あの騒ぎから、大体一月ほどの時間が流れ……
ここは、お馴染みのガイル家。

この日の時刻はもうすぐ正午になりつつあり、台所はまさに戦場さながらの様子を呈していた。

「カモ! カモ! お掃除終わったから手伝いに来たよ!」
「カメ! 助かるよカモネギ! お皿運んできて!」

元気なのか、単に焦っているからなのか、二匹の大声が飛び交う。
それに混じって、トントンという包丁の音や、カシャカシャという台所独特の音が響いていた。

「カメ! 一品あがったよ!」
「カモ! これ運ぶから次のを頼むよ! 」

まさに息はピッタリで、カメールの手料理が次々とお皿に乗り、
カモネギが食卓のある部屋へと料理を運んでいく。
今までは、この二匹だけでこの作業をこなしていたのだが……
最近、一匹これに加わったのがいた。

「と、鳥さん……これはどっちに置くの?」
「カモ! それはマスターの好物だから、取りやすいようにこっちに置いて!」

カモネギの後に続いて、料理の乗ったお皿を運び、
時にはどうするのかを指示して貰っている黒い鱗をした竜……
そう、ヘルカイトだった。

「これが、好物なんだ……覚えておこう……」
「カモ! 竜さん、何処行ったの次ぎ行くよ!」
「は、はい! 鳥さん待ってー!」

その声にヘルカイトは慌てて、先に行ってしまったカモネギを追いかけて駆け出していく。

まだまだ、こんな風に怒られながらだったが……
ヘルカイトは毎日が楽しく過ごせていた。

分からないところは、どうすればいいのかを聞けば、
カモネギやカメールがキチンと教えてくれた。
とくにカモネギは、あんな事が会ったのにヘルカイトに真摯に接してくれていた。

ただ……時折、ヘルカイトが「ありがとう」の後に
お礼にとペロリとカモネギを優しく一舐めしたりすると……

ちょっと青ざめて身体が震えたりと、未だショックは完全には消えていないようだった。

もっとも、これはヘルカイトのせいだけではない。
実は……ヘルカイトのように、カモネギを食べようとした奴は他にもいたのだ。
勿論、カメールも同じ目に遭ったこともあり……
震えるカモネギを見ると、慰めるようになでてあげるのだった。

ちなみにその事を知らないのは、ヘルカイトだけである。

まぁ、そんな二匹の指導のおかげで、
この一月という時間はあっと言う間に流れ……
ヘルカイトは、すっかりとガイルの家族達の一員になっていた。

そして、今日も……

「カメ〜 お、終わったよ……」
「カモ〜 ハァ、ハァ……今日は一段と忙しかったね……」

ようやくご飯の支度を終え、バッタリとカモネギとカメールはその場に倒れ込んでしまった。
息も弾み……死に体の姿で床の上で会話をしている二匹に対して、
ヘルカイトだけは、まだまだ元気そうに立っていた。

「鳥さん、亀さん……大丈夫なの?」

目の前で倒れ込んでしまった二匹を見て、ヘルカイトが声をかける。
するとカモネギは長ネギを持った翼を伸ばし、

「カモ〜 だ、大丈夫……今日は、ちょっと疲れただけだよ…」
「…………カメ〜」

そう言って、何とか無事をヘルカイトに教えるカモネギだが、
横にいるカメールは話す元気も無いのか、小さく鳴いただけで何も喋れないようだ。

そんな二匹に何か声をかけようとヘルカイトが口を開いたとき……

「カモッ!」
「カメッ!」

いきなり、二匹の目つきが変わりガバッと飛び起きた。
突然の出来事にヘルカイトは驚きながら後ずさり……

「と、鳥さん、亀さん……ど、どうしたの?」

少しどもりながら二匹に話しかけるが、
まったく聞こえてないようで、答えは返ってこない。

その後も、先ほど疲れ果てて倒れていたのが嘘だったかのように、
二匹はせわしなく身体を動かし、周りをキョロキョロと伺うように見渡し続ける。
まるで、自分以外を警戒しているかのようだ。

唯一、この中で事態に急変の原因が分かっていないヘルカイトは、
かなり狼狽えながら、もう一度二人に声をかけた。

「ほ、本当にどうしたの? と…」

そこまで言ったときだった……

「カモッ! 来た!」
「カメッ! 今回は負けないぞ!」

どちらが先だったのだろう……?
ほぼ同時に叫び、その声がヘルカイトの声を打ち消してしまった。


そして……


「今帰ったぞ!! ただいまー!!」」


スタートの合図が打ち鳴らされたのだった。

「あっ 帰っ……」
「カモッ!」
「カメッ!」

一匹、のんびりとしたヘルカイトが呟き終わる前に、
カモネギとカメールの姿は消え、ドタドタと大きな音をたてて廊下を駆け出していく。

「……て来たみたい。」

ヘルカイトが呟き終わる頃には、すっかり台所に取り残されていた。
静かになった台所でヘルカイトが再び呟く。

「僕もお出迎えしないと……」

そう呟き終えた後、小声で不思議な言葉をムニャムニャと呟き始め……

「ダール!」

最後にそう締めくくると、ヘルカイトの身体が光に包まれ消える。


その頃……玄関に向かう最後の直線の廊下で、
いつものように熾烈なレースが展開されていた。

今回は僅かにカメールが優勢なようで、カモネギがあの時のように妨害をしようと
チャンスをうかがっているが、まったくその隙を見せない。
そうしている内に……ガイルの姿が二匹の目にハッキリと見えてきて……

