「ねえ、起きてる……?」

「ちょっとさ、お話しようよ」


少女とバクフーンは向かい合って座った。
バクフーンは赤い瞳でじっと少女を見据え、少女は俯いて、ポツリポツリと話し始める。

「食べ物がね、なくなっちゃったの。まあ、これはずっと前の事なんだけどさ。
 あたしたち、当分何も食べてないよね。もう、ずっと。いつからかはわかんないけどね。
 吹雪も止まないし……、もうずっと止まないかもしれない。
 だから、たぶん、あたしたちは二人一緒には助からないと思うんだ。
 そう、二人一緒には」

少女はそっと顔を上げる。赤い瞳がじっと彼女を見ていた。
その瞳は、涙がほとんどなく乾いていたが、とても辛そうに少女を映していた。

バクフーンは、一瞬彼女が何を言っているのかわからなかった。
ただ、考えられうる限りの最悪である事だけは確かにわかった。
少女は、負けたのだ。その思いがバクフーンを支配する。
少女は顔を上げ、バクフーンを見た。うっすらと微笑んですらいた。

「まずね、考えたの。
 もしも、あたしが生き残って君が死んじゃった場合。
 そのとき、たぶんあたしもすぐに死んじゃうと思う。
 君が死んじゃったら、あたしはもう寒さに震えるしかなくなる。火が、なくなるからね。
 だから、二人一緒に死ぬんだと思う」

「で、次に君が生き残って、あたしが死んじゃった場合。
 この場合さ、たぶん、君は生き残れるんだよ。
 自分で火をおこしてあたたまる事が出来る。体温を保持できる。
 君だけなら、生きていられる」

「あたしさ、君には生きててほしいんだ。
 こんなところまで無理につれてきちゃったのに、そのうえ殺しちゃったら、もう、耐えられない。
 それに、他の子たちもいる。
 ボールの中だから少しは安全だろうけど、それでも大変な事に変わりは無い。
 だから、どっちかが生きて、ふもとのポケモンセンターに届けなきゃ。
 ……でも、あたしはどっちに転んでも、死ぬ。
 だから君に、生きてポケモンセンターまで、行ってほしい」

少女の声はしわがれ、小さかったが、どこかに妙な力が篭っていた。
それが、死を覚悟した少女の願いなのか、日常への回帰を諦めた自暴自棄なのかは、わからない。

「さっきのさ、どっちかが生き残るって、意味わかるよね。
 要するにさ、片方がもう片方のために、犠牲になるんだ。
 つまり、」



「あたしを、食べてよ」



ボウボウ、ゴーゴーという荒れ狂う吹雪の音だけが響いた。
少女はそれ以上何も喋ろうとはせず、ただバクフーンを見つめていた。
事実だけを淡々と伝え、そこに座っているのだ。
バクフーンは困惑した。
そして、少女から目が離せなくなった。
少女を愚考から救わなければならないと思ったが、そのための力が無いのである。
少女の言葉はバクフーンには伝わるが、バクフーンの言葉は正確には少女には伝わらない。
なんとなくの雰囲気では伝わるが、完全に伝える事は出来ないのだ。
少女は今、危機に怯え、心を閉ざしている。
その心を揺さぶるには、なんとなくの雰囲気の言葉では足りない。もっと直に気持ちを伝えなければならない。
だが、その方法が無い。ただ、見つめる事しか出来ない。
今、目線を逸らしたら、間違いなく少女を守れないだろうと思った。

少女は無言で服を脱ぎ始めた。
不思議と寒さは感じず、むしろ自分が汗ばんでいたことに気が付いた。
肌が雪に揺れても、少し冷たいと思っただけだった。
できるだけ、自分の体を見ないようにした。
その後、鞄から鋏を取り出す。ソーイングセットに入っている、小さな鋏だ。
その鋏で、髪を切り始めた。
パラパラと髪は落ちていく。

バクフーンはその光景を見ることしか出来なかった。
そして、少女が髪を切り始めて、もう、間に合わないのだと気付いた。
少女が自分で髪を切るなんて、ありえないことだ。
あんなにも大事にしていた髪を、乱雑に切っていく少女を見て、悲しさがこみ上げてくる。
少女の髪を切る鋏が立てる、パチンという音が雪に木霊する。
つまり、自分は彼女を守れなかったのだ。彼女を守ってやれるのは自分しかいなかったというのに。
少女の気持ちを変えることは出来なかった。少女のよりどころにはなれなかった。
グウ、と間抜けな音がなった。
バクフーンは自分の腹を殴った。

