歴史には無限のIF=もしも、があるとよく言われる。坂本竜馬という一人の男に焦点を当てたなら、もしもその男が生まれなかったら、剣を学ばなかったら、幕府に昏倒していたなら……軽く三つ上げただけで、読者諸氏の脳裏には三種類の物語が浮かび上がるだろう。
これは、ちょっとしたIFの物語。
魂の牢獄に挑んだ悲しい魔神が、その鎖から解き放たれ、自由に世界へ羽ばたいたIFのお話。
彼が先日まで見ていた南極の夜空を、漆黒のじゅうたんに宝石をちりばめたようだと表現するなら……今彼が仰いでいる空はなんと言うべきか。
コールタールの上に一握りの金箔を塗したとしても、もう少しマシだろう。
早い話が、その位落差のある貧相な星空だった。
南極の気温の低さは空気を限界まで澄みあがらせ、星空の合唱を手助けしていた――空気をにごらせるものは一切無く、あるとすれば今時分が抱えている部下が吐き出す、放射能臭い吐息くらいか。それも、匂いだけで実害は一切無い。
対するこの街……大阪はどうだろう?
気温はむやみやたらと高く、湿度も高すぎ……だし汁の中に一時間でカビが湧いたというエピソードを聞くが、それに思わず納得してしまうような蒸し暑さだ。
空気は、濁っている。濁り過ぎている。排気ガスと人々の放つ瘴気で黒く染まった空気は、呼吸するごとに肺にコールタールを塗りつけられるような違和感を覚える。
悪魔にとって人の放つ瘴気は心地よいもののはずであったが、この町に渦巻く瘴気は、品質が低すぎて気持ちが悪い。腐りかけの豚骨で出汁をとるようなものか。
大阪の町は数ある年軍の中でもTOP3に入る空気の悪さを誇るが、今の世の中、人間の町の瘴気はどこへ行っても、こんな感じでだ。かつて悪魔が仕組んだ不況が、めぐり巡って悪魔の精神衛生に悪影響を与えていると考えると、おかしくなってくる。
おかしくなってくるが、笑える気分でなかった。
ずきりと、わき腹の傷が鈍い痛みを発する。わき腹だけではない、全身のいたるところに刻み込まれた傷口が、痛みという名の声で『このままでは危険だ』という警鐘をならし、彼――魔神アシュタロスを追い詰めていた。
(くっ……私としたことが)
南極の前線基地を襲撃され、跡形も無く破壊された挙句手傷を負わされたのは三日前のこと。その時彼は、斉天大聖――天に斉しいと呼ばれる、あの猿神の力が、決して看板倒れでない事をその身で味わった。
斉天大聖の方も深手を負っていたから、5、6年は稽古をつけることすらままならないだろう。追っ手にその姿が無い事が不幸中の幸いではあるが、何の慰めにもならない。
おかしいのは、基地の場所と自分のスケジュールが駄々漏れだったという事である。自分が基地で作業中にたまたま襲撃されたと考えるのは、偶然にしては出来すぎだった。
最近、天界に妖怪ヒャクメ一族から、最も感覚器官の多い者が神として召し上げられたと聞いたが……それを差し引いても、基地が判明するのが早すぎだし、第一召し上げられた少女は感覚器官に頼りすぎで、捜査官としての能力は半人前以下だと聞いている。
そんな奴が、基地の場所と自分のスケジュールを把握し、挙句の果てに自分の立てた全計画を調べ上げたというのか?
