「戎崎君。そいじゃ、あとは店番よろしく。八時になったらシャッター閉めて鍵はいつもの
所に置いといて」
古ぼけた白いワンボックスカーに乗る、同じく古ぼけたおじさんに軽く会釈をして、僕はこ
この主の指定席に向かった。
店の中は独特の匂いで薄暗く、そして通路は極端に狭い。
お客さんに鉢合わせたら、横向きですれ違うのがやっとで、気を抜くと山積みされた大量の
古書を片付ける羽目になる。
何度倒して不毛な作業を強いられたことか。これ以上、仕入れたって置くとこないって。まったく。
僕は高校三年になって古本屋でバイトを始めた。
高校生活を楽しむ為には先立つものが必要で、母親からの援助だけでは、とてもじゃないが、
ゆとりある高校生活を楽しむことはできない。
それに里香とどこかへ行く時に、中身の寂しい財布を持ってわけにも行かない。
変なプライドとは思いつつも、やっぱりお金があるに越したことは無い。
バイトを探そうと思っていた矢先、古本屋の前を通った時に、偶然アルバイト募集の張り紙
を見つけた。
『チボー家の人々』を買った(買ってもらった)、僕にとっては特別な古本屋だ。
週二回という生ぬるい条件は、今の僕にとって好都合だったし、何より古本屋というのが最高だ。
わざわざ買いに行かなくても本が買えるのだ。なんて素敵なことだろうか。
「裕一がやりたきゃ、やればいいよ」
翌日の学校の帰り、僕は里香にバイトのことを打ち明けた。
「私がとやかく言う問題じゃないし。それは裕一が決めることでしょ」
里香はちょっと不満げに答えた。
自分がバイトをする時は、一度駄目と言われているわけだから、
理由はどうあれ釈然としないよな、やっぱり。ごめんな里香。
「週に二回だけだし、本屋だったら里香にも都合がいいだろ?だからさ、お願い!」
僕は許可が出ているにも関わらず、里香にお願いをしていた。
「だから良いってば。しつこいなー」
「ほんと?怒ってない?」
「怒ってない」
ムスっとして完全に怒っている。
「ほんとに?」
「もう、鬱陶しい!良いって言ってるでしょ。裕一のバカ」
「バイト代入ったら、何でも奢るからさ!そうだ、また、てこね寿司食べにいこうぜ」
「…うん」
少し沈黙してから肯く。
「そのあと甘い物もつける事」
奢るという言葉に反応して和らいだ表情に胸を撫で下ろし、何とかバイトの許可を取りつけたのだった。
いや、本当はバイトなんてやりたくないんだよ。里香と一緒にいろんなものを見に行きたいんだよ。
それには少しばかりのお金が必要なんだ。僕は心の中で呟いた。
疲れた座布団が張り付いた椅子に座り、店長の用意したメモを見る。
なになに、新しく買い取った本の整理と軽い掃除・カバー掛け・シュリンク・清掃・窓拭き・
トイレ掃除。すでに店番じゃないことに少々疑問を抱きつつも、さっさと本の整理を進める。
といってももう、置くところ無いってのに、あの考えなしの店長は何でこんなに仕入れるんだろうか。
仕方が無いので、本の大きさと種類を大まかに分けて、小さな山をいくつかレジの前に積んでおいた。
値段は僕には付けられないので、店長が付けやすいように準備しておく。黄ばみが激しい本はヤスリを
かけて、表紙が汚い本は少し湿った布で軽く拭く。ダンボール三箱をさっさと終わらせる。
それにしても、お客さん全然来ないよな。一時間に一人も来ないことはざらで、
雑用を押し付けたくなる気持ちはわからないでもない。
何しろ、本が減る量よりも増える量の方が遥かに速いんだから。
近い将来、この店の通路は絶対に一方通行になるだろう。
店の外の空気を吸う為に窓拭き業務を執拗に、念入りに行って、もうこれ以上綺麗にするのは
無理だって位に綺麗になった。拭いたのは硝子扉一枚だけだからバランスが悪いんだけど。
この不自然さによる集客効果は高いと見たね。
窓拭きを終えて店長の指定席に座り、休憩がてらの店番を始めることにした。
誰もいない静かな空間と大量の本。自分の店なら絶対に本を読む環境だよな、これは。
というかこの状況では本を読むしかない。裸で風呂の前で桶に座っているようなもんだ。
風呂に入るしかない。
自分の読みたい本を持ってきていない事に後悔しているが、そもそもバイトの身分で給料を
貰って本を読んでいいのかもよくわからない。
店長に聞いてから、もしも『良い』って言われたら堂々と読もう。『駄目だ』って言われたら隠れて読もう。
トイレ掃除以外を終えた僕は、休憩がてらの店番がすでに二時間を越えたあたりで、
さっき拭いたばかりの綺麗な方の扉がゆっくりと開いた。見慣れたシルエットに僕は驚いた。
ちょっと、この小汚い店長愛用の地味なエプロンを、すぐにでも何とかしたい気分で一杯になった。
白いブラウスにフリルの付いた長くて赤いスカート、肩から掛けた小さなポーチ。
どこからみても女の子な彼女は、静かに硝子扉を閉める。
「いらっしゃいませ〜」
緩みそうな頬をできるだけ引き締め、僕は杓子定規な挨拶をした。自然と声は軽やかになった。
来るんだったらメールでも送ればいいのにな。いや、送らないほうが彼女らしいとは思うんだけど。
その訪問者は、僕と一瞬だけ視線を交わし、軽く微笑んだあと、店の中の本をじっくりと見始めた。
仕事の邪魔をしないように気を使ってくれているんだろうか。
その他の客がいないのでそんな気を使わなくてもいいのになと思いつつ、『どんな本をお探しで?』と
颯爽と登場するつもりで立ち上がった瞬間、学生二名様がご来店。
「いらっしゃいませ!」
僕は自分の運の無さを恨んだ。さっさと漫画本でも購入していただき、またのご来店を願いたいという
希望も叶わず、一人は文庫本を手に取り、薪を下ろした二宮金次郎の銅像よろしく、読書を開始してしまった。
自分も立ち読みは嫌という程やってきたが、今日、初めて店員の気持ちがわかった気がする。
立ち読みは駄目だ。みなさん、ちゃんと本は買って読みましょう。
ただし、ここは店長曰く『立ち読み歓迎店』なのだ。
本好きおじさんによる趣味の店のなんと優雅なことか。
ここでは、ハタキは立ち読み客を追い返す道具ではなく、ただの掃除道具でしかないのだ。
さすがに他のお客さんのいる中で、気楽に話しかけることには抵抗がある。
まだバイト二日目の僕にそんな度胸は無い。少し意識して里香に視線を送りつつ、僕にとっては
迷惑な、お店にとってはありがたい、その他二名のお客さんが帰るのをやきもきしながら待っていた。
あと二十分もすればようやく閉店の時間を迎える。
ゆっくり時間が流れる中、ふと明暗が浮かんだ。そうだ、メールを送ろう。
『八時でバイトが終わるから、一緒に帰ろう』
即効で入力し、送信ボタンを押そうとした矢先、携帯がブルッブルッと震えた。
一通のメールを受信。送信者は里香からだ。やっぱ考えることは同じなんだ。
嬉しくてちょっとドキドキした。胸の高鳴りを抑えつつメールを開く。
『仕事頑張ってね。またね』
メールを読んで僕は愕然とした。
たしかに、今日ここに来ることも、一緒に帰るなんてことも約束はしていない。
でも、一緒に帰るのは無理だとしても、一言も話さずに帰るのは、あんまりではないか。
すぐに里香の方を見る。硝子扉を開き、こちらを見て微笑み軽く会釈をして帰る瞬間だった。
抗議をする暇も与えず、里香はそそくさと店を出ていってしまった。
さっきまでの幸せな気持ちはどこへ行ったのか、一気に奈落の底に突き落とされた様な気分。
やり場の無い気持ちに、体中の空気が溜息となって溢れ出す。
あと十数分で閉店なのに帰るか普通。いや、里香なら、秋庭里香なら十分ありえる。
買い物か何かの用事のついでに立ち寄っただけだったんだ。
変に期待してしまった自分が、無性に嫌になった。
なんか、情けないし、恥ずかしいし、胸はモヤモヤしてるし、『切ない』ってこういう気分の事を
言うんだろうな。
はぁー。いくらモヤモヤを吐き出そうとしても、吐き出せないみたいだ。
外はすっかり闇に包まれ、人通りはまばらで僕の寂しい気持ちを大きくしていた。
静けさの中、かすかに虫の鳴き声が聞こえる。
身も心も疲れきった体で店のシャッターを降ろし鍵を閉める。ようやくバイトが終わった。
トボトボと、うつむき加減で店の近くの自転車置き場に向かって歩く。はぁー。
「おつかれさま、裕一」
目の前には、街頭の明かりに照らされた里香の姿があった。
「驚いた?」
小さなポーチを後ろ手で持ち、ちょっと悪戯っぽく言う。してやったりな表情。
なんかもう、ビックリして、嬉しくて、ひどいなぁとか、嬉しいなぁとか、いろんな想いが込み上げる。
「里香、帰ったのか思った」
僕はちょっとすまして言ってしまった。
暗く寂しい街並みを一人で帰ろうとしていたから。
さっきまで何か期待している自分と、現実との違いにたまらなく切ない気持ちに成っていたから。
本当に嬉しくて泣きそうだったから。
「あー驚いてない!裕一は冷たいな。二十分も待ったんだよ!」
外で二十分も待っていたのは里香自身なんだけど。そんなことはどうでもいい。
「ごめん!実はすっごいビックリした。スゲー嬉しい!」
僕はなんて伝えたらいいか、わからなかったけど頑張って伝えた。
多分、想いの九十%は伝えられなかっただろうけど、今の僕にはこれが精一杯だ。
「ん、よしよし」
捨て犬を撫でるような台詞。
「帰ろっか」
「うん」
彼女は微笑みながら小さく肯いた。いつの間にか、さっきまで僕の体の中を占領していた
モヤモヤは綺麗に消えていた。
自転車を挟んで二人でゆっくり、夜の伊勢の街を歩く。なんども通った道なんだけど、
彼女が横にいるだけで、なんでこんなに幸せな気分になるんだろうか。
彼女も今、僕と同じように、幸せなんだろうか。
半ば放心状態で考え事をしていた僕に、里香が話しかける。
「静かだね、裕一」
「えっ、あぁ。うん…」
僕はそれがきっかけで、やっと気持ちを取り直して、普通に物事を考えられるようになった。
「店長がさ、本ばっかり仕入れてさ、店ん中、本ばっかりなんだ」
「あたりまえじゃない。古本屋さんなんだから。裕一、バカみたい」
くすくすと笑う里香の姿をみて、僕は自分の言った事が少し恥ずかしくなった。
そりゃまぁ、確かにその通りではあるが、それを伝えたいんじゃないんだよ。
「そりゃ。まぁそうなんだけどさ、いや、減る量と増える量のバランスがね…」
