<地下6階>
魔女が異変に気がついたのは、<神殿>の主を倒してこのフロアへ登ってきた直後のことだった。
夫の様子がなんとなく、おかしい。
いつもどおりの仏頂面、いつもどおりの無慈悲なののしり、
―でも、いつもどおりの下手くそな愛情表現(と、魔女が信じて疑わないもの)。
何も変わりがないはずだが、ワードナは妙にうつろだ。
「気のせい? いいえ、やっぱりおかしいわ」
妻はいつだって夫のことを見ている。
たとえ千里眼の神々が見落とすことであっても、連れ合いのことなら妻が見逃すことがない。
それが夫婦というものだ。
うつろな様子は、朝、起き立てのときが一番ひどい。
じっと観察していると、ワードナはいつもより時間がかかって身支度をし、召喚円の中に入った。
きょろきょろと辺りをはばかるように見渡す。――魔女には見られたくないようだ。
そして一匹だけ、普段呼び出さない魔物を召喚し、何事かを命じてすぐに追い払った。
そして改めて、いつもの最強の魔物を召喚しなおす。
魔女は、そっとその場を離れた。
きびすを返してきっかり十歩。
どう歩いたのか、魔女が立ち止まったとき、そこは魔界に通じる門の前だった。
そして魔女は、召喚円から追い払われ、魔界へ帰ろうとする先ほどの魔物の前に立ちふさがった。
「こんにちは、<火の女王ザナ>。――わが殿から受け取ったもの、私に見せてくれないかしら?」
<火の女王>はぎょっとした。
炎に縁取られたローブが風もないのにゆらめく。
火の精霊たちの女王の美貌は、恐怖に凍りついていた。
かつて、<メイルストロームの心臓>の大迷宮で、彼女を支配していた魔女――。
もはや会うこともないと思っていたが、今目の前にいるのは、紛れもなくあの女だ。
恐ろしく傲慢で無慈悲な支配者への奉仕の日々を思い出し、ザナは震え上がった。
だが、魔女は別人かと思うような優しい微笑を浮かべて、質問しただけだった。
「わが殿から何を頼まれたの、ザナ?」
「……言えません。盟約に従い、それにはお答えできません」
震えながら答える。
「<召喚の契約>ね。――それ、破ってもらえないかしら?」
あっさりと言った魔女に、ザナは一瞬、殺意まで覚えた。
世界を支配する召喚のルールにそむけば、ザナには恐ろしいペナルティが課せられる。
「――むろん、ただでとは言わないわよ。
代わりにまだ残っている私との契約のうち、×××と※※※とを解除してあげる。
──それでどうかしら? 悪い話ではないと思うけど」
紅蓮のローブをゆらめかせてザナは考え込んだ。
驚くほどに好条件だった。
<召喚の契約>を破ったことで課せられる「罰則」は大きなものだが、
魔女が解除を申し出ている「奉仕」ふたつは、それをはるかに上回る苦痛だ。
──魔女は、いつのまにか随分と気前のいい女に変わっていたようだった。
あの迷宮の主であったころは、ケチで意地悪なことで有名だったのに。
(あるいは……別人、か──?)
疑問がわいた。そういえば顔立ちはそっくりだが、なにか、こう、違う。
根本的なところが異なるように思える。
(別人だとすれば、恐れる必要は……ない?)
ザナは相手をよく観察しようと目を細めようとした──瞬間、唐突に魔女が口を開いた。
「迷っているの? ―ところで全然話は変わるけど、カンジ王はお元気かしら?
……あの人、貴女の戻りが遅くなるときっと心配するでしょうね?
