始まりは、暗く深い森から。





金蔵の作った肉の檻から逃れ、こうして蝶の姿で森を彷徨うようになってから…どれだけの時間が過ぎただろうか。
人間の時間で言えば、数年といったところか。千年を生きた身にはどうということのない時間であったが、如何せん、退屈だった。
屋敷の人間に悪戯を仕掛けたこともあったが、それにも飽きた。最近は日がな一日何をするでもなく、森の中を飛ぶほうが多かった。
(…これでは完全に復活する前に、退屈で死んでしまうわ。)
ぼんやりとそんなことを考えながら木々の合間を飛んだ先、目に飛び込んできたのは―――鮮烈な、赤。
ひっく、ひっく、ううぅ。
しゃくりあげながら、幼子が歩いている。幾度か転んだのだろう。服は泥だらけで、身体のあちこちに血が滲んでいる。
それでも彼は、歩みを止めない。ただひたすらに、ひたすらに、森の奥へ。何かを求めるように。あるいは何かから逃れるように。
久しぶりに訪れた変化に、知らずベアトリーチェは口に笑みを佩いた。蝶から人へと姿を変え、幼子の前へと降り立つ。

「…幼子よ。何ゆえに泣く?」
突然現れた己の姿に、幼子はひっ、と短く悲鳴を上げ後ずさる。涙を湛えた黒い瞳を、限界まで見開いて。
信じられないようなものを見る目。己が超常の存在であると自覚できるこの瞬間が、ベアトリーチェはたまらなく好きだ。
「だ、……だれ…、」
掠れた声で、幼子が呆然と呟く。震える肩が嗜虐心を煽り、何とも可愛らしい。
「妾は魔女。黄金の魔女、ベアトリーチェ。この六軒島の、夜の主よ。」
「…父さんたちが、いってた。森にはまじょがいて、わるい子をたべてしまうんだって。」
「くっくっく!まるで食べて欲しいと言わんばかりの口ぶりだなァ?」
腰を折り、幼子の瞳を覗き込む。浮かぶのは恐怖だろうか。畏怖だろうか。食べないでと哀願する様が、見たい。
しかし、幼子の瞳に浮かぶのは、そのどれでもなく。
「…おれは、わるい子だ。おれがいるから、母さんのびょうきはなおらない。おれがいい子なら母さんのびょうきはなおるって、父さんいってた。
 …おれがいるから、父さんは母さんをだいじにしてくれない。…おれが、わるい子だから。」
絶望。文字にしてしまえばたった二文字。けれどその二文字が秘める感情の、何と深いことだろうか。
「だから、たべてくれるならそれでいい。おれはきっと、うまれてきちゃいけなかったんだ。」
言って、俯く幼子の頭に…そっと、触れる。実体を持たない身体は真の意味で幼子に触れることはなかったけれど。
「妾は人を食べぬ。…だが、妾はそなたの願いを叶えたいと思うぞ。そなたが望むなら、妾がそなたの居場所となろう。
 妾と共に来るがよい。…妾がそなたを、愛してやろうぞ。」
差し出された手を、幼子は逡巡した後に・・・取った。今度は、触れる。確かに、その手が絡み合う。
それは、彼が今生を捨てたことを意味する。けれどきっと幼子は、そこまで理解してはいないだろう。
…ただただ、愛してもらいたい。幼子の心には、きっと初めからそれしかない。
「幼子よ。…名は?」
「…ばとら。右代宮、戦人。」


そうして後には、黄金の蝶の輝きの残滓だけが残された。



「……なんか…懐かしい夢、見た。ベアトと…初めて会った時の、夢。」
椅子に座り転寝をしていた戦人がぼんやりと、呟く。まだ半分夢の中にいるかのような、声。
「夢もよいが。しっかりしてくれよぉォ?もうじき1986年の親族会議が始まる。いよいよ時節が整ったのだ。そなたが魔女を襲名するための…
 そなたが全てを支配するためのゲームが、始まるのだからな。」
「分かってるって。寝ぼけてヘマするなんて無様な真似はしねぇよ。」
戦人が甘えるように、ベアトリーチェの首に手を回し引き寄せる。彼女も抗わずに、そのまま彼の首元へと顔を寄せた。
「まったく。図体はでかくなっても甘えん坊なところは変わらねぇなァ。」
「いっひっひ。そうなるように仕込んだのはどこの誰だよ。」
軽口を叩き合いながら、指を絡ませる。あんなに小さかった手は、今はすらりと伸びて。易々と、ベアトリーチェの手を包み込む。
12年をかけて、ベアトリーチェは己の全てを叩き込んだ。無限の魔法の、何たるかを。
そして、自分だけを愛するように、何度も何度も教え込んだ。半ば洗脳じみた行為ではあったが、愛情に飢えていた幼子は喜々として飛びついた。
その結果が、今の彼だ。魔女だけを愛し、魔女だけを見て、魔女のために生きる。完成された二人の世界が、確かに其処にはあった。

「さぁ、始めようではないか、戦人。…最愛の弟子であり、我が子よ。そなたのその手で、黄金郷の扉を開くのだ。」





そうして、島に嵐がやってくる。





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