「あははは。そんなの裕一は気にしなくて良いの」
「まぁ、そうなんだけどさ、通路がね狭いからさ」
「さすが将来の店長さん!あはは」
笑いの壷にはまったみたいで、ゲラゲラと笑っている。僕は、自分は天然なんだろうかと思いつつも、
必死に自分の古本屋の店長という将来を否定した。
「いや、あんなとこ頼まれても継がねーって!」
「結構、似合ってたよー。戎崎店長!あははは」
「全然、嬉しくない!」
褒められているのか馬鹿にされているのか、よくわかんない褒め言葉。実は少し嬉しかったのは内緒だ。
おかしさのあまり、ハンカチで少し涙を拭く里香。ようやく笑いは落ち着いたようだ。
二人で笑いながら帰る夜道。誰も邪魔しない二人だけの空間。
良い雰囲気に僕は無性に手を繋ぎたい衝動に駆られたが、何故、僕は自転車を押しているんだろうか。
この二人の間にある自転車を恨めしく思った。
片手で自転車を押しながら手を繋ぐ姿を想像してみたが、どう考えてもおかしかったので実行は断念した。
些細な会話をやり取りしながらしばらく歩くと、毎朝待ち合わせている公園に着いた。
数秒の沈黙。ここが二人の家の中間地点だ。
「遅いから、家まで送るよ」
「いいよ、悪いから」
「遅いし危ないから送るよ。断ってもついていくから」
「ん。ありがと」
滅多に見れない素直な里香を見て、僕は誇らしく穏やかな気持ちで一杯になった。
この時間が一生続いたらいいのにな。いや、一時間でもいい。
だけど、あと十数分でこの時間は終わりを告げる。
できるだけゆっくり歩くぐらいしか僕には抵抗する手段がない。
「今日ね…」
「ん?」
里香が小さな声で俯いて小さな声で呟いた。
「お母さん…」
「うん」
「用事で…家居ないんだ」
それはどういう意味だろうか。一瞬で、僕の穏やかな心は、天変地異が起こったかのごとく変化した。
心臓がバクバクなっているし、声が出ない。苦しい
φ
僕達は、何分ぐらいこうしていたんだろうか。
シーンと静まり返った電気の消えた部屋。
時計の秒針と、彼女の息づかい。目をつぶれば、今にも彼女の鼓動が聞こえてきそうだ。
僕は長い黒髪に顔をうずめ、立ったまま彼女を軽く抱き締め続けている。
二人の頬は、今にも触れそうだけど、でも、触れることができなくて、僕は何度も何度も
深く息をした。もうすっかり、目は部屋の暗闇に慣れて、最初は判らなかった彼女の表情を、
微かに感じるとることができる。
少し照れたやさしい表情。
僕は目を閉じ自分の鼓動を確かめる。だいぶドキドキは収まったみたいだ。
彼女の髪は、しっとりとしていて洗い立てのシャンプーの匂いがした。
『いい匂いだな』と心の中で呟く。
僕は、それだけで幸せな気持ちで一杯になっていた。
彼女の吐息が、何度も僕の右肩を、くすぐったく吹き抜ける。
僕の肩に、ちょんと寄りかかる軽い重み。心地よい重み。
彼女の両手は、少し緊張して、僕の胸に添えられている。
拒絶するでもなく、受け入れるでもなく、本当に軽く添えられているだけ。
僕の手の中の彼女は、想像していたよりも全然小さくて、びっくりするほど細くて、
今にも壊れてしまいそうなぐらい華奢だったから、本当にゆっくりと、ゆっくりと、
壊れないようにギュッと、彼女を抱き寄せたんだ。
『裕一…』
彼女の鼓動が、僕の胸に伝わる。
ドクンッドクンッと、少しだけ早い鼓動が僕に伝わる。
彼女の心臓は今、精一杯、頑張って脈打っている。一生懸命、生きようとしている。
僕は、例えようの無い愛しい気持ちで心が溢れていた。
神様…どうか、この小さな命の輝きを、僕から奪わないでください。
ゆっくりと二人の距離は縮まり、今にも頬が触れそう…。
ドクンッドクンッ、僕の鼓動が速くなる。
ドクンッドクンッ、ドクンッドクンッ、重なり合う二人の鼓動。
『里香…』
「裕一…」
「裕一…バカ裕一っ!」
ひどいな里香。この状況でバカは無いよ、バカは。ムードってもんがあるだろ?
『えっ?』
僕は一瞬で今の状況を把握した。目の前には乗りなれた自転車があるし、横にはちょっと
怒ってあきれ気味の里香の姿。暗く静かな街並みを歩く二人。
空には、約半分の月が輝いていた。
「なんでずっと黙ってるの?裕一、気持ち悪い」
「あっ…あぁ。ちょっとね…。考え事」
「ふ〜ん。へぇ〜」
ちょっと意地の悪い顔。なんか見透かされたような気分。
いや、実際見透かされているんだろうけどさ。
ぼくはいったいどれぐらい妄想の世界に旅立っていたのだろうか。
里香との帰り道、二人だけの大切な時間。
僕はいったい何をやっているんだろうか。あぁ、穴があったら入りたい。
「裕一のH…何考えてんだか」
「そんな事考えてないって!」
僕は精一杯、否定した。でも顔は自然と真っ赤で、実際そうだから後ろめたい。ゴメン里香。
「よく言うよ。時々、変な顔してたよ」
「あははは…はぁー」
なんか格好悪い自分が嫌になってきた。
もう、虚勢を張らずに素直に里香と話をしよう。
里香には浅はかな考えなんて通用しないことぐらい解ってるんだ。
そう、僕は二人で歩いてる時に、よからぬ考え事をするようなバカなんだから。
「…えーと。どんな顔してた?」
「ニヤニヤしてた」
「あはは…はぁー」
「裕一はバカだねぇ」
「はははは」
「相当のおバカだね」
バカバカ言われて、僕は自己嫌悪にさいなまれながら、この気まずい時間が
一刻も早く過ぎ去ることを祈った。
「もう、里香が変なこと言うからだよ!」
「…」
「…ゴメンね」
里香がボソリと呟く。
「…えっ、あぁ。ゴメン」
「…」「…」
沈黙する二人。数秒間の間が怖い。一体なんなんだ、この微妙な空気は。
いつも通り僕を笑い飛ばしてくれよ。里香。
僕の心の叫びも空しく、結局、僕達は無言のまま歩き続けていた。ほんの少し気まずいだけ。
喧嘩しているわけでもない。気楽に話しかければいいだけなんだけど、いくら探しても、
いい言葉が見つからない。
何を言っても、もっと気まずくなりそうで、僕は情けないけど、彼女の言葉を待っていた。
ちょっと長い沈黙。二人の足音が夜の町に静かに響く。少し肌寒い風が、僕たちの間を吹き抜ける。
「もうすぐ家だね……」
「うん……」
僕は、少し寂しい気持ちで肯いた。
ずっと里香と話をしていたい。
くだらない事で二人で笑いあっていたい。
何故、僕は無言で歩いているんだろうか。
里香は僕と同じように、寂しいと感じているんだろうか?
目の前に里香の家がみえる。あと一分もすれば、幸せな時間が終わる。
辺りはすっかり暗闇に包まれて、シーンとした静けさが寂しさを増幅させる。
さっき呟いた里香の言葉が頭をよぎる。
だけど、僕は、もうこれ以上、格好悪い自分を見せたくないから、
何かに期待する心を振り払って里香に別れを告げた。
「戸締り、気をつけるんだぞ。何かあったらすぐに携帯で連絡しろよ」
僕は寂しい気持ちを悟られないように、できる限り強がって自転車にまたがった。
せめて里香が扉を閉めるまで見守ってから帰ろう。
里香はきょとんとした目で僕を見ている。
意外そうな視線。しばらくして、少し困ったような表情をしながら呟いた。
「お母さん家いないから……」
「うん」
「帰ってくるまで一緒に居て」
僕は突然の誘いに動揺した。
いや、それは心のどこかで期待していた言葉だったんだけど、にわかには信じられない台詞。
「え? 帰ってこないんじゃないの?」
「遅くに帰ってくるって」
「何時?」
「わかんない。できるだけ早く帰るって」
「……わかった」
僕は、もう何も考えられなかったけれど素直に従うことにした。
自転車に鍵をかけ、里香の方に向かう。ぼんやりする思考。
あぁ、今日遅くなるって家に電話しなきゃ。
「……」
「そういうのじゃないから」
「……へ?そういうのって?」
ぼんやりしていたので、とっさに聞き返してしまった。
「うるさい! 裕一のバカ」
里香は少し困った顔で、恥ずかしそうに呟いた。女の子ってわかんない。
なんとなく理不尽な説教だなと思いつつ、半ば思考停止状態の僕は、里香に続いて
暗い玄関に入って行く。
『あら、祐一君いらっしゃい』
いつもならここでお母さんのお出迎えがあるんだけど、今日は留守なので、当然、家は暗く
静けさに満ちている。里香はそそくさと玄関と居間の電気をつける。
「ちょっと、そこで座ってまってて」
少し足早に歩きながら伝えると、長い髪を左右に揺らしながらトントンと階段を上がって
二階に消えてしまった。
僕はソファーに座り大きく深呼吸をした。慌ただしい展開に頭がついて行けなかったけど、
ようやく気持ちを落ちつかせることができた。
状況を整理しよう。そう、僕は里香と気まずい感じで一緒に歩いていて、家に着いたので
帰ろうとしたら、何故か家に誘われて、唖然としていたら怒られて、里香は困ったような顔……。
そして今、家に二人っきり。僕はふかぶかとソファーに座っている。
『うーん』
僕はどうすればいいんだろうか。どうしたいんだろうか。
少なくとも僕は里香と一緒にいたい気持ちはいつもあるし、里香が望むならなんだって叶えて
やりたいと思っている。でも、なんか今の状況は違うんだ。
気持ちが通じ合っていないとでも言うべきか、すれ違っている感じというべきか。
そんな事を考えているうちに、階段を降りる足音が聞こえる。
「おまたせ」
見慣れた紫色のパジャマに白い上着を羽織ってる。少し長い袖口からチラッとでた指先。
手には2冊の本がある。なんだ着替えていたのか。そりゃそうか。
里香はゆっくりと僕の隣に座った。
二人の間の微妙な距離が、今の僕たちの関係を物語っている。
近い様で遠い距離。手を伸ばせば抱き寄せられそうだけど、できない近くて遠い距離。
里香が手に持った本を膝において言った。
「祐一、時間……大丈夫?」
「ん? あぁ、電話するから大丈夫。それに何時に帰ろうが、そんなに心配されないし」
「アハハ。大事にされてないね」
「まぁ、男ってそんなもんだよ。ハハハ」
たわいも無い会話だったけど、少しは雰囲気が和んだ。
「……ゴメンね。急に」
「いや、まぁ、全然いいんだよ。どうせやる事ないし」
いや、違うんだ。
ここで『俺も一緒にいたいから』とでも言えればどんなにいいだろう。
僕は自分の度胸の無さに自己嫌悪に陥りそうだった。
「そか……」
里香が小声で呟く。
「……」
このままじゃ駄目なんだ。
里香を悲しい気持ちにさせてどうするんだよ!
