Trick or treat !



 もう何日になるのだろう、彼の姿を見てない。
 執事は、クシュリナーダ宗家の跡継ぎとして学ばなければならないことが沢山あるのだと言っていたけれど、それは彼にとってとても大切なことだと勿論分かっているけれど、それでも少し忙しすぎるのじゃないかと思う。
5歳年齢の離れた彼は、ミリアルドからみればその年齢差以上に途方もなく大人に思えるけれど、それでもまだ彼は12歳だ。充分子供だ。
 学校からの帰り道、迎えの車の後部座席で車窓を眺めながらそんなことをつらつらと考えていて、ふと沿道のショーウインドウを飾るオレンジ色に目を引かれた。
「あれは、なに?」
 運転手とバックミラー越しに目があった。
「あれ、とおっしゃいますと?」
「カボチャのお化けが沢山飾ってあったよ」
 ああ、と運転手は笑った。
「ジャック・オー・ランタンですね。ハロウィンの代表的な飾りですよ。そういえば今日ですね、ハロウィンは」
「ハロウィン?」
「ミリアルド様はご存じないかもしれませんね。元々はプロテスタントの祭りなんです」
 運転手は、お化けや魔女に仮装した子供達が「ごちそうしないと悪戯するぞ」と家々を訪ね歩いてお菓子をねだる行事なのだと教えてくれた。
 不意に思いついて訊いてみた。
「トレーズの家ではしないの?」
「そうですね。旦那様もトレーズ様も敬虔なカトリック信徒ですから」
「……そう」
 溜息混じりにミリアルドは呟く。そんな姿に運転手が声を掛けた。
「フランツに訊いてみましょう。ミリアルド様がしたいとおっしゃるなら、きっとみんな喜んでパーティを準備してくれますよ」
 ミリアルドは慌てて首を振った。みんなの手を煩わせたい訳じゃない。
「パーティがしたいんじゃないんだ。ただ、ちょっとだけ……そんなお祭りがあるならやってみたいなって、思っただけなんだ」
「だったらやりましょう、やりましょう」
 ミラー越しににこにこと運転手が笑う。
「ミリアルド様からのご要望なんて滅多にないんですから。みんな張り切りますよ」
 確かに、使用人達はミリアルドに良くしてくれる。ミリアルドは単に、主の孫の友人、なのに。まだ情けないくらい子供だけれど、自分の立場は分かっているつもりだ。そんな頼りない立場の子供だからこそ、皆特別に目を掛けてくれているのかもしれないけれど。
 屋敷に帰ると、早速運転手から話を訊いて侍女達が張り切りだした。いい顔はしないだろうと思っていた執事まで、難しい顔をすることなくにっこり笑って賛成してくれた。
 だけど、料理のメニューがどうとか、飾り付けがどうとか、黙っているうちに話はどんどん大がかりになっていく。勝手に盛り上がる大人達の間に背伸びをして割って入った。
「あの、あのね。パーティはいいんだ。ちょっとだけでいいんだ。僕、お化けの格好をして、トリック・オア・トリートって言ってみたいんだ」
「お化け、ですか? それでは衣装を用意しなくてはなりませんね」
「急いで作らせないと。間に合いますかな」
「仮装は他にもいろいろありますよ。フランケンシュタインとか吸血鬼とか」
「ミリアルド様はお可愛らしいのだから、そんなグロテスクな仮装は似合いません。魔法使いなんかどうですか? ミリアルド様に似合いそう」
「黒猫ってかわいいと思うんだけど」
 途端に侍女達がわいわい言い出したのを、執事がグレイの眉を寄せて軽く手を叩いた。
「お前達が決めてどうする。とにかく時間がないのだから、サンプルの衣装を集めてミリアルド様にお見せしなさい。その中で選んで頂いて作らせましょう。急がせればなんとかトレーズ様のお帰りまでには間に合います」
「トレーズ、今日帰ってくるの?」
 執事は腰を屈めて笑いかけた。