貴女にベタ惚れのいい旦那さんですもの、きっと心配するわ」
何気ない、本当に何気ない口調で<火の王>のことを話題にした魔女に、ザナは凍りついた。
見透かされている。
魔女は、自分が今何を考えていたのか、すべてお見通しだ。
申し出を断れば「帰りが遅れる」どころか、ここに「戻って」これるかどうか。
やはり、この女は「あの」魔女だ。
──しかもあのときよりも、さらに強力で美しく、恐ろしい。
ザナはワードナから手渡されたものを急いで魔女に差し出した。
他の選択は考えられなかった。
「これを、誰にも気づかれぬように燃やし尽くせ、――とのご命令でございました」
「ありがとう。約束どおり契約は解除しておくわ。気をつけてお帰りなさい。
きっと貴女の旦那さん、さびしがっているわよ。――帰ったら、うんとサービスをしてあげなさいな」
「は、はい……」
「それ」を受け取り、道を空ける魔女の横を、ザナはおずおずと通った。
魔界の門をくぐってからは走るようにして消え去る。
全身は、炎とともに冷や汗で覆われていた。
こんな恐い目にあった日には、異性の肌のぬくもりが一番の薬だ。
幸い、既婚者であるザナは、その相手に困ることはない。
カンジ王は、炎の精霊としての格は彼女より劣り、また彼女より愚かであるため、
結婚以来、夫のしでかしたことの尻拭いをため息混じりで行なう日々の中で、
ザナの愛情は、だいぶ薄らいできていた。
だが、今は──あの情熱的な夫がどれだけ恋しいことか。
たぶん、夫はおびえた妻に、雄が原初から持つ粗野な庇護意識を駆り立てられるだろう。
「俺の女を、守る」
年下で格下の夫から所有物扱いされることを、<火の女王>は好ましく思っていなかった。
だが、そのことばの真の意味を、彼女は今こそ知った。
自分を全力で守ろうとしてくれる男がいる。
それが、女にとってどれだけの喜びであるか。
夫は――カンジ王は、たとえ、相手があの魔女であることを知ったとしても、やはりそのことばを吐くだろう。
もちろん、ザナは、自分でさえ遠く及ばぬあの魔女相手に、カンジが敵うことがないことを知っているから、
彼女は、自分が誰におびえているかは絶対に話すことはない。
だが、その胸に飛び込んだら、全力で抱きしめてくれる男が、
全てを――あの魔女さえも敵に回してでも自分を守ろうとする意思があることを知っているだけで、
それは、今のザナにとって世界でただ一つの希望であり光明であった。
(帰ったら、――火炎の浴槽につかり、――その後、夫に抱かれよう)
何千年かぶりに全速力で走るザナの心臓は、恐怖と運動で早鐘のように鳴り、
そして、それは新婚当時のときめきと同じ鼓動を彼女に思い出させていた。
「……」
その場に一人残った魔女は、自分の手の中にあるものをしげしげと見つめた。
──<火の女王>は、急いで消え去って正解であった。
ワードナが全力を持って廃棄するよう命じたのは、彼の下着。
その布地の内側に、べっとりとこびりついているものを見た瞬間、魔女の顔色が変わった。
妻にはなじみの粘液だ。
毎晩のように口の中で味わい、乳房になすり付けられ、膣と子宮とで受け止めているもの。
──夫の精液。
魔女が、その美貌からまったく表情というものを消した。
その怒りは、想像を絶している。
「……わが殿が、夢精ですって?」
それは、魔女にとって、どんな意味でも最高の屈辱だった。
毎日毎晩の夫婦の交わりで、夫の性欲のすべてを自分の身体で受け止めていることは、魔女の最高の自慢だった。
かつて別の名を名乗っていた頃でさえも<門の護り手>を易々と封じ込めた結界術は、
今ではどんな者も破りえぬ強力なものになっている。
<女>と<魔術師>。
魔女のプライドの根幹にかかわる二つの要素を、この下着につけられた証は揺るがしている。
