「最悪だ……」
部屋に辿り着くなり、電気も付けないままベットに倒れ込む。
食事の間中、携帯を気にしていたくらいなら気が付かれることはなかったんだ。
だけど、携帯はいっこうに鳴らないまま、時間だけが過ぎていく。
箸と口だけは自分の意志とは無関係に動いてはいたけれど、御飯の味なんてろくに分か
りゃしない。
最初から不審な目で僕を見ていた(らしい)母親は、食事中携帯を見つめながら何度も溜
息を洩らした挙げ句の果てに、ソースで刺身を食べようとした(らしい)我が子の奇行に、
事情を察してしまったらしい。
「どうせ裕一が悪いんでしょ?
里香ちゃんと喧嘩したんだったら、早くちゃんと謝りなさいよ」
「里香と喧嘩しても勝てっこないんだから、喧嘩なんてするわけないだろ!」
反射的に僕たちの真実の関係を吐露してしまいかけたけれど、なんとか踏み止まる。
「……喧嘩なんてしてないって」
そう短くぶっきらぼうに言い捨てるけれど、母親の疑いの眼差しは確信へとランクアッ
プするばかり。
母親は今ではすっかり里香の味方だ。ファンとさえ云っても良い。僕の母親の前に限っ
て里香は常に猫被りして、いつもの意地悪さも我が儘振りも隠しおおしているからだ。
その結果、里香の云うことはなんでも信じる癖に、我が息子の言い分はこれっぽっちも
聞いてくれやしない。……ま、あの里香の完璧な擬態を見せつけられたら仕方ないとも思
っちまうけど。
ともあれこれ以上は何を言っても無駄なのは学習済みなので、残りの御飯をかき込むよ
うにして片付け、自分の部屋へと逃げ帰る。
母親の「出来れば今日中に仲直りしなさいよ」という、痛すぎる言葉を背に聞きながら。
ベットに突っ伏した姿勢のまま、視線だけで携帯の画面を確認する。
だけどそんなことを何度繰り返したところで、里香からの着信が何処かから湧いて出る
わけじゃない。
里香は“万が一”の時に備えて、症状を説明し、その際の対処方法、連絡搬送先を記し
た手帳を常に持ち歩いている。その連絡先を登録した携帯もだ。
ただ、里香本人は携帯を通じて話をするのがあまり好きじゃない。
病院暮らしが長くて携帯の必要性がなかった、ということもあるのだろうけれど、退院
後も僕は里香と携帯を通じて長電話した記憶が殆どない。
それどころか、里香の声が聞きたくって、なんだかんだ適当な用事をでっち上げてこち
らから連絡を入れても「電話してくるくらいなら直接会いにきなさいよ!」と、携帯の意
味が全くない、無茶なことを云われる始末。
それだけでも理不尽なのに、里香の方からは携帯のメールを通じてバンバン用事が送り
つけられてくる。しかも大半は簡潔この上ない「誰々の何々の本を買ってきて」「明日は
何時に迎えに来て」「今度の日曜日、どこどこに連れて行って」なんて一行メールばかり。
いや、それはそれで情けないことに慣れちまったし、たとえ命令形であっても里香との
デートの連絡が嬉しくないわけはない。
だけど、僕としては、毎日会っていても、それでも無性に里香の声が聞きたくなる時が
あるんだ。
……そんなこと、面と向かって里香には云えないけどさ。
だけど、それでも一度で良いから
「里香の声を聞かないと、眠れない夜だってあるんだよ」
って、こっ恥ずかしいけれど、本当のことを里香にハッキリ告げてみたい。
笑われるかな?
