みんなが伊勢を離れてもう一ヶ月が過ぎようとしている。もちろんここに残る気持ちに
変わりは無いし、羨ましいと思う気持ちも殆どない。まぁ、多少はある…。
 当然のように会えていた司やみゆきがいないという現実に、僕は漠然と不安な気持ちを
抱えていた。お互いそんな気持ちは口には出さないんだけれど、里香も多分そうだろうと思う。
 もうそんな機会はないだろうけど、また屋上から隣の棟に飛び移りたくなっても、手助けを
してもらうことはできない。これから起こる問題は、二人で解決しなくてはならない。

「おはよう、裕一」
 白いベンチに、長い黒髪のコントラストが映える。少し不機嫌な声を発したのは里香だ。
「おはよう里香、もしかして待った?」
 申し訳なさそうに問いかける。
「ううん、今来たとこ。でも、私を待たせるなんて、裕一も随分偉くなったものね」
 冷たい視線と少しほっぺたを膨らませた二段攻撃。
「えーと、…ごめん」
 別の意味で破壊力抜群の表情をカメラに収めたい衝動に駆られつつ、そしてほぼ時間通り
(というか三分前)に着いたという事実は闇の中に葬りさり、とりあえず謝っておく。
 鞄は持ち上がっていないし、多分怒ってはいないだろう。
「女の子を待たせるような甲斐性無しには成らないように。バカ裕一。」
「了解でございます。里香様」
 人間の尊厳を失いつつある返答ではあるが、今日の里香の笑顔を見る為とあっては、
そんな物は心の奥底に惜しげもなくポイだ。明日は絶対もっと早く来よう。
「素直でよろしい」
 里香は満足げに偉ぶりながら、スッと立ち上がる。同時に、長い黒髪とスカートがフワリと
風になびいた。数秒の沈黙の後、僕達は声に出さない程度にクスクスと笑いあった。
 少し肌寒く心地よい風の拭く中、朝の柔らかな光に包まれた伊勢の世古を、里香の鞄を乗せた
自転車を押しながら歩く。自転車を挟んで二人で学校に向かって歩き始めた。司も、みゆきも、
山西も、ついこの前まで通っていた学校に向かって。

 無事、何の問題も無く三年になって、里香が同じく二年なったのを境に、僕は互いの家の中間に
位置する公園で、待ち合わせて通学するように里香に提案したのだ。
 提案を聞いた里香は、ちょっと遠くなって面倒だとか、気持ち悪いだとか、徒歩と自転車では効率も
バランスも悪いだとか、結局邪な考えがあるのではないかとか、数々の反対意見を矢継ぎ早に
羅列してはいたが、『何かあった時にすぐにサポートできるようにしたい』と、里香の母親へ、あらかじめ
根回し(というか嘆願)していた事が決定打となり、翌日には、母親の説得の甲斐もあって、なんとか
この制度が採用される運びとなったのである。
 同時にお弁当の量産化を依頼したかったのだが、お母さんが作っている気配が濃厚なので、
色々考えた結果、心の中に留めておくことにした
 学校の階段の踊り場で振り返りながら里香が小さな声で呟く。
 「じゃあね」
 「おう」
  潜在的に他の生徒の目が気になっているのか、僕は少し格好をつけて返事をした。
 「おうじゃなくて、ハイでしょ」
 横柄な返事と受け取られてしまったのか、それとも軽い冗談なのか、微妙な反応に
怯みつつ最大限に譲歩した返事を選択。ヘタレじゃないよな?怒らないよな?と横切る不安。
 「はーい」
 「ハイは短く!」
 長い髪を揺らしながら後ろ向きで答え、教室へと続く廊下を進んでいく。
 軽く怒られたが、心地よい返事。周りに人気が無い事を確認して、僕は階段の間から
後姿が見えなくなるまで彼女を見守った。

