神の影     10





 一切の音が止んだ緊迫の空間を斬り払うように、彼は凍りついた兵士らの間を静かに歩んだ。
 ゼクスはずるずると腕から落ちていくディードの遺骸を抱いたまま、歩み寄る彼を茫然と見つめた。ゼクスの前で足を止めた彼は、血に濡れた床に膝をつき、そっとゼクスの頬に触れた。
「大丈夫か?」
 彼の掌の感触を感じ取った瞬間、張りつめていたものがふつりと切れて、背筋が崩れそうになった。自分が肩で息をしていたことにようやく気づく。ゼクスは咄嗟に声を出せずに頷いた。彼は安心させるように薄く微笑んで頬を撫でると、ゼクスの腕からディードを降ろし、床に横たえた。
 たまりかねたように、ゼヴィアスが沈黙を破った。
「陛下……!」
 ゼクスの肩を支えて立ち上がらせ、彼はゆるりと振り向く。
「陛下、どうか眼をお覚まし下され。その者は陛下を破滅に導く災いの星なのですぞ! 生かしておいてはならぬのです。陛下、どうかわたくしがその者へとどめを刺すことをお許し下され!」
 彼の手がゼクスの肩からすっと離れる。その優美な横顔は、凍気さえ漂うような無表情だった。彫像のような唇が静かに動く。
「お前には、ゼクスを殺すことは出来ない」
「いいえ、陛下とザインの御為ならば、この命と引き替えにしても必ず……」
 老人の声を遮り、彼は言った。
「もし、お前が私からゼクスを奪ったならば、私はお前とお前が忠誠を尽くしたものを永遠に許さない」
「なっ……!?」
 ゼヴィアスは眼を見開き、絶句した。
 彼の声はあくまで静かだった。その静けさが、その場にある者全てを慄然とさせた。
 彼の言葉が嘘でも誇張でもないことは、その場の誰もが理解していた。彼はゼヴィアスが死守しようとしているザインの民と領土、そしてゼヴィアスの忠誠の対象であるザイン皇帝、トレーズ・クシュリナーダ自身をも滅ぼすと言ったのだ。
 ゼヴィアスの手から、ガランと剣が落ちた。
「なぜ……」
 しわがれた唇から、呻くような声が洩れる。
「何故……そうまでその者に固執なされる。何故、お判り下されんのだ。……貴方様は神の祝福を受けて生まれ出でた星なのですぞ。ザインを繁栄に導かねばならぬお方が何故、凶星を御身に近づけなさるのだ。その者は必ず、貴方様に不幸をもたらす存在なのです……」
 膝を折り、すがるように見上げる老人を、彼は冷淡な双眸で見下ろした。
「未来に確定し得るものなどない。たとえ運命と呼ばれる要素が存在しようと、人はそれに抗えないほど無力ではない」
 ゼヴィアスは大きく首を振った。
「天が示す星の運命は、決して違えぬものなのです。現に陛下は示された運命の通りに前王朝を倒し、新たな王朝を創始なされたではありませぬか」
「それは私の意志で行ったことであり、天が示した神の意志に従ったのではない」
「陛下……」
 ゼヴィアスの嘆願を一蹴し、彼は静かに、全てを圧するように言い放った。
「神が地上の全ての命運を定めるというなら、私こそが神になる」
 ゼヴィアスが愕然と彼を見つめた。
 打ちひしがれた老人の前に立つ彼は、確かに無慈悲な神だった。だが傲岸不遜でありながら、近づきがたい神々しさをも放っていた。その圧倒的な存在感を間近で肌身に感じながら、ゼクスは彼を瞬きもせず見つめた。
「この地上の全ては私が決する。何者も私の意志を阻むことは許さない」
 彼は辺りを払うように言い渡した。
「私の命に背いたゼヴィアスを反逆者とみなす。この者を投獄せよ」
 その場に凍りついていた兵士らが、弾かれたように老人を取り囲む。老人は抵抗もなく、悄然と視線を彷徨わせたまま拘束されていった。
 ゼヴィアスが去った後、横たわるディードを手厚く葬るよう残った兵に告げ、彼はゼクスを振り返った。その一瞬まで凍りついていた眸が、ゼクスを映し、春の陽差しが差したように綻んでいく。
 胸の奥が詰まるような、痛いような感覚に戸惑い、ゼクスは彼を見つめた。
 答えるように彼が頷く。
「ゼクス」
 肩を抱く手が差し伸べられ、ゼクスはかすれた声で名を呼んだ。
「トレーズ……」




