一日目
今日、B君が壊れた。 俺は、若干困っている。
時刻は夜中近く。 自分の部屋のソファに腰掛けた俺は、その隣にB君を座らせて、若干、困っている。
B君は昼間にユーゼフ様と遭遇して以来、ずっと無言でぼうっとした表情のままだ。 話しかけても答えはないし、顔を見ても視線は合わない。 食物を口に入れれば食べるし、手を引けば歩くし、座るよう促せばその通りになる。 等身大の人形、というよりものすごく大人しい変な動物のようだ。
「うーん、あえていうなら……ナマケモノ?」 ちょっとちがうかな。
俺はB君の横顔を眺めた。 普段クールな視線に力がない。どこも見てない目は、たまに瞬きをする。髪と同じ色の睫はけっこう長くてほぼまっすぐだ。 滑らかな皮膚は冷たそうに見える。 ……髭薄そうだなあ。
……はあ。 いや、溜息を吐いて困ってみたってしょうがない。
「――よし」 覚悟は決まった、というか諦めた、というか、諦めてもらおう、というか。 「風呂はいろうかB君」
ハニーからB君の世話を仰せつかって、気軽に頷いてしまったが。 断ったほうがよかったかも。
風呂に入るため、服を脱がす俺の手を、B君は拒みもせずされるがままになっている。 白い皮膚やくっきりういた鎖骨や、細くても薄く容良くついた筋肉や、あまり目立たない体毛とか、色の薄い乳首とかあそことか。 あっさり晒してくれちゃって。 介護だからと自分にかB君にか言い訳しながら、それでもしっかり見てしまった。ごめん。
自分は服を着たまま、B君にシャワーを浴びせてバスタブに入らせる。 暗い銀色の頭をふちに掛けさせ、首を仰け反らせて髪を洗う。 無防備にもほどがあると思うよ、B君。急所まるみえ。つか全部見えてるわけだけど。 なにもかも俺に任せちゃってさ。
「B君は、そんなんじゃなかったつもりなのになあ」 なんというかこう、マズイ予感がする。
その後顔を洗い、体を洗い、体を拭いてパジャマを着せた。 ……精神的に疲れた。
B君をまたソファに座らせ、今度は自分が入浴した。B君を洗ってる過程でけっこう濡れてしまった。もう一緒に入ったほうがいいのか?……いやそれはどうだろう。
B君に掛けた手間の半分くらいの適当さで、あっさり終わらせて、部屋に戻ってB君の手を引きベッドへ。 寝る間だけでも自室へ戻らせようかとも考えた。けど、夜間に色々な不意打ち(主にヘイジの夜間活動、まれに徘徊しているお隣さん)に出くわしたとき、B君が常のように逃げられるわけがないので、もう一緒に寝てしまうことにした。 どちらかがソファで、とも考えたけど、B君をソファで眠らせるのは可哀想だし、自分がソファで寝るのも嫌だ。頭と足がはみ出るし。
「B君」 声をかけ、ベッドに入るよう促すため肩に手を掛ける。 何だが少し、力が入っている、というか緊張している、そんな感触がした。 「B君、どうした?」 顔を覗き込んでみる。やはりぼんやりしたまま。 「あ」
トイレ。 ……昼からたぶん一度も行っていないぞ!
トイレに連れて行って、パジャマと下着をずり下げて、また俺は困った。 座らせたほうがいいのか、このまま立ったままできるか。てゆーか大の時は一体。
「まあ、やってみないとな」 持ち前の前向きさで、振り切った。正直、困ること自体に疲れてきた。 「はいB君、上着の裾持ってて。脱がすよー」 B君の手にパジャマの上着の裾を握らせて、俺はB君のパジャマの下を下着と一緒にずりおろした。 俺はその時、B君の後ろに立ってて服をさげたもんだから、当然のように目の前にはB君の尻。 滑らかで白くて肉付きが薄い、ゆるやかなカーブにものすごく、……触ってみたい。 いかん。介護だって。介護だぞ!さっきも見たじゃないか!
目をそらしつつ、B君を便座に座らせた。 そしてB君の下腹部を強めに押す。
「はあ……保父さん経験が微妙に役立ってるような」 子どもだ、と思えばいいのかな。水音を聞きつつ、俺が溜息をついたとき。
ぼちゃん。
!! …………した、ね。大もしたね、今。
ごめん、なんか俺ここにいてごめん、てゆーか何この羞恥プレイ。いや俺のほうが恥ずかしいぞ、何でだ。 俺はトイレから出ようとして、次にB君のつむじを見下ろしてまたトイレのドアを見て、と一人で慌てた。 いや慌てたってしょうがないんだけど!俺がなんとかしないといけないんだけど! そう、B君は子ども、トイレトレーニングの出来てない子どもと同じだって!そうでしょ!
