――暗い、部屋だった。
唯一の光源である立て付けの悪い窓は、ぼろきれ同然のカーテンで閉め切られ、それを透して僅かに漏れてきた麗らかな日差しが、灯りも無く、昼間だと言うのに薄暗いその部屋の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。
部屋の片隅に転がる、黒い影があった。それは時折僅かに身じろぎをしたり、吐息とも呟きとも知れぬものを吐き出したりしていたが、不意に木製の…頼りなげなドアの外から微かに聞こえてきたカン、カンという音に、びくりと一つ身を震わせると、にゅっとその上部に楕円形の物が…いや、頭部が出現した。
今まで体操座りで縮こまっていたらしいその人物は――どうやら男性の様だったが――スチール製の階段を上る靴音らしきそれに、じっと耳を傾けたまま、瘧のように震えている。その目は血走り、しかも薄闇の中にあって爛々と輝き、ドアを、或いは部屋中を忙しく行き来する。
正しく追い詰められた獣の体で、彼は尚も何事かを呟き、枯れ枝のような指を己の二の腕へと食い込ませ、身を縮こまらせた。彼の心中には、今、限りなき悲嘆と煩悶が荒れ狂っているのだった。
何故だ。どうしてこんな事に…。もう少しで上手くいく筈だったのだ。それが、何故こんな事に…。自分は悪くない。そうだ。世間が悪いのだ。突出した何物かを認めず、自分を迫害する愚民どもめ。
誰に聞かせるでもない言い訳にもならないような理屈を心中で繰り返しながら、落ち着かない様子で辺りを見回す彼の目に、ふと傍らの“彼女”が映った。
途端、その眼が緩み、潤んだ。慈しみすら感じさせる双眸に映し出された彼女は、最早ピクリとも動かず、ただ見開いた目をシミだらけの天井へと向けている。手を伸ばして、そっと触れたその頬は、既に硬く、ひんやりと冷たかった。
自分の可愛い彼女。自分の全てを費やした彼女が、こんな風になったのも、全ては自分を認めぬ世間のせいだ。そう思うと、怯えが大勢を占めていたその胸の中で、それらを飲み込むどす黒い炎が燃え盛るのを、彼は感じた。
そして近付いてきた靴音が自室の前で止まり、扉がノックされるのを聞いた時、彼はぬう、っとその場で立ち上がった。そうしてみると、細身ではあるがかなりの長身である事が分かるその人物は、台所へ向かい、そこで何事かを終えると、すぐさま玄関のほうへと取って返す。その手には、鋭く輝く包丁が握られていた。
彼の追い詰められた脳内には、最早正常の神経では理解出来ない、狂った思考が渦巻いていた。
復讐だ。これは自分から彼女を奪った連中に、その重みを思い知らせてやるための儀式なのだ。
剣呑な…いや、むしろ狂熱を帯びた眼で呟きつつ、彼は片手でドアを開け、そしてもう片方の手で包丁を大きく振り被った。叫ぶ。
「覚悟ぉお―――――――っ!!!」
ぐき
奇妙な音が響いて、暫し固まった彼は、やがてうつ伏せにばったりと倒れた。すると目の前に高級そうな革の靴が見え、彼は唐突に、それまで憤怒にとって代わられていた感情達が頭をもたげてくるのを覚える。
恐怖に駆られて、彼は叫んだ。
「ち、違うんじゃ、これは違うんじゃよっ!ちょっとしたお茶目なご挨拶とでも言うか…あ、ホレ、この包丁だって実は玩具なんじゃから。ほーら手に刺しても痛くな…ってんぎゃ―っ!!血が、血が出とるっ、ああっ、勿体無い…っていや、だからこれは………これは陰謀じゃよ―――――――っっ!!!!」
「……何をやってらっしゃるんですか、ドクター・カオス…?」
顔中から体液を垂れ流しつつ喚く老人を見下ろしながら、ピエトロ・ド・ブラドーは困り顔で呟いた。
旅路にて 第2話
「いや――全く、助かったぞ、ピート。電気もガスも水道も止められた挙句に、今日中に利息だけでも全額返済しろなどと迫って来おって、弱りきっとった所だったんじゃよ。電気が止められたもんじゃから、マリアも動けんようになるし、ワシ一人じゃとなーんも出来んからのぉ。ホレ、マリアからも礼を言うとけ!」
「イエス・ピートさん・どうも・有り難うございました」
「あ、ああ、うん、どう致しまして…」
豪快に出前の牛丼をかっ込みつつ(ちなみに7杯目)、大声で喋り散らかすカオスと、充電を終えて無事再起動を果たしたマリアの言葉を聞きながら、ピートは薄っぺらな座布団の上で、薄っぺらな左右の壁に眼をやって、思いっきりお隣に筒抜けであろうことを思い、嘆息しつつ座りなおした。彼には特別後ろめたい事も無いはずなのだが、やはり少々恥ずかしい。