僕は、今のこの雰囲気を吹き飛ばすべく覚悟を決めた。
「里香、俺……」
はやる心に言葉が詰まる。緊張して目を合わせて喋れない。
「不器用だし馬鹿で格好悪いけど、もし…」
「もしさ、里香が困ってたり悩んでるんだったら、何でも伝えてほしいんだ。
じゃないと俺さ、わかんないからさ」
僕はありのままの気持ちを一生懸命伝えた。
「……ありがと」
里香の指が僕の指に触れる。ほっそりとした柔らかい指。
何度目だろうか、僕の指が、里香の指に触れたのは。
重なり合った僕と里香の手。お互い指先の感覚を確かめ合う内、自然と互いに握り合う。
僕は一瞬だけ軽くキュッと握った。すぐにキュッと握り返される。
たったこれだけの事だけど、確かに僕は、里香と心が通じ合えた気がした。
里香の頭が、僕の肩に軽く寄りかかる。
「今日ね、初めてなんだ」
ドキッとする言葉。里香の声が、微かな振動となって僕の肩を伝う。
僕は少し長く、キュッと握り返す。里香も少し長く、キュッと握り返す。
「だから……ちょっと怖い…」
「うん……」
僕は肯き、寄りかかった里香の頭に、自分の頬を軽く寄りかからせる。
握り合った手、触れ合う二人の肩。柔らかい感触と少し甘い匂い。
ずっとこのまま、里香を感じていたい。
僕は目を閉じ、里香の声に耳を澄ます。
「お母さん、急に用事ができちゃって……」
「うん……」
里香を置いていくなんて、よっぽどの急用だったんだろう。
何度か家に来たけど、お母さんがいないのは今日が始めてだ。
「出かけるかどうか、凄く悩んでたんだけど……」
「……」
「私ね、『行っても大丈夫だよ』って言ったんだ」
「うん……」
僕は、里香の頭をやさしく押すように肯いた。
「……でも、一人になったら、急に怖くなって……
このまま倒れたらどうしようとか、不安になっちゃって……」
「うん……」
「なのに、裕一は帰るって言うし……」
少し泣きそうな声。
「……ゴメンな。里香」
「……」
「裕一は……悪くないよ」
僕は舞い上がっていた自分を殴りたい気分だった。
里香は一人になるのが怖かったんだ。
『ずっといっしょにいようぜ』なんて、言っておきながら俺は……。
静まり返った部屋に二人っきり。
僕たちはお互いの気持ちを確かめ合うように手を握り合っている。
今ならちょっと勇気を出せば、何でも素直に言い合える気がする。
「……もしさ」
「……うん」
「これから……今日みたいに一人になる時があればさ」
「うん」
彼女は目を閉じて小さく頷いた。
「すぐに呼んでよ。即効で飛んで来るからさ」
「……うん」
僕も目を閉じ、ゆっくりと呟く。
「ずっといっしょにいような…里香」
僕は自分に言い聞かせるように、もう一度約束をしたんだ。
「……うん」
里香は小さく肯いた。
僕は、彼女の寂しさを吹き飛ばす事ができただろうか。
僕と里香は、じっと互いの温もりを感じている。
今の僕たちは、お互い離れている時間の方が多い。
一緒にいるのは、登下校の時間と休みの日ぐらいで、そのほかの時間はお互いの生活が待っている。
ずっと一緒にいることなんてできないけど……。今の僕に言えることは、これぐらいしかないんだ。
もし来年、僕が卒業したらどういう生活を送っているんだろうか。
彼女はどういう生活を望んでいるんだろうか?
僕には、まだわからない。
心地よい穏やかな時間に終止符を打ったのは、僕でも里香でもなく、僕のおなかだった。
昼から何も食べていないことに、堪忍袋の尾が切れたようで、猛抗議を始めてしまった。
クスクスと笑う里香自然と肩が離れる。
あぁ、なんてことだ、ムードってもんがあるだろ僕の腹の虫よ! あとで思いっきり殴ってやる。
僕は照れくさくて、笑うしかできなかった。
「アハハ。裕一かっこ悪い……ご飯食べてないの?」
「しょうがないの! バイトだったんだから」
「アハハ」
里香と僕は笑っている。まぁ、それでいいか。
「なんか作ってあげよっか?」
「えぇ? 里香、料理できるの?」
ボカッ! 膝に置かれていた本で頭を軽く殴られた。かなり痛い。いや、ずっと病院だったから、
料理の勉強をする時間なんて無かっただろうし、びっくりしたから聞いてみただけなんだけど、
馬鹿にしていると勘違いされたらしい。
「フフフ、祐一君。本には何でも書いてあるんだよ〜」
里香が不適な笑みを浮かべる。料理の上手さとレシピ本はあんまり関係ない気がするけど、
手料理を食べられるなら喜んでお願いしよう。
お母さんがばっちりと色々教えているかもしれない。
だから、おいしいに違いない。多分そうに違いない。いや、そうであって欲しい。
弁当はお母さんが作っているみたいだけど、多分どこかで色々と研究を重ねているに違いない。
「ぜひお願いします」
食べられるだけでも幸せなんだから、僕は喜んでお願いをした。
「フン。もう作らない。祐一は食パンでもかじってなさい」
「えぇ〜!」
あぁ、ちょっと拗ねた感じも可愛いな。
そんなことを思いながら、僕は懸命に頭を下げて、晩御飯の制作意欲が回復するように、
何度もお願いをしていた。
「最初から素直に食べたいって言いなさい! 祐一のバカ」
「……ちょっと待っててね」
里香はそう言いながら、台所へと向かう。
「はーい」
「ハイは短く!」
また怒られた。でも嬉しい、そんな気分。
台所に立つ里香の姿を妄想しながら、僕はバイトで疲れた気だるい体を、ソファに深々と沈めた。
そこには、まだ里香の温もりが残っていた。
あぁ、あの時、腹の虫が機嫌を損ねなければ、もっと違ってたかもと思うと悔しいような、悲しいような。
いや、ここは里香の手料理を食べられるきっかけを作ってくれた事に、素直に感謝しよう。
里香は何を作ってくれるんだろうか? 楽しみだけどちょっと不安。
もちろん、どんな料理が出てきたって、全部美味そうにたいらげるさ。
いや、僕たちの将来のことを思うと、もしも仮に、万が一おいしくない場合は、ハッキリと伝えた方が
料理の上達も早いかも知れないな。
いやいやまてよ、そんな事を言ったら里香に料理を投げつけられるに違いない。
そうなったら、また機嫌を取るのが大変そうだ。
ところで、エプロン姿で料理してるのかな? だったら凄い見てみたい。
今から覗きに行こうかな。あぁ、カメラ持って来れば良かった……。
僕はそんなことを思いながら、幸福な待ち時間を楽しんでいた。
それから十分ぐらいだろうか、玄関から『ただいま』の声が聞こえた。
遅れて里香の嬉しそうな『おかえり』の声。
十時を前にして、ようやく里香のお母さんが帰ってきたようだ。
まだ手料理にありついてもいないし、もうちょっと遅くても……、いや何でもない。
僕は、そそくさと軽く身だしなみを整え、挨拶に向かうことにした。
あぁ、なんて言うのが良いだろうか、こんな時間に二人っきりで家にいたら、
気まずい以外のなんでもないよな。
何の作戦もなく玄関に到着。そこにはお母さんと、気まずい表情の里香が立っていた。
「お母さん、お邪魔してます。あはは」
「あら、裕一君。いらっしゃい」
ちょっと驚いた様子。そりゃ、びっくりするよな普通の親なら。
「えと、裕一が暇だって言うから、さっき来て貰ったんだ」
「そうなんですよ、もう暇で暇で……」
里香、もう少しマシな説明してよ。余計に怪しいよ。
僕は心の中で里香に苦情を言った。
当然聞こえるわけもなく、なんか微妙な雰囲気が僕たちを包んでいる。
なんとなく状況を察したのか、お母さんが口を開いた。
「……裕一君もたいへんねぇ。ごめんね里香わがままで」
「いえ、そんな。よくできたお子さんで」
「アハハ、何言ってんの裕一!」
ゴスッ! 笑いながら里香の肘が、僕のわき腹に突き刺さる。
お母さんの位置からは見えない絶妙な角度。
表情を変えずに『痛くない』と、自分に言い聞かせる。凄い痛い。
「いや、近所を偶然通りかかったもんで……寄らせていただきました」
「そうだよお母さん」
里香、もっと上手いことフォローしてよ。
「裕一君もホントたいへんねぇ。ゆっくりして行って」
里香のお母さんがクスクスと笑いながら答える。和やかな雰囲気に僕は安心した。
「あっ!」
玄関で立ち話をしているうちに、なんか台所の方から焦げ臭い匂いが漂ってきた。
里香とお母さんは慌てて台所に向かった。
それは何が原因で発生している匂いなのかは、僕には皆目検討がつかない。
が、もしもだ、まだ里香の手料理が食べられるようであれば、
『美味しそうに全部食べる』と、僕はあらためて覚悟をしたんだ。
大丈夫、それは美味しいに違いない。多分そうに違いない。
φ
僕は図書室の扉をゆっくりと開いた。
いつも静かなその部屋は、いつにも増して静かだった。
注意しながら、軽く辺りを見渡す。たまたま早く授業を終えた僕は、
なんとか一番乗りを果たすべく、急いで駆け付けてきたのだが……。
『よし、里香はまだ来ていない』
僕は、前々から進めていた計画を続行することにした。
本棚には大小様々な本。これでもかと立ち並ぶ本棚たち。
順番に慎重に目を通していく。
もちろんジャンルは分かれているし、ある程度探しやすくなっているとはいえ、
そう簡単には目的の本は見つからないのだ。
数日前から隙を見つけては捜索を続けてはいるものの、残念ながら、まだ発見には至ってはいない。
捜索は、かれこれ二周り目だ。誰かが借りているかもしれない。
念の為、二周り目の確認中なのだ。
『なんとか里香よりも、先に見つけなくては!』
ちらほらと図書室に来る生徒が現れ始めた。
もう、里香がやってきてもおかしくない時間だ。
僕は、焦る気持ちを抑えつつ、見逃さないように慎重に本棚に目をやった。
そう、この計画は、まず彼女よりも先に、その本を見つける事に意味があるんだ。
いや、もしも、ここにその本があるとすれば、もう先に見つけられているかもしれない。
彼女の方が図書室にいる時間が長いんだし、僕よりも把握しているだろう。
もちろん手に取るかどうかは、わからないんだけど。
でも、あったとしても、別に、まだ手に取らなくてもいいんだ。
あと少しで、すべての本棚の確認が終わる。何とか今日中に結論を出せそうだ。
「何探してるの? 裕一」
背後から里香の声。あぁ、探すのに集中していたせいだ……。適当にごまかさないと。
「えっ? あぁ、里香来てたんだ。いやね、なんか面白い本ないかなーと思ってさ。あははは」
「ふーん」
里香は目の前の本棚を眺めている。そこには主に美術系の本が並んでいた。
なんか、運悪く裸体のデッサンの本とかあるんですが、まったく他意はないですよ。
一応マナーの悪い生徒が、関係ないところに本を戻してたりする可能性を考えてですね、
全部の本棚を確認していただけなんです。
などとは、もちろん言えず、僕はこの場を離れる為の台詞を考えていた。
「どうせ、やらしい本でも探してたんでしょ」
「そんなことないよ! ここ図書室だよ! そんな本あるわけないじゃん」
僕は必要以上に否定した。なんか焦って自分の顔が赤くなるのがわかる。
「へぇー、ふーん」
里香の視線が、例のデッサンの本に向いている。ちょっとムッとした表情。
里香さん、それ、一番見て欲しくない本です。
それにそんな本、別に意識して見てないよ。ホントに。
「別に照れなくてもいいのに。裕一、単純だから」
「いや、なんか勘違いされてるっぽいんだけど……」
何とか誤解を解きたいんだけど、良い返答が思い浮かばない。
ムッとした里香の表情が、あきらめの表情に変わる。
「ふーん。男子高校生は、いろいろと大変だねー」
「違うってば! 芸術だよ!」
何言ってんだろう……自分でも訳がわからない言い訳をしてしまった。
シーンとした図書室に、僕の『芸術だよ!』の声が響く。
数秒の沈黙。『静かにしろ』という男子生徒からの視線と、クスクス聞こえる女子生徒の笑い声。
「芸術だって。あははは」
里香は苦しそうに、声を殺して笑っている。
「ははは……」
僕は、気まずそうに愛想笑いをした。
この状況では、誤解を解くのは無理だな。江崎コレクションの件もあるから、もう何を言っても無駄だ。
僕が何をしていたのか、里香にバレなかっただけでも良しとして、言い訳するのは諦めることにした。
ホントに濡れ衣なんだけど……。
そんなちょっと恥ずかしい状況から抜け出す為に、僕は長机に置いたカバンを取りに向かった。