 学校での僕たちは、半ば公認のカップルのように認識されているようだ。
まぁ、いつも一緒にいるので、見ればわかる的な雰囲気とでも言うべきか。
去年の結婚の噂以来、里香にちょっかいを出す男子生徒は減少傾向にあるが、あいかわらず
月に一〜二回程度は下駄箱に子洒落た封筒が入っている。

『女の子の封筒みたいだね』
『みんなステレオタイプすぎ』
『言いたいことがあれば直接言えばいいのにね』

 などと、少し迷惑そうで尚且つ照れながら、そそくさと封筒を鞄にしまうシーンを何度か目撃している。
気まずいので詳しくは聞いていないが、捨てるのも悪いとの事で、封筒は開かずに取っているようだ。
 封筒の中の便箋には、直接告白する為の待ち合わせ場所とか時間とか、思いの丈を伝える為に
何度も推敲を重ねたメッセージが書かれていることは、容易に想像つく。
里香も解っていて、あえてそうしているんだろう。のこのこ出向いて直接言われても困るだろうし。
 あと二年、出会い頭に告白するような輩が出てこないことを祈るばかりだが、仮にそんな事が起こっても、
礼儀をわきまえない行動に対して、純真な男子高校生のガラスのハートを粉砕する言葉が
投げかけられることだろう。

 特に来年は学校に里香だけが残されることになるので、非常に不安なのだ。
 やっぱり、もう一回留年しておくべきだったか…同じクラスで夢の学園生活を妄想したことはあったが、
それはそれで逆鱗に触れそうだし、2年連続留年という駄目さ加減に僕の精神が耐えられる自信は無い。
 とにかく、悪い虫が寄り付かないように監視するのも、悪い虫代表の僕の務めなのである。
 三年にもなると、教室の中は大きくいくつかの派閥に分かれるようだ。熱心に授業を
受ける者、別の教科書を開いている者、これらは、進学を考えている真面目なグループだ。
それに対抗するグループとして、睡眠学習に励む派閥が存在しているが、残念ながら
彼らの研究の成果は、過去のデータからは立証されていない。
 僕はどちらのグループにも属していない『浮いた存在』になっているようだ。とりあえず好きな
授業は熱心に聞いているし、いまでは成績が底辺をうろつく体たらくでもない。高校二年を
ほぼ丸ごと1年かけて復習したので、成績は中の上まで回復していた。それでも中の上なのは
悲しい限りなのだが。

 正直、まだ良くわからないのだ。これからの一年で自分がどうしていくかを決めなければ成らない。
わかってはいるが、里香の事を考えると、リアルなイメージはまだ浮かんではいない。
働くのか進学するのか。僕と里香は、まだどうするか真面目に話をしていない。
多分、里香は進学したいと思っている気がする。

 『まだ、ゆっくりと答えを探せばいい。』

 自分に言い聞かせはするものの、もう悠長に考えている時間もない。わかっているが、
すでに数ヶ月考えている問題の答えなど、やすやすと出るものでは無いのもまた事実なのだ。
 どうするか夏目と話したい気持ちではあるが、彼もまた既に伊勢にはいない。
亜希子さんに相談してみようかと考えたが…『はぁ?どっちでもいいんじゃない?』とか、
適当な返事が返ってくる気がする。
いやいや、適当な返事の後に、真面目に答えてくれるだろうけど、結局は二人の問題と諭されて
終わる気がする。買いかぶっているのかもしれないが、夏目なら、少し違う返事をしてくれると思っている。
 『もし、帰って来たら話しに行こう。次の検査の時に亜希子さんに聞いてみよう。』
 都合の良い思いつきだが、今はこれでいい。

