おもしろや 今年の春も 旅の空
――芭蕉
…東北の、とある県に、一つの山があった。
標高も、産物も、これと言って特別な物とて無く、強いて言えば一部でその山に
流れる清流が話題となるぐらいだったその山は、しかしある時を境に、それ自体で
はなく、その麓に抱えた森によって、その名を広く知られる事となった。
――その森は、人の世からは“妖の森”と呼ばれた。
月光は冴え冴えとして、枝葉の合間から地面へと一直線に貫き通っていた。
未だ緑萌え初めたばかりの木々に、黒々と晴れ上がったビロードの如き夜空の中ほどにかかった月が、優しく光を投げかけている。
風も涼やかな春の宵であった。
――だと言うのに。
早春の恵みも眩しいはずの森の中。常ならばそこかしこにひっそりと感じられるはずの、生命の息吹は全く影を潜めている。
その代わりに、何やら従容として、しかも漠たる闇の中に、それよりも小暗い、得体の知れないような物が渦巻いているような…そんな気配すらした。
訳も無く不安を誘うような静けさが張り詰めている森の中に、その――言わば「瘴気」の如き物は満ち満ちて、また一つ所を中心に、辺りへと広がっているのだった。
獣道とすら呼べぬような藪の中を進んだ先に、天然のホールとも言うべき一角が有った。半径にして4メートルばかり。その空間からは、何故か草も木も退き、ぽっかりと空間が開けていて、月すらも望める。
そして、瘴気は確かにそこを中心にしていた。
その円の中心に、立っている者があった。白い僧衣に、これまた白い網代笠。胸の辺りまである木杖の茶が、彩りと見えなくも無い。一見して、行脚の僧侶のようにも見えるが、黒衣ではないし、手に持った物も錫杖ではない。詰まる所一言で評すれば、「妙な格好」と言う事になる。
それはともかく、尚も渦を巻く黒い気配は、より一層強くなってきたような気がする。
だが…確かにその人物を中心にした気配は、しかしその中心部にあっては、全く無風の如しであった。
即ち、瘴気はその白い影より発せられるのではなく、それを包囲していた。
そして、その事に気付いていないわけでも無かろうに、その人物は全く悠然として動こうともしないのだ。
沈黙が耳に痛いほど張り詰めたその場で、彼を包囲する木々の合間の闇に、時折月光を受けて輝く物が有った。それらは――研ぎ澄まされた鋼の輝きは、八方からある一点へと、今にも殺到しそうな緊張を孕んでいる。
風だけが時折僅かに木を、草を揺らして、それが収まればまたその空間は恐ろしい沈黙に支配される。そんな事が何度繰り返されたか…
ふと、白い影が動いた。ふらり、と泳ぎだすような動きで前方に進み――その色と相まって、まるで霧靄の一片の様だったが――とにかく、それと同時に、一際厚い雲が月に掛かり、闇の帳が辺りに下りる。
墨のような闇の中で、一瞬間だけ青白い光が瞬いた。
雲が去ると、森には光とともに気配が満ちていた。生命の気配だ。
草木の、虫たちの、大小様々の動物達の、ひっそりと騒がしい夜が始まっていた。
凍りついたようだったのが、再び動き始めたその森の隅で、先程まで佇んでいた一個の白い影は、いつの間にか八つの黒い影へと変じていた。
凝として動かないそれらは、鋭い鋼を振り上げ、或いは振り下ろしたポーズのままで、動かない。指の一本たりとも、だ。いや…
その者たちは動かなかったが、彼らの地面に落とした影の中で蠢く物があった。それらは徐々に徐々に広がり、草に、地に、染み込んで、尚も広がってゆく。
金属臭が立篭め、月光の下に出て尚も流れ続けるそれらは、赤黒い液体であった。
白い影は、もう何処にも見えなかった。
旅路にて 第1話
(助けて!助けて!誰か!)
胸中で必死に叫びながら、ケイは必死で走っていた。
彼女が実際に声にしなかったのは、ただ単にそんな余裕が無かったと言うだけの事だ。肉体的にも、精神的にも。
目的地が有る訳ではなかった。いや、元は有ったのだが、今自分がいる場所すら分らないのでは、最早そこへ向かうことなど不可能だ。だから、走るしかないのだ。背後に迫る恐怖から少しでも遠ざかる為に。
足元の石が、木の根が。或いは顔を打ち、手足を切りつける藪や木の枝が行く手を阻むが、それらに気を向ける余裕すらない。只当たるを幸いに躓き、掻き分け、引き千切って進むだけだ。お気に入りだった服も、肩口で切り揃えてある自慢の黒髪も、最早見る影も無くなっているだろうことが、はっきりと分った。
走る、走る、走る。もうどれだけ走っているのか。時間も、距離もだ。
悲鳴と泣き言だけではなく、そんなどうでもいい疑問までも酸素を求め続ける白く、霞掛かった脳裏に浮かんでくる。
(どうだって良いじゃない、そんなの!)
