nocturne

 1.

 カチリ、と鍵の開く音がした。
 暗がりの中、浅い眠りから揺り起こされたゼクスは、反射的にベッドサイドの時計に眼を遣った。午前2時7分。確認して枕の下に手を伸ばした。こんな時間に会う約束をした人間はいない。
 侵入者の足音が近づいてくる。ゼクスは音を立てずにベッドから上肢を起こし、枕の下から取り出した拳銃を扉に向けて構えた。安全装置の外れる音が小さく響いた。
 寝室の扉が開く。ゼクスは低く誰何した。
「何者だ」
 かすかなシルエットが闇に浮かび上がる。ゼクスは眼をこらした。それは、扉の上部にぶつかりそうなほど不自然に高い頭部をひょいとくぐらせて、室内に入り込んできた。
「実に情熱的な歓迎だな。君に撃たれるなら、それも本望だよ」
 優雅な声が答え、張りつめた緊張が溜息に変わった。
「……トレーズ」
 ゼクスは銃口を降ろして肩の力を抜くと、銃を置き、ベッドサイドの灯りを点けた。
「やあ、ミリアルド。ご機嫌はいかがかな?」
 糖蜜色の光を受けて闇から現れた彼は、呆れるほど高いシルクハットを頭に乗せていた。その上、正装テイルコートの上にはおっているのは、中世のマントだった。それが光を吸って、濡れたような艶を帯びている。同じように艶をはじく瑠璃の眸は、ひどく上機嫌だ。また酔っているのだろう。
 ゼクスは落ちかかってくる長い髪を掻き上げた。
仮面舞踏会マスカレードの帰りですか」
「おや。どうやら我が姫君は、ご機嫌斜めのようだ」
 ゼクスの反応がおもしろいというように、彼はくすくすと笑う。口許に当てられた白い手袋が、漆黒のマントから浮き上がる。
「どうなさったのです、こんな時間に」
「君の好きなシューマンが、オークションに出ていたのだよ」
 突然の真夜中の訪問にもまるで悪びれた様子のないトレーズは、ベッドに歩み寄るとマントの下から無造作に紙の束を差し出した。古びた紙に手書きの楽譜が書き連ねられている。シューマンの直筆楽譜らしい。曲はクライスレリアーナの第1曲。ゼクスが得意としている曲の一つだ。
「こんなものを……」
 手にした楽譜の束に目を落とし、ゼクスは眉間の痛みを感じて眉を寄せた。
「お気に召していただけたかね?」
 彼は微笑んで覗き込んでくる。顔を上げ、ゼクスは半ば睨み付けた。
「こんなものの為に、わざわざいらっしゃったのですか」
「まさか」
 トレーズはゼクスの憤りをなぐさめるように、悪戯っぽく微笑んで顔を寄せてきた。頬に手袋越しの彼の指が触れる。
「もちろん、君に逢う為だ」
 触れないキスをするように頬を吐息がくすぐって、ふい、と遠ざかった。寝台の縁に腰を下ろすトレーズへ、ゼクスはまだ眉間の険しさを解かず、言い立てた。
「貴方はご自分の置かれている状況を分かっていらっしゃるのですか。こんなことをしていて、ご自身の立場が危うくなるとは思わないのですか」
 彼の微笑みは、優雅なまま変わらない。
「外で見張っていた連中には、挨拶をしておいたよ。第一、何を恐れる必要がある? 心を許せる友と逢うのに、何の理由も許可も必要ない。そうではないかね?」
「トレーズ」
 ゼクスは強い口調で制した。
「止めてください。酒が過ぎます」
 トレーズはくすりと笑った。
「酒飲みは嫌いかね?」
 その笑みがひどく無邪気に思えて、ゼクスは耐えきれず、視線を外した。
「……貴方のそんな姿は、見たくありません」
 頬に落ちかかる髪に彼の手が伸び、そっと梳き上げた指先が頬をなぞっていく。
「ミリアルド。今、君の前にいる私も、偽りではないのだよ」
「分かっています……心配しているのです。貴方はいつもご自身を追い込むようなことばかりしている」
「性分でね。酔狂が好きなのだよ」
「ですから……」
 見つめる瑠璃の眸が、ふ、と細まった。
「では、この酔った男の口を塞いでくれたまえ。これ以上、君を困らすようなつまらぬことを言い出す前に」
 ゼクスは目前の男を見つめた。無性に哀しかった。そんな奇矯なふるまいをする彼も、彼を縛り付けている現実も、彼を自由に出来ない自分のしがらみも、それでも目の前で柔らかに微笑んでくれる彼の心も、全てが痛みと共にあった。
 ゼクスはゆっくりと身を寄せ、彼の唇に唇を重ねた。軽く触れ合っただけでそっと離れ、眼を開けたすぐ側に、深く艶やかな瑠璃の眸があった。
「ミリアルド」
 優美な声が、もう失われた名を囁く。忘れられた名前。彼の他には決して誰も呼ばない名前。
「愛しているよ……」
 まるで呪文のように、彼のまなざしの前で身体の力が抜けていく。彼の手が首筋に絡んでゼクスを引き寄せる。楽譜の束が手を離れ、はらはらと床に散った。ゼクスも彼も、それを振り返らなかった。
 すがる胸が、熱い。
 再び唇が重なり、熱い腕の中で深い口吻けを受けながら、ゼクスの身体はゆっくりと寝台に沈んでいく。手袋越しのトレーズの手が、夜着の裾から忍び込み、脇腹からなぞり上げる指先が胸の突起を包み込んで、ゼクスは唇を震わせた。指先の愛撫は密やかなものだというのに、それは着実にゼクスの感じやすい部分の全てを目覚めさせ、鼓動を速めさせていく。
 脳裏が白くかすみ、身体が言うことを聞かなくなり始める。ゼクスの身体が愛撫にとろけ出したのを感じ取り、トレーズが口吻けから解放して、ゼクスは熱い吐息をもらした。彼の手がゼクスの肢体を覆っていたブランケットと夜着を取り去り下肢に触れると、唇からもれるのは嬌声に変わった。
「は……あ……」
 開いた両足の間に顔をうずめる彼の唇が中心を含み入れ、ゼクスは背筋をしならせた。彼の手管に導かれ、既に熱を帯びていたゼクスの欲望は、それだけで全身を痺れさせるほどの快感を訴える。ゼクスはかすかに震える両手を、彼の髪に伸ばした。
「トレ……ズ……」
 込み上げる喘ぎに掻き消されそうな弱々しい声が、濡れた唇からこぼれる。
 願いを聞き入れるように、トレーズは強く吸い上げた。
「あ…あ………っ」
 一瞬で意識の芯が弾け飛び、ゼクスは彼の口腔に己を解き放った。




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