よ」
そこまで言って美神は横島に向き直り、呆れを含んで苦笑いではあったが笑顔を向けた。
「ま、仲がいいのは良いことだけどね。ほら、さっさとおキヌちゃんを連れておキヌちゃんの部屋にでも行きなさい。ひのめは寝ちゃったんでしょ?」
二人のいる場所から大体察したらしい。廊下に置いてあった、ひのめの離乳食が入っているであろうスーパーの袋を片手に持ち上げ、何も持たないほうの手をひらひらと振る。
「す、すんません。そんじゃ、失礼しまっす!」
横島は頭を下げ、まだうつむいて真っ赤になっているおキヌの手を引いて歩いていった。
素直に従ったのはおキヌのことを考えてだろうか……少しは横島も成長しているようである。
もっとも、おキヌの部屋に行って二人っきりになればまたラブラブ空間が発生するだろう。
あぁ、バカップルどこへ行く……
窓の外は月明かりさえない漆塗りの黒。控えめな間接照明だけが室内を照らし、窓辺に立つ女の姿を朧に見せる。薄いブルーのナイトガウン。しっとりとぬれた長い髪。
女は憂鬱そうに髪を掻き揚げた。髪は上質な絹糸のように、一筋とて指に絡まることなく滑り落ちる。さらりと音を立てた髪からは、ほのかに花の香りが広がった。
室内は暖かい。ふと思い立って窓ガラスにつけた手は、夜の温度を女に伝えた。静かに冷えていく手を感じながら、女は窓の外を眺めていた。
一度目を閉じ、窓ガラスから手を放した。振り返り、部屋の中心にあるソファへと歩く。優雅に歩く仕草には、しかし憂鬱が付きまとう。
ソファは女の体をゆっくりと受け止めた。
女の前には透明なガラスのテーブルがある。テーブルの上にはスコッチのボトル、ロックグラス、アイスペール。
女はグラスに氷をいくつか入れ、上質な琥珀の酒を注いだ。
そして一気に呷る。
「ぷはっ、きくぅ〜! これよこれ。高いお酒はやっぱり違うわねー」
一息でなくなったグラスの中身を注ぎ、また同じような勢いで呷った女は、美神令子である。
亜麻色の髪、ガウンを押し上げる豪奢なボディー。横島がこの場にいたなら、彼女のいる身にかかわらず飛び掛ったに違いない。
もっとも普通の男性ならば、度の高い酒を水のようにあける姿と美神の美貌を天秤にかけることになるだろうが。
ともあれ、美神は入浴後の晩酌を楽しんでいるようである。
「それにしても……」
カロン、とグラスの中の氷が音を立てた。ほんのりと酔いに顔を赤くした美神は、グラスを持ったままぶつぶつとしゃべる。
「横島クンもおキヌちゃんもラブラブしすぎじゃない!? あっちでべたべた、こっちでべたべた。暇があればくっついて、ちょっと目を離したらキスしてるし……」
怒って、またグラスを呷る。
横島とおキヌのバカップルさは日に日に増している。美神も最初は黙認していたのだが、毎日どころか二人が揃うたびにどんな時でもラブラブ空間を発生させるので、いい加減辟易しているのだ……仕事中でも食卓でも、あるいはひのめのお守りをしてもラブラブだ。恐るべきはバカップルである。
「ほんと、もう……幸せそうなのはいいんだけどね」
言いながらグラスにスコッチを注ぐ美神は、少しだけ寂しそうに笑った。その表情を見るものは誰もいない。
「おキヌちゃんが、横島クンと、ね……急だったなぁ」
スコッチで満たされたグラスを手に取らず、ソファにぐったりと身を預けた。
それに気づいたのは、すぐだった。隠そうとしていても、二人の間に流れる空気が明らかに違っていた。
いつもの通りに殴り、蹴り、横島に吐かせて……確かめたら横島をまた殴っていた。
後からおキヌちゃんを傷ものにしたって言って横島をずたぼろにしてやったけど、最初の一発だけは、何で殴ったのか自分でもわからなかった。
でもあれから少しだけ時間がたって、今なら少しだけ分かる気もする。
「好きだったのかな、やっぱり。横島クンのこと……」
つぶやいてみたら頬が赤くなって、胸が高鳴り……キリ、と痛んだ。
美神は横島のことを考える。
前世のメフィストは、横島クンの前世の高島のことが好きで。
二人は来世で一緒になる約束をしていた。
ただのバイトが試験に受かって見習いになり、今では一端のGS。
バカで、あほで、スケベで、どうしようもない奴で。
自分に正直で、ときどき傷ついてて、なのにそれを見せなくて、いつも傍にいてくれた。
そう、いつでも傍にいてくれた。
だから、いつまでも一緒にいてくれるんだと思って。
でも、横島クンが選んだのはおキヌちゃんだった……そもそも自分は何もしていなかったのだから、当たり前なのかもしれないけれども。
おキヌちゃんはいい子だ。幽霊だった頃も、人になった今も。
ずっと横島クンのことが好きで、その思いがやっと実った。
横島クンにおキヌちゃんが取られたって言う気持ちが大きかったのも事実。
そのことはあの晩に散々横島クンの事を責めて、でも最後は二人の気持ちが本気だってことを知って認めてあげた。
それなのに、まだ心がしくしくと痛む。
痛みの元の名は、きっと恋だったんだろう。
あるいは、今でもそれは恋なのかも知れない……実らない、恋。
「あー! もう! やめやめ!」
美神はぶんぶんと頭をふって恥ずかしい思考を振り払った。グラスを手に取り、また一息で呷る。新しく注ごうと思ったが、すでにビンは空だった。
立ち上がり、壁際まで歩いてケースから新しいビンを取り出す。明日は仕事もないし、二本目を飲んでも問題はないだろう。