──夫が自分の身体で満たされきっていないか、自分の魔力が足りぬのか。
どちらも考えられない、しかも事実ならば許しがたいことだった。
「……サッキュバス? いいえ、まさか。私の結界を淫魔が通り抜けられるはずはないわ。――では誰が?」
魔女はこめかみに指を当て、美しい眉根を寄せて考えた。
──驚いたことに、彼女の探索の術をもってしても<敵>の正体は分からなかった。
「妨害の術……? やるわね。でも、こちらには手がかりと、心強い味方があってよ」
魔女は目を開け、手に持った下着を美しい顔に近づけた。
「……かすかに残るこの匂いは、夢の残り香。与えられた淫夢ではなく、夢の世界そのものから<敵>は来た……」
夫の汚した下着から、魔女には、それが分かったらしい。
「では、<敵>は誰?」
魔女は唇を開いた。
桃色の舌が、夫の精液をすくい取って口の中に収める。
こびりついた精液は、たっぷりとした量があった。
ゼリーのように濃い半固体の粘液であったので、布地に吸い取られた分が少ないのが幸いした。
魔女は、粘質な音を立ててそれを舌の上でもてあそび、唾液とよく混ぜ合わせて飲み込んだ。
舌の上に、魔女にとっては極上の味覚と匂いが広がる。
うっとりとした表情で吐息をついた魔女は、それからちょっと目を伏せた。
「ごめんなさいね、わが殿の子種たち──。
貴方たちは、今私が飲み込んでしまったから、新しい命として産むことは出来ないわ。
でも、いつかきっと貴方たちの兄弟を、私たちの後継者として産んであげるから、
今日は、未来のママに力を貸して頂戴な──」
毎夜、同じ行為を娼婦のような淫らさで行っている女とは思えぬほど、
真摯な表情で魔女はつぶやき、腹の上にそっと手を置いた。
「――そう、いい子ね。協力してくれるの? え、ママのキス? これでいい?」
魔女は、優しげに微笑し、ふっと息を吐いた。
その唇から、小さな白い煙が立ち上る。
煙は魔女の唇をかすめ、小さくダンスを踊ってから、すっと消えた。
最後の瞬間、それは白い羽の姿をとったのを母親は見た。
魔女は頭をたれた。
生まれる前の、幼すぎる協力者を見送るまでの間。
やがて、魔女が顔をあげた。
つかの間見せた未来の母の顔はもうそこにはない。
復讐に燃える妻の顔で魔女はつぶやいた。
「白い羽。――<夢の女神>ドリームペインター。
うっかりしていたわ。下の階で完全に滅ぼしていなかったのね。
でも、もうこれでおしまい。……貴女のやってくれたこと、とても高くつくわよ」
静かな宣言にこめられた意思を感じ、魔女の前にそびえる魔界の門さえも震え上がった。
……少年は、少女のことが好きだった。
一目見たときから、なんとなく気になる存在ではあった。
たいていの場合、女の子は臆病でわがままで口うるさい生物だから、
男の子が一緒に遊ぶにはあまり面白くない。
だけど、赤みがかった金髪と、銀色の瞳を持つ少女は、
そういう面倒なところがうんと少ないから、少年のお気に入りだった。
何より、天使のように美人で可愛い。
だから、いつも遊んでいる森の奥で少女を見かけたとき、少年はどきどきした。
ぎこちない挨拶とやりとりの末、彼女がにっこり笑って隣に座ってくれたときは天にも昇る気持ちにもなった。
「水が冷たくて気持ちいいね!」
小川のふちに腰掛け、素足を綺麗な水にひたしながら少女が笑った。
少女の服は純白の貫頭衣。
森の中で遊ぶにはどうかと思える服装だが、少女にはこれが一番のお似合いだ。
これで背中に翼が生えていたら、そのまま天使―いや女神だ。夢の中に現れる、女神。
少年はうっとりしながら、その姿を眺めていた。
──ふと、小川の流れにくるぶしまで沈めている少女の足が気になった。
