グラエナは、自分の牙を蔓と石の間に引っ掛けようとしていた。 そして引っ掛けた蔓を引っ張る度に、あたしの体はきつく締められる。「痛い」って声を漏らしても、止める気配はない。 ――ベロン 「ひゃあ!?」 突然、グラエナがあたしの全身を舐め上げる。ぬるぬるした涎の下に、ざらついた感触があった。 「な、何しやがる!」 「へへへ。悪い悪い」 グラエナは一旦舌を口の中にしまうと、味わうように転がす。 「それにしてもよぉ、思ったよりもお前って旨いなぁ」 「は……?」 「謙遜するこたぁねぇだろ」 ケヘヘと下品な笑い声を漏らして、蔓を切る作業に戻った。身震いがした。 その時、ブチッという音がした。蔓の切れる音だ。2、3巻き分の蔓が地面に落ちる。圧迫される感じは少し和らいだけど――それはそのまま、グラエナの腹に収まる時が近くなったっていうことだ。何とか脱出しないと。 考えあぐねていると、首筋に掛かっていた蔦が切られた。 占めた。頭さえ自由になれば、蔦を焼き切れる。そして、後は全速力で逃げればいい。ある程度高くまで飛べば、まず捕まる心配はない。――その段階までい けるか分かんないけど、何もせず喰われるのを待つよりかはよっぽどいい。 幸い、グラエナは蔦を噛み切るのに専念している。なかなか上手く牙が引っ掛からないらしく、こっちの様子を完全に見ていない。不意を突けば、逃げ切れる見込みはある。 あたしはグラエナの陰になる部分の蔦に、そっと火を点けた。ジリジリと静かに蔦は焼けていく。 そして遂に、全部の蔦が一斉にプツリと切れた。それを見計らって、あたしは足の裏で石の表面を力強く蹴って、空中に飛び出した。ここでグラエナも異変に気付いたみたいだ。 すかさずあたしは、両翼を広げ精一杯に羽ばたいた。 そこに、横からグラエナが飛びかかってきた。だけどそれも予想の内だ。羽ばたきながら顔を横に向けて、奴の鼻頭にありったけの炎を吐いてやった。 「熱チィッ!」 グラエナはそう叫ぶと、前足で鼻を押さえて、地面に転がり込んだ。 よし、上手くいった! 逃げ切りを確信して、ざまあみやがれと悪態を付くと、あたしは前を向く。 すると突然、背中に途方もないほどの重りを乗せられたような感じがした。目の前の景色が急降下して、あたしの体は地面に強く叩きつけられる。 声にならない痛みだった。特に痛かったのは背中から腹にかけてで、そこにはまだ押さえつけられている感覚があった。痛みと相まって、息が上手く出来ない。痛さ並みに、息苦しさも辛い。 「ううっ……」 「随分とナメた真似をしてくれたな。お陰で鼻をちっと火傷したじゃねーか」 上からグラエナの声がした。最悪だ。 グラエナはあたしが思っていたよりも、怯みからの立ち直りは早ければ、ジャンプ力もあったらしい。 「雑魚は雑魚で、大人しく喰われるのを待ってりゃ良かったのによぉ」 グラエナは前足で、あたしの背中をぐりぐりと押す。背中と腹が猛烈に痛む。今なら血が吐けそうだ。 「悪い子にはお仕置きだ」 不敵に笑うと、グラエナは舌を見せながら顔を近づけてきた。その時、たっぷり湧き出ていた奴の涎が体にかかる。奴の口元は涎で溢れかえっていた。 ベロ…… 全身が寒気に震えた。またのこと、下から舐め上げられた。 奴は同じように2、3回舐めると、今度は部分的に舐め始めた。顔、首筋、胴、股の間、足――あたしの体は顔を顰めたくなる臭いを放ちながら、てかっていた。 舐めている間、奴は前足をあたしの背中から退けていた。それもあって、息苦しさからは解放され、何とか喋れるくらいまでに痛みも引いた。 「あぁ、旨ぇ」 散々舐めた後、満足そうにグラエナは言う。 あたしはというと、口に入った奴の涎を吐き出して、肩で息をしていた。舐められただけなのに、相当体力を消耗した。 もう、逃げられそうもない。 「それじゃあ、そろそろお別れだな」 もはやグラエナの言葉をぼんやりと聞いていた。 ――ああ、もう死ぬんだな、あたし。 恐怖はいつしか消えて、代わりに諦めの気持ちが強まった。逃げられる希望が打ち砕かれたからかもしれない。何だかどうでも良くなってきた。 寧ろ、何で今まで生きていたんだろう、と思う。こんなに辛い思いばかりするなら、いっそ何処かで喰われとけば良かったんだ。 「自分を捨てた親に文句の一つでも言ってやる」なんてつまんない意地を張らなきゃ、今頃楽だったのに。 でも、こんな目に遭うのも今日で終わりだ。これであたしは楽になれる。 あたしは目を閉じた。呑むなら、さっさと呑んじまってくれ。 そう念じた時、頭の中に何かが浮かび上がってきた。