「じゃあね、裕一。また明日」
「…………ああ、じゃあ、また明日な。気をつけて帰るんだぞ」
僕は動揺を隠すべく、目一杯の虚勢を掻き集め、別れの挨拶を告げた。
ただ呆然と里香の背中を見詰めることしかできない中、その姿は徐々に小さくなってい
き、やがてその柔らかな輪郭は夕陽の中にかき消えてしまう。
今日一日、いやその何日も前から膨れあがっていた希望という名の心の風船が急速に萎
んでいく。
代わって襲ってきたのは、猛烈な虚脱感と脱力感。
何故か今日に限って里香は、僕の如何なる誘いにも乗ってこなかった。
駅前で伊勢うどんを食べて帰ろうと誘っても、七越ぱんじゅうを買って帰ろうと云って
も、首を横に振るばかり。
「今日は俺が奢るからさ」と云った時だけは目を輝かせて暫らく考え込んでいたけれど、
残念そうに「今日はちょっと大事な用事があるから」って。
ひょっとしたら、里香にとっては今日はとても大切な日なのかも知れない。
例えばお母さんの誕生日だとか、お父さんの命日だとか、二人の結婚記念日だとか、そ
んな家族にとって大切な日。去年の今頃はそれどころじゃなかったから、今年は特に大切
な日になっているのかも知れない。
だけど、よりによって今日がその日じゃなくてもいいじゃないか!
2月14日。
聖バレンタインという一年に一度の今日でなくっても。
里香と出会う前までならば「バレンタインなんてお菓子会社の陰謀だろ? 馬鹿馬鹿し
い」って山西あたりと一緒にグダグタ云って斜に構えながらも、内心「実はわたし、前か
ら裕一さんのこと!」なんて、ありえもしない夢のような展開に期待して、だけどそんな
春の雪よりも淡い妄想が現実化する筈も無くって、お情けのように母親やみゆきから、義
理以外の何ものでもありえない板チョコを貰って、そんな自分の情けなさにますます自己
嫌悪を深める、なんてのが北極星の如き動かしがたい僕の真実だった。
そのみゆきにだって、疎遠になっていたここ数年は義理チョコさえ貰ったことがない。
以前のように普通に喋れるようになった今年はどうかと云えば、現在三年生は入試の真
っ直中。いや、それ以前に、みゆきには本命チョコを上げる相手がいる。……みゆき、上
げる相手がお菓子作りの達人である司だからと云って、変にチョコ作りに凝って、入試の
本番に響かなきゃいいけど。
うん、幼馴染みのそんな心配まで出来る僕って、なんて心が広い人間なんだ。
……勿論そんな心の贅肉が許されるのは、今の僕には里香がすぐ隣にいてくれるからこ
そだけれど。
実際この数日来、里香と登校中の僕、教室にいる僕、里香と下校途中の僕には、いくつ
もの視線に常に晒されてきた。
普段なら他人からの視線なんて居心地が悪くなるだけだけど、うなじの辺りがもぞもぞ
するような、羨望と僅かばかりの妬ましさを伴った視線は、不思議と心地よかった。僕に
は縁遠いものだと思っていたけれど、所謂「勝ち組」ってのはこんな気分なのかも知れな
い。
山西の馬鹿のお陰、というのも癪だけど、例の結婚騒動以来、学校では僕と里香の仲は
公然のものとなっている。
勿論、当初は里香に憧れている一部の女子生徒から「戎崎先輩なんて里香先輩に釣り合
ってないわよね」なんて云う声も当然のように上がっていたようだけど(当然だ、僕だっ
てそう思っただろう……里香の情け容赦ないあの性格の悪さと、どこぞの軍曹とだって真
っ向から張り合えそうな口の悪ささえ知らなければ)、最近ではそんな声さえ下火になっ
たらしい。
流石に不審に思って、みゆきにさりげなく探りを入れて貰った所、なんでも里香の前で
同じような趣旨のことを告げた女の子がいたらしい。
「……裕ちゃん、その後の里香ちゃんの反応、聞きたい?」
みゆきの問いかけに、僕は即座に首を振った。惚気になるような言葉を、幼馴染みの口
から聞くことが耐えられなかったからじゃない。女子生徒の中では里香のことを一番よく
知っていて、一番仲の良い筈のみゆきの、引きつったような笑顔が全てを物語っていたか
らだ。……その女子、変なトラウマを抱え込んでなきゃ良いけれど。
そんなエピソードも挟みながら、それでもこの一週間ほどは、僕の幸せはマックスで、
フルスロットルで、全力一杯な状態だった。
里香がどんなチョコレートをくれるのか。
里香がどんな風にチョコレートを渡してくれるのか。
それに対して、僕はどんな顔をしてチョコレートを受け取ったらいいのか。
毎晩それを想像するだけで、遠足を前日に控えた小学生のように興奮してしまい、この