再びソファに腰掛け、新しいビンの蓋を開けた。傾けグラスに注ぐと、とくとくと音がして耳を楽しませた。
「まったく、なーんでこの私が横島クンなんかのことで悩まされなくちゃいけないのよ」
今度はストレートのスコッチを、ちびちびとなめながらつぶやく。中空を睨んで、そこに横島の顔を思い浮かべながら。
そもそも、一月前には終わった話である筈なのだ。それを今更独り酒を飲みながら愚痴愚痴としている。
自分ではあまり思わなくとも、二人が付き合うことに衝撃を受けて今まであまり考えないようにしていたこともある。しかし、直接の原因は昼間見た光景だろう。
夕日さす廊下で抱き合い口付けを交わす横島とおキヌ。
今までキスを見た事が無かったわけじゃない。キスをしたことだってある。
それでも、それは心に最後の亀裂を生んでいた。
「あそこにいたのは、私じゃないのよね……」
静かに顔を伏せて、美神はまた心の中へと沈んでいく。
カロン、とグラスの氷が溶ける音がした。
自分らしくないと思いバカらしいと思い、それでも美神は憂鬱な心を止められはしなかった……
−2−
「ふぁ、あ〜」
大きく口を開け、手をいっぱいに伸ばしてあくびする美神。
「なんですか令子、だらしない。もっとしゃきっとしたらどうなの? もうお昼も過ぎたと言うのに」
優雅な手つきでテーブルから紅茶のカップを口に運ぶのは美神の母、美智恵である。午後の日差し差し込む美神事務所の一室で、二人は応接用のソファに向かい合って座っていた。
美智恵は休日である今日、特に仕事も無かったのでひのめをつれて長女を訪れたのである。ひのめのほうは体力の有り余ったシロとタマモの二人に預けてある。ひのめは今頃お気に入りの「わんわ」と遊べてご機嫌であろう。
「いつもならしゃきっとしてるわよ。でも今日は眠いの。いいじゃない、休みの日なんだしさ」
ぶー、とふてくされて美神は答えた。どうも母親の前だといまだに子供に戻ってしまうようである。中学のころ母親が死んだと聞かされ育ったのが原因か、美神は母親の愛に飢えている嫌いがある。二年たった今でも会えば甘えてしまうのだ。
「それでもです。もういい年、とは言わないけれど落ち着いてもいいころよ」
カップをテーブルのソーサーに置く。ふぅ、と一息ついて美智恵は美神に向き直った。
「ね、令子……お見合いしない?」
「な、ママ!」
唐突な美智恵の言葉に美神の顔色が代わった。眠気はもちろん吹き飛んだ。テーブルに手を着き立ち上がる。ガチャリとカップが音を立てた。
「あぁ、ほらそんなに慌てないの。すぐにってわけじゃないんだから」
軽く手を振って座るように促す美智恵。美神もとりあえずは座りなおした。
「急に何よ、ビックリしたじゃない」
「だって、ねぇ……」
疲れた顔で美智恵に話す美神に、美智恵は顎に手を当て、ないしょ話をするように顔を傾けて話しかけた。
「横島クン、最近おキヌちゃんと付き合いだしたんでしょ?」
ちなみに、おキヌと横島は今日もデートだ。今頃流行の映画でも見ているころだろうか。
美智恵の台詞にピキ、と美神のこめかみに青筋が浮かんだ。
「それが、お見合いと何の関係があるの?」
美智恵は青いわねぇ、とでも言いたげな顔で答えを言い放つ。
「だって令子、あなた横島クンのこと好きだったんでしょ」
「そんなわけないでしょ!」
すぐに返ってきた美神の声を聞き、美智恵はソファに背を預け手を組むと半眼になって美神を眺めた。
「ふーん……令子あなた……その様子じゃ、まだ横島クンのこと好きなのね」
それを聞いて口をパクパクさせる美神にお構い無しにまだ言葉は続く。
「おキヌちゃんと横島クンが付き合ってからまだ一月ぐらいだもの……表面でおキヌちゃんたちを祝福してもまだ整理できてないのね」
はぁ、とため息をついて美智恵はいったん目を閉じた。
「それはそれでいいんだけど、もうあきらめ時じゃないかしら。横島クンってああいう子だけど、好きな女の子を泣かせるような子じゃないし。ほんとに、彼が令子とくっついてくれるんなら一番良かったんだけどねぇ」
目を開いて、諭すように言葉をつなげる。美神はまだ復活できない。
「GSってヤクザな商売でしょ? ただでさえ出会いは少ないのに……令子、あなたは特にあこぎな事してるからいい相手を見つけられるか心配なのよ。
結婚が一番の幸せ、なんて言うつもりもないけれども、令子は放っておくとずっと独りでいることになりそうだし……」
そうして、まだ硬直している美神に言い聞かせる。
「令子さえ良ければうちで有望そうな子とどうかしら? オカルトGメンにも結構色男は多いのよ?」
だからどうかしらと美智恵は話を終えた。
「もう、ママにはかなわないわ……」
ため息を一つついて、美神は疲れた笑顔で話しかけた。
「でもそんなお見合いおばさんみたいな真似はやめてよ。私まだ若いのよ?」
「あら、そんなこと言ってるとすぐ年取っちゃうわよ。結婚して仕事をやめろなんて言ってるわけじゃないし、最初は付き合うだけでも構わないわ」
ほほほ、と笑う美智恵はしかし歳なんて全く感じさせない姿だ。
「大丈夫よ、相手ぐらい自分で見つけるわ」
美神は視線をはずして言った。
「少なくとも恋愛に関して令子の大丈夫はあてにならないわね。ほんと、なんで横島クンを捕まえておかなかったの?