「カメ〜! マスターお帰り……」
「カモ〜! マスターお帰……」

我先にとガイルに呼びかけながら飛びつこうとして……
その数瞬前、ガイルの目の前にいきなりヘルカイトが現れたのだった。

「ガイル〜じゃ無かった。 マスターお帰りなさい♪」
「おぅっ! ヘルカイト、ただいま」

いつの間にか、小さな姿へと身体を変えて、ガイルの頭にしがみついたヘルカイト。
ガイルもいきなり現れたヘルカイトに驚きもせず。
小さな竜の身体を優しく撫でていく。

瞬間移動という、ある意味反則のような方法で、
先を越された二匹は……

「カメー! な、何で!?」
「カモー! カメールいきなり止まったら!」


ドッシーン! ゴロゴロ……ズシャッ!


とんでもない光景にショックを受けて動きを止めたカメールの背中に、
カモネギを勢いのままに突っ込んで、二匹は絡み合うように転がりながら玄関に躍り出たのであった。
そんな哀れな二匹をガイルは呆然と見つめ……

「お、おぅ……ど、どうしたんだお前達……大丈夫か?」

すぐに正気に戻ったガイルが二匹に声をかけるが、意気消沈した二匹に届くことなく。

「カメ……カモネギ……早く退いて……」
「カモ……竜さん……それはいくら何でも……」

カメールはカモネギの下敷きになりながら……
カモネギは嬉しそうにしているヘルカイトを見つめながら、
それぞれ思い思いに呟き、力尽きたように玄関に倒れ伏したまま動かない。

どうやら、ただでさえ家事で使い切った体力を、限界を超えて燃やし尽くしてしまったようだ。
それを何となく察したガイルは……

「ははっ まったく……カモさん、カメさん。
 あんまり無理はしないでねぇ……」

カモネギとカメールに優しく声をかけると、小さな二匹をそっと抱き上げた。
自分たちを優しく包んでくれる腕の中で、カモネギとカメールは……

「カモ……マスター……ありがとう。」
「カメ……ご飯は出来てるよ……一緒に食べよう。」

と言いながら、ガイルに身体を預けて甘えるのだった。
そんな二匹にガイルも頬を緩める。

「あぅ……お前達って……本当にかわいいねぇ〜♪」

甘える二匹をまんざらでない顔で、ギュッと抱きしめていた。

こうして……二匹を抱いて一匹を頭の上に乗せながら、
ガイルは、廊下を歩いていくのだった。


     *   *   *


始まった食事の時間。
食事の時の風景は……一言で言うと、とっても騒がしかった。
皆が大人しかったのは、最初の『頂きます』までで、
食べる前の感謝の言葉の後は……
みんなが楽しそうに話しだし、食事を続けていた。

行儀が悪いと言ったらそこまでだが、これがガイル家の食事の風景だった。
その中でただ一匹静かにしていた者がいた……ヘルカイトである。

(どうしたんだろ……僕……)

別に食事が楽しくないわけではなかった。
それなのにみんなとお喋りしたりする気力というモノが、
最近のヘルカイトには沸いてこないのだ。

ちょと前みたいに家事で忙しく動き回っているときなら、
それを忘れることが出来ているのだが……
今のように大人しくしていると気が滅入ってくる。

(多分……原因は……)

そう心で呟いて、目だけを横に向けると先にはガイルがいた。
正確にはヘルカイトが見ているのはガイルではなく、彼が纏っている負の気。

(おいしそ……うっ……ダメだって……)

その美味しそうな気を間近で見ているだけで、感情が暴走しそうになる。
慌てて目の前のご飯に目を移し、気を紛らわせた。
別にこのご飯が嫌いなわけではなかった。

おもむろに適当な品を摘むと、舌にとっても美味しい味が伝わり、
ゆっくりとそれを呑み込む。

(美味しい…本当に美味しい……でも……)

ヘルカイト自身、負の気以外でこんなに美味しい物があるとは思ってもみなかった。
だけど……やはり満たされないのだ。
気を紛らわせようとお腹いっぱいに詰め込めば、満腹にはなった。
でも……ヘルカイトは負の気を食べて生きる竜なのだ。
負の気を食べないと最終的には……

(ダメ! これ以上、考えるのは止めよう……)

脳裏に湧き上がった想像を、ヘルカイトは無理矢理振り払った。
ヘルカイトは……この前、自分がやってしまったことに対して強い恐怖心を抱いていた。
『このままだと、また……鳥さん達を……』と……
それ故……あの日から今日まで、一切の負の気を食べようとはしなかったのだが、
それもそろそろ限界を迎えつつあるのだった。

「はぁ……どうしよう……」
「どうしたの……ヘルカイト…?」

自然と漏れたヘルカイトのため息に、ガイルがすぐに気が付いて声をかける。

「えっ? な、何でもない!」
「そ、そうなの? ……それなら良いんだけどねぇ……」

驚いたヘルカイトが思いっきり首を振るのを見て、
さすがに気圧されて、思わずガイルはそれ以上追求できなくなってしまった。
しかし、追求こそしなかったが……
ガイルはヘルカイトの様子が、変だと言うことはしっかりと気が付いていた。

(こっそり……今は見守った方がいいか……?)

