『淀んだ沼地』


そう呼ばれる巨大な沼がある。
かつては人々の生活を支えるとても美しい湖だったのだが、人々が生活の基盤を海へと移し、
姿を消してから数百年の年月の流れの中で、変わり果ててしまった。

水は淀み、今では泥土が液化したような水が一面を覆っている。
悪いことにその泥水は周囲の地形を徐々に浸食していた。
広がり続ける沼は、周囲の生態系にも強い影響力を及ぼし激しい変化をもたらす。


今まで生えなかった植物。
見ることの無かった生き物。


そういった新たな生態系を内包し、かつての湖とは完全に別物と言っていいだろう。
幸い近年では沼の拡大も止まり、それ以上の広がりは見せなくなっていた。
それでも琵琶湖並の巨大な沼地は、
旅人などの道を急ぐ者にとって大きな障害物となっている。

それを助けるため対岸から対岸への渡し船が一艘だけ存在した。

たった一艘しか存在しないのは、この沼の泥のせいである。
見た目は単なる泥水のようにしか見えないのだが、恐ろしいことに浮力が働かないのだ。
一歩深みに足を踏み入れれてしまった者は、粘性のある泥に身動きを封じられ、
瞬く間に泥の奥底へと引きずり込まれてしまう。
それは舟においても適用される。
通常の舟だと瞬く間に泥の中へと沈んでしまって使い物にならなかった。


そこで造られた特殊な舟が通称『泥船』


名前の通り泥の舟というわけではなく、この沼地に僅かに自生している木々から造り出された舟だ。
沼地の木々で造られた舟だけが、どういう訳か沼地に浮かぶことが出来た。

……とは言え、沼の周辺に自生している木の本数が少ないことと、
この沼地の木の品種は『セカルト』と言うのだが、この世界の言葉で痩せた細い木という名前の通りに、
あまり舟を造る材質にはあわない木なのである。
一本の木から精々舟を造る材料の板一枚と言った程度。

しかも非常に脆く、子供でもそれなりに力があるなら幹をへし折ることさえ出来てしまう。
とにかく、このままでは使い物にならないので、幾つかの試作品を経て、
普通の舟の上に何枚も『セカルト』の木の板を貼り合わせ浮力を確保したのが、今の泥船である。
ここまで苦労をかけて造り出した泥船だが、非常に利用するものは少なかった。
かといって無ければ、それはそれで不便。
そう言った要因があり、最終的に造られた泥船は一艘だけとなっている。


しかし、ここ数年前に新たに街道が整備されると、ただでさえ少なかった利用客もそちらを通るようになった。
役目を終えたものが廃れるように、泥船も人々の記憶から忘れ去られ、
沼地にうち捨てられたままとなる……筈だったのだが。

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