ぼやけていた景色が段々と鮮やかになってきて――漸く見えたのは、幼い日の自分の姿だった。 そして、よりにもよって両親も一緒にいた。今となっては両親の顔なんて覚えてないから、その辺は影が掛かってあやふやになっている。 記憶の中のあたしは、父さんに泣きついていた。大方、兄貴か妹に苛められたんだろう。あの時のあたしは、今では信じられないくらいに華奢で泣き虫だった。 父さんは、目を真っ赤にしたあたしを手に乗せ、指先で撫でていた。その横では母さんが何か言っている。 どっちも穏やかな表情をしている。 凄く、懐かしかった。 忘れかけてたけど、あたしは父さんと母さんのことが好きだったんだ。どんなに辛いことがあっても、父さんと母さんに慰めてもらえば、あたしは大丈夫だった。 だから、そんな両親に捨てられただなんて、信じたくなかった。 「何で今まで生きていたんだろう」って、さっきは思った。その理由が分かった気がする。結局あたしは、父さんと母さんに甘えたかったんだ。 自分を捨てた両親に対抗して生きているつもりだった。独りでも、幸せになってやるはずだった。 でも無理みたいだ。どんなに強がってみても、いつも何処かに寂しい思いがあった。 今まで生き延びていたのは、何より、父さんと母さんにまた会いたかったからだったんだ。 記憶の中のあたしが泣き止み、やがて笑う。幸せそうな顔をしている。胸の中がじんわり暖かくなった。そうしてあたしは確信した。 ――あたしは、まだ生きていたいんだ。 ハッと我に返ると、手の届く先にグラエナの牙があった。一本一本が、あたしの体を貫けるほど長く鋭い。 「このォ……!」 両手を使って、一本の牙を押し退け――ようとするけど、びくともしない。 「何だ? 大人しくなったと思ったら、急に元気になったな」 「ふざけんな! 喰われてたまるかよ」 虚勢は張ってみるけれど、どうにもならない。命の危機にさしかかっていることに変わりない。 あたしの体力に限界がきていた。伸しかかってくる途轍もない重量に、あたしの両腕はぷるぷると震える。 すると、何を思ったか、グラエナが顔を動かした。突然のことに、あたしは前のめりになる。その時、あたしの左腕がグラエナの牙を掠めた。 「痛てっ」 倒れたその拍子に、左腕の様子が見えてしまった。血で染まっていた。気付いた途端に、左腕が熱くなってきた。あまり痛くはない。多分傷は浅いと思う。 ただ、勢い良くスパッと切れたから、出血が酷い。 上からグラエナが背中を押さえつけてきた。一瞬だけ低い呻き声が出る。身動きができないのをいいことに、グラエナは左腕の血を舐めてきた。 「旨ぇなぁ」 左腕を覆っていた血は、全部舐めとられた。けれど、傷口からはまだ血が流れ続ける。あたしの死が迫ってきている気がした。 「どうした? 顔が青いぞ」 「ち、血が流れてるからだろっ!」 あたしは声を荒げる。でも、精一杯の強がりにも力が入らない。焦りを感じてきて、胸の音がやけに響いて聞こえた。 「そうかねぇ」 グラエナの返答は、あたしの心の内を知っているかのような口ぶりだった。 「大丈夫だよ。お前のことを噛み砕いて喰う気はねぇよ。」 顔をグッと近付けてきた。グラエナの鼻の頭が、顔に当たっている。 「――綺麗な体のまま、俺の腹の中に収まるんだ」 体中の熱を奪われた感じがした。今までも危険な目に散々遭ってきたけど、今度はもう駄目かもしれない。 「いつ死んだっておかしくない」ということを、自分でも充分すぎるくらいに分かっていて、覚悟しているはずだった。だけど、生きる目的を思い出した以上、死ぬことがとても恐ろしくなってしまった。 「……けて」 「あ?」 「助けて……お願いだから……死にたく、ないんだ……」 情けない。こんな奴に命乞いをするなんて、情けなくて仕方なかった。それでも突然の涙と体の震えは、どうにも止められそうになかった。 「お前もやっぱ雌なんだな。可愛い声を出すじゃねぇか」 グラエナは満足そうに呟くと、舌舐めずりをした。 「散々いたぶって悪かったな。だが、もう楽になれるぜ?」 あたしは力無く首を横に振りながら、「嫌だ、嫌だ」と譫言(うわごと)のように発した。そんなところで、グラエナの気が変わるはずはないのに。 「ヘヘッ。いただきまあす」 グラエナが口を開く。大量の涎が宙を舞い、そのいくらかがあたしに降りかかった。そして次の瞬間には、視界がグラエナの口の中に覆われて、一気に暗くなった。 ――死にたくない! あたしは涙を零し、強く目を瞑った。 【第1章 END】 |
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