心でそう呟くと、ガイルは当分の間……
こっそりとヘルカイトの様子を観察することに決めたのだった
それからというもの……カモネギやカメールにも事情を伝え協力して貰い。
ガイルはヘルカイトの様子をつぶさに観察していった。

そんな感じで、さらに数日が過ぎ……
ガイルは自分の部屋でふぅ…とため息を漏らしていた。

「はぁ……今月も真っ赤だねぇ〜」

何処か疲れた感じの声を出しながら、机に向かっている彼の目の前には、
なにやら赤い字で、数字が沢山書き込まれた一冊のノートが置かれている。

「ヘルカイトの様子も心配だけど……
 こっちも何とかしないとなぁ……暫く……旅止めようか…?」

そんなことを呟きながら、ガイルは頭でなにやら計算をしてノートに書き込んでいく。
暫くすると、また……ため息を漏らした。
一体、ガイルは何をしているのかというと……
答えは簡単で、単に家計簿のチェックをしているのだ。

だが、単にチェックをするだけなら、ガイルもこんなに何度もため息をついたりはしない。
何をしてガイル家が、収入を得ているかは定かではないが。
ここ最近……収支のバランスが少しずつ崩れ始めているのだ。

その事実がため息になって、ガイルの口から漏れているのである。

「やっぱり……このままだといけないねぇ〜
 しょうがない……何とかしてみるか……」

とりあえずガイルは、思いついた色々な金策を頭に目ぐらし、ひとまずノートをパタンと閉じた。
それから立ち上がろうとすると……
疲れが溜まっているのだろう、思わずふらついて倒れそうになってしまった。

「あはは……これは自分の心配もしないといけないなぁ……
 とにかく……今日は……もう、寝よう……」

呟きながらガイルはベットに倒れ込むと、その数秒後には小さな寝息が口から漏れだしていた。
布団も被らず、完全に熟睡している。

しかし、その一時の休息は……
ガイルが寝入った、数十秒後に響き渡った大声によって終わりを迎えたのだった。

「カモッー! マ、マスター!」
「……っ!」

部屋の中に乱入してきた大声に、ガイルは反射的にベットから飛び起きた。

「カ、カモ! た、た、た、マスター! 大変!」
「……カモさん……どうしたんだ?」

もの凄い早さで、話しかけてくるカモネギ。
その様子から、尋常ではない雰囲気をガイルは感じ取った。
未だ重く感じられる身体に無理させながらも、その声に耳を傾けていく。
しかし、大慌てしているカモネギの言葉は要領をえず、
何を言いたいのかガイルには、さっぱり分からない。

「い、いや……大変なのは分かったから……何が大変なんだ…?」
「カモ! カモ…… はぁ……」

ガイルに促され、カモネギは一度落ち着くために、小さく深呼吸をすると……

「カモ! 竜さんが倒れたんだ!」
「…………えっ」

その言葉を聞き、ガイルは一瞬、惚けたような声を出していた。

「へ、ヘルカイト!」

だが、次の瞬間には大声と共にカモネギを置き去りにして、
ガイルは部屋から飛び出していく。

「カ、カモ! マ、マスター! まって、僕もー!」

その後をカモネギも必死になって追っていくが、すでに廊下にはガイルの姿は見えなかった。

その後、この長い家の廊下を、ガイルはモノの数十秒で駆け抜けた。
目的の場所へと、たどり着くなりヘルカイトの部屋へと飛び込む。

そして、愕然とした。
目に入ったのは布団に寝かされた……まったく動かないヘルカイトの姿……

「カメ…… あっ……マスター」

立ちすくんだまま動かないガイルに、カメールが声をかける。
しかし、その声には答えず……
ガイルは息を切らしたまま、ジッと布団に寝かされているヘルカイトを見つめていた。

「ハァ、ハァ……ヘルカイト……」

場所を聞かずに飛び出していったガイル。
ここにヘルカイトがいると確信があったわけではない。
だが、ここにヘルカイトはいると、何となくガイルにはそれが分かったのだ。