さて、そうしてピートが微妙な居心地の悪さを堪能している間に、ようやく食事を終えたカオスは、膨れた腹を撫で擦りながら爪楊枝を咥え。そしてマリアは、そんな彼にそっとお茶を差し出している。そんな様子を見たピートはとりあえず気を取り直すと、懐にそっと手を差し込んだ。
カチリ
ヴン、と耳元で羽虫が飛ぶような音がして、室内の空気がそっくり入れ替わったような、奇妙な感覚があたりに満ちる。不快と言えるそれに僅かに顔を顰めるカオスの横で、マリアは冷静に状況の報告に勉めた。
「第三種・通常結界・展開されました。室外との・物理的・及び霊的通信・途絶」
「簡易結界発生装置、か。どうした、密談か?」
「ドクター」
居住まいを正し、ピートが切り出した。
「横島さんのことを」
「断る」
「ドクター!」
にべも無く言い放って立ち上がり、台所へと向かおうとするカオスに、彼もまた立ち上がり、叫んだ。
「こちらの調べは既に付いてるんですよ!貴方が屋外で行い、結果として近隣の建物に甚大な損害を与え、高利貸しにまで借金をして弁済に充てなきゃならなくなったあの実験の資金が横島さんから出てたって事は!!」
「余計な事まで言わんでいい!!」
思わず向き直ってツッコんでしまったカオスは、慌ててごほん、と一つ咳払いをすると、真剣な顔に戻る。
「ともかく、アヤツとは契約があるからな。お主に教えられることは、悪いが何も無い」
「そんな!」
尚も食い下がろうとするピートを無視して、彼は続けた。
「大体おぬし、何時までも男の尻ばっかり追っかけとらんで、少しは女のほうにも興味を示したらどうじゃ?全く、無駄に年ばかり食って、女の一つも知らんようじゃ、何時まで経ってもあの駄目オヤジに馬鹿にされ続けるぞ。妙な意地ばかり張って、結局あの呪い屋の嬢ちゃんにも手を付けんかったし…ひょっとしてアレか、お前そっちのケが…」
「ドクター…今回ボクが肩代わりした分、改めてこちらから請求して差し上げましょうか…?」
「して、何が聞きたいんじゃ?」
真顔であっさりと前言を翻したカオスは、しかし半眼のピートを前にして、すぐさま渋面を作る。
「とは言え、実際今の小僧の居場所なんぞワシは知らんし、目的地も分からん。お主に答えてやれることは少ないと思うがの」
「まあ、それについてはこちらも最初から期待していません。僕が教えてもらいたいのは、彼が旅に出たその“理由”です」
「“理由”か…」
座りなおしつつ、真っ直ぐにこちらを射る青い眼から視線を逸らすように虚空に向けたカオスは、暫し黙した。ピートもまたそれに倣い、何も言わず沈黙が辺りを支配する。
…ややあって、カオスがふと、口を開いた。
「隠密裏に各地を放浪して、連中の…確か藤堂じゃったか?奴の一派の残党どもの眼を引き付け、おぬしをこちらで動き易くする…。その理由だけでは、不満じゃったのか?」
逆に問うてきた彼に、しかしピートは怒るでもなく、あくまで真面目に返す。
「それはもう聞きました。僕が知りたかったのは、そんな表向きの理由じゃないんです」
「本当の理由…か。もしそんな物があったとして、何故ワシがそれを知っていると…小僧から聞かされとると思うんじゃ?」
「横島さんが教えるとは、正直思っていません。ただ…」
「ただ?」
迷いながら、ピートは言葉を紡ぐ。初めて俯きながら。
「…ただ、例え友達だとは言っても…種族の壁なんて越えられると思っても…きっとやっぱり、“人間”の貴方の方が、彼の気持ちを理解できるはずだから…」
お互い言葉が見つからずに、再びの沈黙。それを破ったのは、
コトリ
俯くピートの前、ちゃぶ台の上に、湯気立つ緑茶の注がれた湯呑みが置かれる音だった。
そちらに目を向けると、無機質なマリアの瞳がこちらをじっと見つめている。彼女はお盆を片手で胸に抱えるようにしながら、淡々と言った。
「粗茶・ですが」
その台詞に…あくまで平板な筈のその言葉に、何故か慈しみすら感じられて…ピートは、我知らず微笑んでいた。
「ああ、有り難う、マリア」
そして、そんな二人をカオスは、面白そうに眺めているのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