前までのあの子なら、一回抱かれれば簡単に繋ぎ止められそうだったのに……そうね、そうしてれば令子のほうももう少し素直になってたかも」
「ちょ、ちょっとママ! やめてよ!」
真っ昼間からえらいことを話しだす美智恵を慌ててとめる。夫公彦をあらゆる手段で手に入れた女は言うことが違う……自分の娘に対して言う台詞ではないだろうが。
「まったく、令子は変なとこでうぶなんだから」
「ママがおかしいのよ、この場合……」
美智恵は呆れた表情で眺めているが、今回ばかりは美神のほうが正しいだろう。
「その様子じゃお見合いなんて無理そうね……そうだわ、もしあなたにその気があるならここに電話してみなさい。とりあえず会ってみる位いいでしょ」
少し思案して、テーブルの端に置いてあったメモ帳を手に取るとさらさらと電話番号を書き記した。
「ちょっとママ!」
「いいから、受け取るだけ受け取っておきなさい」
美神の手に電話番号を書いた紙を押し付ける。ふと腕に嵌めた時計が目に入った。
「あら? もうこんな時間ね。じゃあそろそろ失礼するわ」
そういって美神の反論も聞かずに立ち上がり、扉を開けてすたすた出て行く。ひのめを受け取りに屋根裏部屋の方へ歩いていく足音が聞こえた。
『美神オーナー、大丈夫ですか?』
部屋に取り残された美神に部屋自体、人工幽霊壱号が話しかけてきた。
「うん、大丈夫よ人工幽霊壱号。ありがとう」
少し疲れた様にソファに身を預け、目元を手で隠して答える美神。
「ねぇ、人工幽霊壱号」
『なんでしょうか』
「私、そんなに危なそうに見えた?」
『……いいえ』
「うそが下手ね」
少しだけ答えの遅れた人工幽霊壱号に、美神は目元を隠したまま口元に笑みを浮かべてそう言った。
「ママも、私を心配したからあんなこと急に言い出したんだって分かってるわ。
隠してたつもりだったんだけど、やっぱりママには分かっちゃった……」
今までお見合いなんて話出たことは無かったし、あまりにも突然すぎた。あれは本題ではなくて横島クンに関する話が本当に話したかったことだったのだろう、と美神は思った。お見合いと言う強烈な話の中に混ぜ込むことで、見事に本音を探られてしまった。
「ちょっと強引だったけどね」
ふふ、と苦笑する。それほどに自分は危なげであったのか、と言う自嘲も混じっていた。
昨日の晩から続く憂鬱は晴れていない。いや、きっとそれは隠れていただけでずっと心の中にあったことだと思う。
「人工幽霊壱号、私どうしたらいいのかしら」
力ない声で問いかける。
『私には答えかねる質問です。しかし、そうですね……母親の提案に乗ってみるというのもいいのではないでしょうか』
困った様子の声で、人工幽霊壱号はそんな答えを返してきた。
「これに?」
空いているほうの手に握らされていたメモをひらひらと振る。
『はい』
「そうね……それも、いいかもね」
目元を隠していた手をはずし、美神はメモを片手に立ち上がる。そのまま電話まで歩いていき、メモを見ながらその番号を押した。
少しだけ呼び出し音が鳴って、相手はすぐに出た。
「はい、もしもし」
気障な、少しいぶかしげにした声……聞き覚えがある。
「え、あれ? 西条さん?」
「そうだが……そういう君は、もしかして令子ちゃんかい?」
電話に出たのは西条輝彦だ。確かにオカルトGメンの色男ではあるが、まさか美神も西条が電話に出るとは思っていなかった。
「そうだけど、でも、この番号は……」
混乱している美神。西条の携帯の番号は知っているが、たしかこれとは違っていたはずだ。
「あぁ、この携帯はプライベート用に持っているものの一つでね……誰からこの番号のことを?」
西条も少々混乱しているようだ。急に下手になって問いかけてきた。
「それは、ママからなんだけど……」
「……先生から?」
なんとなく、西条が脂汗をかいている様が想像できた。プライベート用と言っていたが、その用途を是非問い詰めねばなるまい。もっとも、今の美神にそんなことができる気力は残っていなかったが……ちょっと捨て鉢になってかけた電話なのに、出たのが知り合いだったのだからしょうがあるまい。
「まぁ、それはいい。それで、どうしてこの番号に電話をかけてきたんだい?」
持ち直したようでそんなことを聞いてくる西条。
美神は、事のあらましを大体話した。もちろん横島云々のことは省いて、お見合いなどのくだりだけだったが。
「なるほど……そういうことか」
話を聞いて、西条は少し思案するとうなずいた。
「多分、ママが番号を間違ったんだわ。ごめんなさい」
美神は素直に謝った。少し疲れていると言うこともあるが、西条相手だから気を許しているところもある。これが横島相手などだったら絶対に謝りはしないだろう。
「いや、この番号で間違いないよ」
そう言って、西条が微笑む気配がした。
「どうだい? 令子ちゃん。久しぶりに今夜食事にでも行かないか?」
「え?」
「もともとそのつもりで電話をかけてきたんだろ? だから、デートのお誘いさ」
洒落て言う西条。それが様になっているのがこの男である。
「でも」
「そうだな……六時ごろ迎えにいくよ」
美神の言葉をさえぎって約束を無理に取り付ける。美神のほうもそこまでされては、特に断る理由も浮かんでこないことだし受けるしかない。
「強引よ」
それでも一言文句を言う美神。
「かまわないさ。それで君とデートできるならね」
だが、なれた西条にあっさりと返される。思わず顔を赤らめて、美神は黙ってしまった。
「じゃあ、今夜六時に。楽しみにしているよ」
そう言って電話はぷつっと切れた。
受話器を耳に当てたまま、美神はしょうがないなぁと息ついた。受話器を戻し部屋を出て行く美神の足取りは、ほんの少し軽くなっていた。
冬の日は早い。事務所の時計が六時を指すころには既にあたりは暗くなっていた。
暖かい光が満ちた台所ではおキヌがエプロンを着け、ふんふんふーんと鼻歌歌いながら料理をしている。横島は椅子に腰掛け、テーブルにひじを突いてその後姿を眺めていた……まるで新婚さんだなぁとか思ったりしている。そこから裸エプロンに妄想が飛んで、今後ろから襲い掛かったらどうかというとこまで考えているのはさすが横島というところである。
休日ではあるが、横島は夕食を食べるためだけにここに訪れていた。昼のデートの延長らしい。おキヌが事務所の台所を預かっているため、外食には行かず帰ってきたのについてきたのである。美神除霊事務所の他の人材は作る気のない美神、タマモと強制的に肉料理のフルコースになるシロ。おキヌは貴重な料理番なのであるからしていたし方あるまい。それに横島もおキヌもこれはこれで幸せそうである。
そんな二人の空間となっていた台所の扉が、ガチャと音を立てて開いた。扉を開けたのは美神である。ひょっこりと顔を出しておキヌのほかに横島もいることを認めると、あらーごめんねーなどといいながら引っ込もうとした。