内通者が情報を漏らした……そう考えるのが妥当だし、思い当たる節もある。
自分が、部下に裏切られた挙句重症を負わされた。追い討ちをかけるように、自分は只今追われる身……以上の事実は、アシュタロスの精神に重く重くのしかかっていた。
(なんとかして、身を隠さなくては――)
手駒として使う魔族の創造すら始まらないうちに、両界がこちらの動きに感づいたのは予想外であった。その企みの全てが暴かれた今、彼は天界魔界双方から追われる身だ。
味方といえば、件の手駒魔族の卵三つと、ドグラマグラただ一人(一体?)。身を隠す場所にすら事欠く有様である。
とても、一億マイトを超える霊力を持つ、魔王アシュタロスがおかれるとは考えられない状況。
その窮地を脱するために彼が取ろうとする緊急処置とは――
「アシュ様! 見つかりましたぞ!」
脇に抱えていた土偶のような物体……さっきから地面ばかり見つめていたドグラが勝どきの声をあげて、己が主に視線を跳ね上げた。
「眼下の民家、庭でひざ抱えて泣いている小童です!」
「ふむ……児童虐待というやつかね」
言われて見下ろせば、確かに民家の庭先で、ひざを抱えて泣きじゃくる少年がいた……なにやら体が服装がぼろぼろで、頭の上にでっけぇたんこぶこさえていたが。
そしてその隣に横たわるのは……ピンク色の肉の塊。それを見たアシュタロスの目が、すいぃっと細く引き伸ばされた。
「ほう……殺人事件の直後とは都合がいい」
「いえ、アシュ様。あれは一応生きているようですが」
ドグラの訂正を証明するかのように、ピンク色の肉塊だったものはむっくりと起き上がり、体を引きずりながら家の中へ帰っていく……それを見たアシュタロスは一言。
「……人狼か何かか? あの男」
「霊力は感じませんでしたが……」
「しかし、これはチャンスだな」
少年が一人になった事で、今からアシュタロスが行おうとする行動への障害は、全て取り払われたのだ。
「あの小僧に――進入するぞ!」
人の体に隠れし、時を稼ぐ。
それが、大阪に来るまでに二人が話し合った答えだった。
霊力の回復を考えなければ、人の体というのはかなり上質な隠れ蓑と化す。というのも、人の纏う『霊気』の質はさまざまで、邪悪な人間ともなれば悪魔顔負けの瘴気を放つ場合があるのだ。アシュタロス程の魔族が取り付いても、突出して異常な気配としか認知されないだろう。
神魔界の上層部も気付かないであろう盲点……馬鹿馬鹿しくて誰も思いつかない種類の盲点だ。アシュタロスも追い詰められていなければ絶対やら無い方法である。第一、キャパティシイが低い肉体に乗り移ると、内包する魔力に耐え切れず、最悪肉体が爆発してしまうのだ。
それ以外にも多くの弊害があり、両世界で禁忌とされている外法である。『人と同化する事、それすなわち不幸への道』などという標語が実在し、実際魔界の最高指導者が、それを行って災厄を振りまいた事すらあった。
先ほどからドグラが街を凝視していたのは、それらの条件をクリアする人材をスキャンしていたのである。
第一の条件は、相手の年齢。最も適しているのは人間の子供だった。下手に邪悪な人間や善良な人間に進入し、気配を激変させるより、子供をじわじわのっとった方が、気配を激変させて怪しまれるよりはずっといい。
潜在能力もなかなかのものだ。アシュタロスが進入してもいきなり肉体がはじける事態は免れるであろう。
しかも、そこそこ邪な気配を漂わせている。最良の隠れ場所だった。
ぎゅんっ!
「悪いな少年」
目標が嫌な予感を感じてあたりを見回す隙すら与えず。
アシュタロスは超スピードでもって少年……横島忠夫(12)に接近し、その肉体に進入した。
ほんの僅かな白い絵の具の中に黒い絵の具を大量に混入すれば、黒になる。
この瞬間、アシュタロスは悪魔が人間の肉体に進入するとどうなるかという、生きた見本への道を歩み始める事になる。
五年後
だだだだだだだだだだっ!!!!
その女性は、人目も憚らず全力疾走していた。息がつまり、汗が筋となって肌を這い、化粧をそげ落としても、気にすることなく走り続ける。
入社したときにしつらえたミニスカートがめくりあがりそうになるのもかまわず、お気に入りのハイヒールが折れてもためらわず脱ぎ捨てて。
それ程に、背後から迫る存在は恐ろしかった。
――なんなのだ。あれは!
背後の存在が放つ声が耳朶を打つたび、女性の心は恐怖という名の劇薬に満たされる。もはやどれほど走ったか忘れ去るほど長い間、逃げ回っている為、意識も朦朧としていた。
――捕まれば、ヤられる。
そんな思考を動力源にしたからこそ、女性の限界を超えた速度と距離を疾走出来るのだ。追う側の恐ろしさが追われる側を加速させるという、皮肉な矛盾である。
胸に浮かぶは原始の恐怖。背後に迫るはその具現。
女性は、恐る恐る背後を振り返り、彼我の距離を算出しようとした。
その目に映ったのはかなり接近した――目を血走らせ、鼻息も荒い、
「おっ嬢さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
横島忠夫と――
「私と一緒にひと夏のアバンチュールをぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
アシュタロスの二人であった。
魔王の中でもクールで知的と評判だったアシュタロスさんが、横島と同じように、下心丸出しのツラをして、女性を追いかけているのである!