抜けるように白い肌はなめらかで綺麗だ。
擦り傷だらけの男の子の足とは、全然ちがう。
一度気になると、興味はどんどん増した。
……つま先、ふくらはぎ、ひざ、――太もも。
少女の貫頭衣がもともとひざ丈で、岩の上にすわった際に、
かなり上のほうまでめくれていることに気づいてどぎまぎする。
──その先には何があるんだろう。見てみたい……。
「ん? なあに?」
少女が不思議そうにこちらを見る。好奇心は限界だ。
「あの……パンツ見せてよ!」
勇気を奮った一言だったが、蛮勇に過ぎた。
いきなりの暴言に、少女は顔を真っ赤にして怒り、森の奥へ走り去ってしまった。
少女の瞳に、涙を見たような気がして、ワードナ少年は後を追うことも出来ずに立ちすくんだ。
魔女は、長い回廊を渡っている。
記憶と夢をつなぐ回廊へは、ドリームペインターの羽を使用して「飛ぶ」ことで移動した。
夫が地下7階のピラミッドの神殿で夢の女神を倒したときに奪った魔品だ。
──あのとき、ドリームペインターは滅んでいなかった。
現世での姿は失ったが、その本質たる<夢の力>までは奪いきれていなかった。
「……あの時、わが殿はたいそうお怒りで、少しだけ冷静さを欠いていましたものね。
──その分だけ、とどめに詰めが甘かった」
めずらしく、魔女はほぞを噛むような表情をつくった。
ワードナがあの戦いの際に、ほとんど逆上に近い状態で神殿に乗り込んでいったのには、自分に責任がある。
最近、亭主操作術を少し露骨にやりすぎていた気がする。
夫のあの尋常ならぬ憤懣と、それがもたらした悪しき結果は、その報いだ。
──男は、もっと立ててやるべきなのだ、特に人前では。男根だけの話ではなく。
魔女は、妻の心得の難しさを思い知らされた、というようにうなだれた。
しかし、すぐに顔をあげた。
両眼には憤怒の炎が燃え上がっている。
「この反省は後でゆっくり、わが殿への埋め合わせは今夜にたっぷり。――でも今は復讐のお時間」
人の記憶の回廊は、夢の領域に繋がる。
それは彼方で忘却界と接している厄介な代物だ。
延々と続くワードナの過去の記憶。
それは「回廊」の両脇にパネルのような絵としてずらりと並んでいる。
よくみると、一枚一枚のパネルの内で、寸劇のように中の人間や風景が動き、話している。
ワードナの人生を切り取った一場面たちだ。
魔女は、どこまでもまっすぐな、だが同時に四次元的に折れ曲がった回廊を歩き、やがて足を止めた。
「そろそろ記憶と夢との境目があいまいな領域に来たわね。
ドリームペインターが悪さをしているとすれば、この辺のはずよ……」
きょろきょろと見回す魔女の目に、大き目のパネルが目に入った。
森の中で、少年が少女と会った記憶。
だがこのパネルは──不自然だ。
はるか昔の記憶のはずなのに、まるで今出来たかのような……。
何より、中の登場人物、――天使のように美しい少女の横顔には見覚えがあった。
「見つけたわよ、ドリームペインター」
──うまく行った。
全てが予定通りだ。
あの男は自分を追いかけてくるだろう。
伝説の大魔術師とはいえども、子供の姿をとっている夢の中ではたわいもない。
ここ数日しかけてきた罠を連動させれば、あと一息で悪の大魔道士を完全に篭絡できる。
赤みがかった金髪をかきあげるドリームペインターの背中から、美しい純白の翼があらわれた。
少女を追いかけてきた少年は、相手が天使どころか本物の女神であったことを知り、心底驚くだろう。
そして女神に心を奪われ、その心を簡単に開く。
そうすれば記憶を上書きし、深層意識に干渉することが可能になる。
──後は忘却界へ引きずりこみ、自滅へと導くだけだ。
傷一つつけることなく、自らの内側の狂気と精神衰弱によって大魔術師は滅びる。
これこそ、<夢の描き手>たる自分の真骨頂だ。