そう、どうだって良いのだ、そんな事は。そんな事正確に把握できるほど落ち着いた状態ではなかったし、そもそももう既に限界が近い…否、既に限界など超えている事はとっくに分っているのだ。最早只気力のみで走っているのだから、余計な事を考えている暇など無い。
それに、少なくとも一つだけははっきりと分っている事があるのだから。
それは即ち自分は逃げ切れない、と言う事だ。
奴等のはっきりとした正体については、里でも今もって謎であるが、とにかく人とは基本性能からして違う事は明らかだし、どうもここら周辺は彼らのテリトリーに引っかかっている様子だ。ハンデが大きすぎる。
それにも関わらず、彼女が逃げ続けていられるのは、単に彼らが自分を捕まえようとしてこないから、と言うだけの理由による物だ。追い詰めた獲物を嬲り者にして楽しんでいるのだ。
自分は弄ばれている。その事を…今まで敢えて思考の埒外に追いやってきた事を自覚した彼女の胸に湧き上がったのは、怒りでも悔しさでもなく、只純然たる恐怖と、訳の分らない哀しさだった。
(助けて、誰か助けてよう)
迸りかけた悲鳴は、彼女のなけなしの気力によって、結果的に迸りはしなかった為、その身を包む震えとなって、その足を縺れさせた。
「あっ」
浮遊感と共に、周りの風景がことごとく尾を引いて自分の周りを旋回した。
気付けば、全身を襲う痛みと倦怠感と共に、頬に冷たい土の感触を感じている。必死に身を起こそうとするが、思うに任せず這いずる事しか出来ない。気ばかりが焦る。と。
ぺき
直ぐ後ろでした物音に振り返ってしまったケイが見たのは、地に落ちた小枝を踏み折った獣の足だった。知りたくもない事を知るために、それを上に辿れば、巨大で凶悪な獣の姿がある。
体のバランスとしては人に近い“それ”は、しかし3メートルを越す巨躯と、鉤爪を備えた手足、何より犬科の獣に似たその容貌が、そうではないことを明らかにしていた。
元は全身を覆っていたであろう薄茶の体毛は疎らに半ば抜け落ち、不気味に白い表皮が覗いている。更にその下を通る血管が青黒く浮き出し、時折脈動する様も。
ハッ、ハァ、と興奮のためか息を荒げるその口元から、白っぽい唾液と共に唸るようなくぐもった声が聞こえた。
「ヅ ガ … マ゛エ゛ダ ァ゛」
赤く光る一つ目がきゅーっ、と細まり、耳まで裂けた口角がつりあがって、醜悪な笑みを形作った。
間近で改めて見た“それ”に、暫し凍りついていたケイは、ズン、と重い音と共にそれが一歩をこちらに踏み出してきたのを見て、我に返った。見れば、その背後にも、幾つかの赤い光が見える…
「い…イヤぁぁあっ!!」
悲鳴をあげ、必死に後退る。無論、最早どうにもならない事など分っていたが、眼前に迫った、明確な形ある「死」から逃れようとする彼女の本能は、少しでもそれらから遠ざかろうとにじり退り…
どん、とその背中に当たった物に、彼女は再び凍りついた。その感触は明らかに、木等ではなく、生物の…
(そんな…)
振り向く事すら出来ずに、絶望と諦観の中に沈み込みそうになった彼女は、しかしふと、眼前の獣たちがこちらを不信気に見ているのに気が付いた。いや、自分ではない。獣たちは明らかに彼女の背後に眼をやっている。
(……?)