目を開ければ見知った天井があるというのは極々当たり前の事であり、その逆をしてスタンダード足らしめるのは、某新世紀アニメぐらいの物であるのだが、この場合の彼女にとっては実に驚くべき事であった。なぜなら、彼女の記憶は、自分を襲った悪夢の終りと、どうにもつながらない現状を認識せざるを得なかったからである。
(えっと…いつものあの場所に、ペンダント忘れてきちゃったもんだから、探しに行ったら、見慣れた道のはずなのに何だか変な霧に捲かれて、んで気が付いたらよく分かんない狼モドキみたいのに追われて、捕まりそうになった所で、変なお爺さんがやって来て助けて?くれて…そんでいきなりナンパしてきて…えっと…)
グルグルと脳内を駆け巡る記憶。それらを必死で整理して…彼女はポツリ、と呟いた。
「……夢?」
「夢ではない」
聞き慣れた声の方を向けば、枕元に厳しい岩のような顔があった。頭頂部からは、二本の角が突き出している。
「お父さん?」
「如何にも」
答えなくても良いのだけれど。そう思いながらケイが身を起こすと、身体も、頭も妙にスッキリとして爽やかな気分である事に気が付いた。寝起きの悪い彼女にしては珍しい。
不思議に思っていると、正座したままの父が問い掛けてくる。
「気分はどうだ」
「あ、うん、平気。むしろ何か良い感じ。」
「そうか」
少しだけ安堵を声に滲ませながらそれだけ言うと、父は腰を上げ、襖に手をかけた。それを見て、ケイは慌てて呼び止める。
「あ、あの、お父さん」
「何だ」
肩越しに振り返った父に、問う。
「あの…夢じゃない、んだよね」
「ああ」
何が、とは言わなくともお互いに理解は出来ている。
じゃあ、と続けて、彼女は居住まいを正し、正座した。そしてそのまま、父に向かって頭を下げる。
「心配かけて、ごめんなさい」
「……うむ」
微かに表情が緩み、厳しい顔つきがどこか愛嬌のあるものに変わった。
「あまり、危ない事はするな。今は、特にな」
「はい」
顔を上げ、お互いに少し照れたような表情を浮かべる。と、ケイはそこで気付いた。そう言えば…。
「ね、お父さん。夢じゃ無かったって事はさ、あたしをここまで運んできてくれたのって…ひょっとしてあのお爺ちゃん?」
その問いに、父は何となく困ったような顔になった。
「ああ、そうだが…どうかしたか?」
「そりゃあ勿論、助けてもらったお礼を言いに行かないと!」
元気よく言う娘に、父は知らず微かに溜め息をつく。しかし娘は気付かないまま、彼に尋ねた。
「ね、何処にいるの、お父さん知ってるんでしょ?」
「知っている」
「だったら」
「知ってはいるが」
一拍を置いて今度こそ、盛大に息を吐き出し、父は続けた。
「会わない方が、良いかも知れない」
夕時の村の中。
「やあ、そこのスッウィ〜〜〜〜〜トなお嬢さん、どう、これからワシと二人で目くるめく夜を過ごすべく、ちょいとそこらの茂みにしけ込んで…もとい、一緒に綺麗な花でも探しに行きませんか?きっと貴女にぴったりの可憐で香り高い花が見つかりますよ。と言うかむしろ、お願いしますんで是非ともっ!」
「やぁ〜ん、もう、積極的なお爺ちゃんねえ。でもあたし、そう言うの嫌いじゃないわよ、クスッ」
「マ、マジっすか!?ワシのナンパがこんなに簡単に成功するなんて…ハッ、まさかこれは…つ、美人局?い、いやしかし、それにしてもこんな機会は滅多と無いっ!そして何でも良いからとにかくやってしまえと叫ぶ自分の心が憎いっ!でも行っちゃえ!!」
「あ〜〜、あの…」
戸惑いつつも声をかけるが、全く聞いちゃいない。何となく予想はしていたが、改めて目の当たりにすると、予想以上に意気を削がれる。何しろ眼前で展開されているのは、ツルッパゲにサングラスのファンキーなジジィが、明らかに獣のものと分かる耳と尻尾を備えた美女をナンパしている図。しかも結構上手くいっているらしい。どうした物か。何となくこのまま帰ってしまっても良いような気分になってきたケイに、背後から父の声が聞こえた。
「相変わらずだな、あの人は」
振り返れば、実に珍しい、父の苦笑している姿が目に入る。
常に生真面目で、誰に対しても――態とではなかろうが――威圧感を持って接する彼のそんな表情を、ケイは見たことが無かった。と…
「おおっ、君は!」
「へ?」
不意の歓声に視線を前方に戻せば、いつの間にか目の前まで近付いてきた老人の姿があった。彼はそのままこちらの手を握りしめると、