みるみるうちに髪は短くなり、少女の整っていた髪は今はもう見る影も無い。
少女は正面からバクフーンを抱きしめる。
少女の冷え切った体には、バクフーンは熱かった。
少女はバクフーンを離し、両手で彼の顔を持つ。
すぐそばに口があった。

バクフーンは少女の目に映る自分を見ていた。
今の少女には、自分はどのように見えているのか、そこからは推し量る事は出来ない。
それが、とても悲しい。
そしてまた、グウと音が鳴る。
彼女がとても魅力的に見えた。そして、全身に倦怠感が満ちた。
彼女の手は冷たく、温めなければいけないだろう。
雪の中でずっといたのだ、全身が冷え切っているに違いない。
だが、指は動かない。彼女の手が口内に入る。
彼は彼女に全てを委ねる事にした。


そっと牙を撫ぜる。
白く尖ってはいるが、先端は少し丸くなっている。小さな歯だ。
口内は乾燥し、ザラザラとしている。
少女はバクフーンの口の中に頭を完全に入れている。
片方の手で頭をなで、もう片方の手で口を撫でる。
舌は柔らかく、熱かった。思わず手を離してしまう。
慎重にもう一度触る。そっと押すと、弾力があり気持ちが良かった。
手は優しく口を探っていく。覗き込まれている事に羞恥心が募るが、体は依然として動かない。
動かなくていいとまで感じていた。心地よかったのだ。
外から内から撫ぜる手は、熱を帯びているようだ。
開け放した口から唾液がこぼれる。いつの間に沸いて出てきたのだろう。
舌先に力をこめた。舌は顔を捉え、ベロリと舐める。
いつも愛情を表現する時に舐めるのと、なんら変わりがないように思えた。
しかし、なんだか少し照れくさく、そして、全身に血が巡るのを感じる。
後から後から唾液が染み出し、顔の上から降ってくる。
唾液は久々の仕事に意欲的なようでドロリと濃く、彼女を塗らす。
唾液だけで蕩けていくような錯覚を覚える。
全身が火傷しそうなほど熱い。寒さで抑えられていた血流が活発になっている。
その理由は? なんでもいい、としか思えなかった。 
手を奥に伸ばす。喉の奥に触れる。
少しえずくが我慢する。今興を削ぐわけには行かない。
腕がダラリと垂れた。どうやら、もう動きそうだ。巡った血のお陰かもしれない。
両腕で腰を抱え、持ち上げる。骨の浮いた細い腰だった。
フワと体が持ち上がる。腰に爪が刺さり、少し痛い。
気にせず奥を覗き込む。奥まで手が届くようになり、より深淵が見える。
光がなく、暗い奥底。柔らかい壁面が時折動いているように見える。
胸の辺りで動く舌がこそばゆく、背中に触れる唾液が熱い。
たまに触れる歯は出血こそしないが、ひっかかいてくる。
もう少し、奥が見たい。進みたい。
しかし、足で蹴れどもそこに地面はなく、ただ空を蹴るだけで進まない。
あごが重い。だが、止まらない。最初は苦しかった喉もだいぶなれた。
唾液がとめどなく零れ落ちる。大部分は口の中にたまりつつある。
少し、胃が痛い。気が急いているのか。お前の出番はまだ後だ。
バクフーンは少女を持ち上げた。そして、手を持ち替え、今度は太股を掴む。
妙に力が篭っていたようで、少女の腰には爪が刺さった跡があり、傷からにわかに血が溢れ出す。
バクフーンの鼻息は荒い。白い息が飛び散る。
頭に血が上った。腰は痛みから解放されたが、ドクドクと脈打っている。
太股に刺激が走る。思わず唇を噛む。
奥へとさらに這入っていく。
もはや暗くて何も見えない。そして、狭い。
熱い壁が体を包む。ぬるぬるとしていて、滑ってしまいそうだ。
ギュッと体を締め付けられては、解放される。それが周期的に訪れる。
柔らかい壁の奥で、硬い物があるのがわかる。鳩尾に当たり、少し苦しい。
いや、苦しいのはずっと前からだったかもしれない。
息をするのを忘れていた。大きく息を吸う。
ムワッと温かく湿った空気が肺を膨らませる。と同時に体が締められそのまま空気を吐き出してしまう。
ゲホゲホと咳き込む。唾液が零れ、落ちていく。
もう一度吸う。熱く湿気が多いが不快ではない。
ゴクリと喉が鳴った。喉仏が何かに突っかかり、苦しいが、それすらも快楽であるかのようだ。
必死に鼻から息を吸っているものの、まだ苦しい、酸素が足りない。
温かいものが喉をとおり、熱い何かが頭を駆け、思考を鈍らせる。
一度、たまった唾液を飲み込む。それでも唾液は止まらない。
一体どこから出てくる物なのか、疑問に思う。
体と壁の隙間を液体が滑ってきた。思わずその感触に身を振るわせる。
ドロリと流れる。この液体は、唾液だろうか?
体が滑った。落ちそうになる。足に痛みを感じ、全身が暗い壁に締め付けられる。
手を離したら、喉の奥まで滑り落ちてしまいそうだ。それはいけない。
強く握り締め、落下を防ぐ。
もっと長く苦しむために。もっと長く一緒にいるために。
少女はもはや足しかその姿を見せてはいない。
バクフーンは朦朧とした顔で少女の足を必死に掴んでいる。
喉仏は定期的に上がり、下がる。
足元では、唾液と血液が混ざり、凍り付いていた。
少しずつ奥へと滑り込む、いや、落ち込む? なんでもいい。
伸ばした右手が奥に触れる。折れ曲がっているようだ。
曲がった先は、閉じていた。まさぐると、なにか液体がたまっている。
圧迫感に慣れた体が少し解放される。
痛い、痛い、苦しい。痛みがクラクラした頭に突き刺さる。
忘れていた倦怠感が全身に飛び散る。内臓ごと吐き戻しそうになる。
徐々に胸も、腹も、腰も、落ちてくる。
行き止まりの道で、今まで感じなかった自分の重みで頭が押される。
手から足がはなれたが、それどころではない。
無理に内臓が拡張される。張り裂けそうだが、やめるわけにはいかない。もう、止められない。
痛くて、苦しい。辛い。だが、それがいい。
足が上にある。頭に血が上って、そろそろ辛い。頭が痛い。
もてあました手で体を抱く。とても温かくて心地が良い。
体にまみれる液体が、全身を包む柔らかな壁が、守ってくれているようだ。
目に涙がにじむ。腹が重く、喉に残留感がある。
立っているのが辛くて、そっと横たわった。
温かくて安心したら、なんだか急に眠気を感じた。
そういえば……一体どれだけ寝ていなかったのだろう。
まあ、細かい問題だ。雪山で遭難したわけでもあるまいし、寝ても大丈夫だろう思えた。
そっと体を見る。妙に腹が盛り上がっている。そりゃ、痛いわけだな、となぜか納得した。
腹に手を当て、そっとさする。

