ひどく穏やかな休日の昼下がり。
掃除も洗濯も買い物も、全部午前中に済ませておいたから、これ以上家事に追われることはない。
午後になれば夕飯の準備があったりするけど、ゆったりとした時間を持つことは大切なことだ。
『え、うそっ?! うん、うん、それで?』
遠くから届くアスカの声。
洞木さんに電話を掛けて一時間になる。
女の子は皆、長電話の才能があるのだろうか?
しかし、今いるこの部屋だけは、外界と切り離されて。
ようやく過ごせる自分だけの時間。
チェロのレパートリーを増やそうと、さっき買ってきた楽譜を取り出した。
たった一人の大切なお客様のために、彼女が好きそうな曲をパラパラと探す。
あんまり難しい曲も弾けないから、そこらへんは自分の実力とも相談して。
『あ、うん、じゃあまたね』
季節は冬。
常夏の日本でも、日差しが和らぐ時期。
窓から差し込んだ光が、小さな室内を明るく照らす。
元は物置だったこの部屋も、今では充分過ごしやすくなった。
──でも、もう分かってるんだ。
こんな平和な時間が、長く続くはずはないって。
どたどたどたー!!!
ほら、僕の平安をかき乱す、崩壊の足音がそこに。
ピチャーン!!
勢いよく襖を開け放す音。
途端、僕の部屋の入り口にモノスゴイ存在感が発せられる。
思わず鳥肌が立ったけど、目で確認しなくても大丈夫。
仁王立ちのアスカが、こちらを睨んでいるだけなんだから。
十中八九彼女の目には、椅子に座ってSDATを聴きつつ、本をめくっている僕の姿が映っているだろう。
これでもし着替え中であったならば、ボコボコにされていたに違いない。
それなのにノックもなしに乗り込んでくるのは、どうしたものか。
控えめというのはらしくないけど、元気があり過ぎるのも問題だと思う。
立場が逆であっても、血を見るのは間違いなく僕…というのは当然の事実なので、今更述べる必要もないんだけど。
「シンジっ!」
一年にも満たない間に、何千何万と聞かされた声。
おそらく今なら、世界中どこにいても駆けつけられる。
「どうしたの?」
本から目を離し、イヤホンも外して向き合う。
そこには想像通りの彼女がいて、ちょっと面白かった。
「ちょっと聞いてよ!」
わざわざ言わなくてもいいよ。
君の言葉なら、一言も聞き漏らさない自信はある。
「ヒカリが鈴原とキスしたって!」
別段驚くことも無い。
先週から二人が付き合いだしたっていうのは、もはや周知の事実。
くっつけるまでに経てきた僕らの苦労は、すでに涙なしには語れない。
「よかった、トウジたちも順調なんだ」
それなのに、アスカは何故か不機嫌。
「…よくないわよ」
どうしてか、恨みがましい視線をこちらに向けてくる。
「洞木さんがトウジと付き合うのは、やっぱり反対?」
そういえば最初は、趣味が悪いとか言って猛反対してたっけ。
今の彼女からは程遠い意見に、記憶を掘り起こすのに手間取った。
「違うわよ。アタシだって、そこまで嫌な女じゃない」
初めて知った。
“そこまで” って、ある程度は自覚してるんだ。
「じゃあなんで…?」
キッと、視線だけで射殺さんと鋭くなった。
まるで僕のせいだと言わんばかりに。
「ヒカリに先越されちゃったじゃない!」
先? 何か競争でもしてたんだろうか。
まるっきり見当もつかない。
「だってアタシ達、付き合ってるんでしょ? とっくの昔から」
「ああ、うん。そうだね」
そう、僕らはすでに付き合っている。
アスカからすれば、一ヶ月もの大昔から。
かといって、今までとほとんど変わっていない。
おそらく彼女の主張も、その点にあるのだろう。
「なのにどうして、手を繋いだこともないのよ?!」
やっぱり。
それには僕だって不満がある。
せっかく想いを伝え合ったのに、触れ合えないのはとても寂しい。
でもね、それは仕方ないことなんだ。
「アスカ」
「な、なによ改まって…」
珍しく後ずさるアスカに構わず、ゆっくりと立ち上がって正面から向かい合う。
そしてできるだけ真剣な顔を作って、蒼い瞳を見つめる。
「キス…していい?」
自分でも恥ずかしくなったけど、勇気を出さないといけないのは僕だから。
僕は演技なんてできるほど器用じゃないし、この気持ちに嘘はない。
「ふぇ?」
愛しい愛しい恋人であるアスカは。
ぼふっと湯気が出たみたいに、一瞬のうちに沸騰した。
「だ…だだだだダメよ、そんなの。キス、キスよ?! アンタわかって言ってんの? キスよ、口付けよ、接吻よ?! これ以上近づいてみなさい! に、弐号機で踏み潰すわよっ!!!」
普段の様子からはありえないほど狼狽えて。
手の届く範囲まで踏み込めば、すぐさま「命は無い」とまで仰る。
「だ…ダメ。ダメだからねっ!」
それにも怯まず、じっと離さない視線に耐えられなくなったのか、僕の脇をすり抜けてベッドの中に滑り込んだ。
小動物のように布団に丸まる様子は、僕が悪いことをしたかのように心が痛んだ。
