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「ほれ」
「…ありがとう」
連行される江頭から一番粗末な指輪を取り返した男は、持ち主に向かって銀の輪を放り投げた。
「じゃあ、児玉さんが…」
「違う。アイツは貴族の落し胤らしいが、海堂じゃねぇ…らしい」
「え?」
ローストビーフを三枚まとめて口に運んだ吾郎は、手を振った。
「まぁどこの家だかは知らねぇがな…今の問題は海堂家だ」
「それは…そうですが」
眉村と顔を見合わせた薬師寺は、ワインを飲む探偵を見つめてため息をついた。
「では、誰なんですか?」
「…先代公爵は、あの庭でメイドと恋に落ちた…ってのは聞いてるだろうから、端折るとしてだな。
ところで、公爵が足が悪い理由を『若い頃の事故』ってこと以外、誰も知らないってのは妙だと思わないか?」
「そうですね」
薬師寺が頷いた。
「それには理由があった。公爵は恋人に贈る指輪を買う金を稼ぐために、初めて働くことにしたんだ。
大学の同級生と旅行に行くと嘘をついてな」
「え…」
「公爵は身分と名前を隠して、造船所で働いていたらしい。そこで鉄板の落下事件があって足を骨折したそうだ」
「どうして、そんなことが分かるんですか?」
樫本ですら知らないことを探偵が知っていることに驚いた薬師寺は、執事と顔を見合わせた。
「日記に書いてあったんだよ」
「日記?しかし、何も書いてなかったはずですが」
公爵が亡くなったときに、日記を最初に読んだ薬師寺が首を傾げる。
「書斎の机から、これが出てきた」
内ポケットから出した日記をテーブルに置くと、樫本が息を呑んだ。
「どうしたんだ?」
「…いえ」
「事故に遭うまでの賃金で、公爵は指輪を買った。自分の家にあるお宝とは比べ物にならいほどの粗末なものをな」
「…」
「そもそも『海堂公爵が秘密の恋人に贈った指輪』だと聞いていたから、俺たちは余計な先入観を持った。
名門貴族の男が贈る指輪なら、どんなに立派なものだろうってな」
「…」
「二十代そこそこの若造が働いて買った指輪だと考えりゃ、答えはすぐに見えていたんだよ」
視線は自然と眉村に集まり、彼は眉を顰めた。
「お前の話を聞くと、まるでこの指輪が公爵が買ったものに聞こえるが?」
「そっちの耳が悪くなければ、そう言ってるんだがな」
「…」
「ちょっと待ってくださいよ。では、どうして公爵は眉村と会ったときに何も言わなかったんですか?
本当の親子ならその時に名乗り出ても良かったんじゃないですか」
「それは知らねぇよ。ただ…お前たちの問題もあったんじゃねぇのか?」
「俺たちの?」
「何年だ?」
「え?」
「ジャスミンの香油を使うようになったのは、いつからだ?」
探偵の問いに、薬師寺は深いため息をついた。
「大学二年の時からだ…」
「薬師寺」
「この人は知ってる。お前が怪我をした夜のことにしていたことも」
「…」
「え?」
会話が見えない寿也が吾郎に視線を移すと、彼は肩を竦めた。
「公爵は驚いただろうぜ?可愛がっていた遠縁の男が、自分の息子を連れてきたんだからな。しかも、だ」
「もういい。やめろ」
眉村に言葉を遮られた吾郎は、手ずから注いだワインを飲んで息をついた。
「どういうこと?」
「後で教えてやる」
「…うん」
不承不承頷いた寿也は、眉間に皺を寄せている依頼人と友人を見つめた。
「…俺は、公爵家の跡取りなんかじゃない。俺の家族は、亡くなった母だけだ」
「…」
「お前の母親は、父親のことを何て言ってた?」
「…別に、何も」
「公爵の寝室が、どうしてあそこにあったか知ってるか?」
「俺が知るはずないだろう」
「庭だ」
「庭?」
「あの書斎と寝室からは、二人が出会った池と水仙がこの屋敷の中で一番綺麗に見える。
公爵にとっては大事な思い出の場所だったんだろう」
「…」
「センセイは、父親のことを殆ど聞いたことがないって言ってたよな?本当に何も聞いてないのか?」
「…あぁ。いや…詩を教えてもらったと言っていた」
「詩?」
「確か…
『心うつろに、或いは物思いに沈みて、われ長椅子に横たわるとき、独り居の喜びなる胸の内に、
水仙の花、しばしば、ひらめく。わが心は愛に満ちあふれ、愛し君とともに水辺で踊る。』
という詩を水仙の季節になると何度も口ずさんでいた」
「ワーズワースの詩、だね。アレンジがあるけど」
寿也の言葉に眉村は首を傾げた。
「アレンジ?」
「…最後の部分が違う。本当は『わが心は喜びに満ちあふれ、水仙とともに踊る』だ」
「日記にもそう書いてあるな。『偉大な作家の詩を改変して教えてしまったが、気持ちに気付いてくれたようで嬉しい』と」
「じゃ、『ワーズワースの気分を味わった』って…そこの庭の水仙のことだったのか」部屋の中の全員が、暗い庭に視線を向けた。
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