「あれ、美神さん? どっか出かけるんスか?」
そんな美神に横島が椅子に腰掛けたまま声をかけた。
美神は赤の派手なイブニングドレスの上に、白いファーのコートを羽織っていた。顔にも薄く化粧をしているようで、美神の美貌を良く引き立てている。薄く香ってくるのは香水だろう。完全に外出用の装いである。
ときどき、美神はこのように着飾って出かける。上客の開催するパーティーなどに顔を出すためである。GSとして一流であり続けるならば、そういう客とのつながりを大事にしなければならない。
「えーと、そう。外でちょっと食事をね」
少しだけ口ごもって、ほほほと誤魔化し笑いをしながら横島に告げる美神。
「じゃあおキヌちゃん、いっておいた通り私の分の夕食はいらないわ」
はーいというおキヌの返事を聞くと、行って来るわねーと二人に告げて美神は出て行った。
バタン、と扉の閉まる音を聞きながら横島は思案する顔つきになる。おキヌはまた夕食の支度に戻ろうとしたが、そこにぼそりと声が聞こえてきた。
「……男だな」
「男、ですか?」
おキヌが聞き返すと声の主、横島はくわっと目も見開いて言葉を続けた。
「美神さんのあの恰好、あの化粧、そしてあの浮かれた様子……! 美神さんにずっと付き従ってきた俺がいうんだから間違いない! あれは、男に会いにいく!」
そこまで言い切って、立ち上がると鼻息も荒く拳を握った。
「こーしちゃおれん! 美神さんを他の男になんかくれてやれるかー! 今すぐ装備を固めて尾行をせねば!」
今すぐにでも、と台所を出て行こうとする横島であった、が。
「……忠夫さん?」
ひどく底冷えのする声がして、固まる。油の切れたロボットのように首を苦心して回すと、顔を伏せたおキヌが見えた。表情は見えない。
「美神さんを追って、どうするんです?」
今、この部屋の温度は確実に外よりも寒い。少なくとも声を聞いている横島にとっては。
「いや、こー、ほら! 美神さんをずっと支えるためにはやっぱり相手の男の顔を確かめ……相手の、男……って許せるかー! あれは俺のもんだー!」
しどろもどろに言い訳をしていたのだが、途中で切れる。頭の中で美神が男と向かい合ってるシーンを思い浮かべたら、魂の叫びが湧き出してきたらしい。
「……忠夫さん?」
「……はっ!」
再び響いてきた底冷えのする声に正気に戻る。そう、今自分が誰と向かい合ってどういう台詞を言ったか気づいたのである……あまりにおろかな行動を。
おキヌがばっと勢い良く顔を上げた。
「堪忍やー、しかたなかったんやー! 俺の、俺の本能がいけないんだー!」
思わず頭を隠し、ひえーとおびえる横島……しかし、待っている衝撃は来ない。相手はおキヌで、美神はいないのだから当たり前である。それでも条件反射で受身を取ってしまうのは横島の普段の生活のせいだ。
少したって、横島は恐る恐る顔を上げた。その視界におキヌの顔が入る。
「むぅー……」
……怒っておられました。それはもう、かわいらしく。
口を硬く引き結んで、頬を膨らまして。怒りをたたえた目は、でも少しだけ潤んでいた。
「ご、ごめんなさい」
「なんで、謝るんですか?」
横島は思わず謝ったが、おキヌの返事はにべもない言葉だった。
「それはおキヌちゃんが怒って」
「怒ってません。なんで、私が怒る必要があるんですか」
横島の言葉は遮られ、ぷい、と横を向いて否定される。
「そりゃ俺が美神さんのことで……えーと……」
「怒ってません」
もごもごと歯切れ悪く言う言葉への返事もまた否定。おキヌが何を言いたいのか分からなくなる。
「怒ってるわけないです。忠夫さんが美神さんのことも好きだって言うのは、教えてもらいました。それを受け入れて、そんな横島さんだから、私は付き合っているんです」
「だから、怒っているわけないんです」
そういうおキヌの顔は、やっぱりどこか拗ねた顔だった。理解し納得していても、隠せない不満が見えている。
横島はふと微笑んで、でもちょっとだけ困った顔でおキヌを抱きしめた。
「ごめん、おキヌちゃん」
「今のは怒って良いんだ、俺が悪かったんだから」
こちらを見てくれないおキヌに苦笑しながら語りかける。横島には、美しい黒髪の頭だけしか見えない。
「確かに美神さんのこと好きだけど、それよりおキヌちゃんのことが好きだと思って、だからおキヌちゃんと付き合ってるんだよ? 俺は」
この、腕の中で可愛く拗ねる少女が好きだから。
「言ったからふらふらしていいってもんじゃないし、第一、好きな女の子の前でそんな様見せてるようじゃ最低だ」
それは、まさしく自分のことであるから。
「だから、ごめん」
ぎゅっと抱きしめて、横島は語る。おキヌはまだ顔を向けてくれないけれど、もぞもぞと横島の腕の中で動いていた。
「俺自分勝手だし、自分の制御できてない。だから、また同じ様なことやっておキヌちゃん困らせるかもしれないけど、こんなときは怒って良いんだ」
「でもさ、一つだけ。一つだけ忘れないで欲しい」
「俺が一番好きなのは、おキヌちゃんだよ」
笑って、横島はおキヌの黒髪にそっと口付けた。
「駄目です……」
「え?」
おキヌに否定されて、横島は凍りついた。おキヌは、やっと横島を見上げる。
その顔は、満面の笑みで。
「キスするなら、こっちにしてください」
みずみずしい唇を向けたのだ。
暖かな夕餉の香り漂う台所で、作りかけの夕食は捨て置かれ、二人はお互いの唇の味を確かめ合った。
少しずつ口付けは深さをまして、横島の手がおキヌの背を探る。二人の心が高まって……
ガチャリと扉が開いた。
「おキヌどの! 夕食はまだ、で、ござる、か……」
笑顔のまま固まるシロ。
「何やってんのよ。なんかあったの?」
後ろから室内を覗こうとするタマモ。
「し、シロちゃん!? これは、違うのよ!」
「うぉ、シロ!? いや、これは別にそーじゃなくってだな!」
台所に二人の闖入者が現れて、中の横島とおキヌは大いに慌てた。慌てすぎて、離れることさえ忘れている。
「せ、せんせー! こんなところで何をやっているのでござるか!」
プルプルと震えながらシロは叫んだ。そりゃーもー力いっぱい叫んだ。心のそこから叫んだ。
「え、何? 横島がいるの? それでどうなってるの……って、見たほうが早いわね。ちょっと、ほらどきなさいよ」
シロを押しのけてタマモが台所に入ってくる。
見えたものはなんと言うか……まだ、始まってなかっただけマシです。
「……台所で盛らないでよ、二人とも」
半眼になってタマモが告げた。シロと違い酷く冷静な分、横島たちに与える衝撃も大したものだ。
「違うんだタマモ、シロ! 信じてくれー!」
横島は必死に弁解する……その恰好で何を信じろというのか。やっと身を整えたおキヌは真っ赤になって黙り込み、横島の後ろに隠れている。
あぁ、バカップルの行く先はバカップルでしかないのか?