「カメ……マスター……こっち」
「あっ ……ああ……」

カメールに促されガイルは……力無く呟くと、
ヨロヨロとした足取りで、布団の傍に近づき畳に腰を下ろす。

「……どうしたんだ……?」
「カメ……わからない。」

一端そこで言葉を止め、カメールはガイルを見上げた。
ガイルはヘルカイトを見つめたまま、カメールの視線にも気が付きもしない。

「……カメ」

自分の主の様子にカメールは、小さくため息と付き、言葉を続ける。

「珍しく……竜さんが部屋から出てこないから、
 様子を見に行ったら……倒れてたの……」
「…………」
「カメ……マスター……元気出して……」

意気消沈しているガイルを励まそうとカメールが声をかけるが、
返事は帰ってこなかった。

こんなガイルをカメールは前に何度か見たことがあった。

近いところでは、前にヘルカイトがカモネギを襲ったとき……
遠いところでは、誰かが風邪を引いたり怪我をしたとき……

その度にガイルはこんな……落ち込んだ顔をしていた。

カメールはこの顔が嫌いだった。
この顔を変えようと、何度もガイルを励まそうとするのだが……

「うぅ……」
「ヘルカイト!」
「カメ! 竜さん!」

突然呻き声を上げて身じろぎしたヘルカイトに、ガイルとカメールは同時に反応する。
心配して見るめる二人の目の前で、ゆっくりとヘルカイトの目が開いていった。

「あれ……? 僕……?」
「ふぅ……ヘルカイト。 意識が戻って良かった……」

ヘルカイトの意識が戻ったことにより、ガイルは安堵の息を漏らした。
ガイルだけでない、カメールもホッと息を漏らしていた。

……っと、その横でもう一つ安堵の息がもれた。

「カモ…良かったね竜さん」
「あれ? カモさん」
「カメ? カモネギいつからいたの?」
「カモ! さっきからいた! 気づいてなかったの!?」

二人からまったく気づいてもらえていなかったカモネギは、心外だとばかりに声を荒げる。
しかし、当の二人は……『本当にいつからいたんだろう?』と思っていた。

「ははは……鳥さん。 何か……面白い」
「カモ〜 竜さんまで……うぅ」

ついには本当に泣き出したように、その場に崩れてしまった。

「あっ……ご、ごめんなさい」
「カモ……もう良いよ……僕なんて、僕なんて……」

慌てて謝るヘルカイトだったが、カモネギには逆効果だったようだ。
ますますいじけてしまう。
そんなカモネギを見て、思わずヘルカイトは身を起こ……そうとして、
苦しそうに布団の上に倒れ込んでしまった。

「ヘルカイト! 未だ動くな……」
「うぅ……ガ……いや、マスター……」

自分を覗き込む心配そうな顔をヘルカイトは見渡し……

『ゴメン』

それだけ呟いて、大人しく目を閉じて眠りについたのだった。
暫くして……スゥ…スゥ……と可愛い寝息が漏れだした頃。

「みんな……疲れただろ。 今日は僕がヘルカイトを見ているから、休んでてくれ。」
「カ、カメ! だけどマスター!」
「カモッ! カメール……行くよ……」
「カメ……カモネギ……」

カモネギの声に信じられないとばかりに、カメールは振り向くが……
黙ったまま、ゆっくりと首を振るカモネギを見て、大人しく一緒に部屋から出て行った。

「ゴメンなみんな……今は、ヘルカイトと二人っきりにしてくれ……」

二匹が出て行った方に目を向けて、小さくそう呟き……
ヘルカイトに目を戻した。
今はぐっすりと眠っていて、さっきまで意識が無かったのが嘘のようだった。

だが、まだ油断は出来ない。

ガイルは夜通しヘルカイトの看病をする決意を固めた。



     *   *   *



あれからどれだけの時間が経ったのだろう?
やはり……今のガイルでは夜通し看病するのは無理だったようで、
器用に座ったまま、眠りこけていた。

「スゥ……スゥ……」

ついさっきまでヘルカイトの身体を拭いていたのか、手には濡れタオルを持っていて、
傍には水の入った洗面器と、替えのタオルが何枚か用意されている。

「……ぅん……ヘルカイト…元気に……」

小さな寝言がガイルの口から漏れる。
力尽きて眠ってしまったが、ガイルがどんな思いで看病していたかよく分かった。

そんな折……

「うっ……うぅ〜ん……誰…?」

眠りが浅くなっていたのか、呼びかける声に反応して、
ヘルカイトの目がうっすらと開いた。

「あっ が、ガイル! あぅ…ちが……」

寝ぼけ眼に飛び込んできた姿にヘルカイトは、ちょっと恥ずかしそうに声をあげるが、
起こしてはいけないと慌てて、自分の口に手を当て声を封じる。
間一髪、一瞬眉を歪めて少し苦しそうに呻いたガイルだったが、
周りが再び静かになると、穏やかな寝息を立て始めた。

一安心と……ふぅとため息をついてヘルカイトが口から手を離す。

(……マスターが何でここに……?)

