次の朝、いつもよりも早く目が覚めた。朝飯を食べ終わる頃に、またセミがうるさく鳴き始めた。今日も暑くなりそうだ。
まったく、田舎というのは、時間をつぶすものが何もないのだ。コンビニもなく、本屋も近所にはない。ゲームセンターなど、あったとしても行かなくなっていたから、どうでもいいのだが、どうものんびりと過ごす方法が見つからない。のんびりと過ごす方法を考えること自体、のんびりと過ごしていないことになるのか、と思っていると、おふくろが、近所の家まで出かけると言った。縁側に、持っていくらしい箱いっぱいの野菜が置いてあった。歩いていくのかと尋ねると、当たり前だと返ってきた。
「勝、おまえ手伝ってやれよ。」
寝転がってテレビを観ていた兄貴が言った。どうして兄貴という生き物は、弟を動かそうとするのか不思議だ。三十歳をとうに越えている男が、まだ兄貴風をふかせている。きっと五十になっても変わらないのだろう。昔なら「何で僕が…。」と答えるところだが、そんな気にもならなかったので、その重い箱を僕が持ち、おふくろと歩き出した。
やがて、目的の家の前まで来ると、僕はおふくろに箱を手渡し、そのまま歩き出した。緑色の稲が風に吹かれて波打っている。しばらく歩くと、橋が見えてきた。まだ、あのままなのか、と思いながら近づいていく。やはり、昔のままだ。三、四人の少年たちが、何やら叫んでいる。
「いくぞー。」
一人の少年がそう叫ぶと、助走をつけ、橋から飛び込んだ。いや飛び降りたと言った方がいいか。橋の下には川が流れている。水面
から橋までは十メートルはあるだろうか。残った少年たちも奇声をあげながら、次々と飛び込んでいく。
最後の少年が助走をするために後ろへ下がったとき、くるっとこちらを振り返った。陽に焼けた顔から白い歯がのぞき、僕に向かって微笑んでいる。どこの子だろうと考えていると、少年はあっという間に欄干を飛び越えた。
僕は、欄干から身を乗り出して、下の少年たちを見た。少年たちは少し流されて岸に上がろうとしていた。
そういえば、僕もよく飛び込んで遊んだものだ。初めて飛び込んだときのことは、今でもよく覚えている。小学五年のときだった。兄貴はそのとき中学二年で、すでに何十回と飛び込んでいる「達人」だったから、僕はいつも、兄貴にからかわれていた。
「どうせ、おまえにはできっこないよ。」
僕は、くやしさと怖さで泣いた。
今思えば、飛び込むことがそれほど重大なことだったのかよく分からないが、とにかく、その時は飛び込めない自分がものすごく弱虫に思えたのだ。
その日、家に帰ると、もう兄貴はそんなことは忘れて、テレビアニメを夢中で見ていた。元気のない僕を見て、おやじが声をかけてくれた。何でもないと答えたが、おやじがさらに尋ねるので、僕は兄貴に聞こえるのではないかと兄貴の様子をみながら、橋から飛び込むことができないのだと話した。おやじは、そうかと答え、
「怖いと思う気持ちは、恥ずかしいことじゃない。誰だって怖いはずだ。あいつだって、怖かったろうさ。」
と兄貴を見ながらつぶやいた。
今になってみると、とるにたらない子供の悩みに、なぜ、おやじが真剣に答えてくれたのか分からない。「くだらん。」と一蹴する人もいるだろう。けれども、おやじは「危ない遊びはするな。」とか「男なんだから、めそめそするな。」とか言わなかった。
とにかく、兄貴だって怖かったんだ、と思うことで、僕は最後の一歩を乗り越えることができた。体が空に浮いたとき、背筋がひやっとし、落ちていく感覚に息が詰まった。でも、それはほんの一瞬のできごとだった。
岸にあがると、兄貴が一番喜んでくれた。僕は兄貴のうれしそうな顔をみて、飛び込めたことの喜びでいっぱいになった。その夜、おふくろは顔をしかめていたが、おやじは大きな声で笑った。
ふと気づくと、さきほど橋から飛び込んだ少年たちが、また橋に戻ってきた。みなうれしそうな顔をしている。
「今度は宙返りしようぜ。」
そう言って、また、奇声をあげながら次々と飛び込んでいく。僕はその場をあとにした。
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