「はい。ミリアルド様がお寂しい思いをされていないか、気に掛けていらっしゃいましたよ」
 よかった。ミリアルドは胸を弾ませる。
 ミリアルドがおかしな格好で悪戯するぞと出迎えたら、忙しくて疲れた心が少しはまぎれるかな。少しは笑ってくれるかな。少しは元気になってくれるかな。
 結局衣装は侍女一押しの魔法使いに決め(本当はお化けがいいなと思ったのだが)、そうして手に箒を持って、ミリアルドは玄関ホールの脇の廊下に待機していた。
 トレーズを載せたリムジンが玄関前に止まって執事が出迎えるのが、窓越しに見える。車から彼が降り立つ。夕暮れの暗がりに沈んだその横顔は、はっとするくらい大人びて見えた。
 窓から忍び寄ってくる冷気がひやりと頬と指先を撫でる。遠くて、なんだか知らない人みたいだ。ミリアルドは思う。やっぱりトレーズは大人なんだ。実際の年齢以上に、ミリアルドとの年の差以上に、ずっと大人なんだ。
 急に、自分のしようとしていることがとんでもなく子供じみているように思えてきた。
 どうしよう、なぜこんなことをしようと思ったんだろう。きっと笑われる。いや、笑われるだけならまだいい。呆れられてしまうかも。
 執事と留守中のことを話しながら、彼が玄関に入ってくる。いっそ逃げようか。そう思って後ずさりかけ、うっかり持っていた箒を落としてしまった。
 拾おうとして屈んだところで、その顔に大きな疑問符を浮かべた彼と目が合った。
 心の中で悲鳴を上げながら逃げたい隠れたいと視線を彷徨わせるが、廊下に身を隠せる場所などない。焦っているうちに彼が目の前まで来てしまって、逃げ場をなくしたミリアルドはどうしようもなく顔を上げた。
 大人びた穏やかな瑠璃色の眸がミリアルドを見つめていた。
「あの……その………」
「どうしたんだい?」
 恥ずかしすぎて涙が出そうになる。それでもこんな格好でいるところを見つかって、今更黙っている訳にもいかない。俯いて必死に両の拳を握りしめ、ようやく言葉を押し出した。
「……トリック・オア・トリート」
 消え入りそうな自分の声が静かな廊下に消えて、ぎゅっと目をつぶる。彼はきっと呆れて、困った顔をしているに違いない。こんな急にハロウィンだなんて幼稚な行事を押しつけられても対応に困るだけだろう。
 もう居たたまれなくて、ごめんなさいと叫んで逃げだそうとした時、いきなりふわりと身体を持ち上げられた。
 彼の髪の香りが鼻先をかすめる。トレーズに抱き上げられて、まるで幼児扱いされているようで、さらにかぁっと頬が熱くなった。
「トレーズ! いやだ、降ろして! 僕もう子供じゃない!」
 足をばたばたさせるが床に届くはずもなく、逆により強く抱き締められてしまった。
「私がこうしたいんだ。悪いけど付き合ってほしいな。お菓子は持ちきれないほどあげるから」
 ミリアルドははた、と動きを止めた。持ちきれないほどのお菓子。それはすごいかもしれない。
「……持てないくらい?」
「そう。お菓子の山で溺れるくらい」
「すごい!」
 お菓子の山に埋もれる自分を想像してみて、その素敵すぎる光景に思わず彼に抱きついた。
 やっぱりトレーズはすごいな。子供なのに大人だな。ミリアルドにはまだまだ届かない。
「ミリアルド」
 顔を上げると、彼が微笑んでミリアルドを見つめていた。笑ってくれている。そう気付いて嬉しくなった。
 元気になってくれたかな。
「……大好きだよ」
 耳許の囁きがくすぐったくて首をすくめると、頬に彼の唇が触れた。それがとても温かくて、嬉しくて──ふと、ミリアルドは寂しかったのは自分だということに気付いた。




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