同時にあの謎の声が思い起こされる。

『背が小さくてもいいのか』

あの言葉の意味…それは今の自分の状況が示している。
身体を小さく縮められた。
巨大な牛の顔、不自然なサイズの干草、それらが大きいのではなく私が小さくなったんだ。
だけど一体どうして…そんな事を考える余裕すら私には残されていなかった。

ねちょ…

粘着質な音と共に何かがすぐ傍に垂れ落ちてきた。
半透明で少し泡立った粘つく液体…牛の唾液だ。
牛は私を見ながら口元から唾液の糸を垂らしている。
脳裏にもう一つの言葉がよぎる。

『牛乳の素になってもらおう』

牛乳の素になる…それはつまり牛の栄養になることを意味する。
なんて事だろう、この牛は私を食べようとしている。
このままじゃタメだ、早くここから逃げないと!
しかし腰が抜けてしまっているのか一向に身体に力が入らない。

ぶもぉぉ
「ひぃぃっ」

そうこうしていると牛が小さく一鳴きし、私に顔を近づけてくる。
視界を覆いつくす巨大な牛の口元。
もう私から見て数mも離れていない位置まで迫っていた。
生暖かく湿り気のある牛の息が吐きかけられる。
くさい。
思わず声を上げ手で鼻を覆った。
今まで嗅いだ事の無いような生々しい家畜の吐息。
恵まれた家庭で日々優雅な生活を送る私にとって、それは生理的に耐え難いものだった。

しかしただの餌である私に牛が気を使う筈など無い。

ぐぱぁっ……にゅるん……

その巨大な口が僅かに開いたかと思うと、気色の悪いピンク色の肉の塊が滑り出してきた。
牛の舌だ。
草食動物特有の肉厚の舌が、唾液に塗れた表面をテカラせながらにゅるにゅると私に向かって伸びてくる。
それにしてもなんて長い舌なんだろう。
2〜3mもありそうなそれは私との距離をあっと言う間に詰める。

べちょ…べろり
「うぷっ」

逃げる暇も無かった。
巨大な舌が私の身体を覆うと一気に舐め上げられた。
ザラザラした舌の表面と、ネトネトとした粘着質の唾液の感触が私を包み込む。
その唾液の量と粘り気にパジャマ姿の私はすっかりベトベトだ。

べろり…べちょ…べろべろ…

休む暇も無く牛は続けざまに何度も何度も私を舐めまわす。
押し付けるような舌の力強い舐めまわしに、私は抵抗する事もできずただもがき苦しむことしかできない。
ヤスリのような舌の表面も唾液にコーティングされ、さほど痛くも無い。
ネトネトした唾液と押し付けられる舌肉の生臭さが、吐きそうなほど気持ち悪かった。

これが普段食べている牛タンなのか。
そう考えるとこんな気色悪いものは、二度と食べたいと思わない。
もっとも今は私がその牛タンに食べられようとしているのだが…

どれだけ長い間そうして舐められ続けただろう。
いや、本当はものの数秒だったのかもしれない。
兎も角牛がようやく舐めるのを辞めた頃には、私の身体は頭からつま先までべっとりと牛の唾液に塗れ、空気に触れると一層酷い臭いを放っていた。

「げほっ!げほっ!…うぇっぷ……にげ…ないと…」

何故牛は舐めるのを辞めたのか。
そもそも私を舐めたのは味見の為か、それとも餌かどうか判断する為なのか。
いずれにしてもチャンスは今しか無い、私は牛に背を向け這い蹲るようによろよろとその場から離れようとする。
しかし粘着質の牛の唾液はまるでトリモチのように絡みつき、思うように身体が動かない。

ぐわあぁああ…

と、逃げようとする私の背後から生暖かい空気と共に何かが開くような音がする。
見ちゃダメ。
本能が振り向く事を静止する。
しかし私は嫌な予感のする方に恐る恐る顔を振り向けた。

「い、いやああぁぁぁーーー!!」

大きく開かれた牛の口。
決して綺麗だと呼べない薄汚れたピンク色の口内。
トゲのような襞が覆う頬の内側。
まるで洗濯板のような上顎の肉壁。
臼のような奥歯は上下に綺麗に生え揃っているが、前歯は下顎にしか生えていない。初めて知った。
もしかしたらただのアクビだったのかもしれないが、今の私の恐怖心を煽るには十分の光景だった。

「あぁぁ!!…いやぁだぁ!!…」

無我夢中に身体をバタつかせ逃げようとする。
もう冷静な判断などできる状況ではなかった。

にゅるん……ぐぃっ
「!!」

突然柔らかな熱いものが身体に巻きついたかと思うと、力強く引っ張られる。
気付けば舌が身体にぐるぐると巻き付き、まさにその巨口へ運ぼうとしていた。
幾らもがいて抜け出そうとも、筋肉の塊のそれに非力な私が敵う筈も無い。
あっと言う間に私の身体は、牛の口内へと引きずり込まれてしまった。

ばくんっ

私を納めた牛の口が閉じられる。
光が遮断された筈なのに何故か口の中の様子はハッキリと見ることができた。

「いやぁああああ!!くさぁぁあーーいい!!だしてぇええーー!!」

とても不潔な場所だった。
牛の口の中はネットリした唾液で溢れかえり、動けばネチャネチャと糸を引いて身体に絡みつく。
口内に充満する空気が蒸し暑く息苦しい。
酸素を求めて呼吸すれば、新鮮な臭い牛の息がたっぷりと肺の中を埋め尽くしていく。
唾液が絡み合う音と、荒い牛の呼吸音だけが音の全てを支配していた。
私の悲痛な叫びが口内に虚しく反響する。

口内から逃れようと必死に暴れてみるも、柔らかな舌は動きを吸収し、嘲笑うかのように私を舐めまわす。
まるで飴玉にでもなったかのようだ。
いずれあの臼のような歯にすり潰され、身体を砕かれてしまうのだろうか。
それだけは嫌だ!
私は必死に抵抗を続けた。

しかしその心配は予想外の方向へと持っていかれる。

ずりゅ…ずりゅ…

身体が喉の方へ運ばれている。
なんて事だろう、このまま丸呑みにするつもりだ。
牛の口の中にいる今ですら耐え難いのに、生きたまま牛の体内へ運ばれるなど考えたくも無い。

「いやぁああああ!!食べられるぅぅ!!助けてえぇぇーー!!」

幾ら泣き喚いて暴れても牛の嚥下力に逆らう事などできる筈も無かった。
唾液に塗れた私の身体は牛の舌の上を滑らかに滑り落ちていく。
舌の表面に立てた爪は虚しくズルズルと掻くだけに終わった、

ごくり…

大きな嚥下音を立てた牛は、満足そうに大量の唾液と共に私を一飲みにしてしまった。

 

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