あと少しで二周目の確認が終わるんだけど、今日はあきらめて帰るしかなさそうだし、
また次に早く来た時に、残りを確認をしよう。そうしよう。
「ねぇ、裕一。今日はちょっと早いから、三十分ぐらい本を読んでから帰ろーよ」
「あぁ。いいね。そうしよう」
意外な提案に少々驚いたが、僕にとっては好都合だ。
里香が本を読んでいるうちに、読みたい本を探すふりをして、残りの棚を見てしまえばいい。
いつもなら僕が図書室に来たら帰るんだけど、今日はあと少しで読み終わる本でもあるんだろう。
なんとか本日中に結論を出すことができそうだ。
里香は、僕の隣ではなく向かいの席の一つ隣に座る。それが、学校での僕たち二人の距離だ。
いつも一緒にいるんだから、隣に座ればいいんだろうけど、学校ではそうもいかない。
「ちょっと本見てくる」
「……」
聞きなれた無言の返事。里香はすでに本を読み始め、本の中の世界に没頭している様だ。
それにしても凄い集中力だな。毎回、無視されてるのではないかと不安になる。
僕は深く考えるのをやめ、目的の本棚に向かった。ちらっと振り向いて里香を見る。
よし、里香は本の世界に旅だったままだ。
二十分ぐらいたっただろうか、ようやくすべての本棚の確認が終わった。
『やっぱり、ここには無い』
僕はこの結論をもって、計画を次の段階に進める決心をした。
我が校の図書室に、その本がないぐらい、最初から覚悟していた事だ。
図書委員を使って調べれば簡単だったかもしれないが、残念ながら、僕たちの高校は、
蔵書の管理がいまだにアナログだそうで、全体を把握している生徒や先生は居ないのだ。
それに図書委員から、もし里香の耳に入ったりしたら、計画が台無しだし全然面白くない。
これは僕一人の手でやり遂げなければならない作戦なのだ。
僕は確認作業の完了に、多少の達成感を感じながら、里香の座る長机へと向かった。
おっと、手ぶらで戻るのも変だから、適当にその辺の本を持っていかなくては……。
間違っても、さっきのデッサンの本を持っていかないようにしないとな。
もし持っていったら、しばらく口を聞いてくれなさそうだ。
僕は、改めて適当に本の物色を始めた。
「裕一、本、読み終わったから帰ろっか」
「あぁ、里香は、もう読み終わったんだ」
結局、僕は二十五分程、本を探し続けていた事になる。ちょっと時間かかり過ぎで、怪しい行動だな。
まぁ、大丈夫だろうけど。
「読みたい本、見つからなかったの?」
「いろいろあって、迷っちゃってさ」
「ふーん。私が薦めた本、読めばいいのに」
やや不服そうな返事。やばい、機嫌が悪くなる前に、適当に言い訳しておかないと……。
「いや、もちろん読むよ。家でもじっくり読んでるし、ほら、今、読んでるの家にあるからさ」
「ふーん。まぁ、いいけどね。ゆっくり読めばいいよ」
「あぁ、ゆっくり大事に読ませていただきます」
なんとか機嫌は収まった様だ。里香の機嫌は、山の天気の如く、ころころ変わるので細心の注意が必要だ。
校舎から出ると、空はどんよりとした雨雲で覆われていた。
まだ夕方なのに不穏な程、薄暗く、今にも降り出しそうな感じ。
辛うじて降ってはいないが時間の問題か。というか、頼むから、まだ降らないでくれ。
「やばっ。雨降るかもな」
「傘、持ってきてないの?」
「もちろん! ない」
「あはは。威張るな!」
自転車置き場に向かおうとした矢先、無情にもパラパラと雨が降り始めた。
あぁ、今日は、自転車置いていくしかなさそうだ……。明日、面倒だな。
「ジャジャーン! こんな所に折りたたみ傘が」
「おぉ! 用意周到、備えあれば憂い無し! 里香、偉い!」
「エへへ。でも一本しかないよ」
「あぁ、里香、偉くない……」
僕は残念そうに、軽く冗談を言ってみた。
「あはは。二本も持ってこないよ。裕一は、濡れて帰ればいいよ」
「そんなぁ!」
「あははは」
僕たちは軽口を叩き合い、結局、一つの傘で二人で歩いて帰る事にした。
当然、傘は僕が持ち、彼女の肩が濡れないように十分注意を払い、自分の反対の肩を濡らしながら、
赤い小さな傘を差して歩いて帰る。
いつもより近い距離。ちょっと嬉しいな。雨も悪くない。
予想はしていたが、早速、他の生徒の視線が痛い。
追い抜きざまにチラリ。後ろからは女子生徒のヒソヒソ声……。
こんな堂々と相傘してる訳だから、かなり恥ずかしい。
里香は人気があるから、多分、明日は噂話として校内に広がるだろうな。
さすがに相傘は、僕たちの高校内での距離を考えると、やや行き過ぎの感があるのは否めない。
「そわそわしない!」
僕の心情を察したのか、里香がポソっと呟いた。
じっくり見た訳じゃないんだけど、彼女の頬も、ほんのり赤みがかっていた。
雨は、少し激しくなり、傘の外の世界を遮断するぐらいの強さになった。
雨音に包まれながら、僕たちは無言で緩やかな坂道を降りて行く。
自転車ならあっという間に下に着くんだけど、いざ歩いてみると結構、距離がある。
やっぱり里香も恥ずかしいんだろうか、さっきから無言のままだ。こういう場合は、
僕が何とか雰囲気を変えないと……。僕は、無理矢理、話題を振りまくことにした。
「雨、好き?」
「へ? うーん。濡れるのは嫌かな」
「そか。おれは好きだな。雨」
「そうなんだ。どうして?」
「なんかさ、空気も綺麗になるしさ、たまにはいいよ。雨」
「もうちょっと弱い雨だったらいいけどね」
今日みたいに一つの傘で一緒に歩いて帰れるから、なんて言ったら里香はどんな反応をするだろう?
見てみたいが、そんな事をさらっと言える根性があれば、今頃モテモテだな。
二人で歩いている時は、いつも、間に自転車があり、僕の『手を繋ぎたい気持ち』を妨害していた。
今日は、その自転車もないし、一つの傘を二人で使うという幸福な状況を生み出したしてくれたんだから、
雨には感謝の言葉しかない。
いや、待てよ? ということはだ。今、その気になれば里香と手を繋げるんじゃないか?
僕は『相傘で手を繋ぐ』という状況に、一瞬だけ心ときめいた。
ちょっとまて。左手には傘。その左には里香。濡れた右手には鞄。
傘を右手に持ってカニ歩きして、ようやく手を握ることができるな。
いや、右手で傘と鞄を持って交差させて……。
あはは、無理だ。俺はバカか。
「なにニヤニヤしてんの?」
「え? いや、何でもないよ。あはは」
「裕一、ニヤニヤしてばっかりだね」
なんか危ない印象が植え付けられつつあるな。ここは、なんとか、ごまかさなければ。
「いや、ニコニコしてるんだよ!」
「あはは、ニヤニヤだよ。『ニコニコ』はもっと、朗らかな表情のことを言うの」
「そうかなー」
「そうだよ。あはは」
残念ながら歩きながら彼女と手を繋ぐのは、当分無理そうだ。
傘を持った左手に腕をかけてくれればいいんだけど、彼女の性格を考えると当分期待できない。
僕たちは、ようやく坂を下りきり、大通りに面した道にたどり着いた。
何台かの車が水を跳ねながら走り抜けて行く。
広い歩道なんだけど道路の方は水をかけられそうで、ちょっと危険だな。
僕たちは隅の方を歩いた。
信号を超えた少し先に、屋根付きの寂れたバス停がある。
バスが出たばかりなのか、待っている人は誰もいない。
この路線は本数が少なく、一時間に数本といった所だ。
「なぁ里香、バス停で少し雨宿りしていく? 雨強いし」
二人で誰もいないバス停で雨宿り。
こんな機会は滅多にないので、さっそく提案してみた。
「そうだね、バスが来たら乗っても楽かもね」
「うーん。それは、ちょっともったいない気がするなぁー」
「だって、祐一、結構濡れてるよ。風邪ひいたらどうすんの?」
バスなんか乗ったら、せっかくの二人の時間があっというまに終わるじゃないか。
僕は懸命に否定した。
「ほら、もうすぐ雨足が弱くなるかもしれないしさ。バス代ももったいないし」
「まぁ、裕一がいいならいいけど……」
空はあいかわらず、どんよりとしているし、当分、この雨はやまないだろう。
『パァッパァ――』
横断歩道を渡っている途中で、突然、短めのクラクションが鳴った。
車の運転手ってのはイライラする人が多いな。もう少し静かにして欲しい。
僕と里香は少し足早に渡りきる。
「裕一く――ん!」
へ? 雨音に紛れて呼び声が聞こえる。ただし、声の方を振り返れど誰もいない。
ただの勘違いだろうか。
「こっちこっち。こっちだって!」
これは勘違いじゃない。完全に呼ばれている。
さっと振り返り、もう一度、声の方を確認した。見覚えのある青い車。
少し窓を開けて、にこやかに手を振っている。
無意識に会釈をしたんだけど、僕の思考は止まっている。
「裕一……、誰?」
あきらかに不機嫌そうな声。視線が痛い。
「あっ、あぁ。あれだよ、亜希子さんの友達の……名前、何だったかな。あはは」
――思い出せないはずがない。
「会ったことが有るんだ。亜希子さんの紹介でさ……」
――あの夜。
「一度だけだったかな。ははは」
――嘘を嘘で重ねていく。
混乱する意識、激しく波打つ鼓動。決して彼女に悟られてはいけない。
僕は、一刻も早く時間が過ぎる事を祈った。早く信号よ変わってくれ。
あと、里香……ゴメン。
僕は固まったまま、ただ、時が過ぎるの待ち続けた。
里香が不安そうな表情で僕を見ている。僕は目を合わすことができなかった。
世界がスローモーションで動いている。ゆっくりと落ちる雨粒。聞こえない雨音。
里香の口が動いている。
だけど、何を言っているのか、わからない。水の中に居るような息苦しい感覚。
ようやく、無限のように思えた長い信号が変わり、静止していた車が一斉に走り出した。
僕の中で止まっていた時間が再び動き出す。雨音と車の騒音が聞こえる。
僕は、ホッと胸をなで下ろし、最悪の事態を免れたことに安堵の息を漏らした。
「――裕一」
里香の声が聞こえた。
「裕一! どうしたの? 変だよ?」
「……」
「大丈夫?」
「あぁ、いや、なんか……見とれちゃってさ。あはは」
無茶苦茶な返事。いや、こんな返事しかできなかった。
こんな時、どういえばいいのか、僕にはわからなかった。
「ふーん。まぁ、綺麗な人だったからね」
「うん。綺麗な人だったからさ。あはは」
僕は、作った表情で笑いながら答えた。
でも、ひどく心が痛む。そんな事を君に伝えたいんじゃないんだ。
だけど、僕は本当の事を伝える事なんてできない。
そんな会話をしながら、僕たちは再び歩き出した。
バス停で休憩をして、里香といろんな事を話そう。
次の休みにどこに行くかとか、昨日見たテレビが面白かったとか……。
いくら話したって、過去が変わることなんてないんだけど。
目の前のバス停の前で、ウインカーを出して一台の車が……、さっきの車が止まっている。
――僕は心臓が止まりそうになった。
φ
車のワイパーが、フロントガラスに叩き付けられた雨水を払いのける。
何度払いのけても、雨にぼやけて視界がかすむ。
雨は一向に降り止む気配は無く、空は僕の心と同様に暗雲が立ちこめ、あいかわらず
太陽の光をさえぎっている。微かに流れるFMラジオの音と、覚えのある甘いコロンの香り。
トラックが右側を少し速い速度で走り抜けていく。
僕たちを乗せた車は、長いまっすぐな道を、ゆっくりと走っている。
僕の足もとで、さっきまで元気に咲いていた、赤い小さな折りたたみ傘が、
寂しそうに、しおれている。
「裕一君? 元気にしてた?」
「あっ……はい。元気です。あはは」
無言の状況にしびれを切らしたのか、美沙子さんが口を開いた。
「秋庭さんだったっけ?」
「はい。秋庭里香です」
里香は素っ気なく答えた。たぶん緊張しているんだろう。
「裕一君、カワイイ彼女じゃないの!」
僕は、美沙子さんの冷やかしに動揺した。ふと横を見ると、里香も頬が赤い。
「そっ、そんなんじゃ……。なぁ、里香」
「……うん」
少し物憂げな表情。
ただの意味のない返事のつもりだったんだけど、また彼女を傷つけてしまったかもしれない。
まだ、僕たちは『付き合っている』とか、堂々と気楽に言い合える感じではなかったから……。
「だったら私にもチャンスがあるかもね。ウフフフ。ねぇ? 裕一君」
「……」
僕は、頭が真っ白になって何も言えなかった。
「冗談よ、冗談っ! アハハ」
――なぜ僕たちは、この車に乗ってしまったんだろうか?