疑問を自分に投げかけながらも、ヘルカイトはその理由が分かっていた。
倒れてしまった自分のせいだと……

こうして、ガイルと一緒に居るのはとても嬉しい……
だが、こんなに迷惑をかけている事実は、遙かに辛かった。

「うぅ……あぅ……明日はどうしよう…」
「マスタ……?」

考え事をしていたヘルカイトの目の前で、ガイルが急にうなされるように寝声を呟いた。
恐らく明日の生活費を考える夢でも見ているのだろう。
しかし、そんなことなど知るよしもないヘルカイトは、心配しゆっくり布団から這い出した。

なるべく音を立てず、静かに傍まで近づくとガイルの寝顔を見つめる。
その目には主の寝顔ともう一つ……

(ガイ……マスター……
 この匂い……前より負が濃くなってる)

目に映る負にヘルカイトは、思わず恍惚に頬を緩めた。
間近で嗅ぎ取った負に誘われて、ヘルカイトの口からだらしなく舌が垂れてくる。

まるで麻薬のようなそれに、ヘルカイトは抗いきれずに、
ガイルの首筋辺りに舌を長く伸ばしていき……


ペロリ……


生々しい音と共にヘルカイトの舌が、ガイルの首筋を一度這っていき、
出来るだけの負を舐め取っていった。

「うっ……うぅん……」

首筋に走った感覚に眠ったガイルが、くすぐったそうに身を捩る。
ヘルカイトの舌が這った後には、しっとりと唾液が残され……
僅かに部屋を照らしている明かりで反射して、薄く輝いて見えていた。

その間にもヘルカイトは口の中で、舐め取った負を反芻していく。
長々とその味を味わい呑み込んだとき……

感じた負の味は、今までで感じたことのない程の美味しい味だった。

「ぐぅっ! グルルルッ!」

急に身体に走った異変にヘルカイトは、うなり声を上げて堪える。
しかし、異変はそれだけではなく、気分が激しく高揚して息が荒くなっていった。

(ハァ……ハァ……どうしたの…? 僕はいったい……?)

止まらない身体の異変に戸惑い……そして、思い出した。
以前……カモネギを襲ったときに似ていると。

そう……思ったのだ。

(ダメッ! 僕は…もう、負の気を食べないって誓って…!)

ヘルカイトの心で葛藤という戦いが始まる。
最初は何とか理性が勝り、心が落ち着き始めたが……

不思議な囁きが脳裏に響いてきた。

(マスターであるガイルの負を全て食べたいんだろう…?
 食べればいい……別に傷つけることはない、
 自分には生き物を消化せず負の気だけを吸い取る力がある。)

まるで自分の欲望が囁きかけているかのような声に、意識がなくなる。
ヘルカイトの手が無意識にガイルに伸びて……止まった。

(ダ…メ……! ガイルは……僕の……!)

ギリギリのところで堪えるヘルカイト。
身体が震え、無意識に負を求めようと動き出そうとしていた。

そして、もう一度……あの囁きが脳裏に響く。

(堪える必要はない……負の気を取ってあげたら、マスターの身体も少しは楽になる。
 そもそも、漆黒のヘルカイトはそう言う生き物だろ…?)
「ち、違う……僕は……うわぁっ!」

ヘルカイトは自分の身体を見て、目を見開く。
いつの間にか身体が、天井につきそうなぐらい巨大化し始めていたのだ。
狭く感じられる部屋の中で、身を屈めるヘルカイトに、囁きがさらに追い打ちをかける。

(身体は食べたいと訴えている……
 大丈夫……マスターは君を受け入れてくれるよ)

この時点でヘルカイトは、ようやく気が付いた。
脳裏に響くこの囁きは、自分なんだと……願望なんだと……

「ガイル……ゴメン。 僕、もう我慢できないよ……」

今まで、ひた隠していた想いをさらけ出し。
ヘルカイトは自分から……その想いに身を委ねていった。

頭を低く下げていき、眠っているガイルの頭に口を開いて近づいていく。

もし、ガイルが起きていたのなら……
夜の暗闇にパックリと口を開いた、真っ赤な色彩を見ることが出来たかも知れない。
赤で彩られた口が…その影が、ゆっくりとガイルの頭を覆い……



口を閉じる前に、ヘルカイトは小さく呟いた。

「マスター……頂きます」

言葉の後、心の中で呪文を唱え魔法を使う。
使ったのは眠りの魔法……これでガイルはさらに深い眠りへと誘われるはずだった。
自然とガイルの身体が倒れていき、ピチャリとヘルカイトの舌の上に乗った。

そして……ヘルカイトはゆっくりと口を閉じていく。


……ムグッ


口は閉じられ、ガイルの上半身は柔らかな舌の上に寝かされていた。
傷つけないように加減された牙が食い込む音が、僅かに部屋に響く。

「ぐぅ……あ……」

口内でガイルの呻く声が濁る。
だが、決して目を覚ますことはない……

それでも眠りで脱力した身体を傷つけないよう、
ヘルカイトは注意を払いながら口を動かす。


……ハグ…ハグ…… ジュル…ジュリ、ジュリリ…ピチャ……


咥え直す音が響く度に、唾液で鈍く輝く牙がガイルの身体に優しく食い込む。
眠っているガイルは、この行為をどんな夢としてみているのだろうか……?
呻く声は僅かにヘルカイトの口の中で反響するだけで、外に漏れることもなく。

ただ……
噛む音と舌の上を滑る音だけが部屋の中に響いていた。

さほど時間もかけず、大体1〜2分程経ち……
音が聞こえなくなった頃には、ヘルカイトはガイルの全身を口の中に収めていた。
いや……その表現は少しおかしいかも知れない。

すでにガイルの上半身はヘルカイトの喉を通り、大きく膨らませているのだから。

(ハァハァ……なんだろ、この感じ……?)

