〜これからずっと、いっしょに〜 後編1/2
…………あれから僕がどうやって謝ったかは、実のことを言うとよく覚えていない。
今はもう外は暗くなっていて、本来なら里香が帰るべき時間をオーバーしているだろう。
短くとも、三十分くらいはかかったような気がする。必死になって謝ったような気がする。
一言一言僕が謝っていく内に、里香のトゲトゲしい雰囲気が徐々に和らいでいくのを確かに感じられた。
里香の方からも、『……私も悪かったわ』というように謝ってくれた。
彼女も僕も、本当は喧嘩なんかしたくなかったのだ。
それはそうだ、お互いがどれだけお互いにとって大切なのかわかっているんだから。
僕はいいよいいよという風に里香に軽く返事をして、
いつの間にか普通の雰囲気が僕と里香の間に流れていた。
なんとも言えない、青臭いような距離感。
この距離感をちゃんと埋められるのは、いつになるのだろうか。
さっき揉めたのだって、僕が里香の気持ちを傷つけてしまったからだ。
僕はもっとちゃんと、里香の気持ちを考えられるようになるんだろうか――
―――だいぶ落ち着いてきた少女は、ベッドの隣に座っている少年の顔を見る。
少年はおかしなくらいとても神妙な顔をしていて、写真に撮って後で見せてやったら面白いことになりそうだった。でも、今はそんなことをする気にはなれない。
彼が、自分のせいで考え込んでいて悩んでいるのがイヤでもわかってしまっているからだ。
なぜなら、自分だって彼のことで少なからず悩んでいるからだ。
彼に気付かれないよう、小さく溜息を漏らすことにした。
「ふぅ………」
‥‥そもそも男って、ほんとに変な生き物だ。
出世するための地位とか、自分を保つためのプライドとかにおかしなくらい拘ることもあれば、
かといって好きな女の為なら命でもなんでも捨ててやるって、まるで馬鹿みたいじゃないの?
その上、スケベなことが絡むと物凄く鼻の下が伸びる。気持ち悪いくらいに。
ホントにバカ。どうしようもバカ。
……でも、私は、そういうのも嫌いじゃない。むしろ、好きかも知れない。
未熟な所も、不器用な所も、一途な所も……。
……やだ。いつの間にか裕一のことしか考えてない……。
もう、ちゃんと許してあげようかな……?
あんなこと言われたけど、もうだいぶ反省してるみたいだし。
少し気に入らないこともあるけど、わたしも、ゆういちのことが好きだから……。
「ねぇ……裕一。ちゃんと反省してるの?」
急にベッドの上の隣に座っている里香に話しかけられたので、
僕は里香の言葉の意味も確かめず間抜けな返事をしてしまった。
「ん? あ、うん」
「ホントでしょうね……? まぁ、裕一だから仕方ないっか……」
また怒らせてしまってはまずいと、僕は平謝りした。
「ご、ゴメン……」
「あ〜もう、情けないなあ。さっきのことはもう許してあげるから、そんな声出さないでよ?」
里香は少し呆れた顔でそう言ってくれた後、
僕が改めて淹れてきたコーヒーが入ったカップに口を付ける。
里香の形の良い唇が少しとがり、静かにコーヒーを吸う。
そんな彼女のちょっとした仕草の一つ一つが、僕には愛おしく感じられた。
里香はコーヒーを飲み干して勉強机の上に置いた後、独り言のように少し不満げにこんなことを言った。
「裕一に私のして欲しいことを期待するなんて、やっぱり間違いなのかな……」
「‥‥なんだ、それ?」
僕が少しいぶかしむような声を出すと、里香は急にドキッとした様子になった。
「そ、それは色々よ、色々。 裕一は鈍いからわからないの!」
里香はまるで隠し忘れた本音を見抜かれたように、妙に強く弁解した。
慌てる里香が珍しくて可愛く思えて、また僕は調子に乗って余計なことを考えてしまう。
僕はわざとらしく間を置いて、探りを入れるようにこう言った。
「もしかして……何か寝てる時にして欲しかった?」
里香は『何かしてもよかった』とも言ってたし、試しに聞いてみる価値はありそうだった。
……いや、待てよ。さっき怒らせたばっかりだし今度怒らせてしまったら今度こそ帰られてしまうんじゃないか!? これはやってしまったかも知れない。
最悪だ……言った直後に言わなきゃ良かったなんて思うだなんて………ああ神様仏さ‥‥
「……うん」
里香が少しはにかんでうんと言ったので、僕は驚いてしまった。
怒られると思っていたのに、全くの予想外の反応だった。
しかも、里香の顔がどんどん赤くなっていくのが僕の心を煽り立てる。
