生暖かい空気が漂い、空気を吸えば噎せる。 気持ち悪い獣臭い臭いが口内に充満していた。 ニチュッ・・グチュグチュ・・ クチャ・・ニチュァッ・・ 舌が蠢きだし俺を弄んだ。 疲弊した俺を労るかのように舌が本能に従い、俺の味を求めて体を舐めていく。 顔・・頭・・腕・・足・・股・・体の至る所をねっとりとその重舌で舐め回す。 幾分か唾液を吸っていた衣服が生暖かく、獣臭い唾液をたっぷり吸いベトベトに重くなった。 グチュ・・ニチャ・・グチャ・・ ジュルルッ・・ドチュ・・ 舌が俺をひっくり返そうと蠢いた。 粘っこい水音を立て、舌と背中の間に糸を引いてグルリと寝返りさせられた。 「ぅうっ・・・あぁっ・・・・」 今度は舌を小刻みに動かし、腹を舐める。 これまでに彼女の唾液を飲んで吐き気があった。 彼女の口内で吐く訳にはいかず、根性でそれを飲み込む。 舌は俺を余すことなく包み込んで舐め回す。 自ら喰われることを選んだ餌からたっぷりと味を堪能する。 ズルッ・・ズリュッ・・ 口内が唐突に上に傾いた。それに合わせ、舌にも傾斜が付いてゆく、唾液で摩擦のない体はすぐに落下していく。 喉・・・食道・・・胃袋・・死へ続く暗き狭き肉洞へ。 (お前は・・こうやって・・幾人もの人間を喰っていたんだな・・・) 恐くはない。後悔もない。 (傷ついて、傷つけられて・・何度も、何度も辛い思いをして・・それでも生きてきたんだな・・) 自然と涙が頬を伝う。この世に未練があったからではない。 彼女の生きてきた上での思いを悟ったからである。 (俺は・・お前にとって・・どんな人間だったんだ?) 両足が喉の筋肉に捕まり、急激に喉に引き込まれる。 抵抗はしない。彼女に捕まった以上生き残れる可能性は零に等しいからだ。 (・・お前とは・・これで・・さよならだな・・) んぐ・・んぐっ・・ゴクッ・・ 足がどんどん喉に呑み込まれ、強い蠕動によって・・ ゴクン! 俺はフェンリルに丸呑みにされてしまった。 * * * グジュ・・・グチュ・・ニチュ・・ グプッ・・ドロッ・・ 唾液や粘液と共に食道という狭い肉洞をゆっくり飲み下されている。 体液が衣服を濡らし、耳を塞ぎ、俺の体力をじわじわ奪う。 今、フェンリルはどんな顔をしているのだろうか? まだ・・声も出さずに泣いているのだろうか? 呑み込まれた俺にそれを確かめる術はない。 蠕動でグギュッと肉洞に体を締め付けられながらも体は胃袋に向け、ゆっくりと下ってゆく。 「さ、最後に・・お前の笑顔・・見たかった・・」 胃袋に到達するまえに俺は酸欠で気を失った。 グジュッ・・・ニプッ・・・グチャッ ジュルッ・・グチュァッ・・ドプンッ! 気を失ってから数十秒後、彼の体は胃袋へ到達した。 足先が噴門をこじ開け、胃袋に突入する。 ・・獲物を溶かし糧にするために、胃液・・胃酸に満たされた胃袋に。 ジュワァァァァ・・・ 気絶していた彼は声一つ上げる事なく胃液に溶かされていった。フェンリルに溶かされていく。 彼の命はフェンリルの血肉となり、糧となり、彼女の命を繋ぎ留める・・・大きな犠牲を払って・・・ * * * ー美味しいー 本能がそう吼えている。 彼は想像を越えて美味だった。 皮肉。何という皮肉だろうか。 喰いたくない人間がこの上なく美味しいのだ。 本能のままに蠢く舌が彼を蹂躙していく。 愛しかった彼を唾液まみれに・・餌に変えていく。 でも、私はそれに従うしかなかった。 それが私にできた唯一の恩返し。 ー生きるために彼を喰らうー それが彼の私に託した願いだった。 (私は、私は・・・貴方を・・) 最早、体は動かない。動くのは思考だけ。 本能が私の体を支配し彼を味わい続けている。 恐らく彼は私を傷つけまいと声を上げずに舌の蹂躙にたえているのだろう。口内からの声が聞こえない。 私も彼を傷つけたくない。だけどそのためには食べるしか残された道はない。もし、吐き出せば彼は怒る。そして私は衰弱して彼の心を傷つける。 私はクイッと上を向いた。口内に傾斜を付けるため。 そして、彼を丸呑みにするため。 苦しみは少しでも短い方がいい。 (・・私をどうか・・許してください・・・) ズル・・ズルと彼が私の舌をずり落ちていくのが分かる。 