恐る恐る、目線を頭ごと上に上げれば、背後に、白い姿と黒い顔。
いや、顔が黒い訳ではなく、被っている傘の影によって潰れているだけだったようだが。どちらにしろ、その服等は、どうにもやたら時代掛かった…有り体に言えば、極度に古臭い格好であった。
余りにも唐突に現れたその姿に、現実感を感じられなかったケイは、従ってそれに助けを求めるなぞと言うことは思い浮かびもしなかった。尤も、彼女が正気であったとしても、獣たちと比べれば枯れ枝の如きその姿を見て頼みとしたかは疑問であるが。
ともかく、彼女が呆然とする間に白装束は、ふらりと質量を感じさせない動きで、獣たちの前へと進み出た。彼女は後で思い返して気付いたのだが、どうにもこのときその白装束は彼女の直ぐ横を通ったのに、ついぞ何の音も立てなかったという。
はっと気付いた彼女が警告を発するより早く、大音声が響いた。
「ナ゛ニ゛モ゛ノ゛ダ 、ギ ザ マ゛ァ゛!!」
「ワ゛レ゛ラ゛ノ゛ガ リ゛ヲ゛ジ ャ゛マ゛ズ ル゛ギ ガ !?」
嘲罵の混じった怒声が吹き付けるが、白装束は全く怯えた様子もなく、只一言、しゃがれた、深みのある、しかし酷く無感動な声で淡々と呟く。
「狗が、吠えるな」
彼女はその声によって、初めてその人物が老人である事に気がついた。
そして一瞬の沈黙があって。
怒りを込めた咆哮と共に、四匹の獣が哀れな老人に飛びかかる様を、彼女はまるでスローモーションのように眺めていた。一瞬後には、バラバラに食い千切られ、引き裂かれる老人の姿が見えるだろうに、目を逸らす事も閉じる事も出来ない。
そして、獣達の首は、胴から離れて宙を舞った。
「………え?」
間の抜けた声を上げる彼女の目の前で、四つの巨体はその場に倒れて重なり、憤怒の形相を浮かべたままの首は、それぞれ明後日の方向へと飛んで、藪の中に消えた。青緑の血飛沫が、バシャバシャと木に、草に、地に降りかかる。
そしてそれらの死体は、見る間に異様な音と煙を上げながら溶け崩れていった。
(助かった…の?)
余りにも理解を超えた事態に喜びすらも湧かず、只呆然としていた彼女は、いつの間にか件の老人が、自分の眼前に佇んでいる事に気付き、ともかくも礼を言おうと慌てて向き直ろうとして…先程の老人の冷徹な声が心中に反響するのを聞いて、はたと動きを止めた。
そうだ。確かに結果的にはこの老人に助けてもらったが、これが自分の味方であるという保証などどこにも無いのだ。むしろ、先程の酷薄な言動と、その凄まじい腕を見る限り、あの獣どもより余程恐ろしいモノである可能性も高い。もし、そうだったなら、私は…。
一度過ぎ去ったはずの恐れが、それまでにも倍した勢いで身を押し包むのを、ケイは感じる。恐い。顔が上げられない。老人が、じいっとこちらの顔を見つめているのを感じながら、彼女は只目線だけを俯かせて、今にも叫びだしそうな心を押さえつけていた。
脳裏に、犯される自分、切り裂かれる自分、縊り殺される自分の姿が、浮かんでは消えていく。只見つめられているこの時間が、彼女にとっては無間の責め苦にも等しい凄まじい恐怖であった。
(も…もう…ダメ…)
度重なる生命の危機に、ケイの神経の糸は、今にも千切れようとしていた。
と、その時。
唐突にしゃがみこんだ老人が、彼女の手をとった!
心臓が勢い良く跳ね、思わず目線を上げた彼女の眼前に、皺深い老人の顔があった。笠を片手で押し上げたその顔には、何故かサングラスが掛かって、その目は見えない。僧服姿にサングラスと言うのは、如何にも不似合いで間抜けな気もしたが、彼女にはこの場合それを笑う余裕も無く、只血の気の引いた顔で、皺の中に埋もれた口が開いて、そこから発せられる台詞を、呆然と聞いているしかなかった。
「どーもはじめまして、美しいおじょーさんっ!ワシ横島忠夫っ!イヤー、危ない所でしたなあ、まーワシにかかればあんな連中はちょちょいっとやってぱっぱー、で終りじゃて、ハッハッハッ!ああいや、礼なんてそんな、当然のことをしただけじゃからして、決してそんな見返りにどうこう等と言う気は無いんじゃが、実は少々持病の癪が…。なので出来れば膝枕して患部を擦ったりしてもらえると有り難いんじゃが…まあもしくはこの後二人でどっか茶ぁでもシバきに行って、その後然るべき手順を踏んでくんずほぐれt……!!」
(想像してたのと、何か違う…)
限りない脱力を感じつつ、とりあえずケイは意識を手放した。
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時に、22世紀初頭。
横島忠夫は、未だ人として現世に在った。
<続く>
あとがき
あ、どうも。大体初めましてで良いと思います。新羅です。
まあ、見てのとおり、ジジイ横島のお話なんですが…内容薄いですね、すいません。まあ、次回はも少し何とかします。
大体前・中・後編の予定ですが、次に書けるのは多分一週間後ぐらいです。
あ、あと、見て分かる通り、ケイって言っても猫又の彼とは関係有りませんので、悪しからず。
後書きすらもグダグダで申し訳ありませんが、では次回で。