「君は私のものだ……」
 いざなわれ、彼の私室の扉が閉ざされると、彼はゼクスを抱き寄せ口吻けた。
「血が……」
 斬った兵の返り血やディードの血でゼクスの衣や手足は血塗れだったが、彼は離れようとするゼクスをより強く引き寄せ、唇を塞いだ。
「君を手に入れる為なら神にさえなろう……この世の全てを支配してでも、君だけは……」
「トレーズ……」
 答えようとするゼクスを遮るように、彼が口吻けを落とす。幾度も繰り返される熱い口吻けと吐息のような囁きに、ゼクスはだんだんと痺れるような熱に浮かされて、その胸に陶然と身をゆだねた。
「誰にも君は渡さない……たとえ神であっても、その手から君を奪い去ってみせる……」
「あ……」
 囁いた唇が耳朶を甘咬み、ゼクスは息を飲むような小さな声を上げた。ぴくりと震えた身体は、霧のような熱から急速に灼熱を帯びてくる。逸らした喉に彼の指が触れ、背筋がぞくりと粟立った。指先は、感触を確かめるようにゆっくりと首筋を辿って降りていく。衣の上から胸をなぞり、腰に触れ、さらに奥へ。
 指先が戯れかかるように触れた時、ゼクスは激しい目眩と痛みさえ覚えて眼を閉じた。
 熱い吐息を洩らしてわななく唇に、彼が唇を重ねる。
 再び上げた声は、その奥へ封じられた。




 旅立ちの朝は、蒼い空に雲一つない晴天だった。荒野の乾いた匂いを運ぶ風がそよぐだけの、穏やかな朝だった。
 ゼクスにはザインに彼以外の友人も臣下もなく、見送りは彼と警護の者数名だけの簡素なものだった。長いフードを身にまとったゼクスの後ろには、同行する2人の男がやはり旅姿で従っている。道案内の者だけでよかったのだが、彼が強引に身の回りの世話と警護を兼ねた共1人をつけさせたのだ。
 日に焼けたのかすすけた肌の小柄な兵に引かれて、馬がゼクスの前に届けられる。すっかり馴染みになった白馬の鼻を挨拶代わりに撫でて、ゼクスは彼を振り返った。
「トレーズ。世話になりました」
「気を付けて行きたまえ」
 彼はいつものようにゆったりと微笑む。ゼクスを激しく求めた昨夜のことなど嘘のような穏やかな表情に、ゼクスも自然な笑みを返した。
「また、お会い出来る日を楽しみにしています」
「ああ。君もそれまで元気で。あまり無理をするのではないよ」
「大丈夫ですよ。私も子供ではないのだから」
「君は時々、子供のような真似をするからね。心配なのだよ」
 ゼクスは苦笑して肩をすくめた。
「これからは自力で何でもしなければならないのですから。甘えたことなど出来ませんよ」
「おや、それでは君は私に甘えてくれていたのか?」
 冗談めかして彼が覗き込んでくる。視線を交わせば疼く微かな痛みを素知らぬ顔でやり過ごしながら、ゼクスは笑って返した。
「気づきませんでしたか?」
「それは勿体ないことをしたな」
 彼が微笑む。その肩越しに何か、きらりと光るものが映った。
 状況を判断する間もなかった。転瞬、ゼクスの身体は本能的に動いていた。目前の彼を脇に押し退け、自分が前に飛び出したその瞬間、体当たりしてきた人影がゼクスの胸の辺りにぶつかった。
 びくん、と身体が痙攣した。
 相手の呼吸が間近に聞こえる。荒いそれが、息を飲む声になり、そして悲鳴に変わった。
「ゼクス……!」
 よく知った声に、懐かしさと安堵が広がる。ゼクスは僅かに微笑んだ。その刹那に焼けるような痛みが腹部からどっと全身に押し寄せた。視界がかすんだ。息が出来なかった。
「ノ…イン……」
 顔を歪めながら、腹部に手を遣った。ぬらりとした生温かいものが手にまとわりついた。どくん、どくんと身体の内部で心臓が鳴り響いている。力が抜けていく。膝が崩れそうだ、そう思った時、猛烈な熱さと寒さが同時に吹き上がった。
 煤を肌に塗り姿を従者に変えた彼女は、ただ驚愕に眼を見開いていた。震え出したその手から鋭く光るものが滑り落ちる。カランと転がるナイフの音を虚ろに聴きながら、ゼクスは急速に失われていく力を振り絞り、渾身で声を発した。
「……許してほしい……彼は、決して、エレミアを不幸には…しない……だからノイン……もう、誰も…憎むな……」
「ゼクス!」
 彼女の悲鳴が遠くなり、視界がふっと暗くなる。
 自分がもうどうなっているのかさえ判らなかった。暗転する意識に吸い込まれ、混乱も不安すら感じなくなっていく。その中で懐かしい声が熱い風のように頬を叩き、ゼクスを一瞬引き戻した。
「ミリアルド……」
 うっすらと眼を開けると、薄れかけた視界に彼がいた。手を伸ばそうとしたが、指先すら動かせたかどうか判らなかった。もう痛みも熱も暗がりに引きずり込まれて、何の感覚も掴めなかった。
「ミリアルド……」
 聞いたことのない声で彼が呼んでいる。答えたかった。彼の名を呼びたかった。どうにか唇を動かそうとし、声を発しようとしたが、身体はもうゼクスの意思を受け付けなかった。
 甘い痛みが染みるように広がり、指の先からこぼれるように薄れて消えていく。
 悲しげな彼の姿が暗闇に飲み込まれ、ゼクスの意識はそこで途切れた。