なにやら怒り狂って乗り込んできた悪の大魔道士に、物質界にある神殿では不覚を取ったが、夢の中では自分は無敵だ。
誰にも悟られることなく目的を遂げることが出来る。
「――そううまく行くかしら?」
背後からの声に、ドリームペインターは凍りついた。
天使のような少女が振り向くと、そこには、彼女と同年齢くらいの少女が立っていた。
<夢の女神>の純白の貫頭衣に対して、こちらは清楚な尼僧衣
──ただし修道女見習いの少女用の簡略なものではあるが。
……ドリームペインターが、霞んだ。
彼女よりも、はるかに美しい少女の出現で。
ありえない存在が目の前に立っていることへの驚愕はなかった。
一目見た瞬間、相手の正体が分かったからだ。
戦慄と恐怖に立ち尽くすドリームペインターに、少女は微笑みながら会釈をした。
「こんにちは、泥棒猫さん。私、ここで大好きな男の子と待ち合わせしているの。
悪いけど、ここから消えてくれないかしら──いいえ、いっそのこと、この宇宙から!」
愛らしい少女の微笑には、温かみとか、思いやりとか、慈悲とかいうものが微量も混じっていなかった。
男の子に向ける笑顔とは根源からちがう微笑。
女は、同性の敵に容赦をすることはない。
たとえ、年端も行かぬ少女同士であっても。
「……おのれ、どうして…ここに」
ドリームペインターは、かすれた声でつぶやいた。
魔女の返事を待たず、地を蹴って飛び上がる。
「夢の中は我の領域、貴様とて容易に我が羽をかわせぬぞ!」
はばたきとともに、純白の羽が光を伴って乱舞する。
階下の<神殿>では最大の力を発揮できなかったが、ワードナの夢の中ではその力は桁外れだ。
世界が白く染まった。
「――古い手ね。私を相手にするには、貴女、ちょっと勉強不足すぎよ」
声がドリームペインターの耳元で聞こえた瞬間、彼女の翼は根元から引きちぎられた。
一瞬にして、戦いは終わる。
ドリームペインターの魔力の源は根こそぎ奪われ、彼女は激痛と恐怖の声を上げながら墜落した。
血に染まった翼も持ち主の後を追い、どさりと音を立てる。
──翼にはもう何の魔力もない。
魔女は、むしりとった羽の数片を片手につかんだまま、ゆっくりと地に下りた。
地に伏せ、大きくあえぐ女神の目の前で、その羽をぱらぱらと投げ捨てる。
純白の羽が森の中のたっぷりと水分を含んだ地面に落ちていくのを楽しそうに眺め、ご丁寧に足で踏みつける。
「あらあら、貴女の羽、泥だらけ。汚くなっちゃった。
──あ、でも元から薄汚いから別に気にしないわよね?」
勝者のあどけない唇から生まれる侮蔑の言葉に、ドリームペインターは血の涙を流した。
「……私を…どうする気だ…」
「あら、もう敗北宣言? もう少し楽しませてよ、と言いたいところだけど、デートの時間がせまっているわ。
──お望みどおり、手早く済ませましょう。貴女の罰の遂行を」
魔女は、ぱちんと指を鳴らした。
その背後にあらわれた黒い影を見て、ドリームペインターの目が恐怖に見開かれた。
「……私ね、わが殿と結婚してから、ずっと思っていることがあるのだけれど…」
少女は、唇に指を当て、考え考え話し始めた。女神の恐慌には一顧だにしない。
「……ああ、私、女に生まれてきて良かったなあ、って。
だって、妻としてわが殿をあんなに喜ばせることが出来るのですもの。
この唇でも、おっぱいでも、お尻でも、もちろんあそこでも、
みんなあの人を悦ばせることができるのよ。素敵でしょう?
──だから、その幸せを壊そうとした貴女には、
……女に生まれてきたことを後悔させてあげるわね」
泥中で無様にもがく女神を見下ろして、にっこりと微笑む。
「――ドリームペインター、貴女のお友達のインキュバスどもに遊んでもらいなさいな」
(嘘、嘘、嘘!)