数日は寝不足気味になっている有様。
でもきっと里香のことだから、素直にチョコを渡してくれないだろうな。
朝、通学路で会った時に、ぶっきらぼうを装って突きつけるようにチョコを渡して来る
かもしれない。
いや、その程度の想像では甘いぞ、戎崎裕一。なんと云っても相手は“あの”秋庭里香
なんだから。
ひょっとしたら昼休み、学校の屋上に呼び出してくるかもしれない。
バレンタインという特別な日の里香の誘いに、僕が舞い上がってノコノコと屋上にやっ
て来たら、久々にあのトラップが発動するんだ。見事にトラップに引っかかり、情けない
顔をしている僕を大いに笑い飛ばすことで照れ隠しをしながら「裕一、誰からも貰えなか
ったら可哀想だから」だなんて誤魔化しながら渡してくるのかもしれない。
いやいや、里香のことだから、思い切り焦らし作戦で来る可能性も濃厚だ。
朝から散々思わせぶりな態度で僕を焦らしながら、それでも決して里香の方からは切り
出したりしない。
一緒に下校していても、決してチョコレートの“チョ”の字も、バレンタインの“バ”
の字も話題にのぼらない。耐えきれなくなった僕が「……里香さん、どうか哀れなワタク
シめにバレンタインのチョコを頂けませんでしょうか」と頭を下げるまで、決してバレン
タインの話題に触れてさえくれないんだ。
うん、里香のことだから十分にあり得るな。――あまりにも自虐的すぎる想像の中の自
分の反応を、あながち否定できないのが僅かばかり悲しいけれど。
人にそこまでさせておいて、散々勿体ぶった挙げ句に、一ヶ月後のホワイトデイのお返
しを決して忘れないように、と念入りに釘を刺された上で、やっと宝石のように貴重な里
香のバレンタインチョコに対面が叶うんだ。
そうだ。今のうちにホワイトデイのお返しを考えておいた方が良いかもな。
やっぱり本命は本かな? だけど、サンなんとか云う、本を贈る日は別にあるみたいだ
し、そもそも「里香が好きそうな本で、里香が読んでいない本」を探すのは半端じゃなく
大変そうだ。
となると、やっはり古式ゆかしくマシュマロかな? だけど、なんとなくだけど、マシ
ュマロと里香って相性が悪い気がする。マシュマロの、あのどっちつかずの食感と味は、
里香を苛つかせるだけのパフォーマンスを備えていそうだ。
まあ、そっちはまだ一ヶ月の猶予があるんだから、今から焦る必要なんてない。これか
らの一ヶ月、ない知恵を必死に絞って、あの里香だって素直に喜ぶようなプレゼントを考
えておこう。
それよりも、いま考えるべきは里香からチョコを貰う時の、僕の反応の方だ。
里香はものすごいお父さん子だから、父親にバレンタインチョコを上げたことは、きっ
とあるだろう。けれど、それ以外の男にチョコを上げたことがあるとは思えない。
そうさ。きっとあの夏目の野郎だって貰ったことがないに違いない。……ひょっとした
ら、もしかすると、まかり間違ったりすると、医者の癖に煙草をやめないアイツの禁煙の
手伝いになればと(里香がそんな回りくどいことをする筈がない、と判っているけれども)、
渋々シガレットチョコくらいは渡したことがあるかも知れない。だけど、それだってあく
までも“義理チョコ”に過ぎない。
里香の本命チョコが貰えるのは世界で唯一人、自分だけなんだって思うと、それだけで
頬がにやけ落ちて零れそうになってしまう。
だけど、油断は禁物だ。
下手な反応を見せて機嫌を損ねたら「やっぱり上げるのや〜めた」と平気で言い出しか
ねないのが、里香が里香たる由縁だからだ。
勿論、里香が普通にチョコレートを渡してくれるんだったら、なんの迷いも衒いもなく、
諸手をあげて万歳すればいいだけだ。
けれど、想定すべきなのは里香がチョコを渡してくるときに、一捻りも二捻りも加えて
いたときのことだ。
チョコの箱の中身がびっくり箱だったとき、貰ったハート形チョコが真っ二つに割れて
いたとき(偶然の場合と故意の場合の双方を考えておくべきだ)、チョコの味に「当たり」
と「外れ」があったときのリアクション等々、考えられるありとあらゆる事態に備えてお
かないと、気合いがバッチリ入っているに違いない里香相手では安心できない。
そして絶対に、決して、殆どあり得ないことだとは判っているけれど――里香がチョコ
の一方の端をくわえて、その唇ごとプレゼント……なんて嬉し恥ずかしで硬直してしまう
ような事態も――ま、そんな可能性は万に一つもないとしても、それにも備えて一応、心
