優しい雨    scene 2



 街灯の明かりが雨に滲んでいた。
 遠く、橋の上を行き交う車の水を跳ね飛ばす音と、降り続く雨音と、風に揺すられる並木の音が、重なり合って耳に飽和する。
 琥珀色の街の灯と、その向こうに広がる夜の闇。見上げると、頬や額に無数の雨粒が降りかかった。
 吐く息は白いのに冷たくはなかった。身体が馴れてしまったからかもしれない。そう感じるだけの気力が今はないからかもしれない。
 ゼクスはくすりと笑った。はたから見れば、傘もささずに酔っぱらいがふらふらしているように見えるのだろうか。
 いっそそんな風に、一度何もかもを放り出してみたいものだ。
 ざわざわと風に揉まれて木々がざわめく。雨筋が斜めに変わって、ばらばらとコートを打ち付けた。濡れて頬やコートに張り付く長い髪が、それでも煽られて視界をさえぎった。
 冷えているせいか思うように動かない手で、髪を掻き上げる。こんなに長く伸ばす必要などもうどこにもないのに、何故伸ばしているのだろう。邪険にしながら他人事のように、ふと疑問に思った。
 祖国の  王家の慣習に従って、伸ばし続ける方がいい。切ろうとした幼い日の自分をそう諭したのは、確か彼だった。
 それに私は、君の髪が好きだから。そう言って。
 つくづく、自分は他人の考えに振り回されているのだ。祖国と父の理念に、≪アルファロ≫の思惑に、そして彼に。本当のところ、自分の意志だけで何かを決断したことがあったのだろうか。
 不意に気分が悪くなり、濡れた両手を握りしめた。身体の奥から沸き上がってくる嫌悪感を噛み殺して、腕を広げ頭上を仰いだ。
 シャワーのように雨が顔を打ち始める。髪にも指先にも開けたままの眸にも。打ち付ける雨粒は心地よかった。身体をどんどん冷やしてくれる。行き過ぎる人になんと思われても構わない。ずっとこうして洗われていたい。
 眼を閉じた。まぶたに落ちる雨が心地よくて、ふぅっと意識が遠ざかる。
  ミリアルド」
 低い声がして、肩を掴まれた。眼を開けると、再び雨が眼に流れて景色が歪んだ。
 雨音に気配がまぎれて、肩を叩かれるまで気づかなかった。
「こんなところにいたら、風邪を引くだけでは済まなくなるよ」
 甘い優美な声が、いつもより堅い。ゼクスの奇行に呆れているのだろう。振り返ると、いつも通り綺麗に櫛の入れられた亜麻色の髪と、隙なく着こなされたコートの肩が、みるみる雨に濡れて色を変えていた。
「何故、傘をささないのです?」
「君がそうしないからだ」
「風邪を引きますよ」
「そう思うのなら、早く車に乗りたまえ」
 並木の向こうで、彼が乗り付けたのだろう黒塗りのリムジンが待機している。ゼクスは薄く笑ってすっと身を退いた。
「私は平気ですよ。冷たくはありませんから。雨に打たれるのが気持ちいいんです」
「熱があるのだよ、君は」
「風邪など引いていません」
 彼から、さらに1歩後ずさる。
「どうしてここへ?」
 細かく降りしきる雨に濡れながら、彼はじっとゼクスを見つめた。
「エレクトラ嬢から連絡をもらった。何の言付けもなく、君が2日も帰らないと」
「彼女もお喋りですね」
「君の身に何かあれば知らせてくれるよう、頼んであるからね」
「大袈裟ですよ」
 ゼクスはくすりと笑った。
「≪アルファロ≫の指示で、ロシア高官の邸宅に招待されていたのです。42時間も拘束されて、さすがに疲れましたが」
 彼は痛ましげに眉をひそめた。その表情を無視して明るく続ける。
「ですから、気分転換に帰りの車を途中で降ろしてもらって、散歩していたのです。それだけですよ、トレーズ」
 彼はまっすぐにゼクスを見つめたまま、歩み寄った。ゼクスの目の前で白い手袋を外し、頬に手を伸ばす。反射的に身を退こうとする腕を掴み、再度手を伸ばした。
 張り付いた髪を梳き上げながら、呟く。
「冷え切っているな」
 感覚の麻痺しかけた身体に急に熱を持ったものが触れて、ゼクスはぴくりとなった。頬が痺れるほどの接触だった。優しく、あたたかいはずの掌の感触であるのに、なにか信じられないほどの嫌悪感がそこから広がった。
「さあ、戻ろう」
 肩を抱こうとしたその手からよろよろと逃れた。せっかく忘れようとしていた感覚が戻ってくる。眉を引き絞って吐き気を押しのける。
「……止めてください」
 押し殺した声は呻きに近かった。
「私を、放っておいてください」
「出来ない」