バス停の前に、車が止まっている事に気がついた後、僕は立ち止まることもできず、
ただ呆然と、その方向に歩くしかなかった。
「裕一、あの車、前で待ってくれてるよ?」
「あぁ。そうみたいだね」
なんとしても、悟られないように、自然に。
僕は締め付けられる胸に耐えながら、自分に言い聞かせていた。
大丈夫、ちょっと挨拶して適当に笑いながら会話して、
『亜希子さんによろしく言っておいて下さい』とでも言ってればいいんだ。
「裕一、なんかさっきから、元気無いね」
「え? いや元気だよ? ほら、モテモテで困ってる感じ?」
「……」
里香はちょっと悲しそうな表情で、無言で僕の目に視線を送る。
勘の鋭い彼女は、すでに何か違和感を感じているのかもしれない。
「なんてね。そんな事あるわけ無いって! あはは」
僕は、空元気でむなしく答えるしかできなかった。
里香、笑って……。
「裕一君、お久しぶりー」
僕たちが近づくと、美沙子さんは、車のウインドウを少し開き、明るい笑顔で話かけてきた。
この人は、なぜ、そんなに気楽に話しかけられるんだろうか?
あの夜の事をどう考えているんだろうか? 僕にはわからない。
「あっどうも。お久しぶりです」
僕は立ちどまり、できるだけ堂々と、美沙子さんに挨拶をした。
「そちらの方は?」
「彼女は同じ学校の秋葉さんです」
「秋葉です。こんにちわ」
里香は浅く会釈をした。
「こんにちわ。与謝野です。長くてきれいな髪ねー。」
「……」
里香は無言のままだった。だけど少し照れているようだ。
褒められて嫌な気分になる人なんていない。
「いや、雨凄いじゃない。大変でしょ。家まで車で送ってってあげる」
少し前から、嫌な予感はしていたんだ。
僕は、最悪の事態を回避すべく、懸命に断る努力をした。
もう、この車に乗るわけにはいかない。
「いやイイですよ。全然、大丈夫です。悪いですし」
「遠慮しなくていいから、それに傘一本しか無いじゃない」
いや、遠慮なんてしてないんですけど。何を考えてるんだ、この人は……。
「……裕一、車で先に帰りなよ。肩濡れてるし、風邪引くよ」
『何言ってるんだよ! 里香』
僕は心の中で叫んだ。
「あなたもついでに送ってあげるから。ほら、さっさと乗りなさい」
里香は、一瞬ムッとした表情をした。
「……」
彼女は僕の方を……、僕の目をジッと見ている。
自分ではわからないけれど、この時、自然と焦った表情をしていたかもしれない。
僕は、すぐに目をそらしてしまった。
「いや、本当、いいですから。なぁ、里香」
「裕一……」
「ん?」
「車……、乗せてもらおうよ」
里香は小さな声で、だけどハッキリと呟いた。
φ
美沙子さんは、前より少しだけ痩せた印象だった。
服装は相変わらず伊勢の住人っぽくないあか抜けた感じで、
目のやり場に困る様な短いスカートを履いている。
普通に考えれば僕とつり合うわけは無いんだ。
なぜ里香は車に乗ろうと言ったのだろうか? 僕は沈黙の続く車内で、
自分の行動を振り返りながら、ただじっと、時間が過ぎるのを待っていた。
「さてと、先に吹上町で裕一君を降ろして、それから秋庭さんの家でいいかしら?」
この位置から考えるとそうするのが普通だ。ここからだと僕の家の方が近い。
ただ、そうすると美沙子さんと里香が二人っきりになる。何を言われるかわかったもんじゃない。
それだけは避けないといけない。僕は反射的に答えた。
「いや、秋葉さんの方を先でいいです」
里香は一瞬ムッとした表情で、僕の方に視線を送る。
しまった……。よくよく考えれば単純に怪しい発言だった。
僕と美沙子さんが二人っきりの状況を作ってどうするんだよ。
そんなの、里香が喜ぶ訳ないじゃないかっ!
美沙子さんだって、もしかすると僕たちに気を遣って、そう言ったのかもしれないのに。
僕が先に降りれば、里香と二人きりの状況になって、美沙子さんが何を言うかわからない。
里香も何を聞くかわかったもんじゃない。それは、危険過ぎる。
里香が先に降りれば、僕と美沙子さん二人っきりの状況を、里香は心配するだろう。
すでに怪しまれているかもしれないこの状況で、その選択はありえない。
もう二人で降りる以外、選択肢は無い。僕は思いきって、美沙子さんに伝えた。
「美沙子さん、ちょっと用事があるんで、里香も僕の家の前で一緒に降ろしてください」
「用事って? 時間かかるの?」
「あっはい。ちょっと宿題見てもらうんで……。なぁ里香?」
「……うん」
里香は一瞬、戸惑ったような感じだったけど、ちゃんと僕に合わせて答えてくれた。
それにしても、一学年下の里香に、宿題を見てもらうって、何言ってるんだ俺は。
もちろん、見てもらえるんだろうけどさ。
「青春だねーいいなー。アハハ。わかったわ。それじゃ二人とも吹上町ね」
よかった。最悪の自体はなんとか回避できそうだ。このまま時間が過ぎれば……。
それにさっきの言葉で、僕が美沙子さんを何とも思っていない事が里香に伝わったはずだ。
ようやくこの状況にも慣れて安心したせいか、僕は、ちょっと思い切ったことを思いついた。
もっと里香を安心させるような行動を取りたい。
里香の不安を吹き飛ばすような行動を。
僕はバックミラーから見えないように、横に置いた鞄を影にして、
僕の左手を彼女の左手にそっと置いた。
『里香、安心して』と、心で呟きながら。
そして僕は思いっきり、つねられたんだ。
それから十分も掛からなかっただろうか、僕たちを乗せた車は、
考えていたほど深刻な状況に陥ることもなく、無事、目的地に到着した。
幸い雨も小降りになりつつあり、僕たちは再び相傘で家の前に降り立った。
『バンッ!』
ドアの閉まる音が響く。美沙子さんは、まだ雨の降る中、少しだけウインドウを開いた。
「美沙子さん、ほんと今日は、ありがとうございます」
「いいのよこれぐらい。あっそうそう、ちょっと待ってね」
手元のハンドバックからメモを取り出して、なにやら書いている。
「困ったらいつでも連絡して。はい、これ携帯番号」
「あっ、どうも」
僕は苦笑いをしながら、その紙を受け取った。隣にいる里香の笑顔が怖い。
だって、こういう場合、受け取るしかないだろ。
「里香さんも、彼に部屋で襲われないように気をつけるようにね。アハハ」
「……はい」
彼女は笑みを浮かべつつも、頬を赤くして呟いた。
それにしても『里香さんも』ってなんだよ。俺は一度も美沙子さんを襲ってはいない。
でも、まぁいいや。なんとか里香に、僕と美沙子さんの事がバレずに済みそうだ。
僕は胸をなで下ろしていた。
「裕一君、それじゃね。あと、この前はゴメンね。
途中でお邪魔が入っちゃって……。じゃ、またね、里香さん」
美沙子さんは窓を閉め、のんきに笑顔で手を振りながら車を発進させた。
――最後の台詞を聞いて、僕はめまいがした。
この人はいったい、何を言っているんだ。何がしたいんだ。
そんなこと最後に言わなくていいだろ。僕は、数秒間、放心状態でたたずんでいた。
もちろん、里香の顔を見ることができなかった。
「裕一……」
里香が低い声で呟いた。
「あぁ、里香。家、少し寄って行く?」
僕は出来るだけ明るく答えた。里香の声を聞いて正気を取り戻し、
『なんとしても悟られないようする』と心に言い聞かせる。
大丈夫、さっき程、気持ちは動揺はしていないし、今は美沙子さんも居ない。
やってやる。里香の為にも、巧いこと話をまとめてやる。
「……」
無言の圧力が、僕の決意を鈍らせる。いや、負けるな。
「とりあえず、はい、これどうぞ。携帯番号の紙。僕には必要ありません」
里香は紙を手に取り、制服のポケットにしまった。
「雨がさ、まだ少し降っているからさ、とりあえず家に入ろうよ。里香」
無言のまま、コクリとうなずく。この雰囲気は……、間違いなく怒っている。
そりゃ、『最後の台詞はいったい何?』って思ってるだろう。
僕はこれから部屋で起こる、数々の試練に不安を覚えつつ、彼女を家に誘った。
大丈夫、さっきの車の中に比べたら随分マシだ。
今のこの気まずい状況なんて、二人の気持ちで解決できる問題なんだから。
でも、最後の台詞に対する解答だけは、今から2階に行くまでに、
考えうる最善の解を求めなければならない。あと十五秒間ぐらい。
僕は全力で脳を活性化させながら、玄関の扉をゆっくりと開いた。
『ガラガラッ』と大きな音を立てて、横開きの扉が開く。あれ? おかしいな、いつもなら、
すぐに『お帰り』の返事があるんだけど、今日は無いようだ。
買い物にでも行っているんだろうか?