の準備をしておかないと。
かくなる次第で、考えられるありとあらゆる事態を想定しつつ、今日という日を迎えた
訳だけれど、その事前の予想は尽く覆されてしまった。
朝、通学路で会ったときも、昼休み図書館で顔を会わせたときも、そしてつい先程まで
一緒に下校していたときも、里香の口からバレンタインの“バ”の字も出なかったんだ。
念のために、机の中と鞄の中と下駄箱は朝、昼、晩の三回、ちゃんと確認した。
帰りがけなんか、一目見て空っぽだと分かる下駄箱を、眼を皿にして隅々まで確認して
いる所を、当の里香本人にバッチリと目撃されてしまったりもした。
それでもてっきり最初は“焦らし作戦か!?”と思ったんだけど、里香の雰囲気からして
どうもそんな風でもない。流石に一年以上の付き合いともなると、その辺の見極めはちゃ
んとつくようになっている。
少なくとも今日一日、学校でと学校への登下校の間で、里香が僕にバレンタインのチョ
コレートを渡すつもりがなかったってことは、遺憾ながら認めざるを得ない。
と云うことは――どういうことだろう? 僕は里香の背中を見送ったその場でしゃがみ
込み、思わず頭を抱えてしまう。
ひょっとして里香、病院暮らしが長くて、この日本独特のバレンタインの慣習をよく理
解してないんじゃないだろうか? いや、幾らなんでもそれはない。確かに里香はテレビ
を見るより読書をしている方がずっと好きだけれど、それでも全くテレビを見ないなんて
事はない。そしてこの時期ともなると、バラエティ番組だけでなく、ニュース番組だって
バレンタインを取り上げている。それに一概に読書と云っても、純文学だけじゃなくて、
漫画だって――恋愛をテーマにした少女漫画だって――里香は読んだりする。それでいて、
今時のバレンタインについての知識がない筈がない。
じゃあ、以前の僕や山西じゃないけれど、この商業主義に毒された日本独特のバレンタ
インという慣習が好きになれない、って線はどうだろう? 歴史も好きな里香ならあり得
ることかも知れない。水さえ向ければ、史実上の聖人ヴンレンティーヌの事跡を事細かく
語った上で、如何に日本のそれが俗世間じみたイベントになっているかの批判を――って、
里香はそんなタイプじゃないよな。
だとすると、一番考えたくない事態――そんな事態を想定するだけで心に隙間風が吹き
込んできてしまうのだけれど――知らない間に里香を傷付け、里香に嫌われてしまったん
じゃないだろうか?
だけど、それこそあり得ない、ってなんとか自分を奮い立たせる。先程の別れ際だって、
里香の機嫌が決して悪くないことは見間違えようもなかったし、この数日、里香を怒らせ
るようなことをした心当たりもない。
そうさ。ここのところ、あまりに順風満帆に里香との関係が続いていたからこそ、今日
のバレンタインを楽しみにしていたんだ。ああ、先々週のデートの別れ際になんて、まば
らながらもまだ人通りがあったから、ほんの軽く触れあう程度だったけれど、ちゃんと僕
は里香に――!
頭の中がゴチャゴチャで、どうやって家まで辿り着いたか覚えていない。
台所から僕を呼ぶ母親の声に気付いたときには、自分の部屋のベットの上に寝転んでい
た、なんて有様だ。
ショックを隠しきれないまま、母親の呼びかけも無視して半ば不貞寝をしているところ
に、更に追い討ちの声が聞こえてくる。「裕一、晩御飯を食べるのを忘れてるの?」って。
そうか! 頭の中に雷が走ったように、その瞬間、ある可能性が思い浮かぶ。
そうだよ、里香はきっとバレンタインのチョコレートを家に置き忘れたんだ。
しっかりしているように見えるし、実際甘ったれの僕なんかよりずっとしっかりしてい
る里香にしては考えにくいポカだけど、それでも考えられない事じゃない。
そしてそんなポカをしたとすれば、里香は決してそれを簡単に認めたりしないし、僕に
は隠そうとするだろう。それならば、今日の里香の“バレンタイン”というイベントだけ
を故意に記憶から消去しているような態度だって腑に落ちる。
とすれば――里香からの呼び出しの電話が、もう間もなくあるかもしれない。
だとすれば、早めに夕飯を片付けて準備しておかないと!
そう思い至るなり、僕は慌てて跳ね起き、階下へと降りていくことにした。
だけど――――里香からの電話は、夕食の時間を過ぎても鳴ることはなかった。
(続く)
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