二人の未来に幸あれと祈ろう……そんな必要なく、すでに幸せいっぱいな気もするが。
そんなこんなで、美神除霊事務所の夜は更ける。
主である美神令子の姿を欠いたまま。
横島もおキヌも、すっかり発端となった美神のことは忘れている。
こうして、美神は誰の干渉も受けることなく西条とのデートをする次第となったのである。
−3−
「君の瞳に、乾杯」
シャンパングラスを合わせると、澄んだ音が鳴った。ゴールドのシャンパンが静かに揺れる。
「それは気取りすぎでしょ、西条さん」
「なに、デートならこれぐらいは十分ありさ」
伊達な仕草が憎らしいほど似合うのが、この西条という男である。まだ若く、例えば横島の父大樹などには及ばないが、この男はこの男で相当な伊達男であった。
ホテルのスカイレストランで二人は夕食を取っていた。窓の外には明るい月と、一面に広がる夜景を見て取れた。内装は豪華でありながら品の良いものが選ばれ、耳障りにならない程度にクラッシックなBGMがかかっている。
これだけ豪華なレストランでも二人は堂々と振る舞い、それが当たり前のように馴染んでいる。二人ともこのような場には慣れているからこそこのような振る舞いであり、これが横島やおキヌなら例え同じような豪華な服装を着てきたとて萎縮してしまっていたことだろう。
「思えば、令子ちゃんとデートをするのはこれが初めてか」
グラスを口元に寄せながら、ふと思い出したように西条がつぶやいた。
「他の子とのデート経験ならいくらでもありそうだけどね、西条さんの場合」
いたずらっぽく言う美神。プライベート用の電話とやらのことを揶揄しての言葉だろう。
「いや、それは……あはははは、まいったな」
少し焦って、西条は笑って誤魔化した。
「今はそのことは置いておいてくれたまえ」
デートなんだから、と西条は笑んで告げた。美神も少し吹き出して、そうね、と微笑んだ。
「しかし、そう。あの令子ちゃんとデートすることになるなんてなあ」
感慨深げに西条は美神に中断された言葉の続きを言う。
「君が子供だったころにはこんなこと思いもよらなかった」
「何よ、そのころは西条さんだって子供だったじゃない」
微笑んだまま美神は言葉を返した。手元のグラスを傾け空ける。ハイペースのようだが、美神にとってはむしろ遅いぐらいだ。
「そうだな、僕もあのころは子供だった。先生が倒れて、イギリスに留学を決めたのも自分の未熟さを自覚していたからだ」
苦笑して、美神のグラスに新しくシャンパンを注いでやりながら西条は語る。
「あの時は、まさかそのまま十年以上もイギリスにいることになるとは思っていなかったけどね」
西条の師匠である美神美智恵が没したので、西条は日本に変えることなくイギリスで修行を続けることになったのである。
もっとも、それは知っての通り、
「先生が生きていたなんて……全く、言えなかったというのは分かっているんだが、何度考えても損した気分だよ」
と、言うことだったのであるが。西条は力を抜いた笑顔で笑った。
「ママが生きていてくれたのはうれしかったけど、確かにそうね」
母親がいなくなってからの中学時代のことを思い出す。美神の顔にも西条と似たような表情が浮かんだ。
「でも、得したこともあるかな」
きょとんとする美神に、西条はたっぷりと気取って言った。
「十年も傍にいなかったからこそ、僕は兄ではなく男として君の傍に立てる」
なんてね、と西条は笑う。
「や、やだ。西条さんったら……」
美神は頬を赤く染めた。
今日の西条もやっぱりキザなのであるが、今この場でなら素直にかっこいいと言えるだろう。美神の心に、西条は知らないであろう十歳のころの気持ちが蘇ってきていた。
しかしその後は昔話や最近の除霊事情などの話になり、デートというよりは昔馴染みとの語り合いといった様相になる。美神は少しだけ拍子抜けするも、すばらしい食事やシャンパンに舌鼓を打ちながら楽しいときを過ごした。
食事もデザートまで終わって、それでもしばらくは話に花を咲かせていた。
心地よい雰囲気であったのは確かであるが、
「おっと、あまり長居するのもなんだな。どうせ僕はここに泊まるつもりだったんで部屋を取ってあるんだけど、そっちで話さないか」
なんて西条の言葉に乗った理由は、美神自身にも分からない。
兄のような存在だから安心していたのか、少し自暴自棄になっていたのか、あるいは期待していたのか。
西条が取ってあるというホテルの一室に向かいながら、美神は静かに自分を見つめていた。
部屋はかなり広かった。明かりのついていない暗い部屋には、窓の外から町の明かりが届いている。電灯をつけると、落ち着いた暖色系の明かりが室内を照らした。暖房をつけると、冷気が追いやられて暖かな空気が満ちる。
西条は美神から上着を預かり、それをクローゼットに入れる。自分もスーツの上着を脱ぎながら、美神にソファに座るように言った。
美神は落ち着かない仕草でソファに座る。そして、横にあるそれに視線を向けた。
実のところ、部屋に入って最初に美神の目に付いたのは部屋の大部分を占めるベッドだった。キングサイズ、二人用だ。多少の覚悟はしていたが目の前にその象徴とでも言うべきものが現れて、顔が火照る。
ベッドから顔をそらすと、今度は西条の背中が目に入る。上着を脱いでワイシャツになったその背中は、普段あまり気づかないことも気づかせる。霊剣という重い武器を用いる彼の筋肉は発達していて、広く力強いその背中に、美神は男を感じた。
結局、顔を伏せて縮こまる。いつもの自信たっぷりな彼女の姿と違って、それはひどく頼りない姿だった。
「令子ちゃん」
西条がかけた声に顔を上げると、ほら、と片手で何かを差し出していた。
「これ?」
受け取って、美神はいぶかしげな声を上げる。渡されたのは良く売っている缶ビールだ。備え付けの冷蔵庫に冷やしてあったものだろう。暖房の効いた部屋で、表面に水滴をまとわせていた。
「君はもっと高い酒の方が好みだろうけど、たまにはこういうのもいいだろ?」
そういいながら西条は美神の右隣に腰掛ける。テーブルの上に抱えていた何本ものビール缶を置くと、一本を手に取りプルタブを引いた。ぷしっと音がして、西条はうまそうにそれを飲んだ。
「ん? どうした、飲まないのかい?」
ご機嫌な顔で西条は問いかけた。
「……意外ね。西条さんって、こういうのは飲まないと思ってた」
「そんなことないさ」