 高レベルに成長した睡魔と、黒板を叩くリズミカルな音が激しい戦いを繰り広げる中、終戦を告げる
五間目のチャイムが鳴った。
 「おさきー」
 「ういっす」
 いまだに若干敬語風に話してくるクラスメイトに、軽く別れの挨拶をし、足早に階段を駆け下りる。
 横開きのいかにも古そうなドアをゆっくりと開き、あたりを見渡す。
人がいる割りに静かな教室。そう、ここは我が校の図書室だ。
 キョロキョロと辺りを見渡し、小さな頭の長い黒髪を捜索する。
いつも同じ席に座れればいいのだが、早いもの勝ちなのでなかなかそうも行かない。
 なんとなく男子の人口密度の濃い長机に座っていた。最近発見したのだが、
里香にはファンが多いようで、あたかも偶然を装い、同じ長机に座ろうとする輩が多いようだ。
でも、きっかけを見つけて話しかけたところで『静かにして』で終わりだろうな。

 目の前をさりげなく素通りする。半ば公認のカップルではあるが、学校内では、
おおっぴらには接触しないのが、僕たちの暗黙のルールと成っている。
「ゴホッゴホッ」
 さりげなく咳払いをして見たものの、読書中の里香の集中力は尋常ではないようで、
一向に気が付く様子がない。こういう場合は、無理に気付かせない方がよい。
読書を中断された事で機嫌が悪くなるかも知れない。
 近くの席に座り、なんとなく彼女の読んでいる本のタイトルを確認する。
「壁」と書いてあるが、もちろん誰だかしらない。巻数の多い本であれば、次の巻の貸出票に
里香の名前を書く悪戯をしようと思ったが、今日は実行できないようだ。

「ん・・」
 本をパタンと閉じて、手を前に伸ばすと同時に目線が交差する。
斜め前に座る僕の存在に、十五分くらい経過して、ようやく気が付いたようだ。
 彼女は本を棚にしまい帰り支度をしている。今日は本を借りないようだ。
数名の男子生徒の恨めしそうな視線を浴びながら僕はゆっくりと扉の方に向かう。

「待ってたんなら言えばいいのに」
「いや、なんか本を面白そうに読んでたからさ」
 少し口を尖らせ不服そうな顔をしていたが、本の話題を振られると弱いようで、
すぐにいつもの表情に戻った。
「うん。変わってて面白かったよ。裕一も読んでみるといいよ」
「そっか。今度読んでみるよ」
「そんなこと言って全然読んでない癖に」
「ちゃんと読んでるって!」
「嘘ばっかり」
「うー。読むの遅いだけだってば!」
 僕の読書予定リストは増える一方だ。
 少し傾いた夕日が朱色に伊勢の町並みを染める。
校門をでて、しばらく歩くと少しなだらかで長い下り坂がある。
見回りの先生がいない事を確認して、里香を自転車の後ろに乗せる。

「裕一は悪いなぁ」
 少し笑いながら悪戯っぽく言った。
「里香も同罪」
 僕も少しおどけながら答えた。
 ちょっとゆっくり目にスピードを調整しながら坂を下りていく。
頬に心地よく当たる風が気持ちいい。

 今、彼女はどんな表情をしているだろうか?長い髪は風に揺られているだろうか?
振り返りたい衝動に駆られつつ、僕の運転する自転車はゆっくりと坂を下りていく。

        φ    

 里香の体力は、日常生活を送る上で問題無いレベルに回復している。
むろん走るとか、体に負担をかける運動をしない事は、あいかわらず絶対条件ではある。
 透き通った白い肌は鍵っ子の不健康さを連想させるけれど、美白だとか言われるこの時代には、
普通の健康な高校生にしか見えない。学校の殆どの生徒も、特に男子生徒は、
里香は病弱程度にしか思っていないだろう。
 体の状態を頭では十分に理解している僕でも、今、目の前にある現実、『健康に見える里香』
という現実に騙されそうになる。そのまま騙されていれば、どんなに幸せだろうか。
どんなに心が晴々するだろうか。
 でも僕は、自分に騙されてはいけないと言い聞かせている。
 これは現実だけど、本当に目の前にある現実なんだけど、一瞬で壊れてしまうような朧な現実なんだと。
何度も何度も自分に言い聞かせている。

 一分でも一秒でも長く、この輝きを、
僕と里香の記憶というフイルムに、消えないように焼き付ける為に。


(終わり)


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