「ほら…ね?」
「…うっ!」
世界最小の休火山が、ピクリと微震を起こした。
目に見える進展がない原因、その一番の理由は僕にあるワケではない。
これにはホント驚いたけども、アスカはものすごく恥ずかしがり屋だった。
僕だって女の子と付き合ったことはなかったけど、この僕がリードしなくてはならないほど。
軽く何度か「キスしよっか?」なんて言われたことはあるけど、いざ実行に移そうとすると……まぁこんな感じ。
「なによっ、アタシが悪いっていうの?!」
「………」
顔だけを、亀のように出しての反論。
ちょっとマヌケかもしれない格好に、思わず顔が綻びそうになるのをなんとか我慢した。
無言のままアスカを見つめる。
僕の気持ちは、きっとこの目が伝えてくれる。
すると、ぷいと視線を逸らしつつ抵抗してきた。
「…わかった、わかったわよ。多少は認めてあげる。でもアンタだって、何もしてこなかったじゃない」
む。これには大いに反撃の余地がある。
僕だって男なんだから、いざというときには行動してるんだ。
今までの経過を、きちんとアスカにも分かってもらわねばなるまい。
「それじゃあさ。登下校のときに、ふいに僕が手を握ろうとしたら?」
「引っ込めた」
「CMの合間に、隙を見て抱きしめようとしたら?」
「逃げた」
「いい雰囲気になった夜に、見つめあってキスしようとしたら?」
「よけた」
「これは仮定の話だけど、万が一、僕が襲いかかろうとしたら?」
「殺す」
ベッドの中で胸を反らせて、さも自分が正しいみたいな態度のアスカ。
ふふーんって、そんな自慢げにしないでよ。
「はあ…」
「な、なによ。その呆れたようなため息は! 結局、アンタは何もしてないんじゃない!」
そりゃそうだ。
何もさせてもらってないんだから。
それにアスカ。その格好で言われても全然説得力無いし。
「いい加減に認めてよ。プラトニックな関係もいいかもしれないけど、僕はもっとアスカと仲良くなりたいんだ」
怒っているワケでも、苛立ってるワケでもないけど、はっきりと僕の考えを述べた。
布団の中からアスカが、目を丸くしてこっちを見てる。
そういえば、こんなことを吐き出したのは初めてかもしれない。
「ご、ごめん。どう考えても悪いのはアタシだもんね…」
普段からは想像しがたい、哀しそうな声。
視点も床に落として、信じられないほど弱気に言葉を紡ぐ。
負い目を知っていながらの自分に、異様に腹が立った。
そのまま悔いるのは後からいくらでもできるけど、目の前のアスカを残してはおけない。
「アタシだってシンジのことが嫌いじゃないし、恋人らしいこともしたいんだけど。
いざそういう時になると恥ずかしくなっちゃって…今までごめんね。
…アタシ、これからは頑張るから」
言って、彼女はベッドから抜け出した。
バカみたいに突っ立っている僕の目の前まで来て。
固く目をつむって、顔を寄せてきた。
あまりの出来事に見開いたままの瞳孔に、アスカのアップが大きくなってくる。
何かに耐えるよう、必死に閉じた瞼。
心なしか顔色も悪く、額には脂汗も滲み出ている。
違う、これは間違っていると、本能的に感じ取った。
「え…? シンジ?」
震える肩を掴んで、優しく引き離した。
まだ近い距離には、戸惑うアスカの表情。
拒否されたことに対する不安が見え隠れしている。
でもね、僕は間違ってると思うんだ。
「いいよ、アスカ。そんないきなり無理しなくて。少しずつ頑張っていこうよ、二人で…さ」
不安の色に染まった蒼には光が戻って。
湧き上がってきた水を湛えて、きらきらと輝いていた。
無神経にもキレイだと思ってしまった。
泣かせてしまったのは自分なのに。
「しんじぃ…」
弱々しい声で胸の中に倒れこんできた。
きつく僕のTシャツを指先で掴む。
ぎこちない動きだけど、僕も自然と腕を回すことができた。
告白のとき以来、僕たちにとって二度目の抱擁。
初めてではないけど、その雰囲気は何も変わらず。
ここからがスタートだということは、僕らにとって同じだった。
しばらくの間、絵に切り取られた世界のように動けないでいた。
僕の胸に顔を埋めていたアスカが、ふと顔を上げた。
目蓋の後ろに熱を残したまま、二人の視線が絡まる。
呆けたような表情が、意識が戻るとともに赤く染まっていって…
「ちょっ…いつまで触ってんのよ、このバカっ!!」
歯切れの良い音と共に、僕の頬には紅葉が張り付いた。
なんだよもう。
凭れ掛かってきたのは自分じゃないか。
そうは思っても顔は緩んでしまう。
“惚れた弱み” というのを実感した瞬間だった。
「なにニヤケてんのよ。アンタ変態じゃないの?」
前言撤回。
絶対、アスカを見返してみせる。
なんせ、これからの特訓で一番大変なのは君なんだから。
──そんなこんなで、僕らは一歩踏み出すキッカケを、ようやく見つけたのだった。