ドリームペインターは激しく首を振った。
魔女の後ろに控え、今私に襲いかかろうとしている無数の影は、断じてそんな低級淫魔などではない。
ああ、手を伸ばしてドリームペインターの肩をつかんだのは、死せる魔神マイルフィックだ。
砕けるほどに強く足首を握り締め固定したのは、悪魔の将アークデーモンではないか。
つめたい手で左右の腕をねじりあげるのは悪魔の軍団長アークデビルと天使の軍団長アークエンジェル。
そしてそれ以上に恐ろしく形容しがたい何百何千もの異界の魔神たち──。
みなドリームペインターよりも高位の力を持つ存在か、彼女が戦慄するほどに汚猥な悪魔たちだ。
四肢を押さえられて身動きが取れぬ女神に最初に近づいたのが、彼女や魔神たちに比べれば、
はるかに格下の存在であったのは、魔女のいやがらせだろう
──ブタよりも超え太った貪欲な悪魔・カコデーモンが、
下卑た笑いを浮かべながら近づき、真っ先に彼女の唇に吸い付いた。
ドリームペインターの口中に、汚物よりもひどい悪臭を放つ唾液が流し込まれる。
そこから先はまさに地獄の饗宴だった。
ドリームペインターは魔神どもの唾液と、精液と、腐汁と、それらよりもっとおぞましい汚液の海に投じられた。
汚怪な魔神たちに貫かれ、引きさかれ、汚され続けたドリームペインターは、
性器をデーモンロード、肛門をマイルフィックに同時に貫かれたとき、むしろほっとしていた。
強力なエナジードレインで女神の生命力が吸収される。激痛と虚脱感。だがこれで最後だ。
狂う、吸い取られる、死ねる、――消滅できる。
……この苦痛から解放される!
女神が薄れゆく意識の中でそう思った瞬間、恐ろしい速度で世界が鮮明に戻った。
「っっ──?!」
羽が、ドリームペインターの身体に突き刺さっていた。額に、心臓に、腋の下に、太ももに。
マディの効果を持つ、彼女の純白の羽ではない。
泥にまみれた、汚い茶色の羽。
魔女が先ほど泥中に投げ捨て、今拾いなおして投げつけたものだ。
「簡単に死ねると思って? 月並みだけど、未来永劫苦しんで頂戴な」
魔女が軽やかに投げた最後の一本が、無造作に、だが正確無比に彼女の陰核に突き刺さる。
刺さったと同時にそれは彼女の肉と同化し、二度と抜けなくなる。
その瞬間、ドリームペインターは自分がすべての力を取り戻したことを知った。
そして次の瞬間、前にも増した苦痛を伴ってそれが侵され、傷つけられ、奪い取られたことも。
「――ぎぴぃぃっ!!」
女神は獣のような悲鳴を上げ、絶望に身をよじった。
魔女の投げた羽は、彼女のもともとの羽より強力な癒しの効果を持っていた。
純白の羽は肉体を癒す力しかないが、魔女が手を加えた羽は魂すらも癒す。
そして女神は永遠に癒され続け、永遠に滅びと陵辱の苦痛を与えられ続ける。
──狂うこともできずに。
(助けて! 許して! 私が悪かった! お願い、許し……)
夢の女神は、涙を流しながら魔女に救いを求めたが、
カコデーモンの汚れきった男根をねじ込まれた唇からは声を出すことが出来なかった。
美しい魔女の姿が薄れていく。
いや、薄れていく──この世界から消え、別のどこかへ転送されようとしているのは自分のほうだ!