喉に感じる圧迫感、
それにガイルの身体から発せられている負に、
ヘルカイトの気分は高揚していた。
自然と手が喉へと伸び、膨らみを確かめないといられない。

(マスターがとても美味しく感じる。
 それに、喉を通す感触がこんなにも気持ちいいなんて……)

今も徐々に喉を滑り落ちるガイルの感触……
タップリの唾液で濡れた身体が喉を押し広げ、生々しい音を立てて落ちていく。
その全てを余すことなく味わい……

ヘルカイトは思わず身もだえした。
不規則に蠢く尻尾が、部屋のあちこちを叩いて小さな音を立てる。

しかし、その音に気が付いた者はヘルカイトを含め、この家の中に誰もいなかった。

(くふふ……マスター、もうすぐだよ。
 もうこれで、最後……)

すでに口の中には膝下以外、残っておらず。
最後の仕上げのために、ヘルカイトはゆっくりと首を伸ばし頭を擡げていく。

数秒後……


ゴクリッ


ヘルカイトの喉が一度、音を立てて大きく動く。
ついにガイルを呑み込んでしまったのだった。


ズリュッ グジュリ…ジュリジュリ……


さっきまでが嘘のように、ガイルの身体は速やかにヘルカイトの喉を滑り落ちていった。
もし、ガイルが目覚めていたら、闇を見通すことが出来たのなら、
彼の目には……胃袋の入り口が見えていただろう。

そして、今……ガイルの頭が胃袋の入り口に触れ、
入り口は何の抵抗もなくガイルの頭を呑み込み、さらに身体を呑み込む。
外から見える喉の膨らみは徐々に姿を消していき、
変わりにヘルカイトのお腹が少しずつ膨らみ始め……


ジュル……グリュリュ……ズッ……ズリュッ!


完全に喉の膨らみが吸い込まれるように消えた後……
大きくヘルカイトのお腹は膨れあがったのだった。

「ゲフッ くふふ……マスターが僕の中に……」

一緒に呑み込んだ空気を吐き出し、
ヘルカイトは膨れたお腹に手を当てて、
満足そうにその膨らみをなで回し始める。

胃袋の中では胃壁が絶えず蠢き、
受け入れた食べ物……ガイルの身体を、
優しく揉みほぐしていた。



……ジュリリ……ニチャ……グニュ……


胃壁が蠢く度に、胃壁同士…またはガイルと小擦れ合い、
体液が生々しい音を立てている。
広いわけでもなく、かといって狭いわけでもない空間で、
ガイルは翻弄され、今度は唾液の変わりに胃の体液に絡められていった。

十分にガイルの身体を体液に絡めると、ゆっくりと体液とは違う何かが
胃壁から湧き出し始めた。
音を出さずにその液体は少しずつガイルの身体を覆っていく。

暫くするとガイルの身体から黒い靄が湧き上がってきた。
これが負の気だった。
ガイルの身体から負の気が大量に立ち上り、胃壁が待ち望んだそれを吸い込み吸収する。

そんな中、今まで呻き声を上げるだけだったガイルが、ピクリと四肢を動かし出した。
ヘルカイトの魔法が解けかかっているのだ。
そして、ヘルカイトは……
自分がかけた魔法が、もうすぐ解けようとしているのに気づいてはいなかった。

ずっとお腹をなで回し続けて、感じる気持ちよさにヘルカイトはため息を漏らす。

「ハァ……気持ちいい……」

お腹をなで回しているだけで、ヘルカイトは自分と中にいるガイルの暖かさが、
伝わってくる気がしていた。
吸い取る負の気も絶品で、身体に以前の活力が溢れ始める。

その感じにヘルカイトは少し身体に力を入れて確かめると。

「くふふ…マスター…もうすぐ終わりだからね。
 マスターの負の気、全部吸い出してあげる……」

さらに大量の特殊な胃液と言えばいいのか、それを胃袋の中に満たしていく。
その胃液を浴びて、ガイルの身体から次々と負の気が抜け出ていき……

「ぐぅ……ぐぁ……うっ……ここは…?」

小さな呻き声と共にガイルがついに目を覚ましたのだった。


     *   *   *


目を開いて最初に飛び込んできたのは、まったく光の無い世界。

「あぅ……何も見えない。
 どうしてこんなところに……っ!」

困惑したガイルの声が響く。
それと同時に、何処かで今と同じ事を経験した気がした。
昔の記憶を引っ張り出しながら、ゆっくりと壁に手をつき……


ジュルッ!