なんとか気を落ち着けた俺は、子どもにするように話しかけながら、B君の手にトイレットペーパーを握らせた。 「さー、お尻ふこうな」 ……は、恥ずかしい。ちくしょうB君め……!! してる方の俺はこんな恥ずかしいのに、B君は心なしかスッキリした顔をしている気がする。くそう。
B君にお尻を拭かせ、終わったら水流そうな、と言ってB君の手を取り、便器の水を流させ、服を戻させた。そしてまた、今度は手を洗わせながら、トイレの後は手を洗うんだぞ、と口にする。 子ども、子ども、B君は子ども。
そう思いつつも、夜、傍に誰かの体温があるのは久しぶりで、なかなか寝付けなかった。 一方B君は、なぜか、俺の脇の下に頭を突っ込んですやすやと眠った。
くそ。
二日目
翌朝、俺は何かの物音で目覚めた。 枕元を見ると、目覚まし時計は起床時間の10分前を示している。 俺は元来大変寝起きが良いので、あと10分、などとは思わずに時計のアラームを解除する。
あれ、B君がいないぞ。 傍らの、彼が寝ていたと思われる場所だけ毛布が乱れている。シーツはまだ暖かい。 「B君!」 今のB君が一人で移動するとは考えにくい。誰かが連れて行った? 俺はベッドから飛び降りた。ぐるりと部屋を見渡すと、トイレのドアが開いている。 ひょっとして、と中を覗き込むめば、Bが洗面台の前で鏡に向かって立っていた。手を洗っている。 ほっと息を付き、声を掛ける。 「B君、一人で起きれたのか?」 俺は蛇口を止め、手を拭いてやった。 背後から鏡の中のB君を見れば、昨夜と変わらずぼんやりしている。 すぐそばのトイレの方から、タンクに水の溜まる音がしている。
ということは。
「B君一人でトイレできたのか、えらいなあ」 この分なら、回復は案外早いんじゃないか? B君の頭を撫でてやる。細くて硬い感触。きっとこの髪の匂いは、俺と同じだ。 頭にひとつキスを落として、自分と向かい合わせる。 「おはよう、B君」 少し試すように言ってみたけど、やっぱり視線をどっかにやっていて、何も言わなかった。まあいい。 「さあ顔を洗おう」
B君が働けなくなってしまったが、代わりにと遣されたユーゼフ邸の使用人が大変有能なので(なぜか彼は落とし穴を作動させず、上を普通に歩いて通れるし、対ヘイジにおいて冗談のように素早い)職務上の滞りはないようだった。
俺は自分の仕事をしつつ、B君の世話をした。 世話と言っても、俺がトイレに行くときに一緒に連れてくってくらい。 あとは食事介助。 朝は俺が食べさせたんだが(Aもツネッテもヘイヂもやりたがったが)、昼食のときにふと思い立って、B君にスプーンを持たせ、自分の手で食べさせて見た。
「はい、スプーン。握って、スープを掬って飲むんだよ」と、また保父さんのように。 すると、自分で食べたのだ!俺は嬉しくなって、B君がもくもくと皿を空けていくのを見守った。皿が空になると、B君はスプーンを持ったまま、止まった。 今度はサンドイッチを持たせて、食べるよう促すと、食べる。おお、凄い。 でも半分近く食べて、止まった。お腹がいっぱいになったらしい。前はもっと食べたけど、今日はほとんど座ってるしな。 他にもサラダとフルーツがあったけど、B君は食べなかった。
俺はちょっと考えた。 B君はやってみせれば、というか一度やらせたことはできるようになるらしい。 ただ、スープを飲めといえば飲むけど、その間サラダとかには手を伸ばさなかった。 ひとつのこと(スープを飲む)はできるけど、それをしながら他のこと(サラダを食べるとか)はできないようだ。
たぶん、スプーンを持ってスープを飲めても、スプーンを持ってスープを飲んで、途中で止めてフォークを持ってサラダを取って食べる、ということはできないのだ。 スープがたくさんあったら、B君はお腹いっぱいになるまで飲むだけで、他に料理があっても食べようとはしないだろう。
そう考えると、トイレが自分で出来るのは、昨日俺がやらせたからだろう。排泄の動作はひとつひとつ終わるし(延々と小便がでるわけない)、なにかして途中で止めて別の何かをする、という動作がない。 夕食は俺が気をつけて、色々食べさせよう。
そんなことを考えてつつ、夕食の準備をしていると。 「セバスチャンはいるかね?」 ドアを開けて入ってきたのは、用もないのによく現れるデーデマン・父。 「大旦那様。見ての通りいませんよ」 首だけ振り返って答えると、大旦那様は椅子に掛けたままのB君の側で、興味深そうに見下ろしていた。 B君は私服のニットと綿のズボンで、いつもは後ろに流している髪も下ろしたままだ。珍しいのだろう。
「あー、B君昨日からそんな調子で」 言って、俺は調理再開のため二人に背を向けた。手を動かしながら説明する。 「お隣さんが瘴気?の出し入れ覚えちゃったみたいで」 「ほう」 「いつもそれでお隣さんを感知してたB君は、瘴気しまって現れたお隣さんについに捕まっちゃって」 「それでただでさえ怯えまくってたB君は、ちょっと崩壊してしまいました」 さくさくと玉葱を刻む。もう慣れたので目には沁みない。 刻み終えて振り返ると、大旦那様はいなくなっていた。 B君も。
「……あれ?」 大旦那様はともかくB君まで。B君は自分からは動かないし…… ってことは。 「B君!」 連れ出された!