「話し掛けたら急に倒れるもんじゃからビックリしてな、とりあえずこの里で介抱してもらおうとおぶって来たんじゃが…ああいや、別にドサクサに変な所を触ったり等はしとらんよ、本当に、うん。まあともかく、まさかこの里のもんじゃったとはなあ。しかもまあよりにもよってこの信濃の娘とはなあ。養子にして光源氏計画か?中々分かっとるじゃないか、お前も。ふふふふ」
「はあ」
完全に悪代官の様相で扇子に口元を隠しながら下種な笑いを浮かべる彼に、信濃――ちなみに父の名前である――は、生返事で返す。おそらく自分と似たような心境なのだろうと思いながら、彼女は本来の目的を思い出し、とりあえずそれを果たそうとする。何よーもう、と間延び気味の抗議の声を上げて、先程の美女が去っていくのも見つめつつ。
「あ、あの、どうも有り難うございました。助けていただいて」
「ああ、いやいや、可愛いお嬢さんが困っておるのを見れば、お助けするのが紳士の勉めという奴じゃよ。礼には及ばん…と、そうそう」
そこまで行ってから、老人はふと何かに気付いたように、自らの袖に手を突っ込み、暫しガサゴソと探っていたが、やおら手を出すと、そこには見覚えのある、銀と赤の輝きが乗っていた。
「あっ、それ…あたしの…!」
それを聞くと、彼はやはりそうか、と呟いた。
「あんな所に落ちているにしては妙な代物だと思っとったんじゃが…拾ってきて正解じゃったな」
言いながら、老人はそのペンダントを、彼女にそっと手渡す。
「あ、有り難うございます……」
「そうまで感謝されると、少々こっちも困るんじゃが…」
涙すら浮かべて、それを胸にかき抱くケイに、流石に少々面食らう老人に、信濃が言う。
「アレは、ケイが持っておった二つだけの物の内の一つなのです」
「二つだけ?というか、ケイって…」
「まだ紹介しておりませなんだか。娘の名前はケイと言いましてな、実は森に捨てられておったのを私が拾いまして、育てておるのですが…」
「………」
「で、その時にこの娘が握りしめておったのがこのペンダントで、唯一覚えておったのが自分の名前のみと言う有様だったので…左様、もう5年ばかり前になりますかな」
少し遠い目をする信濃を置いて、彼はケイに向き直ると、一つ頭を下げた。
「いや、スマンな。少々いらぬ事を言った様じゃ。悪かった」
「あ、いえそんな。私、別に気にしてませんから…」
慌てて手を振って、老人に頭を上げるよう言ってから、彼女はふと、疑問を口にした。
「あ、あの、所で、気のせいか、何だかさっき私の名前に何か言いた気だったような気がしたんですけど…」
「ん?ああ、アレか。何、昔の知り合いで偶々同じ名前の奴がおってな、それを思い出したというだけのことじゃよ。まあ、奇遇という奴かな」
「ああ、そうなんですか…」
なあんだ、という風に手を打ち合わせるケイを見て、大分打ち解けてきた事を悟った信濃は、改めて彼女に老人を…横島忠夫を紹介しようとして、ふと思い出したようにこんな事を言ってきた。
「ああ、そう言えば横島さん、実は奇遇といえばもう一つ奇遇な事がありまして」
「あん?」
怪訝そうに眉を顰めた彼に、開きかけた信濃の口は、しかしその前に、横合からの声に遮られた。
「ほたる―――――――!!」
「!!!」
思わず反応したのは、無理も無い事だった。それは彼が、7年前に亡くした娘の名前。だが、振り向いた先にあったのは、狸のものらしい耳と、可愛らしい尻尾をぴょこぴょこと動かしながら走ってくる5歳ぐらいの男の子と、そちらに向かって笑顔を浮かべたケイの姿だった。
「もう、マー坊ったら。いつも言ってるでしょ、あたしの名前は蛍、ケーイッ。ほたるじゃないの、分かった?」
ぐしぐし、と男の子の髪を掻き撫でながら笑う彼女の姿は、それを照らす夕映えよりなお強く光を放っているようにも見えた。
<続く>
あとがき
えーっと、構成間違えました。新羅です。
えー、まあそう言う訳でですね、書いてみたらどうも前・中・後編では無理だったと。で、先に書いたほうもとりあえず「1話」に直しておきました。
やれやれです。俺が。俺のアホ。死ね。
まーそんな事はともかく、これからはレス返しは、次の話の末尾でやろうと思います。ようやくそっちのが良い事に気付きましたんで。
えーっと、何かあとがきと言うより連絡事項みたいですけど、以上で終りです。
ともかく、読んでいただければこれに勝る幸いはありませんので宜しくお願いします。