「よかったわね、ドリームペインター。貴女を犯せるなら、永久にこの宇宙に戻ってこなくてもいい、という
魔神のお兄さんたちが三千と三百三十三もいたわ。せいぜい仲良くしてあげてね」
そして魔女は、無邪気に笑って手を振って、
この世界から切り離され、どこかへ追放されドリームペインターを見送った。
女神の声にならない悲鳴が響き渡り、かすれて、完全に途絶えた。
──静けさを取り戻した森の中で、魔女はくるりとまわって自分の格好を確かめた。
哀れな女神のことは、もう頭の片隅にもない。
そんなことよりもっと大事なことで、少女は大忙しなのだ。
服装よし。
髪型よし。
ハンカチよし。
小物類よし。
──男の子を罠にはめる用意、完璧。
腕を一振りして舞台の準備を整え終えたちょうどそのとき、
遠くから息せき切ってかけてくる足跡が聞こえ、少女はにっこりと笑った。
……迷った末に、ワードナ少年は、やっぱり少女を追いかけることにした。
天使のような女の子とおしゃべりをするのは楽しかったし、
怒られたとはいえ、まだパンティへの興味はなくしていない。
それに、森の奥は、魔物がいて危険だ。
木の根を避けて走っていくと、遠くから恐ろしい咆哮が聞こえた。
まるで魔界の王が数百匹も呼び出されたかのよう声に、
少年は思わず立ち止まったが、勇気を出して再び駆け出した。
声は、少女が逃げた方向から聞こえたからだ。
──こんなとき、男の子は逃げちゃいけない。
しばらくして、少年は、木々が途切れたひらけた広場で彼女を見つけた。
──おびえて泣いている少女の前で吠え声を上げていたのは、
恐ろしげな魔王たちではなく、薄汚れた小さな野良犬一匹だった。
とはいえ、棒切れ一本の少年にとっては、野良犬はなかなか手ごわい相手だった。
やっとの思いで追い払うと、ワードナは木の根に寄りかかって荒い息を整えなければならなかった。
少女がおずおずと近づいてくる。
「ありがとう……あなたって本当に勇敢なのね」
たいしたことじゃないさ、と精一杯格好つけて振り返った少年はちょっと首をかしげた。
(あれ……この子、さっきとちがう?)
さきほどワードナの前から逃げ出した女の子は、
──たしか、赤みがかった金髪の……?、銀色の瞳の……?、天使みたいな…?、…はずだった。
「……どうしたの?」
少女のあどけない顔を見たとたん、ワードナの記憶は塗り替えられた。
──いや、この子だ。間違いない。……髪は○○色、瞳は××、天使よりもずっとずっと美人で可愛い。
「ケガしたの? 痛いの? ごめんね、私のために──」
少年のすりむいたひざ小僧に気づくと、少女は泣きそうな顔になった。
へっちゃらさ、と少年が強がると、
少女はようやく笑顔を取り戻し、ポケットから綺麗に折りたたんだハンカチを取り出した。
小川の冷たい水で洗った後に、清潔な布きれが少女の手で巻きつけられる。
──マディよりすばらしい治療法。
「……ねえ、ワードナ」
「何?」
「私、あなたにお礼がしたい」
「……」
「――キスしてあげる」
とびっきりの笑顔を見せてから、少女はワードナの頬に唇を寄せようとしたが、
少年はこの世で一番おろかな返事をした。
「キスは、別にいいや。……やっぱり、パンツ見たい!」
……少女は、怒りのあまり目が眩みそうになった。
心のこもった感謝のキスと、パンツ。
──男の子は、どうして宝物とガラクタの区別がつかないんだろう。
でも、こんなバカですけべで無神経な生き物に、賢いはずの女の子はいつも惹かれてしまう。
仕方がないことだ。
──ぴしゃっ!
少女は、まず最初に、少年のほっぺたを思いっきり張った。
──これは、女心がわからないことに対する罰だ。
それからスカートをたくし上げて、一気にパンティをずり下ろして脱いだ。
丸めてワードナの手に押し付ける。
──賢い女王は、たとえ愚か者であっても、忠勇を示した騎士に対して報酬をケチることはない。
それから叩いたばっかりの男の子の頬に優しくキスをして、不意に駆け出した。
きっかり10メートル走ってから振り向く。
呆然と突っ立っている男の子に、少女は思いっきり罵声を浴びせた。
「ワードナのバカ!バカ!すけべ! ――大きくなったらお嫁さんになってあげる!!」
目的は果たした。後は一目散に逃げるだけだ。
