瓢
瓢
瓢瓢
瓢
瓢
風が木立の間を通り抜けて高い音を立てる。
鬱蒼と茂る森は死んだように蒼く。又、生々しいほどに青かった。
その日、犬塚シロは父に連れられて里を出た。出生後、急速に成長し、知能も発達する人狼である彼女は、生後僅か一年あまりで人間の五歳児程度にまで成長していた。
「付いて来なさい。」突然告げた父に当惑しつつも、シロは父の後に続いた。歩く者が久しくいなかったことが伺える荒れた小道を抜け、近づくことを禁じられてきた古ぼけた薄い朱塗りの門に着いた。
父がシロから見えない所で何かをすると、ぎっ、ぎっ、と錆びた音を立てて観音開きに門が開いた。
生後間もない彼女にとって世界は自分の生まれた里だけであり。それで世界が完成していた。そんな彼女にとって門の向こうに広がる世界は異界そのものであった。
しかし生来の好奇心の強さに、父と一緒という安心も手伝って、父に手を引かれながらも辺りを見渡せる余裕も持てていた。
彼女が連れて来られたのは、彼女の生まれた里と同じように人狼が生活を営む隠れ里の一つであった。暮らし向きも彼女の里と大差なく、次第に沸き立った気持ちもおちついていった。
それからその里の長の所へ連れて行かれて、父は知らない人と話を始めてしまった。その間、彼女は色々なものを含む視線に晒されていた。
人狼の持つ超感覚が雄弁に彼女にそれを伝えていた。
しばらくそんな状態が続いた後、その場はお開きとなった。
親子二人は客人としてもてなされ、その晩は長の屋敷に逗留した。
明けて翌日。今度は案内人に付き添われて自分の里に在った門と同じような扉の前に来た。そして、父と同じ様に案内人が何かをして、門が開き、案内人に一礼して扉の中に進んだ。
中は自分の里ではなく、また別の隠れ里が在った。それからは昨日と同じであった。
そんな事が二日、三日と続いた。
それは謂わばお披露目であった。女児が生まれたならば、他の里の実力者への縁作りのため里巡りをするのは通例となっていた。
人狼の世界では武に秀でた者が重んじられ、権力と直結する場合が多い。
里で一番とも言われていたシロの父の実力を考えると、他の者の関心が高いのも頷ける話であった。
「はぁっ」
ため息が白い跡を残して闇夜へと消えていった。
シロはざわざわと心に広がる闇を感じていた。
時間は遡る。
初めの内は物珍しさもあって、気にもならなかったが、余りにも無数に纏わり付く視線と、匂いを嗅ごうとひくつかせる鼻。
中にはネットリとした色の浮いた視線も感じた。それらはシロの幼い精神をゆっくりと消耗させていった。
四つ目の里での夜。離れに通された後、父の目を盗んで衝動的に飛び出して来てしまったのだ。
我武者羅に夜の森を奔り、木々を跳ね、漸く気持ちも落ち着いた頃には辺りには墨を零した様な暗黒が在った。
闇夜も見通す人狼の目をもってさえ、手を伸ばせば前の闇に飲み込まれそうであった。
シロの父もシロが疲れていることには気付いていたが、認識は甘かったと言はざる得ない。
いつものシロならば父の目を盗むような真似をして夜の森に入るようなことはしなかったであろう。
しかし多大なストレスによってシロは夜の匂いに誘われて行ってしまった。
シロが迷い込んだのは一種の世界すらと言える所であった。
隠れ里を閉じる積層結界と、里同士を繋ぐ空間回廊との折衝で生まれた世界の捻れが、周囲の森の根源を飲み込み、
それによって、人狼の超感覚すら狂わす無限の樹海が続く世界が生まれたのである。
樹海と言っても木々という形を得て存在を確立した次元の狭間にある混沌に過ぎないため、食物連鎖など無く、絶えず存在が流動している世界である。
周りの混沌の流動の気配に触発され、シロという存在も綻びが見えはじめた。
生後それほど間もなく、確固という自己を確立していないシロは緩やかに分散していっていた。
まずシロは黙って飛び出したことへの父の叱責を心配した。
しかしその心配はいつの間にか消えていた。
次にシロは辺りの真の暗さ、蠢くような森、瘴気のような絡みつく空気に恐怖した。