鼓動を感じた。鼓動が聞こえた。
自分の鼓動と、もう一つは……。



ドクン トク     ドクン    トク  ドクントク     トドクン   ト

ク   ドクンク     トクドクン  トク    ドクン     トク ドクン

 トク     ドクン    トク  ドクントク     トドクン   トク  



目を閉じた。なんだか幸せだった。
今は眠ってしまおう。



-   -   -   -   -   -   -   -



バクフーンは目を覚ました。そして、眠ってしまった自分を恥じた。
少女の「眠ってはいけない」という言い付けを守れなかったのだ。
あたりは不思議と静かで、隣に少女はいなかった。
ただ、足元でうっすらと赤がにじんだ液体が凍り付いているだけだ。
狭い雪の室で、バクフーンは1人だった。
妙に重い体を動かし、そっと入り口から外を見る。
雪は降っていない。風もおとなしく、木々の間を飛び回っている。
あれだけ激しかった吹雪の爪あとが、あちこちに残っていたが、当の吹雪はどこにもいなかった。

バクフーンの膝から、ガクリと力が抜けた。
膝が雪に沈み込み、ザクリと音を立てる。
眠ってしまったとはいえ、そんな長い時間ではないはずだ。
あと少し、あと少しでよかったのに。
あと少し、耐えられたら、負けなかったのに。

バクフーンは哭いた。
哭いた。


「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhh」






哭いたのだ。

 

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