何故、あの色情とは無縁のアシュさまが、横島コピーと化してしまったのか。
その原因は、人と神魔族の寿命に在った。
神魔族は、その寿命ゆえに欲望という奴が非常に希薄なのだ……1000年単位の寿命を持つにもかかわらず、出産率が人間と同率というのがいい証拠。
人間独特のあのがっつくような欲望は、神魔界の最高指導者すらぶっちぎることがよくある……今の神界最高指導者、元人間なのだが。
事、横島忠夫(ってか、横島家の漢)の女性に関する欲望はただ事ではなかった。
そこに、欲情など子を作るため以上に考えた事のないアシュタロスが進入したからさあ大変。
かくして、アシュタロスは横島をのっとる暇すら与えられず、彼の欲望に汚染され、横島化してしまったのである。この人格汚染が、人間への侵入が禁忌とされる一番の理由だった。ちなみに、世界で最初に人格汚染引き起こしたのは、生粋の浪花人に面白半分で侵入した、魔界の最高指導者だったりする。
昔はあの人も、クールでイカした凄い御方だったのだが……あんなお茶目な正確になってしまったせいで部下の忠誠心は一気に離れ、今日の混沌とした情勢の火種となった。
アシュタロスにいたっては霊力も半減し、魂の牢獄からも脱出済みだ。
言うまでも無く、多くの部下はとっくの昔にこのおっさんを見限った。(爆)
朱に交われば赤くなるどころか、血みどろのクリムゾン。
神魔界から身を隠すという本懐を大気圏の彼方に産業廃棄し、横島と和解。いい女を見つけるたびに横島の体内から飛び出し、二人で共闘して追っかけまわす毎日に至ったアシュタロス。今まさに人生を謳歌するその姿を、堕ちるところまで堕ちたと見るか、魂の牢獄からの脱出に感嘆するかは、人それぞれ。
『おっ嬢さ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!! おっ待ちなっさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!』
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
変態二人とうら若き乙女の追いかけっこは、変態`sが車にはねられるまで続いたのだった。
あとがきと陳謝。
肝心のあとがきに入る前に、御汐様を初めとした関係者各位に深いお詫びを申し上げます。
全く関係ありませんが、真名守探偵事務所物語を一旦終了とさせていただきます。
理由としては……まあ、なんといいますか。二次創作と三次創作を履き違えた馬鹿が、今更己の過ちに気付いたというかなんというか。
きっかけは、友人の一言でした。どこで聞きつけたのか、私が書いた真名守探偵事務所物語を一読したその友人は、メールでこう忠告してきたのです。
そのまま載せると長くなるので端折りますが、ぶっちゃけ『お前、これは御汐様に死ぬほど失礼だ。アイデアはいいんだから書くならプロット見直して二次創作にしろ』との事。
何せ、♪にとって丸一年ぶりの創作活動です。言われた当初はどこが悪いのかわかりませんでしたが、読み返してみると……吐血しました。
下手したら、私の品性疑われるを通り越して最低人間の烙印押されるような無礼の数々……オリキャラにオリキャラあてがう時点で、もう致命的。二次創作としてはともかく、三次創作としては見苦しい事この上なし。
こんな愚作を大きな度量で受け入れてくださった御汐様には、言葉が思い浮かびません。もう、なんと言っていいのか……申し訳ありませんでした。
真名守探偵事務所物語は、プロットを組みなおした後で、二次創作として改めて投稿いたします。楽しみにしていたかたがたには、本当に申し訳ない。
さて、肝心のあとがきですが。
わかる人は『ん?』と疑問をもたれたかと思いますが、これ、実は私が以前GTYで連載していた、壊れアシュの二次創作、その改訂版です。
作品が展開予想というGTYの本分からかけ離れたという理由で連載中断していたものを、心機一転という意味を込めて、改訂してみることにしました。
GTYに投稿しない理由は、極めて個人的活わがままな理由で、投稿中断という作家として恥ずかしい真似をしでかした事と、あそこの空気にちょっとついていけなくなったのです。こんな自分勝手な男の要望を聞き入れてくださった天乃斑駒氏には本当に感謝しております。
最後に。
感想を書いてくださった方々に、自分勝手な連載中断を深くお詫びいたします。
特に御汐様に至っては、私の作品に非常に不愉快な思いをした事と思います。本当に申し訳ありませんでした。