<トロイア>
序
海の精霊テティスがプティア王ペレウスとの結婚式を挙げたとき、
すべての神々がその宴席に招かれたのですが、ただ一人、手違いで招かれなかった女神がいました。
その女神とは、<嫉妬と不和の女神>エリスです。
「――私が小さな女神だから、彼らは私をないがしろにしたのだ。
私が嫉妬と不和という、人から好かれないものを司る女神だから、彼らは私を呼ばなかったのだ」
エリスは、暗闇で染め上げたような髪を結い上げながら、呪詛のことばを吐き出しました。
自分が、知恵や、権力や、美や愛といった人々が好む力の守護者でないことをエリスは呪いました。
それらの守護者である女神たちの、人々に賞賛される華やかな姿を呪いました。
──彼女たちの、人々が毎年の祭りに山のように神殿に捧げるものを着捨てるように使っている綺麗な衣装と、
──自分の、あまり神殿に供物が捧げられないので、何年も着込んでいるぼろぼろの墨衣(すみごろも)とを、
──彼女たちの、愛され、崇められ、見られ続けることで、女としてたっぷりと成熟した美しさと、
──自分の、畏怖はされても尊敬はされず、いつも目をそらされ、打ち捨てられために発育が止まった身体とを、
交互に眺めたエリスは、やがて、陰惨な微笑を浮かべました。
「私への非礼に、報いてやろう。――テティスとペレウスだけにではなく、世界中の人々に。
そう、私をないがしろにしている人々全てに、私の司る力を教えてやるのだ」
エリスのことばは、自意識過剰でもなければ大言壮語でもありませんでした。
彼女が世界を震撼させるのには、ただ一個の黄金のリンゴがあればこと足りました。
「最も美しい女神にこれを贈る」
その一文とともに結婚式当日に送られたリンゴは、彼女のことばのとおり、世界中に不幸をもたらしました。
人々から疎まれている女神エリスは、この世で最も強力な力の守護者。
──そう、<嫉妬と不和>の女神だったからです。
テティスの婚礼の宴におくられてきた、差出人不明の贈り物。
その黄金のリンゴを巡って三人の女神が争いました。
<知恵の女神>アテナ
<神々の女王>ヘラ
<美と愛の女神>アフロディテ
彼女たちは、贈り物に添えられた、自らの女としての沽券にかかわる一文を見逃しませんでした。
「もっとも美しい女神」とは自分のことだ、と彼女たちは主張しました。
もちろん、宴席にはただ一人の女神を除いてすべての女神が招かれましたから、
三人のほかに「自分こそが」と思う女神もいないわけではありませんでしたが、
彼女たちは、この権勢も強い三人と張り合ってまでリンゴと栄誉を得ようとは思いませんでした。
結局、美貌とともに、女神としての「格」というものもあいまって、
大神ゼウスにそのリンゴの所有権を申し立てる女神は、この三人に絞られました。
困ったのは、ゼウスです。
いかにオリンポスの王とは言え、三人の中から誰か一人を選べば、他の二人の反発は必死です。
全知全能といわれても、ゼウスは女性の嫉妬と怒りの恐ろしさは身に染みています。
ましてや、三人のうちの一人が自分の姉にして正妻のヘラということだけでも、
これが厄介な──厄介すぎる問題であることは想像がつきました。
……過去の浮気と、その結末について考えれば、どうあってもこの審判役を務めるわけにはいきません。
ゼウスが審判を辞退すると、三人の女神はいつまでも口論を続けました。
宴席に招かれた神々や人間たちは生きた心地もしませんでしたが、
とりあえず、婚礼の儀はなんとか無事に終わり、テティスはペレウスの妻となりました。
長い宴が終わっても、三人の女神たちは広場の真ん中で言い争いを続けていましたが……。
黄金のリンゴをめぐる争いは、テティスの婚礼の後も続きました。
女神たちは長い間、――そう、結婚したテティスが子供を産み、
それが不死身の英雄・アキレウスと呼ばれる若者に育つほどに長い間、激しく争い、
とうとう収まりがつかなくなったので、神々は<審判者>を立ててこの問題を解決することにしたのです。