きっと、笑われるだろうな。
そんなことを云ったら、思いっきり指を指して、馬鹿笑いされるに違いない。
でも、ひょっとしたら――そんな可能性は明けの明星が西の空に輝くくらいの可能性か
も知れないけれど――里香は僕の言葉に真っ赤になって黙り込んでしまうかも知れない。
きっと可愛いだろうな。
うん、ファインダーに収めて永久保存しないではいられない程、可愛いに違いない。
普段はあんなに意地悪で、我が儘で、僕なんかいっつも振り回されてばっかりだけど、時折見せる里香の素直な表情って、すっげえ可愛いんだから。
それこそミスユニバースに選ばれるような美人だって、あの一瞬の、里香の宝石のよう
な輝きと較べたら、見劣りするに違いない。
ああ、そんな里香からバレンタインのチョコを、しかも本命のチョコを貰えたら、本当
に飛びあがっちまうほど嬉しいに違いないさ……って、現実逃避の妄想もグルリと一回り
して、再び容赦ない現実が自己嫌悪とともに襲ってくる。
散々焦らされたり、大いに感謝するように云われたり、ホワイトデイの三倍返しを約束
させられるくらいは全然想定の範囲内だった。だって相手はあの里香なんだから。一筋縄
で行くと思う方が間違ってる。そんなこと、この一年で身に染みて理解している。
けれど、チョコレートが貰えない、貰える素振りさえない、なんて事態は想像もしてな
かった。
でもよくよく考えてみれば、バレンタインに関して、僕は里香となにか約束してたわけ
じゃない。
それどころか、僕たちの間でバレンタインの話題がのぼったことは一度だってなかった。
勿論偶々話題にのぼらなかったわけじゃない。
里香の方はどうだか分からないけれど、少なくとも僕は敢えてその話題を避けていた。
だってそうだろ?
里香にバレンタインの話題を振れば、暗に「チョコを頂戴」って云ってるようなものだ。
そりゃあ、里香のチョコは欲しいさ、心の底から。大好きな女の子からの本命チョコが
貰えるチャンスなんて、十八年生きてきて初めてなんだから。
だけど、それを僕の方から切り出すなんて、あからさまに催促しているみたいで格好悪
いじゃないか。
里香の笑顔のためなら、端から見た僕の姿が、どんなにみっともなく映ったって、どん
なに格好悪く映ったってかまやしない。
たとえそれで周囲から笑われたって、僕は大威張りで胸を張って答えただろう。
僕にとっての里香はそれだけ大切で、自分の全てを投げ出したって守らなければいけな
いかけがえのない輝きなんだって。
だけどこと僕自身に関してだけのことになると、里香を想うときには湧き出る、なりふ
り構わない勢いは、急速に萎んでしまう。
……いや、そんな難しい話じゃないな。バレンタインのチョコレートが欲しいって、自
分から里香に切り出すのが、ダサくて、情けなくて、そして正直に云えば怖かったんだ。
里香とはこれまで何度も気持ちを確かめあってきた。
黄色いチボー家の人々の第一巻はお互いの本棚に収められ、僕の机の引出の中には、僕
ら二人の名前が並んで書いてある書類も遠くない将来、正式に提出するその日まで正式に
大切に保管され、そして何より、砲台山での誓いの言葉は僕たちの心をしっかりと繋いで
いる。繋いでいる筈だ。
だから今更チョコレートの一つや二つでオタつくのは、我ながらおかしなことだってこ
とも分かってる。
―――埒もないことを考えているうちに、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中、何かが僕の神経に触れる。
未だぼんやりとした頭の中で、何が僕に目覚めを促したのかを考える。
部屋の片隅で、明滅を繰り返す小さな光点。
その瞬間、僕の意識は完全に覚醒した。
「!?」
机の上に置いておいた携帯電話を、ひったくるようにして掴む。
発信者は名前は――瀬古口。
司だった。
脱力感でそのまま崩れ落ちてしまいそうになるけれど――考えてみれば、司がメールだ
なんて珍しい。
そもそも司は春から修行する東京の店の下見、というか、事前挨拶に行っている筈だ。
その司の東京滞在の期間が「偶然にも」みゆきの東京の学校の受験日程に重なっていた
りするのは……まあ司曰く「き、奇遇だよね」ってことにしておこう。
あれ? そう云えば今日はそのみゆきの本命大学の受験日だった筈。
そんな大切な日に一体? って携帯の時計機能を見ると、うわっ、もう夜の11時過ぎ
じゃないか。
ひょっとしたら、二人揃って帰ってきた報告かな? てっきりもう一晩「泊まってくる」
とばかり思っていたのに……ってなんだか勝手に想像したこちらの方が面映くなりながら
メールを確認する。
「―――――――――!」
電気を点けるのも、上着を羽織るのも全部すっ飛ばして、僕は着の身着のまま、部屋の
外に飛び出す。
早く、早く、一刻も早く!
母親に叱られる事なんてお構いなしに、階段を壊しそうな勢いで駈け下る。
何故そんなに急ぐのかって?