──そのほうが劇的であり、男の子の心に強い印象を与えることは、少女なら誰でも知っている手管だった。
少年は、一人森に取り残された。
少女のパンティを手にしたまま、片側の頬には真っ赤な手形が張り付いている。
──「初デート」はなかなかの上首尾だった。
なんと言っても、最後の婚約宣言は、我ながら上出来だったと思う。
魔女は、にんまりと笑いながら夢の通路を戻ろうとし、ふと足を止めた。
振り向いて、ワードナの過去の記憶たちを眺める。
魔道に捧げた灰色の人生かと思いきや、どうしてどうして華やかなものも多かった。
──ワードナの誰も知らない徒弟時代、川べりで彼と楽しげに語らう妹弟子。
──初体験にわななく青年に、職業的な熱心さで、優しく女を教えこんだ売春巫女。
──トレボーの城に招かれたときに、宴席だけでなく夜伽も勤めた酌女。
──そして、恋人と呼べる過去の女。
いろいろな女が、好意的な感情とともに夫の記憶に刻み込まれているのを見て、魔女は形のいい眉をひそめた。
「今、この夢の中でこのペンを使えば、これをたやすく書き換えられますわね」
右手につまんだ羽ペンをもてあそびながらつぶやく。
魔女の魔力で振るわれる<夢の描き手>のペンは、ワードナの人生そのものも変えてしまうことも可能だ。
夢を書き換え、今までワードナが好意を抱いた女の記憶を、すべて自分のものに変えてしまうこともできる。
──夫のあらゆる楽しい記憶の中で、常にその隣にいる自分。
魔女は、その誘惑にうっとりとした表情になった。
ペンを持ち上げかけ、――だが、ぴたりと止めた。
ワードナの記憶の通路の中空に掲げられた大きな記憶のパネルが目に入ってきたからだ。
他のどんな記憶よりも誇らしげなパネルは二つ。
ひとつは、初めて魔法に成功した少年が描かれており、もうひとつには、大魔道士の結婚式が描かれていた。
――仕事と愛情、男の人生の二大要素。
その片方の代表をつとめる結婚式のパネルをじっとながめ、やがて魔女は微笑んだ。
そこに写っている自分の顔と同じように、幸せそうに。
「そうね。私は、そんなに傲慢な女ではありませんわ。わが殿の<全部>でなくても、<一番>であれば十分。
書き換えていいのは、ドリームペインターが乱したあの一枚きりにしましょう」
羽ペンを大切そうにポケットにしまい、誘惑を退けた魔女は夢の中から抜け出した。
翌朝、ワードナは目を覚ました。
すばらしく気分がいい。今日は夢精もしなかったようだ。
毛布を払いのけて立ち上がろうとして、右手にしっかりとつかんだ小さな布切れに気がつく。
すばらしい夢の名残に目を輝かせたそのとき、またしても邪魔者がやってきた。
「おはようございます。……あら、それは何ですか?」
詮索好きな妻の視線を避けるように、あわてて「それ」を後ろ手に隠す。
「なんでもない。――ただの戦利品だ」
魔女はいぶかしげな表情になったが、ワードナがごまかし続けると、それには興味をなくしてくれたようだった。
この辺はやはり女だ。賢そうでも存外に甘い。
夫のすべてを知っているという傲慢な錯覚が、こうした重要なことを見逃す。
夫の昨晩の大冒険を知らない魔女は、いつもの朝のように、あれこれと夫の身の回りの世話を焼こうとする。
断固した拒否と、いくつかの妥協との末に、
ようやく魔女から解放されたワードナは、いそいそと手の中の宝物を確認した。
――白い小さな、少女の下着。
勇敢な少年が、その勇気の報酬として手に入れた宝物。
あれが夢であったのかどうかは、いまこれを目の前にしてもわからない。
だが、これは、わしの戦利品だ。
ワードナは、それを大切そうにブラックボックスの奥へしまいこんだ。
ワードナが小さな満足と幸せにひたっている頃、その下着のもとの持ち主のほうは、ひそかな決意を固めていた。
「決めました。――他のことはともかくとして、わが殿の「女性にかかわる楽しい記憶」については、
<一番>だけでなく<大半>も私が占めるようにいたしますわ。……近いうちに、必ず」
天地が消滅しようとも叶えられずにはおかない恐ろしい宣言は、幸いワードナの耳には届かなかった。
昂然と言い切ってから、魔女はにっこりと笑った。
「とりあえず今日のところは、パンティ一枚分、わが殿の心を占領しただけで良し、といたしますけども――」