Trick or treat !



 色々と些細な雑事に追われて、自邸へ戻るのは10日ぶりだった。
 まだ陽が落ちきっていない夕暮れの暗い光と冷えた秋風に迎えられながら車を降りる。それでもまだ明るいうちに帰ることが出来たのは本当に久しぶりだと気付いてふと振り返ると、見慣れた庭の風景が妙に懐かしく眼に入った。
 少し、疲れているのかもしれない。
 エントランスを入り、出迎えた執事に声を掛ける。いつも通り物静かな声音で応対する初老の執事は、だが、少しいつもとは違った柔らかい表情をみせた。
「トレーズ様、あちらを」
 言われて奥に視線を向けると、廊下の端からなにか黒いとがったものが覗いていた。
 一瞬、それがなんだか分からず瞬いた。
 注目されて一旦引っ込んだものの、おずおずと再び姿を見せる。
 黒い大きなとんがり帽子と、それに顔がすっぽり隠れてしまっている、彼だった。
 それでようやく今日の日付を思い出し、トレーズは微笑んだ。
 10日ぶりのはずなのに、もっとずっと長く離れていたかのように、その姿を眼にしただけで心がふわりと温かくなる。
「ミリアルド」
 帽子と同じ黒いマントに手には箒。小さな魔法使いはトレーズが歩み寄ると、逃げ場を無くした小動物のようにあたふたし、追い詰められてどうしようもなくなり仕方なく上目遣いに見上げてきた。
 顔が真っ赤だ。
「あの……その……」
「どうしたんだい?」
 湯気が出そうなほど顔を赤くしてその蒼い瞳を潤ませながら、やっぱり面と向かっては言えないようで、俯いて、消え入りそうな声で呟く。
「……トリック・オア・トリート」
 彼は凄い、と改めて思う。たった1秒で疲労も苦悩も消し去って、トレーズに笑みを与えてくれる。
 トレーズは破顔して屈み込み、まだ小さな彼を抱き上げた。
「トレーズ! いやだ、降ろして! 僕もう子供じゃない!」
 じたばたもがく彼を、ぎゅっと抱き締め耳許に囁く。
「私がこうしたいんだ。悪いけど付き合ってほしいな。お菓子は持ちきれないほどあげるから」
 去年の秋、この屋敷に来たばかりの頃の彼は、両親を亡くして心を閉ざし、一言も言葉を発さず空ばかり見上げていた。
 トレーズはただ傷ついた彼を見ているしかなかった。傷を癒してやることも、痛みを代わってやることも、出来なかった。
 だから今、感謝せずにいられない。彼に。彼の生きる強さに。
 胸が痛い。幸福なのか、切なさなのか、分からない想いが胸をきりきりといっぱいにする。
「……持てないくらい?」
「そう。お菓子の山で溺れるくらい」
「すごい!」
 古代ケルトの信仰に起源するハロウィンは、カトリック信徒でも庶民の間ではイベントとして催されてはいるが、トレーズには経験がない。彼も恐らく同じだろう。学校でクラスメイトから聞いて興味を持ったのかもしれない。
 だが普段は自分の立場を弁えすぎて我が侭一つ言わない魔法使いの、こんなかわいいおねだりを聞けるのなら、異教徒由来の祭りも悪くないと思う。
 明日は全ての予定をキャンセルしてでも、お菓子の山を買って帰ろう。もし今日準備していないことに拗ねられてしまったら、それならそれで彼に報復の悪戯をされるのも楽しみだ。
 無邪気にはしゃぐ彼の体温はトレーズより高くて、そのぬくもりに温められながら、トレーズはしばらく空いていた心の充足を感じて眼を細めた。



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