そこでふと気づいたように立ち上がり、クローゼットに歩いていく。ガサゴソと自分の上着を探る。
「缶ビールにはやっぱりこれかな」
そう言って取り出したのはなんと、コンビニで売っているような袋に入ったスルメだ。ソファに戻り、袋を開けて一本取り出して噛む。片手にビールでそんなことをしている姿はひどく所帯じみていて、美神は笑った。
「そんなに笑わないでもらえるかな」
照れたように頭をかく西条がおかしくて。美神は微笑んだまま、じゃあ私も、と缶ビールのふたを開けた。先ほどまで洒落たレストランでシャンパンを開けていた二人が、今度は缶ビール片手にスルメをつまみにしている。それが、ひどくおかしかった。
「ほら、僕はオカルトGメンで働いているじゃないか」
早くも一本空けた西条は、二本目を手にしながら話し出した。
「あそこだと当たり前だがみんな公務員だから、僕も付き合いで居酒屋とかに行ってみたりしてさ。
イギリスにいたときもパブなんかには行ったりしてたんだけど、これがなかなか楽しいもんなんだ」
そう言って美神の方は見ずに、前を向いたまま微笑む。
「それから、難しい仕事が終わった後、オフィスで缶ビールや缶チューハイを飲むんだ。
明らかに安い酒なのに、なんでかどんな酒よりも美酒に感じてね。こうしてたまに缶ビールを飲むようになったんだ。」
缶を傾け咽を鳴らして飲み、美神の方に向き直る。
「ちょっとデートで飲むには情緒にかけてるけど、これはこれでいいものだと思わないかな?」
そうして笑う西条は一歩間違えればオヤジなのだけれども、美神にとってはかっこいい大人に見えた。子供のときからそう見えていたけれど、やっぱり彼は自分より大人なんだと思う。
少し恥ずかしくなって、ビールを呷った。
「どうだい、肩の力は抜けたかな?」
「……え?」
急に西条はそんなことを聞いてきた。美神は虚を突かれ、表情が抜ける。
「今日の令子ちゃんはどうも硬い。これじゃあ先生が心配するわけだよ」
そんな美神を置いてけぼりに、西条は話を続ける。
「原因は……横島クンか?」
一瞬美神は寂しげな、泣きそうな顔になり、すぐにそれを打ち消して西条を睨む。
「やっぱりそうか」
しかし、西条は美神の表情の変化を見逃さない。
「いったいあんな男のどこがいいのか……理解に苦しむな」
苦々しげな顔になって西条は吐き捨てた。先ほどまでの暖かな空気が一度に吹き飛ぶ。
「ちょ、ちょっと西条さん! 勝手に話を進めないでよ! 横島クンが今何の関係が」
「あいつは君を泣かせた」
激昂する美神の言葉を途中で遮る。西条は美神を静かに見つめた。
「涙なんて零す必要はない。令子ちゃん、君は泣いている。それが僕にはどうにも我慢ならないんだ」
傲慢で、気障な台詞だ。伊達なところがこの男の特徴だが、今はそれがどうにも鼻持ちならない。
「待って! 私は泣いてなんかいないってば!」
「いや、泣いている。あいつはバカでグズでスケベで卑怯で最低の男だと思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった」
言った直後、ぱしんと乾いた音が響いた。
西条の左頬が赤く腫れている。美神は、立ち上がり右手を振りぬいたまま西条を睨みつけていた。
「いくら西条さんだからって、そこまで言うことないじゃない! 確かに横島クンはそうかもしれないけど、あれでもいいところがいっぱいあるのよ!」
「私が泣かされた!? そんなわけない! 横島クンが私のこと泣かせるなんて、そんなことできるわけない!」
強気で怒鳴りつける美神の顔を見ずに、西条はつぶやいた。
「なるほど、重症だ」
左頬を腫らしたまま、押さえることもせずにため息をつく。
「予想外だ。まさか、こんなに横島クンのことを好きだったとはね」
その言葉に美神はまた声を張り上げようとするが、西条は見上げもせずに片手をあげて制した。
「まずは座ってくれないか。落ち着いて、もう一度話をしよう」
にこりと微笑んで、西条は缶ビールをつまんで軽く振って見せる。全く悪気のないその様に、美神も毒気を抜かれてすとんと腰を下ろした。
「まずは謝っておく。すまない、令子ちゃん。僕は君を試した。そう、君がどの程度彼のことを好きかを……いや、彼に依存しているかを、かな」
軽く頭を下げる。すぐにあげて、西条は少しだけ意地悪そうに笑った。
「私は、そんな」
「良いんだ、認めても。先生ならもっとスマートにそこまでやれたんだろうが、残念ながら僕に選べた方法はこれぐらいだった」
美智恵がとった手段も十分強引なものであったりしたのだが、西条は知る由もない。あの師にしてこの弟子ありといったところであろうか。
美神は静かに黙り西条を見つめる。
「もう……ママも西条さんも、どうしてすぐに分かっちゃうの?」
つぶやくように告げた美神の顔には、少しだけ疲れたような表情が浮かんでいた。
「やっと認めたね」
にぃっと笑う西条は、美神から視線をはずして話し出した。
「そうだな、言ったことの半分ぐらいは本気だったが……横島クンにだって彼なりに素晴らしいところがあることぐらい、僕にだって分かる」
「彼の傍にいると令子ちゃんは自然になれるんだな。必要なときに傍にいて支えていた……支えている、か」
「おキヌちゃんと付き合っている今でも、彼という存在は君を支えている」
少しだけ苦々しさは混じっていたが、それは素直な賞賛だった。言い切った西条は、テーブルから新たに缶ビールを取って飲む。そんなことを口に出した己を恥ず様に、胸につかえた苦さを飲み込む様に。
そんな西条の姿を見て、美神はくすっと笑うと話し出した。これだけ横島のことを嫌っている西条が本音を口にしたのに、もうとっくに横島クンのことが好きだと自覚してしまった自分が本音を話すのに何の不都合があるだろう。
「そうね……横島クンは、私になくてはならない人」
「いつだって傍にいて。仲間で、戦友で、大事な人」
「横島クンがいるから、私はいつでも自信を持って前を向いていられた」
「私、横島クンのこと好きよ」
そこまで聞いて、やわらかく微笑む美神の顔をちらっと横目で眺めると、西条は自然と優しい顔になって言う。
「それをあいつに言ってやったらどうだい?」
「ダメよ」
そういう美神の表情は、痛みをこらえ泣き出す寸前の子供のようだ。
「なぜ?」
美神の方を見ずに、西条は静かに問いかける。
「だって今さら横島クンのこと好きですなんて、どんな顔して言えばいいのよ。それに、私はおキヌちゃんのことも大事なの」