俺は厨房を飛び出した。廊下を飛び出すと、ヘイヂが現れ、『よう』と言ったが急いだので無視。 『おいおい、そんな慌ててどうしたってんだ』 ヘイジは短いのにどうしてって足で俺に並ぶ。 「B君が攫われたんだよ!」 叫ぶように返して、……ちょうどいい。
「犯人は大旦那様!見つけ次第確保!」 『ラジャ!』
廊下の分かれ道で、俺は右へ、ヘイヂは左へ。 B君待ってろよ!
大旦那様はあっさり捕まった。 ヘイヂの皮に埋もれて。
俺は壁に背を預けて立ち尽くしているB君を見つけた。よかった……! 『あぶないところだったぜ』 ひょっこりとヘイヂ(本体)が出てきた。 「おお、ヘイヂ、ありがとな!」 『いいってことよ。まあ、間に合ってなによりでぃ』 「間に合って、……外に出る前でってことか?」 『いや、襲われる前で』 「!!」
ヘイヂによると、見つけたとき大旦那様がB君にキスしようとしているところだったそうだ。このエロおやじめ……本当に見境がないな。 でもなんかされる前でよかった。
俺はB君を抱き寄せて、ほっと息をついた。 「B君、俺の側にいなきゃだめだぞ?」 やっぱり応えはなかったけど。
俺は埋もれた大旦那様の顔を見つけ出して、こんな無防備になってるB君になんかしよーとするなんてどれだけ鬼畜なんですかああん?的なことを笑顔で言って見せて、助けを求める大旦那様の顔の上に皮を落としてやった。
反省するといい。
三日目
朝、厨房に向かおうとしてもB君がトイレから出てこないので、ちょっと覗くと(B君は鍵を掛けない)便器に座って止まっていた。足元には引き出されたトイレットペーパーが重なっている。
なんで!?
と一瞬顔が引きつったが、たぶんどこまで紙を出せばいいかわからず、なくなるまで引いてしまったのだと思う。 ……大の時は頃合を見て入ろうと思った。
俺はB君を背負って仕事に向かった。 離さないほうがいいと、昨日の大旦那様の件で思ったのだ。それに、どうもA君とツネッテちゃんがB君と遊びたがって困る。B君と、というかB君で。それでおんぶ。 B君は軽い。たぶん50キロと少し。60キロはないだろう。 ここは砂漠じゃない快適な室内なので、どうということはないぞ。
ほぼ一日そうして過ごし、夜、B君を風呂に入れるときに、ふいにガスの元栓をしめたかどうかが気になりだした。 いや、閉めたよ、閉めたような……。
すでにB君を脱がせてしまった俺は、とりあえずB君をバスタブに入れて、髪の毛を洗うように言って、部屋の外に出た。
厨房で元栓を確かめると、ちゃんとしまっている。 うん、問題ない。あ、ついでに包丁を研いでしまおう。 昼気になった一本を念入りに研いで磨き、ついでに他のも軽く磨いて、部屋に戻った。 B君はそろそろ上がっているかな。
と思ったけど、B君はまだバスルームにいるみたいだ。 「B君?」 覗き込むとB君は、髪を洗っていた。 うん、ちゃんといる。髪を洗って、え、まだ洗ってる! 「B君、B君もういいよ!」 掴んだB君の手は、冷たかった。肩も。
ああそうだ、B君はそうだよ、こういう『途中で止めて次に進む』動作できないんだった。 俺が髪を洗えと言ったから、ずっと洗ってたんだ。いつ終わればいいか判らなかったんだ。 「ごめんね」 俺はシャワーを出して、冷たくなった肩に掛け、泡を濯いだ。 風邪でもひいたらどうしよう。こんなに冷えて、かわいそうに。 俺はどれだけ厨房にいたんだろう。30分か、40分か。ごめんね、ごめんね、B君。俺はうっかりしてた。ひどいことをした。 なのにB君はぜんぜんいつもどうり、つまりぼうっとして、俺の手にぜんぶ委ねてた。B君にずっと寒い思いさせたのに。 文句なんて言ってくれない。
「早く元気になるんだぞ」 俺はちょっと泣きそうだった。
泣かなかったけど。
続
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