心臓が、にわかに強く鳴り始める。
「え……っていうと、キスとか?」
僕が試しに聞いてみると、里香は恥ずかしさのあまりか目を反らしてコクンと頷く。
僕は自分の顔も一気に熱くなって、ちゃんとしたいつも通りの思考が
出来なくなっていくのをイヤという程感じた。
「じゃあ……今から……キスしていいか?」
僕が意外と単刀直入なことを言ったせいか、今度は里香が間抜けな声を上げる。
「えっ……?」
里香は少し悩んだ後、彼女のプライドを保つ為にこんな言い方をする。
「……させてあげなくもないけど。頼み方が気に入らない」
僕は心の中で苦笑いしながら、里香にちゃんと頼みなおしてみる。
「えっと………してもいいでしょうか?」
「……うん」
里香がコクリと頷き、少し緊張した面持ちで目を瞑る。
僕も妙に緊張しながら目を瞑って、思ったよりも軽い里香のギュッと身体を抱き寄せる。
そして、自分の唇を里香の唇にそっと重ねる。
心地よく静かな沈黙が僕と里香を包み、部屋全体を覆っていく。
「………」
「………」
柔らかくて暖かくて穏やかな感触が、唇の先から僕の身体全体に染み渡っていく。
好きな人と身体を触れ合わせるだけで、こんなにも気持ちよくなれるなんて。
もっと、里香に触れていたい。
まだ、色んな意味で早いかも知れないけれど、もう我慢が効きそうになかった。
僕は思わず、細い里香の身体に力を入れてギュッと抱きしめてしまう。
里香の口から、微かに声が漏れたような気がした。
「んっ……」
僕の鼻には、里香の普段使っているシャンプーの匂いと、
里香自身の色っぽい体臭があわさって入ってくる。
細いけれども確かな温もりがそこに宿っていて、
僕はなんで優しいものは暖かく感じるんだろうととりとめもなく考えていた。
するとだ。里香が一回唇を離し、熱っぽい顔で僕の顔を見てこう言った。
「ゆういち……」
その色っぽさに僕は金縛りになるほどドキッとしてしまう。
次の瞬間、里香は隙を突くように僕の身体を抱きしめ、そして口の中に舌を絡めてきた。
里香の反撃が始まった。
予想以上にいやらしい里香の舌の動きが、口内の粘膜と絡み合って水音を立て始める。
「はぅ……ぅん……ちゅっ……はむっ」
もう僕は何も考えられなくなりそうになり、里香と絡み合いながらベッドに倒れ込む。
「……んっ、んんっ………」
僕と里香はお互いの身体を、口を、心をまさぐりあいながら、
徐々に普段の世界から引き離されいくようだった。
今なら、どんな恥ずかしいことだって言えるし出来るような気がした。
僕は息が続かなくなってきてしまって唇を離し、里香の顔を見てこう言った。
「ぷはっ――――りかっ、りか!」
里香は僕と同じような表情をして、同じようなことを言おうとする。
「ゆういひ……。裕一……んんっ……‥!」
その先の言葉は聞かずにもわかったから、僕は里香の唇を再び塞いだ。
里香の身体が苦しいほどに心地よく密着し、今まで里香について妄想してきた色々なことが
次々に僕の頭の中にフラッシュバックしてくる。
でも、どんな妄想も戎崎コレクションもオリジナル戎崎コレクションも、
今この瞬間、僕が抱いてキスしている里香には敵わなかった。
「んっ……、ぴちゃ、くちゅっ……」
里香の口から何度も何度も水音が漏れ、息が苦しくなってきたのでまた僕は口を離した。
それまで深く絡み合っていた僕と里香の唇の結合を解かれると、
なんだかねちっこい唾液の橋が互いの唇に架かる。
「はぁ……ぁ……」
僕が息を整えていると、里香が少しだけ甘えるような声でこう聞いてきた。
「ねぇ、ゆういち……」
「なんだ?」
そこで里香は思い切ったように一呼吸おいて、漆黒の瞳に輝きを湛えて少し長い言葉を紡ぐ。
「ずっと……一緒にいてくれるよね? 私といてくれるよね?」
里香にしては頼りない口調だったのだが、そこは深く考えず
おいおい当たり前のことを何言ってるんだ?という感じで返してやろう。
……それにしても、里香に面と向かってこういうこと言ってもらえると
僕としては嬉しくてしょうがなくなるのだが。
「……当たり前じゃないか、何言ってんだよ?」
「ほんとに……だよね?」
「決まってるだろ? ……なんでそんなこと聞くんだよ」
「………」
どうやら、里香はなぜかまだ納得していないようだった。
僕と里香は、これからずっと一緒にいられるのは当たり前のことなのに……
なんというか、マリッジブルーのようなものを里香は感じているんだろうか?