この雰囲気だと、親が居てくれる方がいいんだけど……。
「母さん、なんか出かけてるみたい。まぁ、あがってよ」
僕は一階の電気をつけ、里香を家の中に誘った。
「えっ? ……うん」
里香は、若干、戸惑いを感じているのだろうか? 少し雰囲気が変化した。
そりゃ、男の部屋に二人っきりは抵抗あるよな。
僕は他人ごとの様に考えつつ、自分の部屋の状況を思い返していた。
やばい、ちょっと散らかっていたかも……。
「ちょっと一分だけ待ってて。部屋、片付けてくる」
速攻で階段を上がり、散らかった(普通の)本とか、目につくゴミとかをさっさと片付け、
里香の座布団を用意した。これでよしと。そう言えば、全然言い訳を考えていない。
僕は焦りつつも、適当な理由を見つくろうと必死で考えていた。
『ゴメンね、お邪魔が入っちゃって』って事は、僕と美沙子さんが『何か』をしていた事になる。
その『何か』が自然であればいいんだ。始めて会った男女でも、自然にするような事。
僕は、できるだけ真実味のある嘘を必死で考えた。
『………これで行こう』
ようやく、説明する為の算段をつけることができた。
里香は、黙って座布団の上に座っている。すでに、さっきの戸惑いの表情は消え失せ、大分、
怒りの雰囲気が回復していた。掃除の一分は逆効果だったようだ。
昨日、掃除しておけばよかった……。
「あのさ、里香」
「………何?」
つっけんどんな返事。ぼくは怯まずに続けた。
「美沙子さんの事、何か勘違いしていたり………とか?」
「あはは。勘違いってどういう風に?」
里香は笑顔で問いかけてきた。が、これは逆に怖い。
「いや、ほら、まさか俺と美沙子さんが付き合ってるとかさ」
「あはは。そんな事あるわけ無いよ!」
里香は、僕が話し終わる前にすぐに答えた。
「そんな事じゃないよ……」
「……」
お互い、数秒間の沈黙。じゃぁ、いったい何なんだ。理由を聞き返そうと目を向けた時、
彼女の表情の変化に気がついた。今にも泣き出しそうな、悲しそうな表情。
「裕一……嘘ついてるよね……」
「……」
それを聞いた僕は、ぐうの音も出なかった。
「……」
長い沈黙。静まりかえった部屋で、ただ、雨の降る音だけが聞こえる。
さっきまで、都合の良い嘘を考えていた自分が情けなくなった。
でも、だからと言って正直に話しても、里香が悲しむだけなのはわかっている。
ここで、僕の胸のわだかまりを、すっきりと吐き出したところで、結局、僕が楽になるだけで、
彼女は……里香は苦しむだけだろう。
「……ゴメン」
僕は彼女に謝った。いや、本当はずっと前から謝りたかった。
今日、謝った理由を言うつもりは無いけど、
心の底から謝った。悲しい思い何てさせないと誓ったのに……。
「……やっぱり嘘だったんだ」
「……」
「もう……、嘘つかないって約束して……」
彼女は、うつむきながら呟いた。僕は少し間をおいてゆっくりと答えた
「うん……。約束する。絶対にもう、嘘はつかない」
もう、僕は彼女に嘘なんてつかない。
いや、絶対なんて無理かもしれないけど、でも、僕は彼女の為に誓った。
「……うん」
そう言うと里香は顔を上げた。表情は少し軟らかくなっていた。目は潤んでいたけど……。
「正直に言ったから……、今回は許す」
ちょっと怒った感じだったけど、もう、いつもの里香に戻っていた。
「本当、ゴメンな里香」
「もう、謝らなくてもいいよ」
僕は、何も言わずに許してくれた里香に心から感謝した。
追求されても彼女に本当のことを伝えられないから、僕を信じて許してもらう以外、
彼女が傷つかない方法は無かったんだ。
「里香……ありがとう」
「どういたしまして」
――そして、僕らは、ようやく、いつもみたいに屈託無く微笑み合うことができるようになったんだ。
「あはは。それにしても、裕一はバカだよね」
それから三十分ぐらいたっただろうか、雨宿りがてら、僕たちはポテトチップスを摘みながら、
くだらない会話をしていた。
「何言ってんだよ」
「だって……」
おかしをヒョイと、口の中へ放り込む。
「なんだよ?」
「だって、覚えてないって言ってたのに、すぐに自分で言っちゃうんだもん」
「何を?」
僕は、今日の里香をフイルムに収めようと、机の上のカメラを取りに向かった。
椅子に座り新しいフィルムをカメラに装填する。
「何って、さっき自分で謝ってたのにもう忘れてるし。美沙子さんの名前だよ」
「へ? あぁ。名前ね……」
名前。確かに、僕は気が動転して『名前、何だったかな』と嘘をついた。
その後、車内で『美沙子さん』って呼んだっけ……。ちょっと待て、だったら、
さっき許してくれたのは、その事だったの?
――多分そうだ。間違いない。
さっき謝ったことが無効になった様な気がして、複雑な心境になった。
それにしても、普通だったら、思い違いで済まされるような嘘を、ここまで拒絶する里香に心底脅えた。
今後、絶対に彼女に嘘なんて言えない。
「次、嘘ついたら許さないからね!」
里香は座布団の上で、キッと僕の方を見た。あっ、かわいい。
『パシャ!』
僕は、考え無しに『鋭い視線の里香』を撮った。
いや、撮りたい表情だったから、反射的に撮ってしまったんだ。
里香は突然のシャッターが気にくわなかったのか、スッと立ち上がった。
僕はひるみながらもファインダー越しに彼女を捉え続けた。里香は、もう目の前に立っている。
「いきなり撮るな!」
ちょっと大きな声。僕は、びっくりして椅子から転げ落ちてしまった。
『パシャ!』
ガタッと転げ落ちた拍子に、シャッターが切れる。
「イタタタタ」
カメラを守りつつコケてしまった。腰をおもいっきり強打してしまい、重い痛みが体を走る。
ちょっと悪いと思ったのか、里香が心配そうに覗き込んできた。
「裕一が、悪いんだからね……バカ」
「うー。ごめんごめん。でも、そんな大きい声出さなくても」
「だって……急に撮るから」
里香は、手を差し出しながら、ちょっと申し訳無さそうに呟いた。
僕は、カメラを横に置き、彼女の手をぎゅっと握り、ようやく半身を起こす事ができた。
『里香の手、柔らかいな』
そんな思いが頭をよぎった瞬間、僕は握った手を、ぐいっと引っ張っていた。
「あっ……」
里香はバランスを崩して、ひざをついて僕の方に倒れ込む。僕の肩に里香の小さな頭が乗る。
ちょっと右を向けば、サラサラした長い髪と、かわいい耳。
里香の左手は僕の肩に、僕の左手は里香の肩へ。僕たちは、座ったまま抱き合う形になった。
僕は、握っていた右手を離して、里香の腰のくびれに手を回した。そして、ぎゅっと抱き寄せる。
僕は目を閉じ、里香の耳元で、聞こえないぐらい小さな声で囁いた。
「里香……大好き」
胸板から彼女の鼓動が微かに伝わってくる。
制服越しに感じる、ふわっとした柔らかな膨らみ。
里香の髪の匂いと息使い。細くて柔らかい彼女の小さな体を、僕は両手で抱き寄せ、
体中で彼女の存在を確かめていた。僕は、自分の積極的な行動に驚いた。
いや、ずっと前から、こうしたかったから、自然と体が動いたんだ。
――砲台山で抱きしめて以来、ようやく僕は彼女を、もう一度抱き寄せることができた。
数秒の空白の時間を経て、ようやく里香は少しだけ離れて口を開いた。
僕の目を見るその表情は、怒っているのか困ってるのか、わからなかったけど、
頬はほのかに赤く染まっていた。
「裕一……いきなり何…」
僕は、彼女の唇が見えた瞬間、自分の唇で彼女の言葉をさえぎった。
ただキスしたかったら、衝動的に動いてしまった。強引な行動に、里香は怒ってるかもしれない。
「んっ……」
凄く長い時間に感じたけど、ほんの数秒だっただろうか、僕の胸板を押し返す力で、
互いの唇は離れてしまった。久しぶりのキスは、砲台山の時と、少しだけ違う味がした。
「何するのよ。裕一のバカ……」
照れた顔で、下からのぞき込むように言った。
「ゴメン……」
僕は、彼女の小さなおでこに、自分のおでこを当てながら謝った。
「もう、謝るなら最初か……」
僕は、もう一度だけ、彼女の言動をさえぎる事にした。
そして、もう一度、ぎゅっと彼女を抱き寄せたんだ。
柔らかくて温かい唇の感触。僕の頬に微かに彼女の吐息が当たる。
肩にのった里香の手は、さっきより強く、ぎゅっと僕の服を握っている。
刻が止まったような部屋の中で、僕たち二人の吐息と、微かな雨音だけが響いていた。
ずっとこのまま、止まっていればいいのに……。
僕はそのまま、ゆっくりと目を開けた。
おぼろげに見える視界の中で、彼女の閉じられた目が見える。
僕は、すぐに目を閉じる。
それは、さっきよりも長くて、僕の胸板に添えられた左手からも、拒否する態度を微塵も
感じ取れなかった。
僕は、ずっと、このぬくもりを……数秒の幸福を噛みしめていた。
里香だってきっと、僕と同じ気持ちだったと思う。
きっかけを作ったのは僕だった。日ごろそんなシーンを妄想する事はあったけど、
実際には非現実的といっていいほど『そういう事』とは無関係に毎日が過ぎていく。
今も浮き足だっている感じで、現実感は希薄だ。これが夢見心地という感じだろうか。
僕は、その……、なんて言うか味覚を感じる部分を、少しだけ、本当に少しだけなんだけど、
彼女の口に入れたんだ。
『んっ!…』
突然の行為にびっくりしたのか、彼女から微かに声が漏れる。
僕は少なからず、その色っぽい声に興奮を覚えた。
それは、ブレーキの壊れた機関車のように、次にやりたかった事をしてしまう瞬間だった。
いや、前からやったら駄目だってことは、頭では十分理解していたはずだった。
でも、その時は理屈じゃなかったんだ。僕は自分の衝動を抑えることができなかったんだ。
『!』
その時、僕の味覚を感じる部分に、強い痛みが走った。
「いひゃっ!(いたっ!)」
思わず声が漏れる。ピリッとした舌先の痛みで、反射的に互いの唇が離れてしまった。
「調子に乗るな! 裕一のバカ!」
彼女は怒りの形相で僕に訴えていた。その時、目は少しだけ涙で潤んでいるように見えた。
僕は突然の出来事と、あまりの状況の落差に、ただ唖然としていた。
「バシッ!」
左の頬がジーンと痺れた。その時、はじめて自分の行動の軽率さを悔やんだ。
ホントに、何をやってるんだ俺は……。
「もう帰る! バカッ!」
そして、里香はすぐに立ち上がり、足早に階段を降りて行った。僕は、頬と舌の痛みと、
張り裂けそうな胸の痛みで、何も考えることができなくなっていた。
そして、さっきまで二人居た部屋に、ただ一人、呆然とたたずんでいた。
――その時、僕の口の中は、少しだけ血の味がしていた。
φ
僕は、まだ少し雨の降る中、できるだけ急いで里香が通る可能性のある世古を、
黙々と走り続けた。少し時間は経ってしまったけど、彼女は走ることができないから、
まだ、そんなに遠く離れていないはずなんだ。
僕は、彼女と気持ちまで離れてしまわないように、今となっては無意味な傘をさしながら、
里香の家の方角に向かった。水を含んだ靴は、僕の気持ちと同様に重くなっていたけど、
顔にしたたる雨は、こぼれ落ちそうな感情をごまかすには、むしろ都合良かった。
部屋で一人残された僕は、今取るべき行動に考えが至るまでに、数分の時間が必要だった。
突き放されて傷ついた気持ちや、無考えな自分への嫌悪感やらで、頭の中が混乱していたから、
落ち着くまでに随分時間が掛かってしまったんだ。
このまま明日になって、公園で彼女は待ってくれているだろうか?