異様に柔らかな壁にガイルの手がめり込む。
次の瞬間、壁を塗らしている不思議な液体が手を滑らせ、
ガイルは仰向けから、俯けにひっくり返った。

「おわっ! くっ!」

軽く弾む身体。
衝撃で撥ねた液体が、僅かにガイルの口に飛び込む。
何とも言えない味が口の中に広がり、顰めっ面を浮かべたガイル。
それでも、柔らかく弾力のある床が、
ガイルを傷つけることなく、無事に守りきっていた。

「あう……何なんだよ…ここ……」

今度はそっと手をつき、ガイルは身体を起こしていく。
そして、確信していた。
自分は昔…………それも最近、この感覚を味わったはずだと。
確信がより深く、埋もれた記憶を掘り起こす。

少し身震いするような感覚が背筋を震わせた。

「うぅ……まさかねぇ」

恐る恐る自分の身体を確かめると……
ビチャビチャになっている服や身体の感じ。
周囲を取り巻く揺れ動くヌメヌメした壁。
僅かに息苦しい空気。

それらと思い起こした記憶とを照らし合わせ……
ガイルは、あまり認めたくない答えにたどり着いてしまった。

「うぐぅ……もしかしてここは胃の中……?」

たどり着いた答えを声に出し、ガイルは確信を深める。
そして、新たに浮かんだ疑問が再び頭を悩ませた。

「……じゃあ…ここは誰の……ぐぉっ!」

激しく動き出した胃壁に翻弄され、ガイルは考える事を中断される。
グニグニと蠢く胃壁に激しく揉まれ、胃液が頭から降り注ぐ。

「アウアウ…ぐぉ…うっぷ……」

まともに息をつく暇さえない。
胃壁の動きにガイルの体力はすり減り、抵抗すらさせてもらえない。
だが、最初の内は苦痛だった胃の動きも、次第に気持ちよさへと変わっていった。

「ぜぇぜぇ……気持ち……アゥ……」

頭は真っ白になり、まともに声を出すことも難しくなる。
それでいて、何か不思議な感じを身体に感じていた。

それは心と身体から何かが抜け出て、軽くなる感じ……
勿論、それはヘルカイトが今も、重くしていた原因を吸い取っているからだったが、
ガイルには知る由もない。

「うっ……うぁ……」

胃壁に弄ばれ、何度目かの喘ぐ声を漏らす。
これだけ声をあげれば、ヘルカイトも気が付きそうなモノだが……
夢中になっているせいか、気が付かない。

最後の仕上げに胃壁が急速に縮だし……
あっと言う間にガイルの身体を、身動きもとれないぐらい包み込むと、
さらに収縮し押しつぶした。

「ぐぅ…………」

肺に残された息を根こそぎ吐き出し、さすがに苦しさで藻掻くが、
しっかりと胃壁はガイルを押さえ込み、満足に身動きすらさせなかった。

後はゆっくりと……残された負をガイルから絞り出し、吸い尽くした。
次第に落ち着きを取り戻した胃壁が、元通りに広がっていく。


ズルズル ビチャッ!


拍子にガイルは胃壁の表面を滑り落ち、力無く胃袋のそこに音を立てて倒れ込んだ。

「……ハァ……ハァ……」

声をあげる力もないのか、息も絶え絶えで呼吸を続けている。

逆にヘルカイトは、ガイルの負を全てを絞り尽くし……
満足そうに笑みを浮かべながら一言……呟いた。

「……ご馳走様」

感謝の言葉の後、器用に胃を操りガイルを吐き出していく。
中にはこのまま、消化してしまおうとする同族の竜もいるが、
ヘルカイトにはそんな気は更々無かった。


ゴボッ ジュル…グジュ……


段々とヘルカイトの喉、が先のと逆回しのように膨れあがり……
膨らみが口を目指して登っていく。

さしたる時間もかけず、膨らみは口へと到達し。


グバァ〜


ヘルカイトの開いた口から、滑り台のようにガイルが滑り落ちる。
自分の体液でベトベトになっている主を見つめ、ヘルカイトが魔法を解こうとしたとき。

「ぐうっ ゲホッ! ゲホッ!」

外気に急に晒されたせいか、強烈な吐き気に襲われ激しく咳き込むガイル。
ヘルカイトの表情がとまどいを浮かべ、驚いたように言葉が漏れた。

「マ、マスター……?」

魔法を解く前に動き出したガイルの動きに、ヘルカイトは思考が硬直する。

(な、なんで……僕の魔法が……?)

思考が働きだしても、疑問ばかりが頭をよぎり。
オロオロとガイルに目を受け戸惑うばかりだった。

「ハァ…ハァ…ヘルカイ…っ! ゲホッ! ゲホッ!」
「マ、マスター うぅ…フゥ…フゥ…」

咳き込むガイルの姿を見ていると、ヘルカイトは胸が苦しくなり……
胸に手を当て浅く呼吸をする。
それでも、自分の主を助けなくちゃと身体を屈め、
床に四つん這いになって、苦しむガイルに手を伸ばした。

「マスター……しっかり」
「ゴフッ! うぅ……ハァ……ハァ……」

咳き込むガイルの背中を、ヘルカイトがそっと撫でていく。
小さく声をかけながら様子を伺っていると、
少しずつガイルの吐き気も落ち着いてきたようで、呼吸が正常に戻っていった。