それとも、僕はまだ里香にとって頼りにならないのだろうか?
……きっと、その両方だろうな。
僕がそんなことを考えていると、里香が急にとんでもないことを言い出す。
「……だって……裕一、私に……その……求めてこないじゃない?」
僕の心に直接呼びかけるような、甘くも聞こえる切ないような声。
しかし僕は里香の真意が汲み取れず、言葉をそのまま聞き返してしまう?
「求めるって……」
「そこまで言わせるのっ……!?」
あの、あれだよな。この場合はそっち方面の『求める』だよな?
「………」
「………!」
里香に視線で責められつつの気まずい沈黙が出来た後、
僕は普通に、一番最初に浮かんできた感情を口にする。
「だ、だって、里香はそういう関連のことは嫌いだろ!?」
すると里香は少々声のトーンを落として言った。
「……女の子の方からああしてこうしてなんて、言えるワケないじゃない」
「………やっぱり、そういうもんなのか?」
僕が聞くと、里香は頷きながら胸に手を当ててこう言った。
「そうよ! ………それに私は、ね……ほら……」
その里香の言動に、僕は少なからずショックをだった。
里香が胸に手を当てたこと、服と手術の傷跡の向こうにある心臓を指さしたこと。
それは紛れもなく、里香が心臓の病気を気にしていることに他ならなかった。
確かにそういうことは運動と似たようなものだから、
心臓に負担がかかるかどうか、心臓が負担に耐えられるかどうかを気にせざるを得ないだろう。
だいぶ調子が良くなったとはいえ、本当に完全とは言えない里香の心臓。
僕が里香と赤の他人なら、そんなこと病人がするもんじゃないと普通に思うだろう。
でも、里香はもう僕の一番大切な人だ。
しかも里香は普段、病気ということを意識させないくらい元気なものだから、
今の言動とのギャップに余計に僕は切なくなった。
「里香……。 ……?」
何を言っていいかわからず、ただ名前を呼んだ時だった。
僕は里香の顔のある変化に気付いた。
――里香が、少しだけど泣いている。悲しそうな顔をして泣いている。
僕にあまり見られたくないのか右手ですぐに涙を拭ってはいるけれど、
赤くなって潤んだ、憂いを帯びた漆黒の瞳が何よりの証拠だった。
それに気付いた僕は、もう止めどもない衝動に突き動かされた。
カチリと、世界の中に仕込まれた小さな歯車が音を立てたよう気がした。
全身が火で炙られるように、しかし心地よく熱くなっていく感触を覚えた。
理屈なんて関係ない、スケベとか思われても構わない。
それはもうはっきりと、里香を抱きたくなった。
「……り、里香、しよう」
僕は身体が追いつかないほどの昂ぶりを押さえながら、
キスが出来るような距離で里香にちゃんと言った。
「……?」
里香はまだ、微妙に僕の言ったことを理解していないようだった。
それはそうか、急にこんなこと言われたら。僕だったらもっとびっくりするだろうし。
僕はなんとか、もう一回同じ言葉を発した。
「俺、里香としたい。……い、今すぐここで」
僕の言葉を聞いて、里香はキョトンとした顔で少しの間を置いた。
そして、
「…………ゆういち!」
僕に向かって、勢いよく抱きついてきた。
あんまりにも勢いが良くて密着したので、僕と里香の身体はベッドの上を転がってしまい、
里香が僕の身体の上に乗るような体勢になる。
僕が里香のいきなりの変わり身の早さにびっくりしていると、
里香は僕の胸元に頭を埋めるようにして嬉しさを丸出しにした口調でこう言った。
「裕一……! わたし、嬉しい……」
里香のサラサラの髪の毛と、言動がものすごくくすぐったく感じられた。
「うわっ、ちょっなんだよ!」
だから、僕はちょっと照れたように返してしまう。
でも、里香は恥ずかしげもなくベッドの上で僕に擦り寄ってくる。
まるで、親猫に寄り添う子猫のように無垢な仕草で。里香のあごも僕の胸元に当たっている。
「だって、嬉しいんだもん……わるい?」
里香に見上げられるように聞かれて、僕は余計に恥ずかしい。
「そ……それならいいんだけどな、うん」
さっきの自分の言動を振り返るとなかなか恥ずかしく、適当な返事をする。
ちらりと里香を見ると、泣き止んだばかりの顔に不釣り合いな程の笑顔があった。
まるで、雨上がりの晴れ渡った空に虹がかかったようだった。
嬉しい反面、ちょっとした疑念が湧いてきてしまう。
「……さっきの、もしかして演技じゃないだろうな?」
僕はポロリと、そんなことを聞いてしまう。……里香ならやりかねないことじゃないか?