帰りの図書室で本を読みながら待っていてくれるだろうか?
そして、もしも居なかった時、僕たちは……僕と里香は、どうなってしまうんだろうか?
例えようの無い不安な気持ちが僕を襲った。
『今日、すぐにでも彼女に!』
そして、僕は、ようやく家を飛び出すことができたんだ。
もし里香が途中で見つからなくても、なんとしてでも話を聞いてもらうんだ。
いや、もちろん携帯と同様、出てくれないかもしれない……。
その時は、まだ『ゴメン』以外、何を伝えれば良いかなんて、整理できていなかったけど、
たったそれだけでも、今日、僕は直接、里香に伝えなくちゃいけないんだ。
許してくれるかどうかなんて、わからないけど……。
もう随分いろんな道を走ったと思う。でも、彼女はどこにも居なかった。
この先の道を抜けると、彼女の家の前についてしまう。
雨は相変わらずで、僕の表情をごまかし続けている。
辺りは夕方をから、まもなく夜を迎えつつあり、雨雲は闇の成長を手助けしている。
息を切らしながら、ようやく彼女の家の前に到着した。
傘は差していたけど、酷く濡れた制服が重い。
『傘持ってて、ずぶ濡れはおかしいよな』
若干抵抗はあったんだけど、そんなことに構っては居られない。
そして、僕は玄関のブザーを押そうとした瞬間に、ある事に気が付いた。
――一階も……二階も明かりが灯っていない。
ブザーを押して数秒後に確認できたことだった。それは、主の不在を意味していた。
どこかで行き違いになったのだろうか? まだ時間はそんなに経っていない。
多分、里香は、まだ家に帰っていないんだ。母親は夕飯の買い出しにでも行って居るんだろう。
このまま待つかどうか……。待ち続ければいつか帰って来るだろうけど、もしかすると
里香のお母さんが先に帰ってくるかもしれないし、一緒に帰ってくるかもしれない。
もうすぐ暗くなるし、電話でお母さんを呼び出している可能性だってある。
いや、もっと最悪の事態だって……。
そんな事を考えると、駆り立てられる不安に居ても立っても居られず、
僕は濡れた生徒手帳をポストに投げ込んで、彼女の家を後にした。
もし今日、会うことができなくても、手帳を返してくれる時に、思いを伝えることができるはずだ。
本当は『ゴメン』って書きたかったけど、都合良くボールペンなんて持っては居なかったから。
まだ雨がシトシトと降り続ける中、僕は、もう一度、今来た道を駆け戻った。
――深まる闇が、僕の気持ちを、どんどん不安にさせる。
彼女は……、里香は今どこに居るんだろうか? 僕は、息苦しさと
体にまとわりつく制服に刃向かって走りながら、考えられる場所を思い返していた。
もう一度、家に戻っているかもしれない。それとも、本当に、ただの行き違いだろうか……。
しばらくして、僕は一つの行き先に考えが辿り着いた。多分、あの場所。
もしかしたら違うかもしれないけど……。
『ここからなら、急げば十分もしない』
焦りや不安が入り交じる中、あいかわらず意味のない傘を差しながら、黙々と走り続ける。
夜の公園は、いつもの雰囲気と違って寂しい気持ちになる。子供たちに一時の別れを告げられた、
すべり台やブランコが、雨に打たれて寂しそうにたたずんでいる。
少ない街灯は、ぼんやりと狭い公園を照らし続けている。
僕たちのベンチは雨に濡れていたし、そこに彼女の姿はなかった。
走り続けた疲れからか、濡れたベンチでも座りたい気持ちになった。
僕は呆然と、傘を指しながら二人のベンチの前に立ちつくしていた。
溢れそうな気持ちが、胸の奥の方からこみあげる。
格好悪いけど、声を出して泣きたい気分になった。僕は、目をつむって、こぼれそうな涙を
我慢しながら、次にどうしたらいいかを考えていた。
「遅いよ裕一……」
振り向くと、そこには小さな赤い折りたたみ傘をさした彼女が立っていた。
僕は突然の里香の呼びかけに唖然とした。
さっき辺りを見回した時には見あたらなかったのに……。
奥の自転車置き場に居たんだろうか? でも、今はそんな事はどうでもいい。
「里香……、ゴメン」
僕はすぐに、彼女に、今の想いを伝えた。
「あぁいう場合は、もっと早く追いかけて来なよ。三十分ぐらい待ったよ」
「ゴメン……」
「来ないから、もう帰ろうかと思ったよ。裕一のノロマ!」
「……ゴメン」
ただ単に、ここに遅く到着した事への謝罪をしているだけみたいだった。
謝りたいのは、それだけじゃないんだけど、まだ気を抜けば涙が溢れそうだったから、
僕はただ『ゴメン』としか言えなかった。
でも、彼女が待っていてくれた事と、また普通に会話できている事が無性に嬉しかった。
あの日の約束、『ずっと一緒にいよう』という約束を、彼女も守ってくれている様な気がした。
そう思うと、さっきまで不安で一杯だった僕の心は、今は嘘みたいに穏やかになっていた。
「? 裕一、服濡れてるよ?」
「うん……濡れてる」
僕は自分の服を見回して淡々と答えた。
傘はさして居たんだけど、走り回っていたから、雨や汗で、かなり濡れている。
「傘持ってるのに、何で濡れてんのよ。バカ」
そう言うと、彼女はポケットから小さなハンカチを出して、僕の水に濡れた顔を拭い始めた。
雨なのか、汗なのか、それ以外なのか、もうわからないけど、ゆっくりと拭っている。
「里香、本当にゴメンな」
「うん……いいよこれぐらい」
「……」
いや、そうじゃないんだけど……。
だけど僕は、ただ黙って目をつむって、じっと彼女のハンカチに顔を預けていた。
「裕一……泣いてるの?」
「……」
僕の髪の毛の先から、水滴が落ちる。
彼女は最後にハンカチを広げて、僕の髪の毛を拭いてくれた。
捨て犬の様な気分だったけど、その時、確かに僕は幸せを感じていた。
「裕一、そろそろ帰ろっか? もう暗いから送ってくれる?」
「……うん」
そして、僕たちは雨の降る中、彼女の家を目指して歩き始めた。
しばらく二人っきりで、夜の道を無言で傘をさしながら歩く。
『今、僕の傘がなければ、もう一度、あの赤い小さな折りたたみ傘に入れたのに……』
そう思うと少し寂しい気持ちになった。
雨は大分弱くなっており、半ば霧状になった雨粒が、道端に並ぶ街頭を幻想的に浮かび上がらせる。
ぼくは思い切って自分から声をかけた。
「あのさ、里香」
「なぁに? 裕一」
里香は、さっきから、ちょっとやさしい感じで答えてくれている。
僕を気遣ってくれているのだろうか? 自分も傷ついているだろうに……。
「今日……ゴメンな」
ようやく僕は、部屋での出来事とわかるように彼女に謝罪する事ができた。
「……」
少し間をおいてから、彼女もようやく口を開いた。
「……凄いドキドキした」
「……うん」
――僕だってドキドキドキしていたから、彼女の鼓動は、もっと激しかっただろう。
「……体に悪いよ」
「……うん」
「どうなるか……わかんないよ?」
「……ゴメン」
僕は、それ以上何も言うことができなかった。
『走ったら駄目』とか『本当は学校にも行って欲しくない』とか、
少なからず彼女の体の心配をしてきたつもりだったけど……。
僕は自分の身勝手さに呆れたし、欲望のままに取ってしまった行動を悔いていた。
「えっとね、裕一もさ……男の子だしさ……」
彼女は恥ずかしそうに、言葉に詰まりながら続けた。
「そう言うのにさ……興味があるのはわかるよ……」
僕は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「凄くHだしね……」
「……」
多田コレクションの件といい、今回の件といい、もう反論のしようもない。
「でもね……最初にキスされた時……」
彼女はうつむき加減で、雨音にまぎれて聞こえないぐらい小さな声でささやいた。
「……ちょっとだけ嬉しかったんだよ」
僕はドキッとして、里香の方を見た。その時、彼女の表情は長い横髪に隠れていた。
それから僕たちは、互いに会話も無くなり、ただゆっくりと家の方へ歩き続けた。
香は相変わらず、少しうつむき加減で歩いている。
最後の言葉は、僕の落ち込んだ気持ちを救ってくれた。さっきの一言がなければ、
この先、もう一度彼女を抱きしめたくなっても、怖くなって思いとどまっていただろう。
それは僕たち二人の将来にとって、少なからず寂しい事であったに違いない。
『彼女も嬉しかったんだ……』
精一杯の言葉。そう思うと単純に嬉しかったし、自然と悲しい気持ちは薄らいでいた。
もう数分で彼女の家に着く。それで今日は里香ともお別れだ。
でも、また明日、さっきの公園の僕たちのベンチで、彼女は待ってくれているだろう。
それだけで十分だ。
雨はもう降っているのかどうかも、わからないぐらい小さくなっていた。
明日の朝には雨で濡れていたベンチも、座れるようになっているだろう。
僕は右手に持っている傘をゆっくりと持ち替えて、空いた手で彼女の手にそっと触れた。
少し遅れて彼女の手から、僕の右手にチョンと返してくる。
そして、僕は、ゆっくり優しく包み込むように彼女の手を握った。
里香も少し遅れて、ぎゅっと握り返す。
僕たちは、ずっと無言だったけど、その時は、もう言葉は必要なかった。
――そして、彼女の家の前で、僕たちは立ち止まった。
少し名残惜しい想いを振り切って、互いにゆっくりと握っていた手を離す。
そして、彼女はうつ向いたまま、微かな声でポツリと呟いた。
「もっと……、ゆっくり……ね……」
「ん……? あぁ」
そう言うと彼女は、扉の前に向かって、クルッと振り向き、少し照れた顔で微笑んで答えた。
「裕一、送ってくれてありがと」
「あぁ、うん」
彼女は最後に手を軽く挙げて、僕に別れを告げた。
そしてゆっくりと玄関の扉が閉まり、ようやく長かった二人の一日が終わりを告げた。
僕はその時、あっけに取られながら彼女を見送ってしまった。
『おやすみ』も、『さよなら』も、『ありがとう』も、気の効いたことは何も一つ言えなかった。
後になって、ようやく里香の言葉の意味を理解できた僕は、気恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、
彼女の家を後にした。
しばらくして、置き去りにされた生徒手帳の事を思い出した。
それは、相変わらずポストの中でたたずんでいる。
φ
『ガラガラ――ッ!』
大きな音を立てて、少し支柱の曲がったシャッターを勢いよく下す。よし、一発で決まった。