それは司からの着信の筈なのに、そのメールの文面に何故かデジャブを感じたからだ。
簡潔この上なく、そこには次のように記されていた。
『家の外、出てきて』
だけど、恥も外聞もなく正直な気持ちを打ち明ければ、10円のチロルチョコだってい
いから、僕が何も云わなくても、里香からバレンタインのチョコが貰いたかった。
ご近所の迷惑も顧みず、ガラガラガラって派手な音を立て、玄関の扉を開く。
月明かりが眩しい。
ずっと電気も点けないまま薄暗い部屋にいたので、一瞬昼に逆戻りしたような錯覚を起
こす。
そんな僕の目の前で、中空に浮かぶ満月に近い月の光が、扉を開けたところに立つ少女
をスポットライトのように照らし出す。
透き通った白い肌は月明かりに美しく映え、漆黒の髪は夜の闇よりも深く艶やかに輝き、
まるで地上に降り立った月の精みたいだ。
――――ああ、本当に綺麗だな。
悩み抜いていたバレンタインへの拘りへの疑問が、その瞬間、ストンと胸に落ちる。
全ての答えは――僕の目の前にあった。
そんな月の化身のような少女の姿に、僕は言葉を忘れるほど見とれてしまっていたけれ
ど、それでも咄嗟に僕の口をついて出たのは全然別の、だけど心からの言葉だった。
「馬鹿! なんでこんなに夜遅く出歩いてるんだよ!
あぶねえし、風邪ひいたらどうするんだよ!」
「折角来てあげたのに、いきなり馬鹿とは何よ! 裕一の馬鹿!」
月の精――ではない、里香はムッとした表情で言い返してくる。
「だいたい少しくらいは驚きなさいよ。折角、瀬古口君の携帯を借りたのに」
――間違えっこないって。
お前からのメールをこの一年でどれだけ受け取ったと思ってるんだよ。
「裕一、今日が何の日か、忘れてるでしょう?」
――忘れてっこないって。さっきまで苦悶のあまりベットの上で転がっているくらいに。
勿論そんなこと、里香の前じゃ、おくびにも出すわけにはいかないけどさ。
「そんなことじゃ、わたしから以外、誰からも貰えないだろうなって」
――ああ、そうだよ。
里香からしか貰える当てはないし、里香にさえ貰えれば他に何もいらない。
「戎崎さん、その前に私に何か言うことはないの?」
――里香の肩越しに、少し離れた街灯の下でドスカラスが親指を立てているのが見える。
その脇には受験を無事に終えたらしい、みゆきの姿も。
こんな大変な日に里香のチョコ作りの師範まで。
ありがとう、僕らのヒーロー、ドスカラス。アンタ最高だぜ!
それに、みゆきも疲れているところをありがとな。
「ホワイトディ、期待してるからね。こういうのは三倍返しが基本なんでしょ?」
――ああ、分かってるって。
今はまだ思いつかないけれど、一ヶ月後を楽しみにしてろよ。
そして一年一年これからずっと積み重ねていこうぜ。
僕と里香との大切で、かけがえのない思い出を。
「痛っ! いきなり何すんだよ!?」
おデコへの唐突なクリティカルな攻撃に、一瞬目の前に火花が散る。
「…………裕一、気持ち悪い。
顔にやけてるし、どうせまたヘンなコト考えてたんでしょ!」
「オマエな……って、チョコ! なんでよりによってチョコの箱で殴るんだよ!
中のチョコが割れちまったらどうすんだよ!?」
「――――!? 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ! ど、どうしてくれるのよっ、裕一!」
怒る怒る怒る。
堤防が決壊したような勢いで里香が怒る。
ものすごい勢いで押し寄せる、理不尽な罵倒の濁流。
その中を、僕は馬鹿みたいに突っ立っててることしかできない。
藁をも掴む思いで司とみゆきに救いを求めるけれど、二人は「健闘を祈る」とばかりに
揃って親指を立て、そのまま仲睦まじく肩を並べて帰っていってしまう。
…………友情って儚いもんだよなあ。
ともあれ、どうやら自分一人で里香の怒りをなんとかするしかないようだ。
うちの母親にこんな光景を目撃されたらファンを一人減らしてしまう。
僕は口元の綻びを必死に隠しながら、
そうさ、他ならぬ僕へ渡すチョコレートのことで、怒りのボルテージを上げる里香を
宥める算段をはじめた。
(おわり)
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