彼が喉・・胃袋に落ちていく。 「うぅ・・ぅぅ・・」 涙が止まらない。悲しいけど声が出せない。 声を出して、思い切り叫びたい。 ゴクン! 喉の筋肉が私の意志に関係なく彼を呑み込んだ。 「あ・・ぁぁっ・・・」 体が震える。彼を吐き出さなければ。 だけど・・出来なかった。本能が邪魔をする。 ただ、悲しくて彼を吐き出すこともできず、ただ、下ってゆく彼の膨らみを目で追う事しか出来なかった。 今、彼を吐き出して、己の体液を舐め取って、抱きしめてあげれたらどれだけ幸せだろうか! それは叶わない思い、呑み込まれた彼に助かる見込みはない。 いつも獲物を呑み込む前には胃袋に胃液が満たされている。 胃袋に到達した瞬間から消化が始まってしまう。 それも数分とかからないだろう。 強力な胃酸が獲物を消化し、血肉とする。 今頃彼は胃袋に到達し、その身を消化されている頃だろう。 自分の身体を溶かされるという拷問紛いの激痛に悶えながら自らの最期を迎えるのだろう。私の手によって。 もう・・手遅れだ。吐き出しても出てくるのは胃液によって溶解し、絶命した彼だったモノがでてくるだろう。 彼は・・・私の血肉になったのだ。 私の命を繋ぎ留める糧になってしまったのだ。 「わ、私は貴方を食べてしまった・・・ぁぁ・・うぅぅ・・・ああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 私は子供のように大声を上げて泣き出した。 涙と溢れんばかりの唾液を床にしたたらせながら。 初めて出会ったどこまでもお人好しのかけがえのない人間を失った。私は彼を喰い殺した。 それは遠吠えに近かったかもしれない。 生きるためとは言え、私は己が犯した愚行を悔いた。 やはり、止めておくべきだった。たとえ私が死んで、彼が悲しい思いをしても、彼を喰らうべきではなかった。 遙かな時を生きれる私がこれからの余生、孤独に打ちひしがれなくともよかったのに。彼はもう帰ってこない。 声を聞くことも、その笑顔を見ることも。 ー私が喰い殺したー その事実が私の中に嫌に残る。 目が赤い、痛い。でも涙は止まらない。 罪悪感・・虚無感・・喪失感・・ あらゆる負の感情が私をいつまでもそうさせる。 もっと彼と一緒にいたかった。 もっと笑い合いたかった。 彼はもういない。 ー私が喰い殺したー * * * 土が跳ね、泥が跳ね、銀色の毛並みを汚す。 枝が折れ、石が刺さり、血が流れる。 痛い。だけど痛くない。 彼の壮絶な最期に比べれば。 私は化け物だ。フェンリルでも狼でもない。 人間を欲望のままに貪る化け物だ。 ザァァァァァと激しい雨に打たれながら、森をかけぬけていた。 鋭い木の枝が体を切り、血を流させる。 人間を喰らう私がその人間の愛情を知ってしまったらそれはただの化け物だ。 涙はもう枯れた。もう必要ない。 こんな事になるのを貴方は分かっていたの? なら・・・貴方はどうして・・・ ー私を拾ったのー ー私に血を与えてくれたのー ー私に喰われてくれたのー ただの化け物だった私にー 私は地を蹴って中に舞った。 ーワォォォォォォォォォォォォォォォォッー 雨と血に濡れた体を満月が照らす。 その満月に遠吠えをして・・意識は・・消えた。 * * * 私は貴方に愛を教えてもらった。 私はもう生きていられない。 貴方がいなければ私は・・・・ 人間を喰らう私・・もうこんな・・ モウ・・コンナイノチイラナイ・・ ゴメンナサイ・・ワタシヲユルシテ・・・ * * * 数日後、崖下で巨大な狼の死体が見つかったらしい。 体に無数の切り傷を負い、口から大量の血を吐いていた。 死因は全身強打。即死だという。 スウジツモミハナサレテ・・カワイソウニ・・ ボウッ・・と青白い光が現れ、手のようなものをその狼にそえ、呟いた。 人間型のように見えるその光の表情は微笑んでいるように見えた。 アァ・・アナタ・・アナタナノデスネ・・・ ズット・・ズット・・アイタカッタ・・ 青白い光が消えると共に狼の死体も一緒に消えた。 二つの魂が天に昇ってゆく。 高く、高く、どこまでも・・・・ |
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