 乾いた風が大陸の果てから吹き寄せ、荒野の匂いを運ぶ。
 空は今日もどこまでも高く、眩しい陽光を降り注いでいた。
「陛下」
 いつものように、どこからともなく現れたソレルが背後に立った。トレーズは庭の光の眩しさに眼を遣ったまま、動かなかった。
「ご戦勝おめでとうございます。陛下の御敵は、ついにこの地からはいなくなりましたわね」
 東の大国タイレンが滅んだのは1ヶ月前のことだ。トレーズが占領地の混乱を収めて支配体制を整え、勲労行賞などの残務を終えてセジェスタに凱旋したのは今朝のことだった。
 トレーズの衣装は、その時の黒地に金を配した豪奢な式典用のままだ。
 振り返りもしないトレーズに、ソレルはなおも続ける。
「これで陛下は、名実ともに地上を支配する神の影になられたのですね」
 トレーズはようやく彼女に視線を向けた。彼女はトレーズの視線を受け取って、にこりと笑った。
「生前の母様からお聞きだったのでしょう? 『貴方は地上の神になる』と」
 トレーズは硬質のまなざしを向ける。
「君はそれで満足か?」
「ええ。母様の最後の予言は、予言の通りに成就いたしました。同じ占術師の道を選んだ娘として、これほどの幸せはございません」
 トレーズは無言で彼女を見つめた。
「ロジェ王朝最後の王となり、無念の死を遂げた父も、不吉な予言をしたが故に殺された母も、陛下をさぞ恨んでおいででしょう。陛下は、ゼクス様を不幸の星と予言した母様に憎しみを向けられ、ゼクス様を失われた悲しみを父様に向けられたのですもの」
 トレーズは眼を伏せた。
「それで、君は満足したか?」
 ソレルは悪戯がばれた子供のように、無邪気に微笑んで首を振った。
「父母を殺された恨みなど、そんなものは初めからございませんわ。わたくしは陛下がロジェ宮に攻め入られたあの時、惨状のただなかで一目陛下をお見かけした時から、この方にお仕えしようと決めておりましたもの。ただ、陛下がわたくしにそのような役を望まれたから、わたくしはそれを演じていただけ。
    罰を、求めておられたのでしょう?」
 トレーズは席を立った。
「陛下」
「全ては君の母君と、君の予言の通りになった。私はやがて地上全てを支配するだろう。……そして、全てを支配し尽くすことになる」
 言って、行き過ぎようとするトレーズを、ソレルの声が追いかけた。
「陛下。ゼクス様は天の指し示した運命を変えようとされたのです。希望をお持ち下さい」
 トレーズは肩越しに振り向いた。ソレルはその暗緑の眸に希有な光をたたえ、真摯にトレーズを見つめていた。
「ゼクス様の死こそが、陛下に降りかかる最大の不幸。ですが、ゼクス様はその凶運を御身を持って阻まれました。陛下とあのお方の運命は、変わる兆しをみせたのです」
 トレーズはふっと、薄く微かな笑みを浮かべた。
「君が私に仕えてくれたことを、感謝する」
 トレーズは人払いしていた執務の間を出、奥の私室へ向かった。
 午後の陽は、ここにも眩しくこぼれ落ちていた。
 外からの風に揺れる薄絹のドレープを分け、寝台に歩み寄ったトレーズは、そこに眠る静謐な姿をじっと見つめ、手を伸ばした。
 陽の光を受けて淡く煌めく長い髪に触れ、そして透き通るような白磁の肌に触れる。
   ミリアルド」
 寝台の端に膝を付き、トレーズは静かに語りかける。
「タイレンの地を手に入れた。今朝、凱旋してきたところだ。もうこれで、私に対抗し得る東の勢力はなくなった。次は西だ」
 頬から、長いまつげを伏せ閉じられたままの瞼に触れ、唇をなぞる。
「どこまで迎えにいけば君に逢える? 地上の全てを手に入れれば、君は眼を覚ますだろうか?」
 腹部の傷からの大量の出血が元で、彼の意識が戻らないまま、まもなくあの日から3年が過ぎようとしていた。その間、トレーズは戦いを繰り返し、領土を広げ、次々と強敵を打ち倒してきた。飢えをしのぐかのようにトレーズを戦場に駆り立てたのは、あの時交わした彼との約束だった。
    君を必ず迎えにいこう。
 希望は闇を退ける力がある。今もトレーズはそう信じている。彼がトレーズを信じていると言ったように。
「ミリアルド……私も君を信じているよ……」
 身を屈め、微かな呼気を確かめるように頬を寄せ、額を重ねて、触れ合うその温もりをじかに感じ取る。
「ミリアルド……」
 深い祈りのように眼を閉じ、トレーズは名を呼んだ。
「ミリアルド……」
 不意に、乾いた風が薄絹を揺らして室内に舞い込んだ。白皙のおもて にかかる髪が微かに揺られ、眠り続ける表情に落ちる影をほのかに揺らめかす。
 トレーズは眼を細め、ひっそりと微笑んだ。
 その声に、彼が応えたような気がした。



Fin.               




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