優しい雨 細い霧雨が格子窓に筋を描いて流れていく。 窓枠に片足を乗り上げてもたれかかり、髪にガラスの冷たさを感じながら、夜の雨空を見つめていた。外からは室内が見えない特殊加工の窓ガラスだから、こうしてだらしなく外を眺めていても、とりあえず狙撃される心配はない。 2日前から、ゼクスのアパートのピアノの音が止んでいる。様子を見に行こう思っていたのだが、今夜は無理のようだ。 街の灯りを吸い上げる夜の闇から、飽きもせず無数に降り落ちる雨。飽和する雨音。 雨は嫌いだ。 雨音にまぎれて足音が近づいてくる。コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。 「なに、むくれてるんだよ、ヒイロ」 視線だけで振り返ると、デュオが人好きのする顔で笑いかけていた。 「別に」 短く答えて、湯気が立ち上るマグカップを受け取る。 「雨降ると、いっつもそんな顔してるよな、お前」 隣の壁に背を預けて、そろいのマグカップを口に運びながら、デュオが話しかけてくる。 「雨に関する嫌な思い出があるとか?」 「別に」 少ししつこいな、と思いながら、軽く溜息をついた。 「雨が降ると、雨音で人の気配が掴みづらくなる。だから雨の日は危険が大きい。それだけだ」 「味気ない理由だな。お前らしー」 何がおかしいのか、デュオはくすくす笑った。 「俺は雨が好きだぜ。だって雨の日は、お前がどこにも出かけねーから」 思いもしない返答に、振り返り、まじまじと彼を見つめた。一瞬の驚きは、だがすぐに別の思いにすり替わる。 「おいおい、俺の告白聞いて、なんでそんなに考え込むんだよ」 「……なるほどな、と思っただけだ。危険を回避する為に雨の日の行動を制限することは、逆に行動パターンを読まれる可能性を高めることにつながる」 「あのなー……」 まじめに答えただけなのに、彼は大袈裟に頭を抱えた。 「お前がどれだけヤバい目に遭ってパリに逃げてきたのか、確かに俺は詳しくは知らねーよ。お前が喋ってくれないからな。お前の生い立ちだって、どんな環境で育ってきたのかも、よくは分からない。けどなー、パリに来てからはお前には尾行や監視の気配もないんだし、このアパートを見張れる場所も全部押さえてある。盗聴器だって、仕掛けられていないか毎日調べてるだろ? 少なくとも今の段階じゃ、お前を狙ってる奴らがここに押し掛けてくる可能性はねーよ。これ以上警戒する必要があんのか?」 「お前には分からないだけだ」 デュオはパリでもそれなりに名の売れた窃盗犯だ。貧民街出身の孤児で、当然まともな子供時代を送って育ったのではない。それでも、JAPで生まれ育ったヒイロとはやはり危機意識に大きな差がある。少しの苛立ちと同時に、少しの寂しさのような感情が過ぎった。寂しさ 「ああ、分からねーよ」 デュオも何故か憤慨したように言い募った。 「ここはパリなんだ。JAPじゃねぇ。そしてお前は独りじゃねぇ。なんでそんなことが分からねーんだ?」 「だからなんだ」と言おうとした口が止まった。いつも快活な輝きを宿した紫の眸が、間近で真摯にヒイロを覗き込んでいた。 「もし仮に、万が一ここが襲撃されたとしたって、そん時は絶対俺がお前を守ってやる。……だからさ。そんないちいち深く考え込まないで、雨の日くらい、のんびりここにいろよ」 ぽかんとした。今まで生きてきて、初めて聞く言葉だった。言葉そのものを初めて聞いた気がした。本当に頭の中が空白で、ただ穴の空くほど彼を見つめていたら、彼が照れ笑いして頭を掻いた。 「そんな綺麗な顔で見つめられたら照れるじゃねーか」 何か、言葉を返さなければいけない。真っ白の頭を何とか掻き回して、一番最初に浮かんだ言葉が、そのまま口を出た。 「お前……変な奴だな」 デュオは苦笑してヒイロを小突いた。 「お前に言われたくねーよ」 衝動が走る。胸の前で揺れていた、その長い三つ編みの髪を掴んだ。後ろ髪を引っ張られて「何すんだ、ヒイロ!」と痛がる彼をぐいっと目の前に引き寄せ、何も言わずに口吻けた。 ただ、キスがしたかった。ヒイロが信じられるのは、自分の身体で体験出来る感触だけだ。言葉や態度はいくらでも取り繕える。人を騙すことなど、騙されることなど、あっけなく簡単なのだ。そうやって他人を踏みつけにした人間、消されていった人間は嫌というほど見てきた。 人間は必ず裏切る生き物だ。決して信じてはならない。 それでも、デュオの唇はあたたかく、コーヒーの香りがした。 水音を残して唇が離れ、デュオが悪戯めいて笑う。 「急に欲情した?」 「バカ」 ぽんと栗色の髪の頭を叩いて、身を離す。くすくす笑って隣でコーヒーを飲むデュオの気配を感じながら、降り止まない雨の音に気づいて窓の外に眼を遣った。 途切れなく続く雨音を、ついさっきよりは気にならなくなっている自分に、ヒイロは少し驚いて闇に眼をみはった。 |