西条は見ていないが、顔を伏せて表情を隠す。今の気持ちを他人に悟られるなんて無様なことは出来ない。
「そう言うだろうな、とは思ったんだ」
でもな、と話は続く。
「正直、横島クンに君を預けるのは僕にとっても本意ではないんだが……今なら、まだ彼を捕まえることは可能だと思う」
そう告げる西条の声は低くて、どこか暗い響を伴っていた。
「彼はああいう男だが、本当のところ義理や人情を重んじる性質も強い。それでも正味な話、おキヌちゃんと令子ちゃんの彼との絆は同程度だと僕は思う。今は付き合っているからこそ彼の心はおキヌちゃんに傾いているが、君も告白すれば状況はいっぺんに互角に戻るはずだ。あるいはこちらが分かって動ける分、有利かもしれない」
告げる、告げる。告げられた言葉が美神の中でぐるぐると渦巻く。
考え無かったわけじゃない。確かにそういう方法も考えた。おキヌちゃんを引かせる方法。横島クンを手に入れる方法。
「僕だって協力しよう。横島クンを手に入れるために動くなんて胸糞は悪いが、君さえ幸せになれば僕はそれでいい」
それは道だ。暗いが、しかし確かにたどれる道。たとえベストではなくても、そこにはベターな未来が待っている……少なくとも、美神令子にとっては。
そう告げた西条に、美神は
「もう騙されないわ。西条さん、私がそんな方法選ぶなんて思ってないでしょ」
あっけらかんと笑って答えた。
「私を誰だと思っているの? 美神令子よ? 私は最高の未来しか選ばないわ」
自信を蘇らせた顔で謳う。
「騙してなんかいないさ。これも一つの道であることは確かだったからね」
ふっと息をついて美神の方に向き直ると、どこか安堵した表情で西条は微笑んだ。
「最高の未来に、横島クンを手に入れることは必要不可欠なんじゃないかな?」
そしてまた意地の悪い問いを告げる。
「私にとって最高な未来は、私が、私自身が選んだ先にあるわ」
「横島クンは、今でも私を支えてくれているって西条さんが言ったじゃない。横島クンは変わらないで傍にいてくれる……手に入れるかどうかなんて重要じゃない。少なくとも、今はね」
片目を瞑り、魅力的な笑顔でそう謳う。
「ありがと、西条さん」
「感謝の言葉なんていらないさ。結論を出したのは令子ちゃんだし、僕といえばその手伝いにもなっていない」
西条はちょっと苦笑して言葉を返した。美智恵は心配していたようだが、美神は母を亡くした十年で成長しているのだ。確かに母の前では成長しているように見えなくても、西条はそれを確かに知っていた。
「でも、やっぱり迷っていたことは確かだから」
そう言って、美神はまた感謝の言葉を発した。
「ま、令子ちゃんが立ち直ったならそれでいいさ」
そう言う西条の仕草は気障だ。でも、それが西条らしい。
「ついでに、もう一つ道をあげようか」
いたずらするように、何か隠した顔で西条が言った。
「どんな?」
美神はきょとん、として問い返す。全く考え付いていない様子の美神に笑いかけると、西条はあくまで軽く言葉を放つ。
「僕は君が好きだ」
「……え?」
唐突過ぎて反応できない。
「令子ちゃんの僕に対する気持ちが、いつまでもおにいちゃんって感じだからね。君の心が横島クンにだけ向いてるって言うのも気に食わない。今ここで言っておこう。僕は、君が好きだ」
「そうだな……このまま泊まっていくって言うのもいいんじゃないかな?」
顎で美神の向こうにあるベッドを指す。
「え……えぇーー!」
一瞬で美神の頬が赤く染まる。初恋の王子様にあこがれてはいても、まさか告白されるなんて思ってもみなかった。
「で、でも私は横島クンが好きで」
「なに、そんな気持ちすぐに変えて見せよう」
美神の肩を抱き寄せ、囁く。どこまでも自信に満ちた表情で、西条は笑った。
「ご、ごめんなさい!」
西条の手を振り解き、美神は慌てて立ち上がる。
「今日は本当にありがとうございました助かりましたそれじゃまた」
早口で言うと上着を手にとって駆けていく。
バタン、と音がして美神が出て行ったことを確かめると、西条は最後の缶を手に取った。
「面白いな、令子ちゃんは」
ビールはぬるくなっていて、あまりうまいとは言えなかった。それでもそれを美味そうに飲む。
「自分を大人だと思っていて、なのに子供っぽい」
「独りで立つ強さを持っているのに、独りでいることは出来ない」
「確かに成長して魅力的な女性なのに、子供のころと変わらぬまま」
「横島クン、君の逃がした獲物は大きい。僕も本格的に獲りに行こうかな?」
「ま、令子ちゃんだから獲物って言うよりは狩る方が性に合ってそうだし、これからどうなるかは分からないが……」
どこか遠くを見つめるように視線を上げて、西条は不適に笑う。独り、言葉を紡いだ。
「どちらにしても、楽しいことになるのは間違いない。だからこそ、僕は令子ちゃんが好きなんだから」
「未来に、乾杯!」
最後にそういって缶を掲げる。独りきりの部屋で、彼の目には確かに輝く未来が映っていた……
−4−
美神は、タクシーに乗ってホテルから帰宅した。タクシーが走り去ると、あたりには静けさだけが満ちる。今の時間に出歩くのは酔っ払いか幽霊ぐらいだが、その姿も見えない。
新しい建物の並ぶ中で、古めかしいつくりの美神除霊事務所だけが少し浮いて見える。見上げると、まだいくつかの部屋に明かりが付いているのが見えた。
近くに歩いていくと、玄関に明かりがともった。
「……ただいまー」
おずおずと伺うように扉を開けて、美神は帰宅の言葉を告げる。
『お帰りなさいませ、美神オーナー』
それを、落ち着いた人工幽霊壱号の声が出迎えた。先ほど明かりをつけたのも彼だろう。
『デートは、どうでしたか?』
すこし含んで、人工幽霊壱号が話しかけた。
「そうね。まぁ楽しかったわよ」
中へと歩きながら、適当に答える。視線はちょっと泳いでしまったが、悟られなかったと祈っておく。人工幽霊壱号は、そうですか、と案外あっさり引いた。
「気になる?」
あんまりあっさり引かれたので、逆に美神から聞いてしまう。詳しく問われたら答えられないような内容なのに。
『いえ』
彼の答えは簡潔だ。
『何があったのだろうと、いつもの貴女にもどられたようですから。それだけで十分です』
「……人工幽霊壱号?」
『はい、なんでしょう』
「それ、素で言ってる?」
『はい、もちろんそうですが』
何か不都合な点でもあったのでしょうか、と不安げな様子だ。