最近わかったんだけど、綺麗に一発で閉めるには、少々コツが必要で、はじめの勢いが弱いと
少し間が開いてしまい、そのすき間を閉めるのが結構面倒なのだ。
心地よい疲れの中、椅子に座って本を読むアルバイトを終えた僕は、自転車にまたがって、
夕飯の待つわが家へと向かった。
いつもはもっと疲労感があるんだけど、今日は足取りも軽く、自転車のペダルもしごく軽い。
それは、この封筒に原因があるわけだ。
週二回だけなんで、決してもの凄い金額とは言えないんだけど、持つ機会の少ないお札が
何枚か入っていたし、たまに二人で遊びに行くには十分と言っていい金額が、その封筒には
入っている。
僕は落とさないように大事に、内ポケットに入っている事を何度も確認しつつ、
日の落ちた道を自転車で駆け抜けていく。
『まずはこの前の約束通り、食べに行って……』
『ちょっとまともな三脚があれば、二人で写真もとれるしな……』
『そのうち、映画でも誘おうか……』
『おもいきって温泉旅行とか…』
とても全部実現するのは無理だったけど、考えると次々にやりたいことが浮かんできて
僕の妄想はどんどん広がって行った。
頭の中の里香は、微笑んでいたり、ちょっと怒っていたり、温泉で照れていたり、
いろいろな表情を僕に見せている。
『もっと、いろんな所に連れて行ってやるんだ!』
僕はようやく、それができるんだと思うと、嬉しくて自然とペダルを漕ぐ速度が上がっていった。
もちろん、お金のかからない所にだって、いい所はたくさんあるし実際にあった。
春の桜並木や伊勢参り、ちょっと広めの公園で散歩とか。僕たちは休日のどちらか一日は、
なるべく二人で出かけるようにしていたし、気に入ったところは、自転車に乗って何度も訪れていた。
だけど、あまり遠出ができないから、範囲も狭くなって選択肢も限られてしまうんだ。
――この封筒は、僕たちの休日に新しい刺激を与えてくれるだろう。
僕は、初めて自分で手に入れたお金を、もっとも有効的に無駄なく使う為に、
色々と考えを巡らせていた。
いつもは、ちょっと距離を感じる帰り道だったけど、今日はあっという間に時間が過ぎていく。
なんだ、もう家は目の前だ。
僕は、景気よく『ガラガラ』と音を立てて扉を開いた。
そして、いつも通り『お帰り』と母親の声が聞こえた。
夕飯を速攻でお腹にかき込んだ僕は、お金の使い道を考える事を後回しにして、
四畳半に閉じこもる事にした。
光の入らないように遮光して、暗室の安全光を灯す。
部屋に満ちた酢酸の臭いにも慣れたもんで、昔ほどは気にならなくなった。
今日は、現像を終えたフィルムを印画紙に焼き付けるべく作業を進めている。
もう作業はこなれてきて、大分失敗することも無くなってきた。
引き伸ばし機にフィルムをセットして、現像の状態を確認していく。
よしバッチリ、ムラもなく綺麗に取れている。
一枚づつ順番に映し出される映像を眺める。
このフィルムにも色々な表情の里香が収める事ができた。
いろんな角度で、いろんな服装で、彼女が僕に微笑みかけている。
僕は映し出される彼女の表情に満足しながら、じっくりとフィルムを確認していった。
写真をみる僕の表情は、少し緩んでいるだろうけど、ここには誰もいないし、
ましてや暗室だから頬の緩んだ顔を見られることも無い。遠慮なく頬を緩ませる。
『! なんだこれ?』
僕は映し出された映像をみて、少なからずびっくりした。
なんだこれ? こんな写真を撮った覚えは無いんだけど……。
いや、仮に取りたくても絶対に取らせてくれないだろうし、発見されたら確実に里香に没収される。
いや、それだけじゃ済まない。
そんな非現実的な映像を引き伸ばし機は、写し出していた。
僕はわき上がる罪悪感を押さえつつ、わずかにピンボケ気味の写真をずっと眺めている。
そこには、もの凄いローアングルで撮影された、制服姿の彼女が立っていた。
ちょっと見下ろして怒った表情にゾクッとする。
スカートの奥のきわどいラインから、スラッと伸びた長い足に、僕の視線は釘付けだった。
いや、見えないんだけど、見えそうというか、逆に見えないのが良いというか、もうなんというか……。
これは間違いなく、僕の撮ってきた写真の中で、もっとも異彩を放っていた。
『あぁ、あの時だ! 転倒した瞬間にシャッター押したっけ?』
映し出される映像の前後関係から、撮影された瞬間を思い出した。
里香に怒鳴られて椅子から転げ落ち、その拍子でシャッターを切ってしまったんだ。
僕は奇跡とも言える偶然に心から感謝した。
もちろん、里香に申し訳ない事はわかっているんだけど、このフィルムは
大事に保管させていただくとしよう。
現像は一枚だけして……、いや駄目だ、フィルムの状態で見れるぐらいがちょうどいい。
それに、里香に見つかったら殺されかねない。いや、やっぱり一枚だけ現像して……。
僕はこの写真を現像するかどうか、しばらく葛藤していたけど、手慣れた手は、無意識の内に、
順調に印画紙に焼き付けをすませていたし、三分後にはいつのまにか、水の中に一枚の写真が
浮かんでいたんだ。
惜しむらくは白黒写真であったところだが、それは彼女にとって、せめてもの救いになっていた。
でも、逆にそれが、なんとも言えない良い味を出してる。
しばらくして、ようやく一通りの現像を終えた。
天井にはプリント済みの印画紙が、何枚も並んでいる。
とっておきの一枚は、部屋の奥の方にさりげなく吊しておいた。
もし親が入ってきても、すぐには気づかないように上手いこと配置しておく。
あの二人は仲が良いから、もしも発見されて、里香に告げ口でもされたら大変だ。
『今度、部屋のもっと見えにくい場所にも、紐を吊しておこう』
もう一度、大事な一枚を見上げた僕は、写真の彼女と目があった。
その表情は怒っており、何か言いたげで、僕を見つめている。
邪な考えを持ったことに少々反省したが、『ゴメン今回だけっ!』と心に誓い、
写真の里香に謝っておいた。
一息ついたので寝転がりながら、今日、手に入れたお金の使い道を考えることにした。
ぼんやりと、天井に並ぶ生乾きの印画紙を眺める。
ほとんどが里香一人で写っており、隣に自分が居ないことに、若干の寂しさを感じないでもない。
これはもう、買って二人並んで撮るしかない。やっぱり、三脚は外せない。
古いカメラ雑誌をめくると、値段の安い物から高価な物まで、色々な三脚が載っていて迷う。
高価な三脚を買う程、潤沢に予算があるわけでもないし、残金が寂しくなると、肝心の行きたい所に
行ける回数が減ってしまう。
うーん、悩む。とりあえずは、激安の三脚で我慢するか?
などと考えを進める内に、頭の片隅に微かな記憶が蘇ってきた。
『運動会で必死に走っている中、チラッと見た、こっ恥ずかしい応援をする親父の姿……』
確か、あの時、親父の前に、このカメラが乗っかった大きな三脚があったはずだ!
僕は、すぐに飛び起きて、まだ荷物が混沌としている元親父の部屋の、
押し入れの中を引っかき回し始めた。
何で今まで忘れていたんだろうか? 親父はカメラに凝っていたんだから、
三脚ぐらい持っていて当然だ。あぁ、信じたくないが、本当に俺は馬鹿かもしれない。
しばらく押し入れの段ボールをひっくり返し続けて、ようやくそれらしい箱を見つけた。
『こんな奥にしまい込んで、使う気あったのかよ!』
その箱は、細長くてちょっとだけ重い。開けるとそこには、念願の三脚が入っていた。
これは、かなり嬉しい誤算だ。やや大きく感じたが、贅沢は言っていられない。
もちろん、雑誌に載っていたメーカーの名前が刻まれている。そこそこ良い代物の様だ。
僕は、無駄な出費をせずに済んだことにホッとしていた。
自分で三脚を買ってから、これを発見した日には、目も当てられないところだった。
さっそく箱から取り出し、少し白くなったアルミを布で拭いてやる。
今度、遠出する時は、これを持って行って、二人で写真を撮るんだ!
そう思うと嬉しくって、ついニヤニヤしてしまう。
天井のとっておきの里香は、相変わらず怒った顔で、ニヤニヤした僕を見つめている。
三脚の発見で、大きな出費を抑えることができた僕は、残った金額の使い道について、
紙にメモを書きながら、おおざっぱに計算をすることにした。
印画紙代、数回のデート費用を計算に入れても、まだ、だいぶ余分があるので、
日帰り温泉旅行程度は計画できそうだ。
期待に胸が膨らむが、さすがに混浴は無理だな。
誘った時点で偉いことになりそうだ。
『あと、里香に何か買ってやろう』
僕は、最初の給料で形に残る物を買うことにした。
安くても良いから、身につけられる物とか……。
空想の中の里香は、銀のチョーカーを首にかけて喜んでいる。
クルッと回って結構可愛かったので、これは絶対に買うことに決めた。
そうそう、今日バイト先の古本屋の店長に、図書室で探していた本を、
仕入れの時に探してもらうようにお願いしておいた。
渋い選択に店長は目を丸くしていたけど、そのうち手に入ると言っていたから大丈夫だろう。
いつ手にはいるかわからないけど、購入代金は、あらかじめ残しておかないと行けない。
約五千円と結構出費は大きい。
そう、僕は、彼女に内緒で我が校の図書室に、その本を寄贈するつもりだ。
そして誰よりも先に、その本を借りて、貸出票の一番目に自分の名前を刻むんだ。
それから、僕が卒業した後に、里香が本の存在に気が付いてくれれば、
このささやかな計画は大成功なんだけど、実は、そこまでは期待していない。
もちろん気がついてくれて、手にとって僕の名前を見た時の表情を想像するだけで、
ワクワクするんだけど、べつに、気づかなくてもいいんだ……。
ただ、僕と彼女がこの高校で過ごした証として、僕らの図書室に『チボー家の人々』が
残り続けるだけで十分なんだ。
そして僕たちが卒業した後に、本を借りた生徒が、僕の書いた落書きをみて、
僕たちの二人の事を感じてくれたらいいなと思う。ちょっと上手く言えないけど。
そして何十年後かわからないけど、僕はもう一回、僕たち二人の図書室に訪れて、
もう一度、その本を借りようと思う。
――その時、貸出票に彼女の名前が刻まれていたら、本当に最高なんだけど……。
(第一話 おわり)
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