すると、
「裕一は女の子の涙を疑うような人だったんだ! ひどいなぁー」
と、どこかわざとらしい口調でこう返しながら、僕の胸を右手の人指し指で軽くつつく。
「うう……」
里香に予想外にも男心をくすぐられるようなことをされ、
僕の方はもう追求しませんという感じの反応をした。
里香が少しだけ、へへっと笑ったような気がする。
きっと、さっきの涙は演技は本当の涙だったんだ。
今はそういうことにしておこう。疑っちゃ悪いもんな。うん。
……その後、ほんの少しの間が置かれた後に里香がポツリとこう言った。
「あのね、裕一……私の心臓の、最近の検査結果は大丈夫っていうか、凄く良かったから。
だから、その………あんまり気は使わなくても良いから‥‥ね?」
デリケートな話題だからか、それとも恥ずかしいのか目を瞑ってこう言った。
それを聞いた僕は、言いようもない切なさと愛おしさに胸を締め付けられながらも
里香の肩や背中を両手で抱きしめる。ベッドの上で里香の身体が反射的に強張る。
「んっ……」
そして、彼女の名前を呼ぶ。
「里香……」
恥ずかしくて言えない続きの言葉は、自分の心の中で紡ぐ。
ほんとにありがと、里香。
俺、出来るだけ、心臓に負担かけないで優しくして気持ちよくしてやるから。
……僕が心の中でそんなことを考えていると、里香が不意に予想外のことを聞いてきた。
「そういえば……裕一のお母さんは、いつ帰ってくるの?
普通ならもうとっくに帰ってきてる時間だと思うんだけど」
「あ、あぁ……」
なるほど、それは確かに現実的に気になることだよな。
里香は、僕が気にしていることを先に解決したあとに、
今度は里香が気にしていることを聞いてきたということだろう。
僕は、里香の疑問に確実に答えることにした。
「っと……今日は確か遅くなるって言ってたから多分深夜過ぎだと思う」
すると、里香は安心したように溜息をついた後、改めて口を開く。
「それなら、ちゃんと出来そうでよかったぁ……えへへ」
最後にはにかんだ里香が可愛くて、僕の口からも思わず笑みが漏れる。
「うはは」
「ふふ……」
互いに小さな笑みが漏れて、僕と里香の間に今まであった薄い膜のような、
カーテンのような感情の隔たりがまた一枚取り払われていくような気がした。
……まだいくらか残っているその膜の向こうには、身体に何一つ纏っていない生まれたままの姿の里香が、愛おしそうな顔をして僕を待っているのが見えた。
僕も真っ裸で、薄い何枚かの膜を自らの手で取り去って待っている里香の元に飛び込んでいく……
……そんなアレな想像をしてしまった僕は、
股間でさっきから疼きっぱなしだったモノが急速に元気になるのを嫌でも感じてしまった。
里香を抱きたい。
その想いが一層強くなって、僕は里香の漆黒の目をしっかり見て問いかけた。
「じゃあ……もうそろそろ、いいか……?」
里香も、僕の目をしっかりと見て答えを返してくれた。
「うん……」
僕は里香の黒く長い髪を右手でさらりさらりと梳きながら、左手で背中を抱きしめてやる。
そして、出来るだけ優しく里香の小さな唇を奪った……。
つづく
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