「ううん。なんでもないわ」
ただ少しだけ、そう、きっとまだ弱っていたから。
「ちょっとぐらっと来ただけ」
それだけだ。
『は、はぁ……』
人工幽霊壱号は、戸惑ってそう言うのが精一杯だった。
『あ、そういえば』
「何?」
『いえ、そろそろこちらにいらっしゃるでしょうから……』
立ち直って、そんなことを言い出す人工幽霊壱号。今度は美神が戸惑う。
そんなことを言った直後、どたどたと階段を駆け下りる音が響いてきた。
「み、美神さーん!」
足音の主は横島だ。なぜか大量の除霊用具を持っている。腹には札が紐でくくってあるし、背には大きなリュックまで背負っていた。ぱんぱんに膨れ上がったリュックの口から、霊体ボーガンや呪縛ロープの影が覗いていた。
「何? どうしたの? 今夜は予定はなかったはずだけど、急な依頼がはいったの?」
横島の剣幕に美神が目を白黒させる。
「違います、美神さん! 今やっと思い出したんです! すぐにでも美神さんを助けに……って、ありゃ?」
そこまで言って、やっと正気に戻ったようだ。
「美神さん、帰って来たんですか? そのボディーは無事っスか? 今すぐ俺が確かめてー!」
横島は言いながら飛び掛る。あれだけの重量のリュックも除霊用具も、一瞬でその場に捨て置いた。なんとも見事な技である、が……
「やめんか!」
一撃で撃墜された。
「あんたっていう奴はほんとに!」
このアホめ、アホめ、とぐりぐりと踏みにじる。
「違うんやー! 男と会いに行った美神さんがただ心配で、それだけだったのにー!」
美神の足元で、涙を流し横島がそんな言葉を言い放った。
「男と会いに行った……って、何? あんた私が西条さんとデートに行ったこと気づいてたの?」
きょとん、と足を止めた美神が言う……その言葉が、再び横島に激情を呼び起こす。
「さ、西条?! よりにもよって西条とデートしたぁぁぁ?」
横島の両の目から血涙があふれ、両手をわなわなと振るわせた。
「あ、あいつのことだからデートはホテルのレストランで気障な台詞はいて、実は部屋とってあるからそっちに行ってゆっくりしゃべらないかとかそんなこと言って、何もしないとか言っといて、実際部屋に着いたら女喰っちまうんだ!」
「そうねぇ、たしかにレストランで食事した後、部屋に誘われたわ」
なんとなく今どうして横島がこうしているのか理解した美神が、意地悪くそんな言葉を投げる。口元はかすかに微笑んでいたけれども、今の横島がそれに気づくすべはない。
「そ、それで? まさか部屋に行ったりなんかしてはいませんよね?!」
「行ったわよ」
興奮する横島に、しれっと答える。
「お゛おをぉぉあぁ……お、俺は美神さんを守ると決めていたのに、みすみす西条なんかのやろうにぃぃぃ!」
チクショー! なんだかとってもチクショー! と、壁にがんがん頭を打ち付けだした。
「落ち着きなさい横島クン、興奮のあまり怨霊みたいな声になってるわよ?」
そんな横島を見て、呆れ顔で、でもうれしそうに美神は本当のところを話してやる。
「大丈夫よ、横島クンが想像しているようなことは何もなかったから」
「ほ、本当っスか?」
すがるような瞳で見上げてくる横島に少しだけ心を揺さぶられる。それが悔しくて、美神はもう少しいじめてやろうと決めた。
「本当よ。でも、私が西条さんとくっついても何の問題もないんじゃない? あんたにはもうおキヌちゃんって言うかわいーい彼女がいるんだし」
「それはそうなんですけど、でも……! やっぱり駄目だー! そのボディーが他の野郎の、まして西条なんかのものになるなんて許せるかー! それは俺のもんだー!」
それは、本日二度目の魂の叫びだった。ついでに、本日二度目の失言だった。
「……忠夫さん?」
「……はっ!」
美神はずっと前に気づいていたのだが、横島の後ろに精一杯怖い顔したおキヌが立っている。
横島が振り向けずがたがた震えていると、おキヌが一歩歩み寄って背中から横島を抱きしめた。そのままちょっと背伸びして横島の肩の上に顔を出し、美神のほうを見つめてきた。多分本人は睨んでいるつもりだろうが、美神にしてみれば可愛いとしか感じない。
「美神さん、お帰りなさい」
そう言うおキヌの瞳は、これ私のですから手を出さないでください、と主張していて……
美神は微笑んだ。
横島とおキヌのほうに歩いていき、ぽんぽんと肩を叩く。横島の頬に口付けして、それを見て驚きつつも視線を強めたおキヌの耳元に口を寄せた。
「大丈夫よ、取らないから」
目を白黒させた横島とおキヌに柔らかに微笑んで、歩き去る。
ついでに物陰から覗いていたシロとタマモに、
「タマモ、あんまり覗いていると横島クンみたいになっちゃうわよ? シロも、ね」
そんなふうに軽く言葉をかけて笑った。
笑顔で歩く美神の足取りは軽く、自信に満ち溢れている。
私は美神令子。
世界最高のGS。
私の行く先には光さす未来だけがある。
それが当たり前。
私は私が生きたいように生きていくのだから。
私の隣には、いつでも彼がいてくれるのだから。
私の周りには、そんな私についてきてくれる仲間がいるのだから。
ここが私の場所。
GS美神令子の選んだ道。
いつでも現世利益最優先!
楽しく生きていくのが私の選んだ道よ!
あとがき
お読みいただき、本当にありがとうございます。
お久しぶりです、迷彩海月でございます。
前回投稿してから一月ちょっと間が空いてしまいましたorz
間が空いたのはちょっと忙しい時期であったのもあるのですが、この話が難産でした。
次に視点をあわせるのは美神と決めており、話の内容も大体決まっていたのですが……
書き直したり書き足したり、色々してたらこんなに時間がたってしまいました。
書いた時間が長いので、ちょっと違和感のあるつながりになってたら申し訳ありません。
何はともあれ、こうして自信を持ってとまでは行きませんが、それなりに納得できる代物が出来ました。
皆さんに楽しんでいただけたらと思います。
今回は「湯煙狂詩曲」の裏面のような話です。
美神さんが魅力的にかけていたら万々歳なのですが……どうでしょう?
やっぱり一気に書き上げる方が性にあってるっぽいです。
次はまだ考えていませんが、もう少し早く仕上げたいなぁ……
では、次回近いうちにあえると願って。
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