ガイルは四つん這いだった身体を動かし、
ヘルカイトにもたれ掛かりながら、膝立ちで身体を支える。

「ハァ、ハァ……ヘルカイト……」

未だ冷や汗の浮かぶ顔を上げて、ヘルカイトの名前を呟いた。
名前を呼ばれたことで、ヘルカイトは内心……
何を問われるのか検討がついていて、恐る恐る返事をかえす。

「マスター……」
「ヘルカイト……何でお前が……うっ」
「あっ! 無理しないで……」

再び苦しそうに崩れ落ちそうになったガイルを、慌ててヘルカイトが支える。
手が動いた拍子にガイルと目が合い……

「うっ」

心に後ろめたさを感じ、ヘルカイトはすぐに目をそらしてしまった。
だが、逃げてはいけないと心に言い聞かせ、無理矢理ガイルと目を合わせ……
ヘルカイトは今まで隠していた自分の種族について、全てガイルに話していった。

今まで見せた以外に使える魔法や、能力。
そして、自分達が本来……何を食べて生きているかを……

最初に話したときより事細かく、その全てをヘルカイトが話し終えたとき、
ガイルは驚きで目を丸くしていた。

「…………」

『言葉が出ない。』この言葉の意味をガイルは改めて実感していた。
何かを言おうと口を開くのだが、一度に色々と起こりすぎて考えが纏まらない。
真っ白な思考が焦りを呼び、益々考えが纏まらないという悪循環だった。

だが、それでも一つだけ、ガイルには分かっていることがある。
ヘルカイトの目……ガイルはこの目に覚えがあった。

一月前、初めてヘルカイトに会ったときも、こんな寂しそうな目をしていたのだ。


ギリ…リィッ


ガイルの口から歯ぎしりの音が小さく響く。

……苛立っていた。
言葉が出てこない自分に腹が立ったのだ。

(マス……ター……?)

様子の変わったガイルに、ヘルカイトは怪訝な顔を浮かべ……
表情を曇らせた。
支えていたガイルをそっと座らせて、自分は一歩…二歩と後ずさる。

「こんな僕……怖いよね、気持ち悪い……よ……ね……」

話ながら段々と頭を垂れていき、声も尻切れに小さくなっていった。
苛立つガイルの姿に、嫌われたと思いこんだのだ。

「なっ…何を……言って……?」

思いがけない言葉にガイルは、ヘルカイトに向かって短く手を伸ばす。
だが、次の言葉を発する前に……

「ご免なさい!」
「あっ! へ、ヘルカイト!」

ガイルの目の前でヘルカイトは踵を返し、部屋の入り口の戸を開いた。
途端、廊下のひんやりとした空気が部屋へ流れ込み、一瞬の間が生まれる。

「待ってくれ!」

未だ調子の戻らない身体にむち打ち、駆け寄り伸ばした手が、
間一髪、部屋から飛びだそうとしたヘルカイトの身体を掴む。
しかし、その手を振り切ろうとヘルカイトは身体を捩り続ける。

「マ、マスター……行かせて!
 僕はこれ以上、みんなに嫌われたく……ない!」
「誰もお前を嫌ったりして……ぐぅっ!」

まるで、駄々をこねる子供のように暴れるヘルカイトが、ひときわ大きく身体を捩った。
身体の動きに引きずられ、ガイルは地面に引き倒される。

「痛っ! 行くな…ヘル……あ、あれ?」

即座に立ち上がろうとしたガイルだが、身体に力が入らない。
確かに疲労は、負の気と共にヘルカイトが吸い取った。
しかし、完全に負の気を吸い取られた身体は、激しい脱力感を産み、
身体の自由を少しずつ蝕んでいた。

それがさっきの衝撃で一気に進行したのだ。

「な、何で、身体が……うっ……ハァハァ……」

動くどころか、息まで荒くなり、起きあがることも出来ない。
再び床に這い蹲ったガイルの姿に、
ヘルカイトは慌てて駆け寄ろうと振り返り……躊躇した。

自分でこの家にいられないと決めたのだ。
これ以上、ここにいたら気持ちが折れてしまう……そう思ったのだ。

(い、今だ…行かないと……
 僕は……ここには居てはいけないんだ……!)

ともすれば、今にも折れて仕舞いそうな決意を、無理矢理思いこむで支え。
ヘルカイトは部屋の外へと向かって歩き出した。

「だ、だめだ……行かないでくれ……」
(マスタ……ゴメン従えないよ……)

後ろからかかる声を振り切るかのように、足を速めていく。
遠ざかる後ろ姿に、ガイルは最後の望みをかけてヘルカイトの名前を呼んだ。

「ヘルカイト……」
「…………」

無言だったが、ヘルカイトの足が止まり……すぐに動き出してしまう。
これ以上、ガイルに出来ることはなかった。

(ダメだ……止められない……
 何で僕は、こんな時に……動け……ない……)

動けと命じるガイルの意に反して、脳は休息を求めていた。
この肝心なときに強烈な睡魔が目蓋を重くして……
今にも意識が途絶えそうなガイルのぼやけた視界の中で、
最後にヘルカイトが、一度だけ立ち止まり……言葉を発した。

「ガイル……ご免なさい……」
「ヘル…カイ…ト……」

ついに意識の糸が切れたのか、ガイルは力尽き……眠ってしまった。
止めるモノがなくなったヘルカイトは、ゆっくりと部屋の入り口をくぐり……
言い様のない喪失感を感じた後、廊下を歩き出した。

次の日、家の中にヘルカイトの姿は無かった。




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