 腕を掴まれ、振りほどこうしてよろけた。ぐらりと目眩が襲う。石畳の上に崩れ落ちようとする身体を、ぐい、と抱き寄せられた。その瞬間、肌が総毛立った。
 無茶苦茶に暴れて腕から逃れ、路上にうずくまる。吐き気がして、目が回って、何がなんだか分からなくなった。ただ、身体中が呪わしく、汚らわしかった。服も肌も四肢も引き裂いて滅茶苦茶にしてやりたい。衝動を腕に爪を立てて、必死にこらえた。耳の奥で狂ったように鼓動が鳴り叫んでいる。息が苦しい。気分が悪い。いっそ吐いてしまいたいのに、何も吐き出せない。
 無理にでも呼吸しなければ窒息してしまうような気がして、喘ぐように息を吸い、吐き出した。そうしているうちにようやく、頭の中で破裂しそうに脈打っていたものが、収まっていく。自分の鼓動だけを聞いていた耳に遠ざかっていた雨音が戻り、真っ暗に眩んだ眼に目前の雨に打たれる石畳が映る。頬を伝う水滴の感触がおぼろげに伝わってくる。
 みじめだ、と思った。こんなところにずぶ濡れでうずくまって、自分は何をしているのだろう。
「ミリアルド」
 耳許で声がした。
 思わず首をすくめた。背にそっと掌がおかれた。
「大丈夫か?」
 染み入るような、優しい声だった。かすかに顔を上げると、彼はゼクスの側に膝をついて覗き込んでいた。
 彼が雨に濡れながら路上に膝をつく必要などないのに。
「……服が、汚れますよ」
 声がかすれた。
「構わんさ。どうせ濡れている」
「あなたは……」
 雫が眼に入り、その姿がぼやける。
「こんな姿に、なる必要のない人なのに」
 彼はうっすらと微笑み、背を撫でた。
「それは君の方だよ、ミリアルド」
「私は……」
 かえりみて、戻ってきそうになる吐き気を眉を寄せ、無理矢理に追いやった。
「私が家を不在だった間、何をしていたと思いますか?」
 ≪アルファロ≫の下で働くようになって4年になる。それでも、身体を交えて相手との癒着を深め、弱みを握るというこの手の任務には、どうしても馴れることが出来ない。そして今回のロシア高官は、≪アルファロ≫以上に悪趣味で執拗だった。何度気を失わされたか分からない。
 そして、心身共にボロボロになって報告に戻ったゼクスを、≪アルファロ≫はさらに強引に抱き、辱めた。
 もうどうなってもいいと、そう思えたならどんなにか気持ちが楽になるだろう。誇りや望みが苦しみしか生み出さないのなら、何の為にそんなものが存在するのだろう。どうして、自分はそれが捨てられないのだろう。
 こんなにみじめな姿をさらしてまで。そして、誰よりも大切な友人に、同じ姿をさせてまで。
 彼の手がそっと肩を包んだ。ゆっくりと引き寄せられ、彼の胸に抱き締められる。
 もう、あの嫌悪感は戻ってこなかった。
「君が望むのなら、いつ帰ってきても構わないのだよ。ステッセルも君が弾いてくれるのを待っている」
 耳許で囁かれる言葉が、光のようだった。
 あたたかい腕。あたたかい頬。あたたかい言葉。冷えてしおれ切った身体に染みこんでくる。
 もうどこにも戻る場所はない。迎え入れてくれる家族もいない。ゼクスにとっては、唯一帰ることの出来る場所が彼なのだ。
 そう選んでしまったことはきっと罪なのに、彼は笑ってそれを許してしまう。いつでも。どんなにゼクスがけがれてしまっても。
 震えそうになる唇をこらえて、ゼクスは微笑った。
「そんなこと……訊かなくとも、答えはお分かりでしょう?」
 彼もくすりと笑った。
「つれないね、君は相変わらず」
 結局知らないふりをして関係を続けていくしか、出来なくなる。
 彼は「さあ」とゼクスを立たせた。
「車へ戻ろう。このままだと、2人そろって寝込んでしまうことになるよ」
 言って、背を抱き促そうとする横顔に、「トレーズ」と呼びかけた。
 振り向いたその唇に、唇を寄せる。少し驚いた顔が微笑みに変わる前に、重ねた。
 単純な言葉では何一つ推し量ることは出来ないだろうこの想いは、きっと彼には伝えられない。ゼクスには彼を求めることでしか、彼に応えることが出来ない。どうすることも出来ない  出来なかった。
 降りしきる雨の中、抱き締め合い、口吻け合う。
 罪の苦さがする彼の唇はとろけるほどあたたかくて、ゼクスは頬に降りかかる雨が冷たいのだとようやく感じた。




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