しかしその恐怖もいつの間にか心にはなかった。
次にシロは左腕が落ちていることに気付いた。
しかしすぐに気にならなくなった。
次にシロは足が動かないことに気付いた。下を見ると足は無かった。
しかしすぐに気にならなくなった。
最後にシロは自分のへそを見ていることに気付いた。
目を動かせば見慣れた着物の前を肌蹴た、地面に腰までめり込んでいる頭の無い自分の体が見えた。
「っっっっっつ!!!!」
忘れていた恐怖が蘇ったが、声すら闇に飲み込まれる様に消えてしまっていた。
「うるぁっっっっっっっ!!!!」
極大の言霊をのせた声は、幼い人狼と混沌との融合を一瞬で崩壊させた。
膨大過ぎる念の籠められた声は、呪いの域までに達し、周囲の混沌の木々への擬態すら揺るがしさえした。
無詠唱の大呪は物質界にまで影響を及ぼし、再構成されたシロの体を包む着物を激しくはためかせた。
「・・・・・・・むう。」
今の声でより前を肌蹴たシロの凹凸の無い胸をしみじみと見て、誰かが唸った。
シロはパニックにはなっていなかったが、何かを考えることもできなかった。
ただ前の男に目が吸い寄せられていた。戻ったはずの声すらでなかった。
男というよりも、青年と言った方がしっくりするほど年若かった。
黒髪を、白い布を使ってターバンの様にして結い上げ、長い布をゆったりと巻きつけたような簡素な服装をしていた。
精々二枚目半といった顔立ちだが、髪を押し上げる布の下の瞳が一際異彩を放っていた。
高々17,8程度に見える外見にも拘らず、魔女の大釜を覗いている様などこまでも吸い込まれていくような不安を相手に与える瞳であった。
若々しく、好奇に輝き、又老獪でもある。黒々と渦巻く色は周囲の混沌よりなお妖しく、しかし厳冬の湖畔のように澄んでいた。
「・・・・・っつ!!あなたは!?」
ぼーっと不可思議な瞳に魅入られて、一時放心していたが、幼くとも体に根付く人狼の本能で男から飛びずさった。
本来なら助けてくれたのであろう相手にしても良い態度では無かったが、体を突き抜けた先の言霊から彼女の父と同等かそれ以上の実力者と感じたのである。
「うーん、そんな警戒せんでも。まぁちっと落ち着けや。ま〜だ動くんはしんどいやろ?」
そんなシロに苦笑を混ぜて男は言った。その体からは闘争の気配など微塵も感じることはできなかった。
「っ!これは無礼なまねを。あっ!・・そのっ・・このたびは・・・・うー・・」
男の様子に幾分体の力を抜き、多少冷静さを取り戻した。そして、命の恩人への無礼を詫びようと、難しい言葉を捜すが、生まれて間もない彼女に使いこなせるはずも無く、
容易く言葉につまった。
「んぅー。ええ、ええ、気にせんでも。それよりっと・・・。」
シロの様子を気にした風もなく滑るようにシロのまで進んできた。
「えっ!・・あっ・・」
気付く間もなく目と鼻の先に現れた男に驚愕し、後ろに下がろうとしたが、一度緊張を解された体は弛緩したまま反応せず、無様に倒れそうになった。
「ほっと」
次の瞬間には、更に体の弛緩を促すような淡い匂いに包まれていた。
目蓋が重くなり、意識を保っていられなくなったが、無意識の内に鼻を引く付かせて、その甘美な匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「寝てもーたか。・・・・しかし人狼の児か・・・」
自分の肩口に顔を埋め、意識を失ったシロを見て、男は幾分目を細めた。
虚空を見詰め何かを考えながら、立て膝を解き、男はシロを抱え上げた。
シロを腕の中に抱え、滑るように蠢く闇に歩きだした。
昏き瘴気を含むような空気も、蠢動する木々もまるで男を避けるようであった。
「この児は何の導きなのであろうか。」
男は呟くように洩らした。
「・・・・・・・・・・・・やはり・・・そうなのか」
分かり切った疑問を聞いたかの様に首をふった。
「・・・・・光源氏ということか。」
祭りの準備 ―完―
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