:
それは霧のような雨が降る、ある早春の夕暮れのことだった。
「熱も下がったようだし…もう大丈夫だね」
聴診器を外した医師は、患者の小さな頭を撫でた。
「明日から、お外で遊んでいい?」
春の雨で体調を崩す者が多く、医師である佐藤寿也は朝から往診に追われていた。
「雨が降ってるなら、明日はダメ。晴れててお母さんが良いって言ったら、遊んでいいよ」
「うん!!先生、ありがとう!!」
嬉しそうに笑った少年に微笑んだ寿也は、上着を羽織って身支度を整えていた。
「先生。これ、良かったらどうぞ」
患者の母親が差し出したのは、甘い匂いがする包みだった。
「さっき焼いたショートブレッドなんです」
「美味しそう。ありがとうございます」
笑顔で受け取り、患者の家を出た寿也は家主に頼まれていたものを買うべくパン屋に立ち寄った。
「こんにちは、先生。探偵のダンナは元気ですか?」
焼きたてのパンを包んでもらいながら、寿也は肩を竦めた。
「元気みたいですよ。昨日も遅くまでお出かけみたいだったし」
「ふぅん…先生みたいな美人と暮らしておいて、そいつはいけねぇな」
何故か寿也と同居人が恋人同士だと思っているパン屋の主人は、おまけだとスコーンを渡してくれた。
「夫婦ゲンカは早いうちに仲直りするのがコツですよ」
こっそりと耳打ちした主人は、奥方に窘められて次の客の相手をしている。
「夫婦っていうか…恋人ってわけでもないんだけどなぁ…」
言われるごとに訂正をするのが面倒になり、最近は曖昧に笑って済ませることが多い。
「僕の片想いだけじゃ、恋人にはなれないしね…」
ため息をついた彼は、袋を抱え直すとベイカー街の住まいへと帰って行った。「…?」
雨を避けて早足で歩いていた寿也は、下宿先の玄関の前で逡巡している男に首を傾げた。
帽子を目深に被った男はドアノッカーに手を伸ばしては、ため息をつく仕草を三度ほど繰り返している。
「…あの」
「えっ」
背後からいきなり声を掛けられて驚いた男が、飛び上がった。
「あの…何か御用ですか?」
「え、いや…あの、こちらは探偵事務所の『バッテリー』ですよね?」
「はい」
寿也が頷くと、男は安堵の息を吐く。
少し長めの巻き髪と、切れ長の目が印象的な男だ。肩の雫を払った男は、寿也に頭を下げた。
「依頼があるのですが…よろしいですか?」
「詳しい話は中でどうぞ。所長がお話を伺いますので」
「はい」
頷いた男は、寿也に促されて玄関のドアをくぐった。男を廊下に残した寿也は、控えめにドアを開けて応接室兼居間の様子を窺う。
「やっぱり…」
一本だけ点けられた蝋燭の灯りしかない部屋の中は薄暗く、中央に置かれたソファに横たわる男はぴくりとも動かない。
ゆるくため息をついた寿也はドアを開け放し、大股で窓に近寄ると分厚いカーテンを勢い良く開いた。
「うわっ」
突然降り注いだ光に驚いた男が、ソファから転がり落ちた。
「いい加減、起きなよ。吾郎君」
立て付けの悪い窓を全開にすると、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
机の上に散乱していた書類が床に舞い、寿也は慌てて窓を閉めた。
「痛てて…膝を打っちまったじゃねぇか。折れたらどーすんだよ」
「そんなことで折れるわけないだろ。そもそもきちんと起きてたら、こんな目に遭わなくて良かったんじゃないの?」
「俺は繊細なんだよ」
「…バカ言ってないで早く着替えてよ。依頼人が来てるんだから」
「ちぇっ。寿クン冷たい…」床からのっそりと起き上がった男こそが、探偵事務所『バッテリー』の所長・茂野吾郎である。
:
: